猫 -naughty cat- 【2018年ホワイトデー小話】@ひろかな
……ひろ?
ねぇ、ひろ。起きて。
……もう。いくら遅くまで飲みに連れまわされたからって、お昼まで寝てることないでしょ?
あ……ふふっ。
早く起きないとー、いたずらするわよー?
*********
暖かな陽射しが降りそそぐ、3月14日ホワイトデーの午後3時。
大分温まった風を頬に感じながら、国枝浩隆は一路自宅へと急いでいた。
本当なら例年通りに休暇を取り、朝から妻の香奈とゆっくり過ごすつもりだったのだが……今朝方舞い込んだ同僚からのヘルプ要請に振り回され、結局つい先ほどまで拘束されてしまった。
おかげで考えていたデートプランはまるつぶれ。「気にしないで行ってきて」と彼女は快く送り出してくれたが、約束を反故にしたことにはもはや平身低頭するほかない。手土産を携えて深いため息を吐きつつ、浩隆はひたすら早足で歩いた。
「ただいま」
そうして自宅にたどり着くや、やりきれない気持ちを抱いたまま中に入る。しかし、というかむしろ当然というべきか、彼女が出迎えに出てくる様子はなく、やけに静まり返った室内に思わず苦笑が漏れた。
気晴らしにでも出かけちゃったかな。
それとも、本当はとてつもなく怒ってるとか。
気を揉みながらリビングへと向かう。おそるおそる戸を開けて中を窺うと、目に入った光景にぎくりとした。
ベランダに面した大きな窓のあるリビング。その前に敷かれたラグの上に、こちらに背を向けて横たわった彼女の姿が見えた。まさかの事態を想定し慌てて駆け寄ると、即座に膝を落として覗き込む。
「カナちゃん?」
黒いトレンカに白いふわふわのセーターを着て、クッションを抱え『眠る』彼女。穏やかな寝顔と規則正しい呼吸を窺ってほっと胸をなで下ろすと、安堵そのまま自分も座り込んだ。
確かに今日は昼寝日和。窓から入り込む光は柔らかであたたかい。毛足の長いラグの上に横たわれば、すぐにでも眠りを誘われてしまいそうな、そんなぽかぽかとしたいい陽気だ。
――まるで、縁側でひなたぼっこをしてる猫みたいだな。
ふとそんな直感がひらめいてくすりと笑う。同時に湧いてきたうずうずとした好奇心に、手土産をテーブルの上に置いて上着を脱ぐとごろんと寝そべった。
「カナちゃん、ただいま」
独語よろしく、眠りの底にいる彼女に向かって言う。
「今日は本当にごめんね。お詫びにお土産買ってきたから、後で一緒に食べようね」
もちろんの無反応に複雑な思いを抱いたその時、ふとある記憶が呼び起こされてどきりとした。
『ねぇひろ、起きて?』
耳元で囁かれた言葉と、その後彼女がとった行動。思い出しながら今更にんまりしつつ、芽生えた悪戯心に押されるまま、ゆっくりと彼女の傍に身を寄せた。背中に擦り寄せた頬に、とくとくと伝わってくる鼓動、そして体温に心がゆったりとほどけていく。
「気持ちいい」
夢見心地な幸福。あの時の彼女とすっかり同じ感想が漏れ出す。もっと近くに引き寄せたくなって、腕を身体に回し甘え縋った。
「ねぇカナちゃん、起きて?」
それは単なる真似事のつもりだった。
けれど。
「一人だけ現実に取り残されてるなんて、僕、寂しいな」
胸の内を明かした瞬間、欲求が一気に膨れ上がる。少しだけ身体をずり上げて首を伸ばすと、深くくれた襟から覗くうなじに口づけた。
「早く起きないと、いたずらしちゃうよ?」
それが約束を反故にした者の言うことか、と叱られるさまを想像しながら、半ばそれを楽しみつつ今度は甘くはむ。無抵抗にいい気になり、極力加減しながら同じ場所に数度目かのそれを落としたその時だった。
「……バカ」
突然予兆もなしに明らかな返事が返され、ぎくりと思わず身構える。直後腕の中に得た身じろぎに、彼女の覚醒を確信し一瞬で顔に火が着いた。
「かっ、カナちゃん! いつ起きて……」
「寂しかったのはこっちよ。ヒロのバカ」
わたわたと場を取り繕おうとした自分を遮った彼女の言。その内容に頭を殴られたような衝撃を受けると同時に、素直でなんともかわいらしい吐露に一気に絆される。
「いたずら……してくれる気だったんじゃないの?」
そう次いだ背中の向こう側、その声に滲んだ期待と目の前で桜色に色づいた首すじ。愛い恥じらいの証にひどく煽られ、ぞわりと情欲が沸き立つ。
「いいの?」
ゆっくりと半身を起こし、彼女の顔の傍に両手をついて見下ろして。
「どうなっても、知らないよ?」
そうして返された肯是に満足し、ゆったりと口元を緩める。
「春の、寝子だからね」
最後の理性と共に通告すると、さらされたままのその場所に今度こそ噛み付いた。
【おまけな小話】
「……あれ? ねぇ香奈」
仕事の合間の休憩時間。給湯室で居合わせた同僚が声をかけてきた。
「なぁに?」
「首の後ろ側、少し赤くなってる」
思いがけない指摘に、ティーバッグをカップから引き上げようとしていた手が止まる。
「ああ、新しい白衣をおろしたって言ってたもんね。襟とかタグとか、もしかして摺れちゃったんじゃない?」
「えっ? あぁ……そうかもね。全然気づかなかった」
「スカーフか何か、あるんだったら巻いてたほうがいいよ。ひどくなったら大変だから」
「うん、そうする。教えてくれてありがと」
じゃあお先、と残して同僚が出て行く。一人取り残された香奈は直後うなじに手をやると、壁にかけられた鏡に向かって慌てて確認した。
確かに白衣の襟にぎりぎり隠れる辺り、ほのかに色づいた『跡』がある。
まさか。
そうして思い至る出来事。
『春の、寝子だからね』
甘い忠告――彼のいたずら。
脳裏に浮かんだ表情に、身を縮こめて小さく呻いた。
「ヒロの、バカ……っ」




