第3話
「……あ、どうも」
ヘタれた根性のせいか、それとも小心な日本人の特性か。気不味い沈黙に耐え切れず、俺の口からはとっさにそんな言葉が漏れた。
街中で皆が当たり前のように使う挨拶の言葉。こんにちは、よりも使い勝手のいい便利な一言。
それがどうもである。
昔から挨拶は時の氏神とも言われている。人間関係はすべからく挨拶から始まると言っても過言ではないだろう。
だが、一体オークに挨拶してどうなるというのか。
それは俺にも分からない。
「グゥオオオオオオオッ!」
俺の挨拶に呼応するかの様に、オークが雄叫びを上げた。内臓に響く程の巨大な声に思わず身震いしてしまう。
もしや異文化コミュニケーション成立か?
……そんなはずはなかった。
ギラギラとした血走ったオークの双眸が俺を捉えている。獲物を仕留めるのを邪魔されたとでも思っているのだろうか、ひどくご立腹な様子だ。
握り締めた棍棒を振り上げ、巨体を揺らしつつこちらへと向かってくる。
今度のターゲットは俺へと即座に変更された模様。
純粋な野生の殺気に当てられ、俺はその場から動く事ができない。
体が言う事をきかない。動け動けと脳から命令は伝達されいるはずなのに、俺の足は地に根付いた様に動かない。
きっと、数秒後に俺はあの棍棒によって殴り殺される。
簡単に想像がつく。
立ち竦んだまま動けない俺の顔面に、あいつは棍棒を無慈悲に振り下ろすはずだ。
きっと即死だろう。
その姿は、例えるのならば潰れたザクロみたいな感じで。血飛沫という名の汁を撒き散らし、俺の顔面は飛び散って地面に真っ赤な花を咲かせる。
ジ・エンドだ。日ノ本秋彦、二十二歳と三ヶ月の人生の幕は異世界にて閉じる。
誰に看取られる事もなく、誰に知られる事も無く、どことも知れぬ異世界にて終焉を迎える。
──嫌だ。それは嫌だ。
確かに、もう死んでもいいかと自暴自棄になった事はある。
胸の中は未だ空っぽのまま。
それでも、大していいこともなかった人生でも、まだ死ぬのはご免だ。
死にたくない。死ぬのだけは嫌だ。そう思うと、俺の体にようやく変化が訪れた。
ピクりとも動かなかった足が震えてくる。
遅れてやってきた恐怖とでも言えばいいのか。認識が現実に追いついたのか。どちらでもいい。
とにかく逃げなくては。
動け、動け。動け俺の足!
震えの止まらない己の足を叱咤する様に、太腿に拳を思いきり叩きつける。
「痛ぇ……!」
鈍い痛みと共に、体の感覚が戻ってきた。
オークはもう、すぐ目の前にいる。牙が生え並ぶ、大きな口。その奥からは凄まじい臭気が漂ってくる。一体普段何を食えばそんな臭いになるのか。
そう思うと、何とは無しに俺自身がオークに食われる場面を想像をしてしまった。嫌な想像にも程があるが、食われると言う未来を否定できない。やつの食事になるのだけはご免こうむりたい。
だが、このままでは殺される。オークは今まさにその手に持った棍棒を振り下ろそうと、俺を狙っている。
「うわ、やばッ!?」
俺はとっさに地を蹴ると真横に飛んだ。
そのまま転がるようにして距離を取りつつその場から離れる。
後ろではなく、横に飛んだのには意味がある。人は往々にして、縦の変化には対応しやすいが横の変化には対応し難いのだ。
ちなみに自衛隊でも、銃で撃たれた時はまず横に逃げろと教えられるらしい。
鈍い音と振動がした。
俺が先程まで突っ立っていた場所には、薄い土煙の中棍棒が振り下ろされていた。その下では頭一つ分程地面が抉れている。どんだけ馬鹿力なんだこいつは。
「グゴォォオオオオオオオッ!!」
オークが怒りに吠える。呆けている暇は無い。
再び棍棒が振り上げられる。俺は慌てて立ち上がると、オークの方を向いたまま後ずさった。
少し移動する度に背が樹木に当たる。気を付けないと、木の根に足を取られて転ぶ事も有り得る。俺は全神経を足と背に向け、微妙に方向修正しつつまた後ずさる。
すぐにでも背を向けて森の奥へと走り出してしまいたい。だが、恐らく背を向ければ、わずかなその隙に俺の頭は吹き飛ぶだろう。もしオークの手が届かないとしても、逃げた背に棍棒を投げつけられたら同じだ。
抉れた地面を見る限り、足は遅くともその馬鹿力からあいつは腕を振る速さだけは俊敏なようだ。
じりじりと距離を詰めてくるオークに、俺はゆっくり後退する事しかできなかった。
立ち止まれば殺される。だが、動いても逃げ切れない。このままではジリ貧だ。何か一発逆転の手がなければ、いずれ殺されてしまうのは間違いない。
自分の体中に嫌な汗が流れているのが分かる。
畜生、こんな事ならせめてもうちょっと体鍛えておけば良かった。昔部活動で剣道でもやっていれば少しは対抗できたかもしれない。今更後悔しても後の祭りだ。
──何か、何か手はないのか?
こういう時、漫画とかゲームなら特殊能力に目覚めたり助けが入ったりするはずなのに。よくあるパターンだと、異世界に来た瞬間怪力に目覚めたり伝説の魔法使ったりしてるのに。異世界みたいな馬鹿げた場所にいる癖に、何でお約束のイベントがないのだ。何で俺にだけこんな死亡フラグなんだ。これは差別だ。えこ贔屓だ。責任者出て来い馬鹿野郎。
内心で毒付くも、現状は何も変わらない。
俺の焦りを悟ったのか、オークの顔に下卑た笑みが浮かんだ。半畜生の分際で感情表現豊かなやつだ。
その、獲物に対しての圧倒的な余裕とも言える表情に、俺はカチンと来た。
理不尽だ。納得できない。何故俺がこんな目に合わねばならんのだ? 俺が一体何をした?
女にはフラれ、仕事はなくなり、いきなりこんな変な世界に放り出された上に殺される?
──ふざけるな。
激しい怒りが心の奥底から迸ってくる。
現状、何の手もないのだ。このまま時間稼ぎするにも限界がある。
死にたくない。死にたくないが、どうしようもない。どうしようもないのならせめて殺される前に、一矢報いてから死んでやる。窮鼠猫を何とやらだ。人間様を舐めるなよこの野郎。
普段は温厚だと自負する俺だが、こんな状況なら話は別だ。もうどうにでもなれ。半ばヤケクソに近い感情だったが、俺はその思いに身を任せる事にした。
人間、開き直ると感覚が麻痺をする。恐怖感はいつの間にか消え、果てしない怒りだけが体中に漲っていた。きっと今、俺の脳内では凄い勢いでアドレナリンが分泌されている事だろう。
さっきまでは死にたくないとか、こいつとガチンコバトルするのだけは嫌だとかあれ程思っていたのに、今度は刺し違えてでも一矢報いたいと考えている自分。自分の心の中ながら、ままならないもんだ。
俺は後退するのを止め、オークの目をじっと見据えた。
「ガ……?」
不思議そうな顔をしてオークも立ち止まる。
「はいだらぁあああああッ!」
俺の魂を込めた裂帛の叫びが、森中に木霊した。