第2話
木々がわずかに途切れ、開けた視界の先に久々に空が映る。
そこは日当たりの良い小さな広場だった。
うららかな日差しの中、俺の視線は眼前へと固定される。
それは、豚とも猪ともつかぬ異形の動物の背中。
いや、果たしてそれを動物と呼称していいのだろうか。豚や猪を見るのは初めてではないが、これは何か根本的に違う気がする。大きく隆起した筋肉に、離れている自分の場所にまで臭ってくる野性味溢れる獣臭。硬そうな体毛に覆われた大柄な体は、明らかに人のそれとは違う事が見て取れる。
外見に関して色々と言いたい事はあるが、一番重要な事はこれだ。
──何故にこいつは当たり前のように二足歩行をしているのだ?
確かに、動物は稀にその足で立ち上がる事はあるし、少しならば歩く事もある。だがそれはあくまでも手を広げて威嚇のためが大半であり、普通の動物はその足を全て地面に付けているはずだ。つまりは一時的な出来事。
こいつのように二本の足で堂々と立ち上がり、あまつさえ手に丸太──これは俗に言う棍棒だろうか──らしき物を持ったりもしない。歩き回り、人様のように道具まで使うとなるとこれは豚や猪の領域を超えている。チンパンジーやゴリラじゃあるまいし、悪い冗談だ。
ちらっと見えるその横顔からは、特徴的な豚鼻が確認できる。どうやら興奮しているらしく、息も荒いようだ。
穏やかな陽気と相反するその光景に、息が詰まりそうになる。何が何だか分からない。
ここで俺の脳裏に、ふとある単語が過ぎった。
──オーク──。
ゲーム等でよく見かける、割とポピュラーな敵モンスターの名前だ。毛むくじゃらの体で、顔は豚と猪を混ぜたような感じ。二本の足で歩き、ゲーム序盤の森の中辺りでよくエンカウントする。人の姿を真似て簡単な武器や防具を装備している事もある。知能は低く、大抵は人語は解さない。雑魚キャラだが攻撃力はそこそこ高く、油断するとうっかりやられたりする事も多い。経験値は大体五十くらいだ。
「なるほどなー。これが噂のオークか。初めて見た」
目が覚めて気付けば森の中で、ちょっと歩けば今度はオークに遭遇。
つまりここは、どこぞのファンタジー世界というやつか。よくある異世界とか異次元とかそんな感じの世界か。剣と魔法で万歳ですか、おい。
薄々はそんな予感もしていたが、理性がそれをすぐに認めるのを拒否していた。だが、目の前でこんなものを見せられては納得するしかない。
オークが人を襲おうとする場面を見せられては。
……って、人?
オークは、今まさにその手に握り締めた棍棒を振り上げ、足元にうずくまる人目掛けて振り下ろそうとしていた所だった。
フードを目深にかぶっているため老若男女判断は付かないが、襲われているのは人間であるのは間違いないだろう。怯えているのかそれとも怪我をしているのか、その人物は硬直したまま動く気配が無い。
──不味い、このままではあの人は殺されてしまう。
どうする? 一体どうすればいい?
見知らぬ土地の見ず知らずの相手とは言え、いきなり目の前で人死にが出るとさすがに寝覚めが悪い。
それならばッ!
ここで俺がかっこよく颯爽とオークの前に現れ、一撃の下に打ち倒す。
……無理だ。
理由は単純明快。俺にはそんな力がないからだ。
見た目は一般人、だがその実態は……!? みたいな漫画的展開はない。幼い頃から武道をしていたとか、実は喧嘩自慢という設定もない。もちろん超能力及びそれに順ずる力も無い。見た目も一般人なら、中身も一般人。更に最近家に篭もり気味だったので、どちらかと言えば身体能力は平均以下かもしれない。
という訳で、直接助けに行くのは無理無茶無謀の三段活用だ。
ならせめて石でも投げて、オークの気を逸らしてみるか。上手く行けば、フードの人も助かるだろう。俺は石を投擲した瞬間、ダッシュで逃げればいい。
四足歩行ならいざ知らず、あのオークは二速歩行。力はそこそこ強いかも知れないが、動きは鈍重そうだ。恐らくなりふり構わず走れば逃げ切れるだろう。
もし、石を投げた後オークが反応しなくても、さすがにそこから先はどうなろうと知らん。
こちとら伝説の勇者でもなければ正義感の強すぎるゲームの主人公でもない、ただの貧弱な一般人である。己の命を賭けてまで怪物とガチンコバトルする気はさらさら無い。
とりあえず俺は急いで足元から手頃な拳大の石を探して掴むと、大きく振りかぶった。
高く足を上げた、ややスリークォーター気味のオーバースロー。ゆったりとしたフォームから左腕を引き、腰を中心に身体の軸を半回転し、弓のようにしなった右肘を前に押し出すようにして投げる。加速する円運動。重心の移動は後ろから前へ。勢いは足の爪先からやがて右手の指先へと伝わり、やがて握り締めた石は放たれる。
「オラァッ!」
俺の豪快なフォームから繰り出された球、もとい石は勢いよく飛んでいく。渾身のストレート。
草野球で慣らした俺の投球術は、例えるならばランディ・ジョンソン。ペナントで二桁勝利は確実だ。今年の新人王は貰ったぜ。
時間にすれば一秒にも満たないだろう。風を切って真っ直ぐに飛んだ石は、割といい音を響かせて見事に着弾した。
……フードの人物の頭に。
「あらぴゃッ!?」
珍妙な悲鳴を上げて、フードの人がオークの前から吹き飛んだ。
「……しまった」
ストライクを狙ったつもりが、どうやら死球のようだ。しかも危険球退場確実。
オークは何が起きたのか分からず、呆然としている。
一応、オークの気を引く事には成功したようだ。結果オーライ……な訳はない。確かにオークの動きは止まったが、逃がすはずだったフードの人はうつぶせのまま痙攣して動かない。
こうなっては仕方ない。
「南無三」
すまん、許してくれフードの人。
俺はその場を離れようと、そっとその場を後ずさった。
俺とオークまでは、距離にしておよそ六、七メートル。音を立てないようにまずはゆっくりと距離を取ってから、当初の予定通りダッシュで逃げるしかない。
と、その時。パキりと足元から嫌な音がした。
破滅の足音とでも言えばいいのだろうか。まさに、最悪の音だった。
視線を下に向けると、素足の下には真っ二つに折れた枯れ木。
「あ……」
何というお約束。こんなフラグは欲しくなかった。
怪訝な顔をしたオークがこちらへと振り向く。こっそりと逃げ出そうとしていた俺と視線が交錯した。
何とも言えない気不味い空気が流れる。
しばらく、辺りを沈黙が支配した。