プロローグ
逃げ出した先に、楽園があるとは限らない。
そんな事は百も承知だ。
言われなくても分かっている。
逃げたからと言ってどうなるものでもないし、大抵の場合事態は好転しない。それでも、それでもだ。逃げなきゃやってられない時もある。これだけは誰だって同じなはずだ。
逃げる先は人によって様々。酒に逃げる人もいれば、ギャンブルに逃げる人もいる。薬物に逃げる人もいる。
俺は、酒は飲めないという事もないが、特に好きでもない。現状から逃げるために浴びる程飲もうにも、いくら飲んでも酔えない。いや、正確には酔ってしまう前に寝てしまうというのが正しい表現だろう。よって、酒は却下。飲んで飲まれて飲まれて飲んでな人がうらやましい。
ギャンブルは、言うまでもなく却下。理由は金だ。先立つ物がなければ、今の世の中遊べない。
お金がなくとも毎日を楽しめたあの頃の俺はどこへ行ったのか。当時の俺が、今の俺を見ればどう思うだろう。あの頃の俺は、きっと輝いていた。
……それはともかく、金が無い。三ヶ月以上勤めていれば失業保険でもあったのだろうが、一ヶ月ではなぁ……。
借金してまでギャンブルをしようとは思わない。これでは逃げる以前だ。
薬物は論外。ジャンキーにはなりたくない。鼻から紫の煙を出しながら宇宙と交信したくもない。
あるいは全てから逃げ出し、自宅に篭もって己という殻の中に閉じこもる人もいる。そんな状態のことを、世間では一般に引き篭もりだのニートだのと呼んでいる。
一部では自宅警備員等という呼称もあるが、あまり浸透はしていない。これらは残念な事に、あまり評判はよろしくない。
でも、そんな事言われても仕方ない場合だってある。孤独の中でしか癒やせない心は、確かに存在する。
当事者が言うんだから間違いない。そう、つまりは俺の事だ。日ノ本秋彦、二十二歳と三ヶ月。目下無職。一人暮らしの安アパートにて、日々をダラダラと無為に過ごし中。
失意というのは厄介な物で、意思の弱い人間は一度落ち込んでしまうと中々立ち直れない。
きっかけは、些細な事。人によっては些細な事だが、俺にとってはそれなりに重要な事。
簡単に言えば、職を失って女にフラれただけだ。
不幸のダブル役満みたいなこんな状況も、文にしてまとめてしまえばわずか一行。当たり前の事だが、コンパクトになってもお得感はあまり感じられない。
せっかく大学を出て就職した物の、まさか入って一ヶ月で辞めるとは自分でもびっくりです。つくづくそう思う。
何があったのかもう少し詳しく言えば、まず勤め先の同僚からミスをなすり付けられ、以前から反りの合わなかった上司に一方的に怒鳴られ、気が付けばその場を飛び出し、俺は勢いのままに会社に三行半を叩きつけていた。その後、好きだった女性からは逆に三行半を叩きつけられ、今に至る、と。
ごめんなさいと、申し訳なさそうに俺に言った彼女。今でもその時の事は鮮明に覚えている。覚えているというか、脳裏に焼き付いて離れないというか、そんな感じだ。
「あなたの事は嫌いじゃないけど、今は勉強に集中したいから誰とも付き合う気はないの」
俺はそう告げられた時、一体どんな顔をしていたのだろうか。笑っていたのか、それとも泣いていたのか、あるいは無表情だったのか。
ともかく、ここまで言われてしまってはもうどうしようもない。そうか、駄目なら仕方ないなと俺は潔く諦めた。
いい男は諦めが肝心。顔で笑って背中で泣くべし。フラれたわけじゃない、ちょっとFA宣言されただけさ。人的保障も金銭補償もないのが少々辛いとこだけども。そう思いつつ、俺は笑い顔を無理矢理に作りながら彼女の元を去った。
彼女と出会ったのは一年程前。大学の後輩だったのが縁で知り合った彼女は、誰にでも優しく、いつも笑顔。そんな女性だった。人は外見じゃなくて、内面が重要だと彼女はよく話していた。
荒んだ今の時代に、なんていい子なんだろう。そう信じ込んだ俺が惹かれたのも無理はない。
飲みに誘えば大抵は来てくれるし、よく話をした。そして彼女が時折向けてくる笑顔には俺に対する好意も多分に含まれていると解釈して勘違いしてしまい、結果的に見事に玉砕した訳だ。人は外見だけじゃないと言っていたんだし、きっと俺の事は外見じゃなくて、内面がお気に召さなかったのだろう。そんな風に自分を納得させていた。
ある日の事、俺は別の後輩──ここではA君としておこう──から世間話の中、こんな話を聞いた。
A君の知り合いが合コンに行った際、件の彼女も来ていたそうな。そして彼女は合コンで散々盛り上がって泥酔し、その帰り道に駅前で男にナンパされたのをきっかけにそいつと付き合う事になったそうな。
なるほど、と思った。勉強に集中したくて内面重視な人が、合コン行ったりナンパされた男と付き合うなんてすごいや。合コンとかナンパって、明らかに相手の外見しか見ていないんじゃなかろうか。
結論。女なんてそんなもんだ。
そして元々仕事を失って落ち込んでいた俺は、この件をきっかけに更に鬱々とした気持ちを抱いたままアパートの自室に引き篭もる事となったのだった。
『職を失った事も、女にフラれた事も、今となってはいい思い出です』
そんな風にいつか笑顔で語れる日が来る事を切に望む。望んだ所で仕方ないだろうが、それでも一応望むだけ望んでおく。
付けっ放しのテレビをぼんやり眺め、それに飽きればPCを起動して特に目的もないネット検索。そんな毎日がここ最近の繰り返し。
空虚と言うよりも、指向性の持てない宙ぶらりんな感情がずっと心を支配している。そして今日も、失意の中時間だけが無常にも過ぎていく。今日も、恐らく明日も明後日も。
時間に意味などなく、好きな時に寝て好きな時に起きる生活。貯金を切り崩しながら、特に何かするでもなく漫然と日々を過ごして行く。
しばらくはこんな日が続くだろうと、そう思っていた。そのはずだった。
心のある場所に、自己が確立する。ならば、俺の心の置き場所はどこにあるのだろうか。少なくとも、この部屋にはない。かと言って、外に出てもきっと見つけられない。
心がないままだと、俺は俺である事に自身が持てない。心にぽっかりと空いた穴は、いつまでも閉じる気配はない。
だから俺は逃げた。なりふり構わず現実から逃げ出した。
逃げ出した先に、楽園があるとは限らない。
だが──。