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幽世の郷  作者: かみさか
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春冬秋夏

 優良大学を卒業、大手株式上場企業に就職、等という経歴を聞いたら、大体の人は、ああ、こいつエリートなんだな。とか、自慢うぜぇ。とか、そう思う人が多いんじゃないでしょうか。

 あと、自慢じゃないですが、合コンに行ったら、やたらと女性にモテたりします。

 ごく少数の子は一生懸命、僕の良いところを探して褒めてくれたりしますが、おおよその女性はそれとなく年収を聞いてきたりします。

 勿論、直接的な額じゃなくて、趣味や出費状況をそれとなく聞き出して、そこから推測しているようです。あの時ほど女性を怖いと思ったことはありません。

 ええ、実際、年収は五百万を余裕で超えるほど貰っています。


 羨ましいですか? でもね、いくらお金があっても、僕にはそれを浪費する暇がありません。

 精々、日々の食事が贅沢になる程度でしょうか。


 なんで暇がないか? ええ、もう察している方もいると思いますが、前述のような経歴だからと言って、会社の優良ポストに就けるわけじゃないんです。僕なんか平社員です。

 上位に食い込めるのは、突出した能力のある者、ゴマすりの上手い者やコネがある者、他人を蹴落としてでも這い上がろうとするほど野心のある者などですね。

 ええ、当然、どれも僕にはありません。


 そして、大手企業の平社員と言うのは酷く忙しい物です。

 有給など、あってないようなものです。

 ああ、とはいえ、有給の消化はしないといけないので、強制的に休みを取らされることもありますね。


 しかし、仕事が減るわけではありません。むしろ、休んだ分増えます。

 酷い時などは、人がいないのをいいことに面倒な仕事を押し付けてくることもあります。


 だから、休みをもらっていても、家で仕事をしなければなりません。

 持ち帰ることのできる仕事は、持ち帰ってやらなければならないのです。

 残業をすることも可能ですが、正直、あまりいい顔をされません。


 会社と言うのは常に黒字を求め続ける物です。余計なコストはかけられません。

 残業は定時間の業務より割高になるので、月辺りの残業可能時間が決められています。

 そういう会社は、結構あるんじゃないでしょうか?


 とにかく、そのような状態なので、暇な時間などあるはずもなく、趣味に割けるような時間もなく、友人と遊ぶ暇もありません。一人暮らしなのでなおさらです。

 唯一の楽しみは、晩酌ぐらいでしょうか。

 ああ、晩酌と言えば、会社で催される酒宴には、必ず参加しなければなりません。

 いえ、強制ではないのですが、積極的に参加しないと社内で干されてしまうことがあるのです。

 お酒は嫌いではないので参加はしますが、その経費の割に食事、お酒の量は少ないし、偉い方々がいることも多いので、正直あまり飲み食いなどできません。

 僕はお酒の味は気にしない方なので、安酒で十分なのです。焼肉とビール。これが一番です。

 酒宴が終わると、二次会、三次会があります。

 ええ、翌日に仕事があろうと、当たり前のように行われます。これも参加しないといけません。

 酷い時は四次会、五次会と続き、明け方まで終わらないこともあります。

 と、まあ、このような過酷な生活を送っていたせいか……ふふっ、いや、これが笑える話でして、聞いてください。


 実は僕、過労で死にかけたんですよ。面白いでしょう?

 仕事中に突然倒れ、ひきつけを起こして病院へ運び込まれ、検査したら過労による疲労とストレスであちこちボロボロで、それは酷い有様だったそうです。

 生きているのが不思議なくらいだと、お医者様が首を傾げていましたよ。


 そんなことがあってか、うちの会社、司法の手が入りまして、そうしたら黒い内容のアレやソレが大量に出てきましてね。経営陣が軒並み辞職ですよ。

 ああ、でも、そんな経営陣でもお金を稼ぐことに関しては素晴らしい手腕を持っていたようで、あっという間に経営不振に陥りまして。こういう時、企業が削るのはなんだと思います?

 はい、もうお分かりですよね。

 当時入院していた僕は、人件費削減の煽りを受けて、リストラされました。

 それでも、このようなことがあった手前か、それなりの額の慰謝料と退職費をいただいて、有給休暇の消化まで会社に在籍する預かりとなりました。

 季節はちょうど夏で、夏休みの期間を含めると、ひと月以上の休みがあります。

 そして、退院した僕を待っていたのは、懐かしい顔でした。


「よぅ、なんか大変だったらしいな?」

 日本人離れした顔立ちで、鮮やかな金髪、大柄で引き締まったアスリートのような身体つきのこの青年は、僕の学生時代からの親友です。

 どことなく狐を思わせるような風貌の彼が、にんまりとした笑みで僕を待っていました。

「ええ、まあ、それほどでもありますね。それより、随分と久しぶりですが、今まで何を?」


 まあ、いつものことです。女性の尻でも追っかけていたのでしょう。

 神出鬼没な彼には慣れていますが、正直、退院してすぐに見たい顔ではありません。

この何かを隠し取り繕うような笑み、今回は一体何を企んでいるのでしょうか?

 それほど長くはない付き合いですが、彼の人となりは大体把握しています。

 おそらくは、何か面倒な相談事でしょうね。


「あん? おう、ちょっと世界一周してた。いやー、やっぱ異国の女はいいな! いろんな味が楽しめる!」

 予想の斜め上をいかれました。まさか国外まで渡り歩いていたとは。

 しかし、やっていること自体は学生時代から変わりませんね。

「世界中の女を食らいつくす。でしたか? 変わりませんね」

「おうよ!」

「それで、よく奥さんに叱られませんね」

 これで妻帯者だと言うのだから始末に負えません。


「お、おう……まあ、なんだ。その……お願いします黙っていてください」

 そういって土下座する彼を見ると、昔のことを思い出します。

 学生時代、共学校だった母校に居た女性。そのおおよそ八割が彼と肉体関係にあり、とある女生徒の妊娠騒動により、彼の悪事が発覚し、彼は退学となってしまいました。

 我が親友ながら、とんだクズ野郎ですが、まあ、彼も悪い男ではありません。

 少なくとも、合意の上でしか行為には及んでいなかったようですし、恋に悩む女生徒の後押しをしたこともあったようです。

 とは言え、しでかしたことの大きさ故に、彼はしばらく姿を消しました。


 しばらくして戻ってきた彼は、何をどうやったのか、当時世界を騒がしていたベンチャー企業の事業主となっていました。ええ、いわゆるセレブという物ですね。

 しかも、妊娠させてしまった女生徒にプロポーズをして、その場で挙式を上げるという、実にドラマチックなことまでやってしまい、退学前の風評も心象もがらりと変えてしまったのです。

 ……まあ、その提案をしたのが僕だったのですが、まさか実現するとは思いませんでしたよ。

 ちなみにその時の彼も、今のように土下座をしていました。助けてくれ、と。


「……まあ、いいでしょう。ですが、あまり奥さんを放っておくものではないかと。そのうち愛想を尽かされても、今度は助けてあげませんよ?」

「大丈夫だ! そんなのとっくに尽かされてるからな! つーか、今あいつ妊娠中でさ。全然相手してくれねぇんだよ」

「妊娠中の女性を抱くのはやめなさい。そういうのは風俗にでも行けばいいでしょう」

「日本の風俗嬢はあらかたやりつくしちまったからな」

 等と嘯きますが、彼の場合、あながち冗談でもないのが頭の痛い所です。


「あなたの事情は知っていますが、もう少し女性一人一人を大切にしなさい」

「そんなことしたら、俺の子供で世界が溢れかえっちまうよ」

 彼の精力や行動力を考えると、冗談とも言えないのが怖い所です。

 昔、一夜に百人同時に相手にして風俗施設を一件、休業に追い込んだことがあるくらいなのです。


「孕ませても良い愛人を数人、囲えばいいじゃないですか」

 適当に言ってみましたが、これは案外、良い案なのかもしれません。

「お前天才だな! だったら、百人程囲うか!」

 またバカなことを言い始めました。

 本当にやりかねないので、精力バカな彼にとって、現実的な数を提示します。

「最大でも九人が良い所でしょうね。あと、愛人を囲うなら奥さんにも相談しなさい」

「はあ? 愛人は嫁に秘密だから愛人なんだろ?」

 嫁に秘密で女性を囲うのは、ただの浮気です。

 釘を刺しておきましょう。

「そんなことをしたら、今度こそ愛想を尽かされますよ。冗談抜きに」

「お、おう。それじゃあ、どうすりゃいいんだ?」

「そうですね。まず重要なのは、あなたが一番に奥さんと、その間にできた子供を大切にするということで、財産相続権などは奥さんと子供のみに与えます」

「ほうほう」

「次に、愛人ですが、愛人及び、その子供に財産の相続権は与えません。あなたにとっては辛いことでしょうが、我慢しなさい」

「お、おう」

「代わりに、愛人に関しては、あなたが生存する限り養い続けるものとし、あなたが先に死去した場合、一定額の金額を支払い、あなたやあなたの家との縁を切ることとします。これは、向こうから縁を切りたいと申し出てきた時も同じ方法で対処します」

「なるほど」

「愛人との間の子供は、成人したら無関係とし、一切の援助を禁止として、自立させなさい」

「そりゃ厳しすぎねぇか?」

「それくらいでいいのです。最低限、以上の条件で納得できるという女性なら、愛人として囲ってもほぼ問題はないでしょう。また、愛人とする際に、これらの条件を記した契約書などの書面に残しておくことをお勧めしますよ。他の細かな条件は信頼できる弁護士などと相談しなさい。内容が内容ですので」

 ああ、我ながら何という鬼畜の所業に知恵を貸しているのでしょうか。

 神様、地獄に落とすのならこの男だけにしてください。

 僕は彼の毒牙にかかる女性を一人でも多く減らしたいだけなのです。


「お、おう、わかった。ところで、何で九人なんだ?」

 ああ、そこの説明を忘れていましたね。

「女性が妊娠して出産するまでの目安となる期間が、およそ十月と十日ですから、ひと月に一人を相手していれば相手に困ることはないはずです。あなたが一度に複数孕ませたりしなければの話ですが」

 ひと月の間、毎晩彼の相手をし続けなければならない女性には同情します。

 しかし、それくらいの制限を設けないと、この男は手当たり次第に種をばら撒くのです。

「つまり、ひと月に一人で我慢しろってことか?」

「少しは学習したようで安心です」

「せめてもう少し増やすことは……」

「無理ですね。まあ、かといってあまり種をばら撒かれても困りますので知恵を貸しますが、愛人にするのなら、妊娠しない女性が一番良いでしょうね」

「どういう事だ?」

「早い話が、病気の後遺症などで不妊症になってしまった女性ですよ。子供を産めないという理由だけで恋人や夫と別れてしまうというケースも多いようです」

「そいつは許せねぇな! よし、そういう女を優先的に愛人にするぜ! つーか、それなら何人でも囲えるんじゃねぇか?」

「そうですね。妊娠しないのなら問題はないでしょう。むしろ、奥さんに感心されるかもしれませんよ?」

「マジでかっ! いいこと尽くめだな!」

 彼の奥さんは僕の学友でしたので、よく知っている相手でもあります。

 彼女はとても優しい方だったので、そういう方々を囲うというのであれば……おそらく文句はないでしょう。ええ、おそらく、ですが。

 とはいえ、辛くないわけではないでしょうからね。少し釘を刺しておきましょう。

「しかし、あまり派手に囲うと彼女は悲しむでしょうね」

「うっ、そ、そうだよな。調子に乗るのはよくないな」

 まあ、これくらいでいいでしょう。


「それで、僕を待ってたということは、何か頼み事ですか? まさか、今の女性関係がそうではないでしょうね?」

「い、いや、こっちは違う。まあ、困ってたから助かったけどよ。本題は別だ」

 まあ、そうでしょうね。

 彼が自分から持ち込む相談事は、最初の一回を除けば、すべて女性関係ではありませんでしたからね。

「では、なんでしょう?」

「あー、お前さ。会社辞めたんだろ?」

 随分と突っ込んだことを聞いてきますね。

 まあ、特に感じ入ることはないので普通に答えますが。

「ええ、リストラされてしまいまして、有給消化をしているところです」

「なにか予定はあんのか?」

 予定、ですか。そう言えば、何も考えていませんでした。

「そうですね……色々とやりたいことはあったんですが、なんだかどうでもよくなってしまいましたから、暇と言えば暇ですね。ああ、どこか自然の多い所で養生するのもいいかもしれませんね」

 退院したとはいえ、病み上がりの身です。

 どこかの保養所でゆっくりと休むのもありかもしれませんね。

 そんな僕の言葉に、彼が食いついてきました。

「おっ! それならいいところがあるぞ!」

「ほう、珍しいですね。派手好きのあなたがそう言うところを知っているとは思いませんでした」

「あー、まあ、ちょっとな。知り合いのところなんだけどよ」

「本当に珍しいですね。あなたが自分の知人のことを話すのは」

「まあ、いろいろあんだよ。で、どうする? 行きてぇなら、紹介状を書いてやるけど」

「紹介状? そんなものが必要なのですか?」

「ああ、ちっと閉鎖的なところだからな。まあ、俺の紹介なら大丈夫だろ」

 紹介状が必要で閉鎖的とは、どういうところでしょうか。

 閉鎖的、と言う部分から、田舎の村。と言う印象を受けます。

「ならばいいのですが……」

「ちなみに、一度入るとひと月くらい出られねぇんだけど、どうする?」

 ほう、ひと月も拘束されるとは、よほどの田舎のようです。

 都会から離れて田舎暮らし。疲れ切った心と体を癒すには十分そうですね。

 まあ、田舎とは限らないのですが、ゆっくりできそうです。

「ああ、ちょうどいいですね。じっくり、のんびりとできそうです」

「あー。まあ、のんびりできるかどうかはともかく、じっくりやれるとは思う」

 今の含むような言い方が気になりますね。

「何を言っているんですか?」

 追求しようとしますが、彼はそそくさと逃げる態勢に入ってしまいました。

「ま、まあ、とにかく決まりだな! じゃあ、紹介状は書いておくから、お前は荷物の準備しとけ!」

 完全にはぐらかされました。と言うかいきなりですか!

「ま、待ってください! 先方の準備などがあるのではっ?」

「そんなもんかんけぇねぇよ。生活用具一式と着替えもたくさん用意しとけ、長期滞在になるんだからな。ああ、あと菓子類を大量に買って行くことを勧めるぜ。喜ばれるからな」

 お菓子で喜ぶ? ああ、田舎だからでしょうか?

「まあ、構いませんが……他に何か持参すべきものはないのですか?」

「そうだな……油揚げだな。あと稲荷寿司か」

「あなたの好物じゃないですか」

「それでいいんだよ。とにかく、用意しとけよ?」

「はあ、あなたはいつも慌ただしいですね」

「性分だからしょうがねぇよ。そんじゃあ、明日駅に集合な!」

 なるほど、明日ですか……明日っ?

「明日ですか! 早すぎませんかねっ?」

「大丈夫だって! 俺に全部任せとけ!」

 彼はそう言ってしまうと、こちらの話はもう聞く気はないのか、嵐のように去っていきました。

 まったく、呆れるほど元気ですね。もう少し落ち着いて欲しいものです。

「はあ、仕方がありません、病み上がりの身ですが、明日の準備をしましょうか」

 溜息を一つ吐くと、僕は準備のため、とぼとぼと歩き出しました。



 翌日、前日中に何とか準備を終えた僕は、指定された駅付近のホテルに部屋を取り、今朝の早朝にチェックアウトして、駅で彼を待って居ました。

 まだ始発すら出ていないような時間です。

 それにしても、もうすぐ夏とはいえ、この時間はまだ少々肌寒いです。

「お、なんだ。はえぇな」

「あなたが早く来いと言ったからでしょう」

「そうだったか? つーか、何だそのでけぇバッグは?」

「クーラーバッグですよ。この時期に油揚げと稲荷寿司を常温で放置していたら悪くなってしまうでしょう?」

「おお、言われてみればそうだな! じゃあ、その大量の荷物はなんだ? スーツケースも、でかすぎねぇか?」

「大量のお菓子と最低限の生活用品一式ですよ」

「その荷物、ほとんど菓子かよ。そ、そこまで気ぃ使わなくていいんだぞ?」

 自分で言っておきながらそんなことを言いますかこの男は。

「何を言うんですか。先方にとっては突然の来訪になるのですから、最低限、この程度の礼節は必要でしょう」

「はあ、そういうもんかぁ?」

「そうですよ。今のあなたは人の上に立つ者ですから、多少は傲慢でも構いませんが、僕は一般人ですからね。こういう事はしっかりしないといけません」

「めんどくせぇな。一般人って」

「そうです。面倒なんですよ」

 まあ、かと言って身分の高い人間になりたいわけでもないのですが。

「まあ、いいや、じゃあ、準備は万端だな?」

「ええ、それで、どこへ向かえばいいのですか?」

「途中までは送ってやるよ。ほれ、荷物半分よこせ」

「ああ、助かります。ではこれとこれを」

 と、お菓子が大量に入った袋とクーラーバッグを渡しました。

 お菓子の類はあまり詳しくはないので、スナック菓子から高級菓子まで、一通りを適当に購入して置きました。

 クーラーバッグに入っている油揚げと稲荷寿司は、彼がよく利用する老舗豆腐店で売られている物で、味に関しては絶品です。

 あまりの美味しさに、僕も一時期はまりました。

 鼻の良い彼は、匂いで気付いたようです。

「お、中身は乾屋の油揚げと稲荷寿司か。さすがだな」

 そう言って笑った彼の腹が、轟音を奏でて空腹を訴えてきました。

「朝食はまだでしたか」

「おう、駅弁でも買って行こうぜ」

「そうですね。僕も朝食は食べていないので、買って行きましょうか」


 早朝とはいえ、早い店は開いているようで、出来立ての駅弁を購入し、改札へと向かいます。

 その道すがら、気になっていたことを尋ねることにしました。

「そう言えば、僕の行くところは、どのようなところですか?」

「ん? あー、俺も居たのはずいぶんと昔だったから、あんまり覚えてねぇけど。まあ、田舎だな。緑色ばっかで、のどか過ぎて何にもねぇ、つまらねぇところだよ」

 やはり田舎だったようです。

 しっかり覚えているじゃないですか。と言う言葉を飲み込み、苦笑しつつ言います。

「あなたは鉄砲玉みたいな人ですからね」

「まあな。あんな狭い世界に閉じ込められるのは御免だぜ」

「それで飛び出してきた、と?」

「おう。おかげで出入り禁止を食らっちまった。そんなわけだから、実家にはしばらく帰ってねぇんだ」

「ほう、あなたの故郷でしたか」

 一時住んでいた、とかではなく、故郷だったとは、少し意外です。

「あれ、言わなかったか?」

「言っていませんよ。と言うか、あなた、自分の故郷のことは話したがらなかったでしょう」

「そうだったか? まあ、お前なら問題ねぇよ。親友だからな!」

 親友。そう呼ばれるのは嬉しいのですが、一つ嫌なことを思い出してしまいました。

「そう言われるのは悪くはないのですが、学生時代、あなたと僕の仲を邪推した一部の女子が妙な本を書いていたんですよ。一度拝見したのですが、おぞましい内容でしたね」

 おっと、思い出すだけで吐き気と鳥肌が。

「なんだそれ? まだ残ってんのか?」

 興味があるのか、彼が聞いてきますが、僕は首を振って返します。

「焼き尽くしました。それに、見ない方が良いですよ。いくらあなたでも、男色の気はないでしょう」

「おおっ、そういうのかよ! 冗談じゃねぇ!」

 と、彼は僕から距離を取って身震いしました。


「それはそうと、どこへ向かっているのですか?」

 先ほどからどこかへ向けて歩いていますが、券売機や改札に目もくれません。

「そこのエレベーターだ」

「改札は?」

「切符はもう買ってある」

「いえ、だから改札を通らないといけないのでは……?」

「改札はあっち側だ」

 あっち側? どういう事でしょう。

 とはいえ、彼はエレベーターの方へまっすぐ歩いていきます。

 おとなしくついて行くとしましょう。


「まずは、こう」

 と、エレベーターに着くなり、呼び出しボタンを数度押します。

 そうしてやってきたエレベーターに乗り込むと、今度は、不思議な行動に出ました。

「じゃあ、頼むぜ」

 と、エレベーターの壁を軽く叩いて話しかけたのです。

 いくらなんでもそれは、と言いかけたところでドアが勝手に締まり、ぽんぽぽぽぽん、と軽快な音を立てて、ドアが開きました。


「は……?」

 開いたドアの先はどこかの駅の内部なのでしょうが、先ほどまで見えていた都会の風景はすっかり消え失せ、緑豊かな自然の光景が広がっています。まるで、どこかの田舎の駅のようです。

 しかし、そこは活気に溢れていて、複数の露店や店舗が並んでいます。それに、どこからともなく甘い匂いが漂ってきます。

「この時期に桃の香り、ですか? そもそも、ここは……?」

「ここは桃源郷だ。お、桃まんだ。買って行こうぜ?」

 空耳でしょうか? 今、桃源郷と聞こえたのですが。

「は? 今、なんて?」

「桃源郷だよ。桃源郷。知らねぇのか?」

 知っていますとも、陶淵明の『桃花源記』は有名なのですから。

「いや、名前くらい知っていますよ! でも、それは御伽噺のようなものでは……」

「いや、あるだろ。ここに。ほら、あそこの案内板にも書いてあるだろ?」

 と、指さす先には、見慣れたか形の案内板があります。そこだけ浮いて見えます。

「それはそうですが……本当に、あなたは底が知れませんね」

 思えば、学生時代から彼の持ってくる面倒事に巻き込まれてきましたが、これはいささか規模が大きすぎて戸惑ってしまいます。

「向こう側では、あまり知ってる奴はいねぇけどさ。こう言う狭間の楽園ってのは、こっちの界隈じゃ有名なんだぜ?」

「はあ、楽園ですか。まあ、確かに、この光景は楽園と言っても過言ではなさそうですね」

 道行く人や商いを営む人々も、どの顔を見ても幸せそうです。

 普段からあのような顔をしている人など、彼の言う向こう側ではそうそう見かけません。

 ああ、そう考えると、ここが楽園であり、異界なのだと言うことがなんとなく理解できました。

「おっ、駅弁もあるぞ! おっちゃん、全種類くれ!」

「あいよ。五種類まとめて四千円だよ」

「円でやり取りできるのですね」

「おや、兄ちゃんはあっちの人かい?」

「え、ええ、そうですが……」

「へぇ、珍しいねぇ。俺も昔はあっちに居たんだが、神隠しにあってね。それ以来、ずっとこっち暮らしさ」

 神隠しに、あっちとこっち……随分と気楽な物言いです。

「それは、何というか……帰りたい、とは思わなかったのですか?」

「そりゃ、家族がいたし、帰りたかったさ。でもね。一度こっちに来ちまうと、あっちに戻るのは難しいのさ。まあ、今は嫁も子供もいるし、今更戻った所で帰る場所もないだろうさ」

「はあ、そうですか……あ、僕も一つ買います。何かおすすめはありますか?」

「そうさなぁ、兄ちゃん初めてみたいだし、桃源郷弁当がいいと思うよ」

 なるほど、初心者向け、と言う事でしょうか。

「ではそれを一つ」

「あいよ。八百円だよ」

「では、千円で」

「はい、二百円のお釣りだね。いい旅路を祈っているよ」

「ありがとうございます」

「またおいで」

「はい」

 弁当屋さんの話からして、こちらとあちらには越えがたい隔たりがあるのはわかりました。

 と言うことは、僕の親友である彼もまた、こちら側の人間だという事なのでしょうか。

 ……なるほど、色々と腑に落ちました。

 彼の異常性は異界じみていますからね。

「おい、お前、なんかしたり顔で失礼なこと考えてねぇだろうな?」

「いえいえ、真理に辿り着いただけですよ。所で、僕がこちらの世界の物を食べても問題はないのですか?」

 昔見た児童向けアニメ映画で異界の食べ物を食べた人が豚になっているのを見たことがありますが、あんなことにはならないのでしょうか。

「なんだそりゃ? 特に問題はねぇよ。ああ、そういえば、どこかにそんな話があったな。なんか小難しい理屈並べて解説もしてたが、あんなの出鱈目だ。気にすんな」

「はあ、そういう物ですか」

「そういうもんだ。理屈はしょせん理屈だ。現実以上の真実なんてねぇよ」

「ほう、なかなかに詩人ですね」

「よしてくれ。そんなんじゃねぇよ」

「まあ、それはそれとして、そろそろ改札に行かないとまずいのでは?」

「お、そうだったな。じゃあ、行くか」

 彼に先導されて歩いて行くと、改札らしきものが見えてきました。

「自動改札ではないのですね」

「あまり利用者がいねぇからな」


 駅員に切符を切ってもらい、待合所に入ると、確かに人は少ないようで、数えるほどしか利用者がいません。

「んー、そろそろ来ると思うんだが……お、見えた見えた」

「あまり乗り出すと危ないですよ。ほう、これは……蒸気機関車ですか。その割に、デザインが近代的ですね。それに、燃料の石炭が見当たりませんが……」

「ああ、核融合エネルギーで動いているらしいぞ」

 なんでしょう。今、聞き捨てならない単語が聞こえたのですが。

「……核融合と言うと、まだ実現されていない。あの核融合ですか?」

「その核融合なんじゃねぇのか? 俺もよくわからんが、七年位前にどっかから提供されて、五年くらい前から使われ始めたらしいぜ? この車両は、いわゆる新型機ってやつだな。機関のパワーを追究していった結果、蒸気機関に回帰したとかなんとか、よくわかんねえこといってたな」

「放射能とか平気なのでしょうか」

「問題ないって話だけどな。実際、こうして運用されているってことは大丈夫なんじゃねぇか?」

「……まあ、それもそうですね」

 もう、ここはこういうところだと納得した方が良いのでしょう。

 いちいち一喜一憂するのも疲れますし。

「ほら、乗ろうぜ?」

「ええ、そうしましょう」


 僕達が乗ってから、ほどなくして列車は出発しました。

 利用者が少ないというだけあって、車内にいた人もまばらで、僕達は空いている席に座ることができました。

 座ってしまえば、あとは目的地に着くのを待つだけです。

 幸いにも天気が良く、車窓からの風景も、外界とは一線を画したものです。

「これは素晴らしいですね」

「それより弁当食おうぜ、弁当!」

「ああ、そうですね。せっかくですし、いただきましょう」

 さて、どちらからいただきましょうか。

 やはり、気になる方からでしょうね。

「……やはり桃源郷弁当ですね」

「んぐっ、そっちから食うのか?」

「ええ、好奇心が勝ちまして」

 自分の弁当を頬張る彼に苦笑しつつ、弁当の蓋を開けます。

 こちらも出来たてなのか、ふわりと仄かな桃のような香りが鼻孔をくすぐります。

「ほう、見た目もなかなか……」

 初心者に勧めるだけはあって彩り豊かな弁当の中身は、まるで小さな桃源郷のようです。

 桃園を象るのは薄紅に色づいた生姜と梅の実を細かく刻んだ物で、微妙な色彩の違いが淡く色づく桃の花びらを見事に再現していました。

 その下にあるご飯は樹木と大地を意識したのか、甘みのある炊き込みご飯で、鶏のそぼろと刻んだ小葱のようなものが混ぜ込んであるようです。

 それらを箸で掬い取り、一緒に口へと運び込み、風味と味を楽しむように咀嚼する。

 仄かな酸味と甘みが混然一体となって口腔に広がり、さわやかな辛みが後からやってくる。これはわさびのようです。どうやら、先ほどの小葱のような物は、葉わさびと言う物だったのでしょう。そうして至福のひと時を味わい、名残惜しさを感じつつも嚥下しました。

 空腹も手伝ってか、しばらく夢中でご飯を黙々と食べ続けていました。。

 一息ついて、サービスで貰ったお茶を一口。これにも驚かされます。

 容器の中には桜の花が沈んでいたのですが、どうやら桜茶で間違いないようです。

 さっぱりとした程よい塩味と桜の香りが、先程食べたご飯の余韻を吹き飛ばしてしまいました。

 しかし、僕の舌と脳は先程の味を忘れたわけではありません。

 これはすごい、このお茶によって、飽きが来ないのです。どこまでも食べていたいと思わせる程、食欲が掻き立てられます。

 ああ、いけない、肝心のおかずが手付かずでした。

「これは、だし巻き卵でしょうか?」

 円形をした卵、おそらく太陽を模したであろうそれは一口大で、箸でつまむと、卵の層の間からじわりと出汁が滲み出るほどです。これは、間違いなく美味しいと、僕の直感が告げています。

 恐る恐る口に含み、かみしめると、出汁の旨味が口腔に広がり、そこへご飯を掻き込むと、もはや言葉にできないほどの幸福感が僕を満たします。

「生きててよかった……」

「お、おい、なに泣いてんだよ。大丈夫か?」

 おっと、いけない。

「すみません、あまりの美味しさに意識が飛んでいました」

「そ、そうか。よかったな……」

 その後も、食べては感激する僕の様子に彼は終始引いていましたが、僕はただひたすらに幸せでした。ただ、その後食べた普通の駅弁が妙に味気なく感じてしまったのが少し残念です。



「ふぅ、あんなに美味しい物が世の中にあるとは思いませんでした」

「少しオーバーじゃねぇか?」

「何を言うのです。あのお弁当には作り手の愛を感じましたよ。愛がなければあの味は出せません」

「あー、まあ、わからないでもないか。俺も、嫁の料理は特別美味く感じるからな」

「そうでしょうとも。それにしても、随分とゆっくり走りますね」

 先ほどから外の風景は延々と続く桃園の光景ばかり。

 素晴らしい眺めですが、いささか飽きてきました。

「まあ、距離なんてあってないようなもんだからな。そろそろ次の駅に着くぜ」

 彼がそういうと、風景に変化が現れました。

 桃と白の色が風景から徐々に消えて行き、トンネルに突入しました。

「トンネルですね」

「……なあ、トンネルを抜けた先と言ったら?」

 彼がにまにまとした笑みで質問してきました。

 また何かを企んでいるのでしょうが、ひとまず質問に答えるとしましょう。

「はあ、雪国でしょうか?」

「正解」

「は?」

 と、答えた瞬間には、回答が景色となって現れていたのです。

 辺り一面銀世界です。同時、車内に暖房が入り始めました。

 窓に触れてみると、ひんやりとした温度が伝わってきます。

「……どういう事ですか?」

「そういう事だ。いい加減慣れろよ」

「はあ、理不尽ですね」

「現実はいつだって理不尽だぜ?」

 正論にして名言です。やはり彼には詩人の才能があるのではないでしょうか?

 そうこうしている間に列車が止まり、駅に停車しました。

 駅の周辺は温泉街のようで、たくさんの宿があるようです。

 それに、仄かな硫黄の匂いが車内に漂ってきます。

「そうだ。温泉入って行こうぜ。温泉!」

「何を言っているんです。そんな暇ないでしょう」

「ここじゃ、時間の流れなんて、あってないようなもんだからな。電車が出るのは、電車が出る時なんだよ。ほら、行こうぜ?」

 わけのわからないことを言いながら立たされてしまいます、いつだって彼は強引なのです。

「あっ、荷物が!」

 しかし、荷物を忘れています。

 これでは置き引きされてしまいます。

「大丈夫だって、ここじゃ盗みを働こうと考えるようなやつ自体いねぇよ」

 こちらに関しては彼の方が詳しいようです。

 彼の言葉を信じましょう。

「はあ、仕方がないですね。ああ、せめて手拭いを……」

「貸出しくらいしてるだろ。ほら、行くぞ」

 こうして、僕と彼は雪国の温泉街へと繰り出しました。



 深々と雪が降り、分厚い雲に覆われた空は夜のように暗いのですが、街のいたるところに飾られた燈火が暖かな光を放ち、道や周囲を照らしています。

 まるで異世界に迷い込んだようで……ああ、異世界でしたね。

「そういえば、ここの地名は何というのです?」

「冬厳郷だ。冬に厳しい郷で、冬厳郷だ」

「桃源郷と読みが一緒じゃないですか。上手いこと言ったつもりですか」

「ほら、あそこ」

 と、指さす先には確かに冬厳郷と書かれた案内板があります。

「え? まさか、そんな……」

 色々と文句を言いたいところですが、割り切った方が良いのでしょう。

「まあ、そんなもんだ。いちいち気にすんなって。お、ここにしようぜ」

 と、彼が立ち止まったのは旅館の前でした。

「旅館・雪国、ですか。川端康成の小説の題名と同じですね」

「まあ、影響は受けているんだろうな」

「影響?」

 何か気になることを言いましたが、彼はさっさと中に入ってしまいます。

「ほら、それより入ろうぜ、体が冷えちまう」

「そうですね」


 旅館の中は暖房が効いているのか、暖かな空気に満ちています。

 僕達が入ると、受付にいた女性が素早く出てきて対応してくれました。

「ご利用のお客様ですか? お泊りになりますか? それとも日帰りですか?」

「日帰りで温泉を利用したい。ああ、あと風呂道具一式も貸してほしいんだが、大丈夫か?」

「はい、日帰りご利用とお風呂道具の一式をそれぞれ二名様分でよろしかったですか?」

「ああ、頼む」

「はい、料金前払いとなりまして、二千円となります」

「これで頼む。釣りはいらねぇぜ」

「まあっ、ありがとうございます」

 と、彼が一万円を出して支払ってしまいました。

 受付の女性は嬉しそうですが、いいのでしょうか。

「自分の分は払いますよ」

「いいんだよ。金なんて腐るほどあるからな」

 相変わらず、彼のお金の使い方は豪快です。

「はい、それではこちら、二名様分のお風呂道具でございます。湯殿までご案内いたしますね?」


 案内される途中に聞いた話によると、この受付の女性はこの旅館の女将さんらしく、一人で切り盛りしているのだそうだ。

「へぇ、大変じゃねぇのか?」

「いえ、こうして時折お客様を迎えることができるので、さほどは」

「時々の客で賄えていけるのですか?」

「えっ、ああ、そういう事ではなく、お客様に来ていただくことが私達の本懐ですので」

「はあ、ですが、お金がないと食べていけないのでは?」

「あくまで金銭は対価ですので、さほど重要ではないのです。もちろん、対価の分の奉仕はさせていただきます」

 結局、話が噛み合わないうえに、よくわかりせんでした。

「ここには女将のようなやつしかいねぇんだよ。だから、俺達みたいな旅人は貴重なんだ」

「それはわかるのですが、何がどう貴重なのか……」

「まあ、それはすぐにわかるぜ?」

 そういう彼は、何やら女将さんに好色そうな目を向けていました。

「浮気は感心しませんよ」

「大丈夫だ。これは数に入らねぇよ」

 いったいどうなるのか……不安です。

 女将さんの案内で風呂に着いた僕達は、脱衣を早々と済ませ、風呂場へ足を踏み入れます。

「おや、露天風呂ですか。眺めも素晴らしいですね」

「おお、こりゃ確かに絶景だな」

 女将さんが、ここのお風呂からの眺めは素晴らしい物だと聞いていましたが、これは確かに自賛するだけのことはあります。

 当の女将さんは、準備があると言って、どこかへ行きました。

「じゃあ、女将が来るまで湯に浸かってようぜ」

「身体を洗ってはいけないのですか?」

「ああ、女将が洗ってくれるからな」

「はあ? そんなことが……」

「失礼します」

 と、女将さんの良く通る声が聞こえ、声の方を向くと、そこには一糸まとわぬ女将さんの姿がありました。いえ、手拭いで前は隠れていますけどもっ!

「なっ! 何をしているのですか!」

「えっ、ご奉仕に参りましたが……なにか至らぬところがありましたか?」

「くくっ、相変わらず初心だねぇ。女将、こいつからやってくれ」

「な、なにをっ?」

「ふふっ、私のような者に女を感じてくださっているのですね」

 この方は何を言っているんでしょう。どう見ても二十代半ばの美しい女性にしか見えません。

 女将さんは嬉しそうに言いながら僕を引っ張っていきます。

 思いのほか力が強く、抵抗も空しく洗い場の椅子に座らされてしまいました。

「いや、そのっ、僕はこういうのはっ……!」

 情けないことに、女生とのアレやソレの経験がない僕にとって、この出来事は非常に刺激的でした。



「あ、あのようなことが許されてよいのでしょうか……」

 すっかりと身綺麗になった僕は、気が付いたら呆然と湯に浸かって居ました。

 すぐそばには、同じく綺麗になった親友もいます。

「あぁ、ここの宿は最高だな……」

 なんだか解脱した僧侶のような様相です。

「ありがとうございます。自慢のお風呂でゆっくりと温まって行ってください」

 いつの間にか衣服を着た女将さんがお辞儀をしていました。

 なんだか、当初よりも肌の色艶が良いように感じます。

「お、女将は、いつもあのようなことを?」

「はい、多めの対価を支払ってくれる方には、あのような奉仕をさせていただいております」

「あ、あの程度でこれほどの……」

「なあ、参考までに聞きてぇんだが、あれ以上払ったら、何してくれんだ?」

「そう、ですね……」

 と、思案するようにした後に答えた女将の奉仕の内容は、奉仕と言うにはあまりにも度を越えていました。

「それはやり過ぎです!」

「あー、まあ、そうだよな。俺もここまですげぇとは思わなかったからなぁ」

「はあ、ですが、お客様を御持て成しするのは私共にとっては命を繋ぐことにもなりますので」

「そうだよなぁ。維持するには必要だよな。女将の場合、やっぱ男の方がやりやすいのか?」

「そうですね、殿方の方が何かと手早く済みますし、私自身、元々そう言う所として利用されていましたので、殿方の喜ぶツボは心得ています」

「ほお、こは色宿だったのか?」

「はい」

「色宿、ですか?」

「ああ、いわゆる娼館とか遊郭みたいなものだな」

「私はそこまで上等な物ではございませんよ」

 ああ、何でしょう、ようやく自分にもわかってきた気がします。

「あ、あの、つかぬことをお伺いいたしますが……」

「はい」

「もしかして、女将さんは、この宿その物、ですか?」

「はい、ようやくお気づきになられたんですね」

 そう言って、女将さんは艶のある微笑みを浮かべるのでした。



 宿を後にした僕達は、いまだ停車していた車両に戻ってきました。

「荷物に手が付けられたような形跡はありませんね……」

 荷物が無事でほっとする僕に、彼は呆れていました。

「だから言っただろ?」

「はあ、それにしても……あの女将さんが付喪神だったなんて」

 あの後、女将さんや彼に色々と伺ったところ、女将さんは色宿が長い時を経て付喪神化した存在なのだそうです。

 付喪神が生きるには、人との関わりが必要で、正しく使用されることで命の源のようなものが満ちていくと言うことだそうで、女将の場合、色宿と言うことで、宿としての利用の他、女将自身が客と性的な行為を行うことで存在が保てるのだと言っていました。

「しかし、対価と言うのがいまいちわかりませんね」

「まあ、対価に関しては俺達がとやかくいう事じゃねぇからな。女将が納得してたんなら、それで対価は成立しちまうんだよ」

 この対価と言うのは、言ってしまえば双方向に発生する需要と供給の関係で、需要と供給の間に対価が発生する。と言う感じでしょう。例を挙げると次のようになります。


 需要 女将:利用者欲しい。 旅人:どこかに泊まりたい。


 対価 女将:お金等をもらう。 旅人:利用する。


 供給 女将:命の源。 旅人:安全な睡眠。


 と言ったところでしょうか。

「要するに、女将にとって、お金は正しく利用してもらうための最低条件と言うことですよね?」

「そうだな。ただで泊めてやることはできても、その場合、供給が発生しないから、女将にメリットはねぇんだよ」

「なかなか奥深いですね……」

「それよか、腹減ったな」

「さっき大量に食べたばかりじゃないですか」

「あれじゃ足りねぇ」

「相変わらず燃費が悪いですね」

 仕方がないですね。

 僕は、自分の荷物から包みを一つ取り出して、彼に渡しました。

「お? この匂いはもしや!」

「ええ、あなたの分の稲荷寿司です。好物でしたよね?」

「ありがてぇ! いただきます!」

 稲荷寿司はぺろりと平らげられました。それなりの量があったはずなのですが。

「ふいー、まあまあ満足したな」

「それより、列車はまだ動かないのでしょうか? 随分と止まっている感じがしますが」

「まだその時じゃねぇんだろ? お? 誰か来たぜ?」

 彼の言うとおり、誰かの足音が近づいてきました。

「お客さまー!」

 旅館・雪国の女将さんでした。

「女将さんっ? なぜここへ?」

「はぁ、はぁ、こ、これを届けに……」

 女将さんが持ってきたのは大きな包みで、仄かに暖かい。

「これは?」

「道中のお弁当です。よかったらいただいてください」

「おおっ、ありがとうございます。ここまで来るのは寒かったでしょう?」

「いいえ、慣れっこですので」

「ああ、そうだ。ちょっと待ってください。確かここに……あった。これをもらってください」

 と、花柄のブランケットを渡す。

「ブランケットです、包まると温かいですよ」

 僕は冷え性なので、あちらで使用することがあるかと思って購入したのですが、これなら女将さんの帰り道を寒さから守ってくれる程度の役目は果たすでしょう。

「あっ……い、いいのですか?」

「ええ、それを被ってお帰りください。上等な物ではありませんが、多少なりと女将さんの身を寒さから守ってくれるでしょう」

「あ、ありがとうございますっ。あ、あのっ、また来ていただけますかっ?」

「ええ、また来たときはぜひとも寄らせてください」

「は、はい! お待ちしております! 絶対、絶対に来てくださいね!」

「ええ、必ず」

 ああ、何やら大事そうにブランケットを抱えて行ってしまいました。

 女将さんの意外な一面を見た僕は、ほほえましい気持ちと共に女将さんを見送りました。

「お前、人にはさんざん言っておきながらやるじゃねぇかよ」

 と、今まで黙っていた彼が、にやにやと笑みを浮かべながら話しかけてきます。

「なんのことですか?」

「は? お前、もしかして自分がやったことの意味を理解してなかったのかよ?」

「はい」

「さっき、女将に贈ったのって毛布みたいなもんだろ?」

「ええ、そういう用途もできますね」

「それと、あの花柄なんだが、あれは福寿草って言ってな。花言葉は思い出とか、幸福って意味なんだわ」

「ほほう、幸福に包まれるといったところでしょうか? なかなか洒落の効いたものだったのですね」

「まあ、そういうとらえ方もあるわな。ただな、多分、女将はあの贈り物を廃れた方の意味合いで受け取ったと思うぜ? まあ、今の時代、知ってる奴はいないか」

「廃れた意味合い、ですか?」

「おう、まず毛布だが、毛布ってのは寝具だ。大昔、自分の寝具を贈るって言うのは、一緒に同衾したいって意味合いでよ。早い話、相手を嫁にもらいたいって意味があってな。まあ今でいうプロポーズのような物として利用されていたそうだ」

「は?」

「で、福寿草だが、こっちには他に永久の幸福と言う意味があってな。一生幸せにするっていうとらえ方もあったんだよ」

「……え? つまり、僕がしたことは……」

「女将さんを嫁にして、一生幸せにしたい、ってとこだな」

「っ! お、女将さん! ちがっ、違うんでああっ! ドアが!」

「おまっ、窓から出ようとすんなあぶねぇだろ!」

 窓から出ようとしたところを引きずり込まれ、そうこうしているうちにトンネルへ入ってしまいました!

「あれは違うんですぅぅぅぅ!」

 叫んでは見たものの、女将さんには届かなかっただろうと、またもがらりと変わった風景を見て、僕は悟ったのでした。



 女将さんへの弁解は諦めて、もらったお弁当を食べることにしました。

 ああ、女将さんは料理も上手なようです。朝食べたものと同じか、それ以上の美味しさです。

 物欲しそうにしていた親友にも弁当を分けます。

 おそらく、僕達に作ってきてくれた物なのでしょう。量が結構多いです。

「お、こりゃうめぇな。宿の具合からして掃除とかも上手いみたいだし。文字通りの優良物件なんじゃねぇか? それに、女将さんは家屋系の付喪神だから、相当尽くしてくれると思うぜ? 色宿だから、あっちの方も巧そうだしな」

 優良物件とか、うまいことを言ったつもりでしょうか。

 しかし、そう言われて、先ほどの女将さんからの奉仕を思い出してしまいました。

「あ、あれ以上のことがあるというのですか!」

「いや、あれも十分よかったが、あんなの序の口だぜ? そもそも、目的を達成できてねぇだろうよ」

「……想像できません」

「いや、学校の保健体育で習っただろうが」

「り、理屈の上ではわかるのですが……」

「あー、じゃあ、風呂でのあれを参考にだな……」


 と、教授してもらうこと五分。


「な、なるほど……あなたが女性との性向に執着する理由がわかった気がします」

「だろ?」

「だがそれでもあなたの頻度や対象範囲の広さはおかしい」

 むしろ、今の僕くらいが正常なのでしょう。

「ま、まあ、そこは自分でも認めるけどな」

「はあ、まさかそのように思われてしまうとは……次に会う時、どのように接すれば良いのでしょう」

 まさか、僕が女性のことで悩む日が来るとは思いもしませんでした。

「お前が忘れたりしない限り、また会うべき時がそのうちやってくるだろうさ」

 と、彼が楽観的に言います。

 彼がそういうと、なぜだかそんな気がしてくるのだから不思議です。

「そうですね。向こうでの滞在が終わった後に、寄ってみましょうか」

「お、それじゃあ、帰りの迎えも俺が来ないとな。面白いもんが見れそうだ」

「そんなことを言って、僕がいない間に女将さんに不埒なことをする気なのでは?」

「んなことしねぇよ。まあ、俺一人で行っても行けなさそうだしな」

「……あの場所も、そう言う所、と言うことですか?」

 こちらに来てから彼の言動には戸惑っていましたが、なんとなくわかってきた自分がいます。

「わかってきたじゃねぇか。まあ、つまりそういう事だ。行きたい時に行けるんじゃなくて、行くべき時に行けるってことだな」

「と言うことは、いずれ女将さんに合わなくてはならない事情ができる。という事でしょうか?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれねぇな。そういう時ってのは、自然とやってくるもんだからな」

「はあ、そういう物ですか」

「そういう物だなぁ」

 そう呟いて、彼は窓の外へ視線を移しました。

 窓の外の風景は、いつの間にか紅葉の色付く秋の景色へと変わっていました。

「次は秋ですか」

「おう、そんで、次の次が目的地だな」

「次の次と言うことは、今度は夏ですか?」

「ああ、つっても、あそこは殆ど日本だからな。ちゃんと四季はあるぜ?」

「そうなのですか。一年中夏かと思いましたよ」

「昔はそうだったらしいな。けど、今は外界との交流もそこそこあるし、そのおかげで俺はあっちに出てこられたんだぜ?」

「ああ、神様はなぜこんな獣を現世に解き放ってしまったのでしょう」

「い、言ってくれるじゃねぇか」

「あなたのせいで、僕がどれだけ苦労したと思っているのです?」

「……それはほんと、すまん」

「……まあ、好きでやっていたことですからね。あなたのおかげで充実した青春時代を送ることができたのは間違いないですし、本当は感謝しているんですよ?」

「……へへっ、しょうがねぇなぁ。じゃあ、これからも刺激的な毎日を提供してやr「いいえそれは結構です」最後まで言わせろや!」

「それより、この辺りでも、止まるのですか?」

「ああ、ちゃんと止まるぜ?」

「桃源郷、冬厳郷と続いて、次は何が来るのでしょう?」

「当てられたらうちに来て嫁とファックしていいぞ」

 最愛の妻との一夜を景品にするのは咎めたいところですが、余程自信があるように見えますね。

「ほほう、自身があるようですね。報酬はともかく、見事当てて見せたいところです」

「テメェ、俺の嫁の何が気に食わねぇんだよ!」

「そんなこと一言も言ってないですよねっ! まったく、そもそも、僕と彼女がそういう事をするのはあり得ませんよ。まあ、彼女は僕のことをどう思っているのかは知りませんが」

 そういえば、彼にはまだ話していませんでしたね。

 まあ、正直なところ、知っていて先ほどのような冗談を言ってきたのだと思いましたが、まさか知らないとは思いませんでした。

「なんだよ。あいつのこと嫌いなのか? そんな素振り見せたこともねぇだろ」

「嫌いではありませんよ。肉親ですからね」

「……はっ? なんだそりゃ! 初耳だぞ!」

「言っていませんからね」

「どういう事だよ? お前もあいつも、普通に両親居るよな?」

「彼女の経歴はちゃんと把握していますか?」

「ああ? 確か、両親が離婚して、その後再婚してたな。母親について行ったみたいだが」

「母親の旧姓は? ああ、正確には離婚前の姓ですね」

「確か……お前の苗字と同じだな」

「そういう事です。僕の父も過去に離婚していて、今の母と再婚しています。離婚当時、彼女は物心つく前だったので、覚えていないのも無理はありませんね」

「あー、なんか色々と腑に落ちたわ。お前のあいつに対する態度とか、あいつのお前に対する態度とか、一気に謎が解けた気分だぜ」

 ほう、彼女の方も何かがあったようですね。

「おや、彼女も気づいていたのでしょうか?」

 なんでしょう。気になりますね。

「ああ、実は……あー、やめた。絶対教えてやんねぇ」

「なんですか。気になるじゃないですか。教えなさいほら早く」

「よし、じゃあ、次の駅の名前を当ててみろ! そしたら教えてやる!」

 ようやくらしくなってきました。これならやる気も出るという物です。

「そうですね……おそらく三文字縛りで○○郷と言ったところでしょうか。こういう物の名称は統一したくなるものですからね」

「おお、いい線いってるんじゃねぇか?」

「それに、外の季節は秋。これまでの例からして、秋に関わる言葉が入るのは必至!」

「ほうほう、それで?」

「赤と黄色に色付く葉を示す橙、紅葉の神秘的な光景をさして幻、それに郷と書いて橙幻郷と言ったところでしょう!」

 どうです! 正解でしょう!

「いや、紅葉を黄金に見立てた黄金郷が正解だな」

 は、外しましたよ!

 自分でも会心の回答だと思っていたのに、この体たらく!

「くっ、絶対に正解だと思っていました……!」

「つーか、そっちの方が良いよな。いっそ改名すりゃいいのに」

「いや、それだと読みの縛りになって、あなたの故郷も改名しなければならないのでは?」

「じゃあ、そっちも考えてくれよ。ああ、当然季節は夏でな」

 夏ですか……こんな感じでしょうか。

「初夏に咲く藤の花から藤、一年で太陽が最も輝く季節から眩、それに郷と書いて、藤眩郷と言うのはどうでしょう?」

「お前天才か!」

「いくらなんでも大袈裟ですよ」

「いやぁ、これ村長会議で出したら大絶賛間違いなしだろ。多分来年からは名前変わるぞ冗談抜きに」

 そう言いながら、彼は何やら手紙のようなものを書き始めてしまいました。

 改名案を書いているようです。

「いや、そんなことで故郷の呼び名を決めていいのですか?」

「いや、変わるのは駅名だけだろうけどな」

「あ、そうですか」

 それなら問題はなさそうですね。いや、駅名が変わるというのも事ですが。

 そもそも、名前が変わるということに対して抵抗がないようにも感じます。

「つーわけで村長に渡しておいてくれ」

「はあ、構いませんが。本当に良いのですか?」

「いいんだよ。こっちの連中は、なんだかんだで変化を求めている奴が多いからな」

 退屈に飽きて外に出た彼と、変化を求めながらもこちら側に留まる者達、ですか。

 何やら、また面倒なことを押し付けられた気がします。

「……まあ、いいでしょう。ところで、次の黄金郷と言うのは、どういったところなのです?」

「見りゃわかる。まあ、俺自身の感想としては……食い物が美味い、だな」

 実に単純明快な回答です。

 まあ、見ればわかるという彼の言葉ももっともなので、駅に着くのを待ちましょう。

「それにしても、見事な紅葉ですね」

「ああ、もみじ饅頭食いたくなってきた」

 彼は紅葉に感動するよりも食欲が刺激された模様です。

「あなたはブレませんねぇ」

「欲望に忠実だからな。お、甘栗も捨てがたいな。いや、栗ご飯か?」

「ああ、栗の木もあるようですね。おや、あれは果樹園でしょうか」

「林檎、梨、柿、葡萄……よし、次は果樹園行こうぜ?」

「食欲の権化ですかあなたは」

 思わず呆れながら言うと、彼はしたり顔で言いました。

「いや、どっちかと言うと性よk「おや、そろそろ着くようですね」だから最後まで言わせろよ!」

 次は黄金郷です。紅葉が大変素晴らしいという事ですが、実に楽しみです。



 駅に着くと電車は止まり、出発する様子もありません。

「ここでもやはり、出発する時に出発する。と言う事でしょうか?」

「おう、例のごとく荷物は置いて行って問題ないぜ?」

「はいはい、わかっていますよ。それでは、どこへ行きます?」

 果樹園に行くと息巻いていましたが、念のため確認をします。

「果樹園一択だな! この時期はうまい果物が多いし、食い放題だぜ」

 彼は果樹園に行く気のようですが、駅前の看板を見ていると魅力的な物がたくさんあるようです。

「個人的には茸狩りも捨てがたいですね」

「ああ、松茸も食いてぇな。炭火で焼いて日本酒で一杯ってのもいいな」

「おや、川もありますね。あれは鮎釣りでしょうか?」

「鮎の塩焼きもいいな。出汁のきいた雑炊と一緒に掻っ込むのが最高なんだよなぁ」

「芋煮会、と言うのも開催されているようですよ?」

「あれな! でかい鍋で大量の材料を煮込むから、旨味たっぷりですげぇうまいんだよなぁ!」

「迷いますねぇ」

「つーかてめぇ迷わせるんじゃねぇよ! 鬼か!」

「おや、てっきり全制覇すると言うかと思っていましたが」

「そうしてぇのはやまやまだが、あまり長居すると取り込まれちまうからな」

 今何かさらりと恐ろしいことを!

「そういう大切なことは早く言いなさい!」

「いや、桃源郷のおっちゃんが言ってただろ。帰るのは難しいってよ」

「あ、ああ、あれはそういう意味だったのですか……」

「行けても二か所だな。こうなったら、別行動で食い物調達してこねぇか?」

「構いませんよ。では、僕は茸と芋煮ですね。場所も近いようですし」

「じゃあ、俺は鮎と果実だな」

「メニューはどうします?」

「茸は焼いたのが良いな。芋は汁物だろ。あ、俺肉多めな!」

「わかっていますよ。あとはご飯物が欲しいので、鮎は鮎飯などいかがでしょう?」

「それいいな! じゃあ、鮎飯と果実を適当に調達してくるぜ!」

「ええ、お願いします」

「そっちも頼むぜ?」

「大丈夫ですよ」

「じゃあ、集めたら電車に集合だからな!」

「はい」

 最後に集合場所を決め、僕達は別行動に移りました。



「さて、それでは、先に茸ですね。汁物は溢すといけませんし」

 歩き出すと、小さな子供達が駆け寄ってきました。どちらも女の子のようです。

「おにーさん、おにーさん」

「なにしてるのー?」

 彼女らは、それぞれ赤と緑で統一された揃いの浴衣を着ています。

 赤い浴衣を着た子がつり目、緑色の浴衣を着た子がたれ目で、どちらも見た目の歳相応の愛くるしい顔立ちをしています。きっと将来は美人になることでしょう。

 お祭りで買ったのか、二人とも顔が見えるように、お面を斜めに被っています。

 赤い服の子が狐のお面、緑色の浴衣の子が狸のお面をつけています。

 それにしても、この二人、どこかで見たような気がしますが、気のせいでしょうか?

「ねえ、ねえ」

「どこいくのー?」

 二人は僕の困惑などお構いなしに話しかけてきました。

 元気な子供達に若干押されつつ、僕は答えました。

「ええっと、茸狩りに行きたいのですが……」

「あっち! あっち!」

「こっちだよー!」

 どうやら、案内してくれるようです。

 案内板があるので問題はないのですが、ここは彼女達の厚意に甘えるとしましょう。

「助かりますが、あまり知らない大人について行ったらいけませんよ?」

「だいじょぶ! だいじょぶ!」

「ついてきてー?」

 そうですね。ついて行くのは僕でした。いや、それはそれで問題なのではないでしょうか?

 まあ、僕自身、彼女達に危害を加える気はないので、問題はなしとしましょう。

「ああ、待ってください」

 それにしても、少女達のすばしっこいこと、あっという間に置いて行かれそうになりますが、きちんと僕の姿を確認して待ってくれています。

 ようやく追いつくと、いつの間にか茸狩りの出来る所へ来ていたようです。

 三人分の料金の支払いを済ませ、茸狩りを始めます。

「どんなきのこ? どんなきのこ?」

「どくきのこー?」

 どうやら彼女達も手伝ってくれるようです。

「いえ、食べられるのが良いですね」

 そう言うと、しばらくして赤い子が持ってきたのは、毒々しい色合いの物でした。

「べにてんぐ! べにてんぐ!」

「おいしいよー?」

 食べた事があるのでしょうか。実際、美味しいという話は聞いたことがあります。

「一部の地方で食されているのは知っていますが、積極的に食べたくはないですね」

「かおりまつたけ!」

「あじしめじー!」

「すごい推して来ますねあなた達! 駄目ですよ。食べませんっ」

 少し強めに言うと、頬を膨らませて抗議してきました。

「けちー、けちー」

「おいしいのにー」

「それより、普通に食べられる物を探してきてほしいんです。焼いて食べられるのが良いですね」

「ぶー! ぶー!」

「つまんないー!」

 完全にへそを曲げてしまったようです。こういう時は……。

「じゃあ、これをあげますから、ちゃんと手伝ってください」

「なーに? なーに?」

「なにくれるのー?」

 近寄ってきた彼女達の掌に、飴玉を載せました。

 お土産のお菓子を選んでいた時に、自分用に購入したものです。

「きれい! きれい!」

「これなにー?」

 どうも、彼女達は飴玉を知らないようです。

「これは、包み紙をこうして解いて食べるものですよ」

 二人の前で包装を解いて食べて見せました。

 それを見て目を輝かせた二人は、早速真似をします。

「くるくるぱっ! くるくるぱっ!」

「くるくるぱー!」

 包装を解いて、飴玉を口に含んだ彼女達は、驚愕に目を見開きました。

「あまっ! あまっ!」

「あーまーいーぞー!」

 経験したことのない甘味に驚き、ピョンピョンと飛び跳ねています。

 なんとも可愛らしいものです。

 人間ではないとはいえ、子供と言うのはやはり可愛い物ですね。

 ええ、とっくに気づいていましたとも。何しろ、人にはない耳と尻尾が最初から生えていましたからね。それにしても、相変わらずどこかで見たような気が拭えません。

 赤い子が狐で、緑色の子が狸なのですが。

「赤い狐と緑の狸……ああ、そういう事ですか」

 口に出してようやく気付きました。

 むしろなぜ気付かなかったのかが、不思議なくらいですね。

「もっと! もっと!」

「もっとほしー!」

 飴の味を知ってしまった二人は、ピョンピョン飛び跳ねて催促します。

「じゃあ、茸狩りを手伝ってください。ちゃんと食べられる物をたくさん採ってきたら、飴玉をあげましょう」

「わかった! わかった!」

「ぜったいだよー?」

 ご褒美がもらえると分れば現金なもので、子供達はあっちこっちへと飛び回り、たくさんの茸を集めてきます。どうやらちゃんと食べられる物のようです。

 では、僕も負けないように集めるとしましょう。


 それから一時間ほどが経過して、文字通り、茸の山ができていました。


「これだけあれば十分ですね」

「きのこ! きのこ!」

「たけのこー!」

「「……せんそうだ!」」

 いきなり掴み合いの喧嘩が勃発しましたよ! きのこたけのこ戦争の勃発ですよ!

「どこから仕入れてきたんですかその情報! こらっ、喧嘩はやめなさい!」

「きのこ、きゅうきょく!」

「たけのこー、しこうー!」

「はいはい、不毛な争いはやめましょう。ご褒美をなしにしますよ?」

 ご褒美なし、と言う単語に二人は即座に反応し、手を繋ぎあうと仲良く踊り始めました。

「なかよし、なかよし!」

「なかよしー!」

 本当に現金な子供達ですね。まあ、可愛らしいので構いませんが。

「そうです。それでいいのです。じゃあ、次は芋煮会ですね。ご褒美はもう少し待ってください」

「もっと、もっと!」

「おてつだいー!」

 待つのが暇なのか、ご褒美の増量を狙ってか、お手伝いを申し出てくれました。

 いや、打算のできなさそうな子達なので、おそらく前者でしょう。

「まだ手伝ってくれるのですか? では、お願いしましょう」


 茸狩りを終えたら、今度は芋煮です。

 そういえば、茸の量が山ほどあった為か、サービスで茸を入れる籠をおまけに貰ってしまいました。

 普通、料金が上乗せされると思うのですが、どうも、会計の方は山の神様だったようで、女将さんの時のように、山の恵みを収穫することが何らかのメリットになるのでしょう。

 さすがに山火事を危惧してか、調理はこの辺りでは請け負っていないとのことでした。

「芋煮会の場所まで案内してもらえますか?」

「おいも! おいも!」

「やきいもー?」

「いえ、芋煮会ですよ。お芋を大きなお鍋でぐつぐつと煮込むやつです」

「しってる! しってる!」

「おっきいのー!」

 思い当たるものがあったのか、走り出す二人の後を慌てて追いかけます。

 来た道を戻り、あぜ道を駆け抜け、黄金に色付く稲穂畑の向こうにある川を目指して走ります。

「あそこ! あそこ!」

「じんじゃー!」

 先を行く子供達の指さす先、川べりに建つ神社の傍で、芋煮会が行われていました。

 あれは、販売目的と言うよりも、何らかのイベントでしょうか?

「ああ、元々、芋煮会自体がイベントでしたね」

 分けてもらえるでしょうか、と不安を募らせつつ、子供達と一緒に会場入りすると、見知った顔がありました。

「お、来たか」

「おや? なぜこちらに?」

「果実類を調達した後に鮎を釣りに来たんだよ。そしたらすぐそばで芋煮会をやっててな」

「なるほど」

「そっちはすげぇ採れたみてぇだな?」

「ええ、会計の方……山の神様が喜んでいました」

「おおっ! 山神の領域で採った茸かよ! そりゃすげぇ!」

「そ、そんなにすごい物なのですか?」

「おう、山神ってのは偏屈な奴が多いからな。人間が自分の領域に入ったら怒り狂って死者を出すことがあるくらいやべぇぞ。そもそも、どうやって辿り着いたんだよ?」

「ああ、この子達に案内してもらいまして」

 と、彼が現れてから僕の後ろに隠れてしまった二人を示します。

「お? なんだ。ただの子狐と子狸じゃねぇか」

「ええ、なんだか懐かれてしまったようで」

「あー、わかるわかる。お前って、なんかそういうの引き寄せやすいよな」

 そういわれても、僕自身にはよくわかりません。

「僕には何の心当たりもありませんが」

「ああ、たまにそう言う奴がいるんだよ。理由なんか関係なしに異形にモテる奴がな」

「はあ、そういう物ですか」

「そういうもんだ。で、こっちは果実及び鮎はゲットしたぜ」

「調理はどうしましょう?」

「ここでやってもらおうぜ」

「大丈夫なのですか?」

「こういうのは等価交換でな。お前の持ってきた茸なら十分おつりがくるぜ。交渉は任せろ」

 そういうと、大量の収穫物を持った彼が人ごみに消え、ほどなくして戻ってきました。

「芋煮会への参加許可が下りたぜ。採ってきた物も調理させてもらえることになった。お前の腕の見せ所だぜ?」

「構いませんが、この子達も一緒で構いませんか?」

「当たり前だろ? 茸の件はそのがきんちょ共の手柄でもあるんだからな」

「それなら文句はありません。存分に料理の腕を振るわせていただきましょう」

 と、料理の腕を振るった結果、何やら調理に取り掛かっていた方々から一目置かれることになってしまいました。

 まあ、些末は置いておくとして、料理が無事に完成しました。

 メニューは当初の予定通り、焼き茸、芋煮、鮎の雑炊、秋の果実となっています。

 焼き茸は焼いて食べるのに適した茸のみを使用し、残った茸は芋煮の材料にしました。鮎の雑炊は、芋煮の汁を利用して作った物に焼き鮎を載せ、お好みの方法で食べる形式にしてあります。秋の果実は一部を除いて自然のまま、丸ごといただくようにしました。

「いいにおい! いいにおい!」

「おいしそうー!」

「早く食おうぜ!」

「いい大人がはしたないですよ」

 子供達と一緒になってはしゃぐ彼は、涎を垂らさんばかりに料理へ熱い視線を注いでいます。

「それでは、いただきましょう。いただきます」

「「「いただきます!」」」

 勢いよくがっつく子供二人と大人一人に苦笑しつつ、秋の味覚に舌鼓を打ちます。

 そして、境内から見える色付いた山々の赤と黄の絶妙な色合いは、まさしく黄金色と言えます。

 黄金郷と言う名に恥じぬ秋の風景と美味い料理。これ以上の贅沢はなかなかないでしょう。

「うまっ! うまっ!」

「んまいぞーっ!」

「やっぱお前の料理は最高だな!」

 前言を撤回しましょう。こうして、自分の作った料理を褒めてくれる。気の許せるような相手がいてこそ、これ以上の贅沢はないと言えるのではないでしょうか。

「材料がよいのですよ。僕は少し手を加えただけです。いわば、この料理はみんなで作り上げたものですよ」

 僕がそういうと、三人は顔を見合わせ、照れくさそうに破顔します。

 そして、彼が杯をすっと差し出しました。

 ああ、昔、こんなやり取りがありましたっけ。

「ほら、あなた達も」

 そう言って、子供達に見本を示すように自分の杯を差し出しました。

 子供達は顔を見合わせ、にっこり笑うと自分達の杯を差し出しました。

 そして、それを揃って掲げ、言います。

「「「「乾杯!」」」」



 楽しい一時というのは、あっという間に終わってしまうもので、別れの時がやってきました。

「いっちゃうの? いっちゃうの?」

「いっちゃやだー!」

 駅にまで見送りに来てくれた子供達が、目に涙を浮かべて言います。

 彼女達にはお手伝いのご褒美に、買ってきたお菓子を持たせてあります。

 それらを大事そうに抱えながらも、彼女等は今にも泣きだしそうな顔で僕を見つめてきます。

 ああ、後ろ髪を引かれる想いですが、僕達は行かなくてはなりません。

「あなた達のことは忘れませんよ。きっと、また会えます」

「またあえる? またあえる?」

「ほんとー?」

「ええ、必ず」

 そう言って二人の頭を撫で、最後に一度だけ二人を抱き寄せます。

 腕の中の存在を忘れないようにしっかりと抱きしめ、名残惜しみながら身を離すと、二人は涙をぽろぽろと流していました。 

「うえぇぇん! いがないでぇー!」

「ぶえぇぇん! いっぢゃやだぁー!」

 ああ、僕としたことが、酷い失敗をしてしまったようです。

 幼いながらも必死に泣くのを堪えていた二人に、今の抱擁は涙を流す原因となってしまったようです。僕にしがみついて泣きわめく二人に、僕はただおろおろするばかりでした。

「ああ、泣かないでください」

 必死にあやそうとしますが、ますます泣き声は大きくなるばかりです。

「あー。そうなったらしばらく無理だわ。落ち着くまで待ってやれ。あと、撫でてやったりするのは逆効果だから、そっと抱きしめる程度がベストだな」

「は、はい、そうします」

 星の数ほど女性を泣かせている彼の意見なら間違いはないはずです。

 彼の助言に従って、僕は彼女達をそっと抱きしめ、泣き止むのを待ちました。

 しばらくそうしていると、泣き声が徐々に収まり、すんすん、と鼻をすする音だけが聞こえるようになってきました。どうやら落ち着いてきたようです。

 腕の中で身じろぎした彼女達をそっと開放すると、泣きはらした真っ赤な目で僕を見つめてきます。

 ああ、涙や鼻水で可愛い顔が台無しです。

 すぐさまポケットティッシュとハンカチを取り出し、鼻をかませ、涙を拭きとると少し痛々しい表情ですが、可愛らしい彼女らに戻りました。

「これでよし、ほら、笑ってください。あなた達の可愛らしい笑顔で見送ってほしいですからね」

「ぐすっ……うん」

「うぅ……わかったー」

 ああ、ようやく落ち着いたようです。本当に良かった。

「おい、そろそろ出発するみてぇだぞ」

 いけません、そろそろ出発するようです。

「わかりました。さあ、今度こそお別れですよ。必ずまた来ますから、笑顔で見送ってください」

「うん! うん!」

「えへー」

「ありがとう。また会いましょう」

 ようやく笑顔になってくれた彼女達に礼を言い、車両に乗り込もうとしたら、服をつかまれました。

 説得失敗でしょうか。と思いながら彼女達を見ると、どうやら違う様子です。

「もっかい! もっかい!」

「ぎゅーってしてー?」

 どうやら、もう一度抱きしめてほしいという事でした。

「甘えん坊さんですね。一度だけですよ?」

 そう言って、嬉しそうに頷く彼女達を抱きしめると、頬に柔らかくも仄かに湿った感触がしました。

「ちゅっ! ちゅっ!」

「ちゅー!」

 お別れの口付けをされたようです。

「まったく、二人ともおませさんですね。このようなことは、あまりしてはいけませんよ?」

「お前はその子達の母ちゃんか」

「うるさいですね! とにかく、女の子なら、みだりにそのようなことをしてはいけません。そういう事は、大切な人としなさい。いいですね?」

「わかった! わかった!」

「わかったー!」

 そう言って、もう一度口付けをしてきました。

 本当にわかっているのでしょうか。

「おい、マジでやべぇぞ。早く乗り込め!」

「あ、はい! では、また会いましょう!」

「またね! またね!」

「またねー!」

 手を振る彼女達に手を振り返しながら車両に乗り込むと同時にドアが閉まり、列車がゆっくりと走り出しました。

 走り出す列車と並走するように、子供達が手を振りながら走ってきます。

 僕も車内から手を振り続けました。彼女達が見えなくなるまで、ずっと。

「……こういう別れは、辛い物ですね」

 席に着くと、妙に切なさが込み上げてきて、涙が一筋零れてしまいました。

 そんな僕を笑うわけでもなく、彼は滅多に見せない優しげな顔で、僕を見て言いました。

「でも、また会いに行くんだろ?」

「当たり前です。約束しましたからね」

「だろうな。それにしても、お前も中々すげぇことするな?」

 優しげな顔から一転、あくどい笑みを浮かべて彼が言ってきました。

「なんのことですか?」

「何って、ありゃ光源氏計画じゃねぇのか?」

「なんですかそれは? なぜ光源氏の名前が出てくるのです?」

「知らねぇのか? 将来有望そうな幼女に唾つけて、大きくなってから美味しくいただくっていう昔ながらの方法だぜ?」

「なんですかその鬼畜の所業は!」

「いや、だから、お前がやったの、まさにそれだぞ?」

「はあっ? なぜ僕がそのようなことを!」

「いや、自分でやったことだろうが? お前の、あのがきんちょ達に対してやってた全てがそうとしか言えねぇな。子供なんてのは適当にあしらっときゃ良いもんをあんなふうに扱って、ありゃあ、今後同年代の男がただのガキにしか見えなくて見下すようになるぞ」

「んなっ! そういう事は早く教えてください! とんでもないことをしでかしてしまったじゃないですか!」

「いや、狙ってやってるもんだと思ってたからよ」

「狙いませんよ! あの子達、どう見たって僕より一回り年下でしょう!」

「女ってのはな。年齢じゃねぇんだよ。男を意識した時が、女としての開花の時なんだぜ?」

「上手いこと言ったつもりですか! あああ、僕は何という事を……!」

「まあ、次会った時に矯正しときゃいいんじゃねぇの?」

「そ、そうですね……もはやそれしか方法はありませんね」

「まあ、女が変わるのに一ヶ月ってのは、十分すぎる時間だけどな」

「不安になるようなことを言わないでください! そもそも、あんな良い子達が、そうそう変わるわけないでしょう!」

「じゃあ、大丈夫なんじゃね?」

「う……そ、そうですね。そうだといいのですが……」

 若干の不安と共に窓の外を見つめる僕ですが、無情にも、外の景色は秋から夏。外の世界と同じ季節へと変わっていました。



「じゃあ、お前は次で降りろよ。俺はもう一つ先まで行って、折り返しの列車に乗り換える」

「一緒に来てはくれないのですか?」

「お前も子供じゃねぇんだし、大丈夫だろ。連絡はしてあるから、迎えも来ているはずだしな」

「そうですか……ここまで、ありがとうございました」

「いきなりどうしたんだよ?」

「いえ、あなたがいなければ、ここまで来られなかった気がしますから」

「まあ、さっきのところなんかは危なかったよな」

「ええ、ですから、ありがとう」

「気にすんなって。お前と俺の仲だろ?」

「……そうですね。あなたがそういうのなら、気にしないことにします」

「いや、少しは気にしろよ。まあ、こっちではゆっくり休んでくれ。病み上がりで連れ出したのは悪かったが、こっちにいるだけでも、少しは楽だろ?」

 言われてみれば、こちらに来てから、向こうにいた時のような、病み上がり特有の気怠さや疲れをあまり感じていませんでした。

「そういわれてみればそうですね。やはり、自然が多いからでしょうか?」

「それも関係するが、こっちは気に満ちているからな」

「いきなり何の話ですか。漫画かなにかですか?」

「まあ、そんなところだが、気って言うのは、ちゃんとあるぜ? まあ、人間てのは何でも数字や式で再現できなきゃ根拠のないものとしているから、あっちでは存在自体が眉唾とされているが、こっちでは当たり前のことなんだよ」

「はあ、百歩譲って信じるとしても、それと僕の体調にどのような関係が?」

「確か、お前が倒れた原因は疲労とストレスだったよな?」

「ええ、医者からはそのようにうかがっていますが」

「疲労もストレスも、どちらも気が関係してるんだよ。疲労が溜まれば気が弱り、ストレスが溜まれば気が乱れる。気が弱って乱れた結果、お前はぶっ倒れちまったんだよ。お前、倒れた時、動けなかったし、動きたくもなかっただろ?」

「あまり覚えてはいませんが、そんな気分だった気はしますね」

「気が弱ったり乱れたりするってのは、危険信号みたいなもんだからな。そうなっちまうと、心と体が休息を求めて強制的に止まっちまうんだよ」

「ああ、確かに、あの時は電源が落ちたように見えたと同僚が言っていましたね」

「まあ、あの弱りようじゃ、実際死にかけたんじゃねぇか?」

「ええ、全身ボロボロで、弱り切っていたそうです」

「だろうな。病院から出てきたお前を見た時はたまげたからな」

 ああ、なるほど。だから、病院の外で会った時、あのような取り繕う時によく使う笑みを浮かべていたのですね。

 それにしても、体調は割と良い方だったのですが。

「そんなにひどい顔でもしていましたか?」

「ちげぇよ。まあ、それもあるが、今にも死にそうなほど、気が弱っていた」

「もしかして、僕にこちらでの休養を進めたのは……」

「あー、まあ、それもあるが……元々、お前にはこっちに来てもらうつもりだったんだよ。まあ、あの状態のお前を見たら、連れてこざるを得なかったんだがな」

「こちらに来てもらうつもりだった? どういう事です?」

「それは言えねぇ。ただ、お前にやってほしいのは、これから行く村に一か月滞在してほしいってことだけだ。後は、お前が良いと思うように行動してくれりゃあ、それでいい」

「よくわかりませんが、僕があなたの故郷に一月滞在するだけで何らかのメリットがある。と受け取ってもよいのでしょうか?」

「まあ、そうなるな」

「じゃあ、構いませんよ。僕は予定通りの休暇をいただくだけです」

「ああ、それでいい。お、そろそろ着くな」

「そのようですね。それにしても、外はなかなか暑そうですね」

「山ん中だから、朝と夕方は割と涼しいもんだぜ? 街灯なんかもほとんどねぇから、夜は星がよく見えるしな」

「おや、それは素晴らしい。とはいえ、一人で天体観測と言うのも寂しい気がしますが」

「お前の顔なら、村娘の一人や二人引っ掛けるのなんざ簡単だぜ?」

「引っ掛ける云々は置いておくとして、村と言ったら老人しかいないようなイメージがしたのですが?」

「まあ、老人の方が多いだろうなぁ。ただ、若いのもそこそこいるはずだぜ? 村を出ていなければの話だがな。おっと、着いちまったな」

「そのようですね。では、行きます」

「ああ」

「ああ、そうだ。なにか伝言はありますか?」

 おせっかいのつもりで聞いてみると、彼は観念したように言いました。

「……はあ、じゃあ、一言だけ頼むわ。もし若い女が迎えに来たら、こう言ってくれ。……全部、俺が悪かった。すまない。と」

 その言葉にどれほどの意味が込められているのかは僕にはわかりません。

 でも、おそらく、彼と、この言葉を受け取る者にとっては、必要な言葉なのでしょう。

「わかりました。それでは、また一月後に会いましょう」

「ああ、ゆっくり休んでくれ」

「ええ、そうさせてもらいます」

 僕が答えると、列車のドアが閉まり、次の駅へと向けて走り去っていきました。

 さて、楽しい休暇の始まりです。



 駅を出ると、眩い夏の日差しが僕を照りつけます。

 じりじりと肌を焼くような暑さですが、山の空気のおかげか、不思議と嫌な感じはしません。

「さて、迎えが来ているとのことですが……」

 駅前には、ほとんど人がいません。

 と言うよりも、ここまでの駅が村や街の中にあったのに比べて、こちらは片田舎の駅と言った風情で、ぽつんと駅があるのみです。おまけにバス停も見当たりません。

 せいぜいが駄菓子屋とタバコ屋があるくらいでしょうか。

「外から来たのって、あなた?」

 辺りを見渡していると、背後から声をかけられました。

 振り返ると、そこには黒髪の美しい少女が楚々とした様子で立っていました。

 学校帰りか、はたまた途中で抜けてきたのか、セーラー服を着ています。

 その整った顔立ちは、つい最近、どこかで見たことがあるような物でしたが、はて、どこだったのでしょうか?

「ええと、どこかでお会いしましたでしょうか?」

「いいえ、初対面よ。それより、外から来たのは、あなたで間違いないのね?」

 少女がにらみつけるように僕を見てきます。

 なんでしょう、このどこか狐を彷彿とさせるような感じは……ああ、そういう事でしたか。

「ええ、そうです。親友の紹介でここまで来ました」

「あいつの……? まあ、いいわ。ついてきて」

 僕の言葉に訝しむように顔を顰めます。

 ああ、やはり、間違いないようです。

 と、その前に、彼からの伝言を伝えないと。

「ああっ、待ってください。彼から伝言を預かっています」

「聞きたくないわ」

 そっけなく言いますが、そう言う所も、以前の彼にそっくりですね。

「じゃあ、聞き流してもいいので聞いてください。全部、俺が悪かった。すまない。だそうです」

「……何よ。今更……!」

「もしかして、彼の妹さん、でしょうか?」

 妹がいた、と。昔、彼から聞いたことがあります。

「……誰のことだか知らないけど、私に兄なんていないわ」

 どうやら、複雑な事情があるようです。まあ、彼自身、故郷を飛び出してきたと言っていましたから、何かがあったのは間違いないようですね。

「そうでしたか。僕の勘違いだったようですね」

「ええ、そうよ。残念だったわね」

「では、案内していただけますか?」

「……こっちよ」

 彼女の案内に従い、僕は歩き始めました。

 どうやら、目的地までは徒歩のようです。

 あぜ道を少し歩き、用水路に跨った橋を渡り、山道に入ると、立ち止まった彼女が話しかけてきました。

「……あなた、平気なの?」

「なにが、でしょうか?」

「その身体よ。なんともないの?」

「はあ、特に何ともありませんが」

 彼も僕の身体を気遣っていたような様子でしたが、僕自身、苦痛は感じていません。

「そう。お気の毒にね」

「気の毒とは何が、でしょうか?」

「何も聞いていないの? それなら、聞かない方が良いわ」

「そういう言い方をされると、非常に気になるのですが……」

「大丈夫よ。何も知らないのは気の毒だけど、帰る頃には全部良くなっているはずだから」

 それだけ言うと、彼女は再び歩き出します。

「ああ、そういえば、今日は何日で、今の時間は何時なのでしょうか?」

「はあ? 何を言って……ああ、そういう事ね。今日は―――」

 と、彼女の答えを聞いて、僕は驚きました。

 あちらを出てから、一時間も経っていません。

 少なくとも、僕の体感では六時間以上は経っているはずです。

「何とも……不思議なものですね」

 驚く僕に、彼女が微笑みながら言います。

「ここまで列車で来たのよね? 途中で寄り道をしたのなら、それぞれの場所で時間を取られているはずだから、あなた自身の体感時間は間違ってはいないわよ?」

「つまり、僕は現実の時間から計算して、六時間寿命が縮んだ、と言う事ですか?」

「間違ってはいないけど、酷い表現ね。六時間分、人より先に進んでいる。っていうとらえ方はできないのかしら?」

「ああ、それは素敵な表現ですね。そちらの方が前向きで好ましいです」

「そ、そうかしら?」

「ええ、あなたのような聡明な女性は素敵だと思いますよ」

「あ、あんまり恥ずかしいこと言わないでよっ!」

「はあ、素直な気持ちを述べただけなのですが」

「余計に質が悪いわっ! と、とにかく、黙ってついてきて!」

「わかりました」

 互いに無言になり、山道を進んでいきます。

 と、また彼女の方から話しかけてきました。

「それにしても、随分と大荷物ね。何を持ってきたのよ」

「……」

 これは、話してもよいのでしょうか? 黙っていろと言われた手前、話しにくいのですが。

「ちょっと! 無視しないでよ!」

「いえ、黙っていろと言われたもので……」

「じゃあ、あなた死ねって言われたら死ぬのっ?」

「さすがにそれはないですね」

「じゃあ、人が話しかけてるんだから、ちゃんと話してよ」

 理不尽ここに極まりますが、そういう部分は彼で慣れていますし、この程度ならまだ可愛い物です。

「この荷物は、滞在中に必要な物と、お土産ですよ」

「ふーん、別にお土産なんていいのに……それで、何を持ってきたの?」

 別にいいと言いつつも、気になるようですね。

「おそらく、あなたの好きな物ですよ」

「な、何で私の好みがわかるのよ!」

「いえ、僕もこれが好きなので買ってきたのですが、僕の親友の好物でもありまして……だから、あなたにとっても垂涎物かと」

「へ、へぇ……も、もしかして、あれかしら? その、お豆腐を揚げたもの、的な?」

 ここまでわかりやすい反応をされると面白いですね。

 しかも、さりげなく彼のことを話題に出したのも気になっていないようです。

「ええ、正解ですよ。油揚げです。それと、稲荷寿司も買ってありますので、お昼にいただきましょう。あとは、お菓子などもたくさん買ってきましたので、村の方々にもおすそ分けを……」

「お、お菓子もあるのっ? ケーキとかっ?」

 ものすごい食い付きです。

 彼がお土産にそういう物を進めた理由がわかりました。

「い、いえ、ケーキは悪くなるといけないので買っていませんが……」

 そう言うと、あからさまに落胆した様子です。

「そ、そうなの……他には?」

「ええ、クッキーやマカロンなどの焼き菓子やスナック菓子などを」

 と僕が言い切る前に、彼女は興奮した様子で捲し立てます。

「クッキー! いいわね! まか、ろん? っていうのは知らないけど、それって美味しいのっ? 都会のスナック菓子も嫌いじゃないわ!」

「そ、そうですか。マカロンと言うのはやわらかいクッキーでクリームやジャムを挟んだ物ですね。とても甘くて美味しいですよ」

「なにそれすごい! 食べなくても美味しいってわかるわ!」

「美味しい物は好きですか?」

「当たり前でしょ! ていうか、それくらいしか楽しみないし……あっ」

「どうしました?」

「べ、別に、そんなことないし!」

「ど、どうしたのですか?」

「別に私、食い意地とか張ってないし! 太ってないもん!」

 ああ、なるほど、彼女も彼と一緒で健啖家のようですね。

 そして、自分の体型を気にしている、と言う事でしょうか?

 彼の場合、食べた者が筋肉や身長へ多大に反映されていたようですが、彼女の場合は、身長と胸囲が同年代の少女よりも大きいといったところでしょうか。

 かといって、身長は僕より低いですし、胸囲もだらしなくない程度の大きさです。臀部は少し大きめで安産型ですから、母親として理想的な体型と言えるでしょう。また、運動をしているのか、全体的にはすっきりとして見えます。

「大丈夫ですよ。あなたのような方なら、引く手数多でしょう。女性は、少しばかり肉がついていた方が可愛らしくて、僕は好みですよ?」

「な、なっ! なにいってるのよ! ま、まさか私の身体を狙って……!」

「何を言っているんですか、落ち着いてください。そういうつもりはありませんよ」

「そ、そう……私って、そんなに魅力ないんだ……」

 さっきまでの様子が嘘のように沈み込んでいました。

 さすが彼の妹、兄とは別の意味でめんどくさいですね。

 こういう時、彼ならどうするのでしょう。女性関係は彼の方が詳しいですからね。

 確か、面倒な女は力づくで……とかそんな感じのことを言っていたような気がします。

 とりあえず、抱き寄せてみましょうか。

 彼の妹ですし、その程度なら平気でしょう。

「安心してください。あなたは間違いなく魅力的ですよ。僕が保障します」

 彼女の腰に手を回し、背中に手を添えるようにして抱き寄せ、耳元で囁きました。

「へあっ! な、な、なあっ!」

 とりあえず、落ち込んだ状態からは回復したようです。

 ……さて、この後はどうしましょう。行き当たりばったりで行動するものではありませんね。

「……ええっと、すみません、調子に乗り過ぎました」

 ひとまず身を離すと、何やらぼうっとした表情で惚けていた彼女が正気に戻りました。

「……えぁっ? あ、う、うん、べべべっ、別に気にしてないからっ!」

 すごく気にしていらっしゃる!

 おかしいですね。何やら先程よりも彼女の状態が悪化している気がします。

「あ、あの、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫よ! 大丈夫ったら大丈夫なのよ! そ、そうよ、どうせ今夜……なんだから、問題ないわ! 事が後先になるだけよ! うん!」

 と、途中は小声で何を言っているのかよくわかりませんでしたが、何かを決心したように彼女は大きく頷くと、吹っ切れたような表情で顔をあげました。

「じゃ、行きましょう」

「あ、はい」

 再び山の中を歩き出します。

 何かに吹っ切れた彼女はすっかり落ち着いた様子で、なぜか僕のことを根掘り葉掘り聞いてきます。まあ、後ろめたい過去などもないので普通に話しました。

「ず、随分と家庭的なのね……」

 家事が得意だと告げると、そのようなことを言われてしまいました。

「母子家庭でしたし、学生時代は好みのうるさい彼や幼馴染の為に弁当や食事を作ったりもしていましたから、自然とそうなっただけですよ」

 現在は、僕の料理の腕の話で盛り上がっているところです。

「ねぇ、ケーキとかも作れるの?」

 ケーキと言えば、彼と仲良くなった頃に彼が僕に初めてねだった食べ物でしたね。

「ええ、ケーキはもちろん、古今東西のデザートは一通り作ることができますよ」

「うぅ、私も料理は作れるけど、和食しか知らないし……」

「和食ですか。いいですね。僕、和食が一番好きなんですよ」

「ほ、ほんとっ?」

「ええ、日本人なら一日三食和食ですよね」

 ご飯、焼き魚、みそ汁が基本として、最悪、ご飯だけでも構わないほどです。

 ……いえ、おかずや汁物があった方が良いに決まっていますけどね?

「そ、そっか。よかった……」

「そういえば、僕のお世話先は、あなたのお家になるのですか?」

「え、ええ、そうよ。うちは神社なんだけど、今は私とお母さんしかいないし、空き部屋もたくさんあるから、ちょうどいいのよ」

「ほう、神社ですか。それは楽しみですね」

「ふふっ、自慢の神社よ?」

「そうですか……もし差し障りがなければ、あなたの家の手伝いを僕にもさせてもらえませんか? 先ほども話した通り、掃除、炊事、洗濯は得意ですし、なんなら僕のことを家族だと思って普通に使ってくれて構いませんよ」

「か、家族って……で、でも、一応はお客さんだし……」

「よろしければ、滞在中に洋食やケーキ等のレシピもお教えしますが」

「じゃあ、お願いしようかしらっ!」

 なるほど、妹の方も食い気で操れるのですね。

 ともあれ、これでただの客人としての立場から一歩踏み込んだ関係になれそうです。

 ひと月も滞在することになるのですから、仲良くやっていきたいものです。

「そろそろ着くわよ」

「そろそろと言われても、雑木林しか見えないのですが」

「大丈夫、ここを抜けると……ほら、見えるでしょ?」

「……え?」

 不意に、何かを通り抜けた感触がしたと思うと同時に、視界が開けました。

 つい先ほどまで目の前に広がっていた雑木林がなくなり、今、目の前には広大な畑と青々とした稲が実る水田がありました。

「ようこそ、ここが再会と別れの村。会別村よ」


主人公及び登場人物の名前が出ていないのは仕様です。

次の話から名前が出ます。

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