02話 街へと
気付けば僕は、巨木に寄りかかるように座り込んでいた。見上げれば、木の葉の隙間から雲一つ無い群青の空が広がっている。周囲には緑豊かな木々が鬱蒼と生い茂り、時折、肌を撫でるそよ風が妙に心地良い。
だがそんな事はどうでもいいと頭を振る。
目覚めてから間もないせいで、意識は朦朧としており、頭を振るう毎に頭痛が襲う。そんな状態ながらも、木々の奥にこの森の出口を発見したのは光明というものだろう。思い通りに動かない体に鞭打って立ち上がり、導かれるようにその先を目指し始めた。
森は人の手が加えられているのか、道という道は無いものの、地面に木の枝や伸びすぎた雑草というものがほとんど無い。
芝生ほどの長さの雑草が絨毯の如く敷き詰められ、木々がある程度の間隔でそびえ立っている光景は、正に神秘的の一言。栗鼠や鹿が木の陰から顔でも出してきそうな、そんな美しい雰囲気であった。
ともあれ歩きやすい環境もあって、景色を眺めながら歩いていると直ぐに出口へ着いてしまう訳で。少し名残惜しい気持ちを微かに感じながら森を出ると──。
視界を埋め尽くす、一面の平原が広がっていた。
青々と茂る、草木の鮮やかな黄緑色が映え、現実味のない状景が瞳に映る。どこまでも続いていそうな程、広大な光景にただひたすら感嘆。
これ程までに美しい光景を、今まで見た事があっただろうかと記憶を探っても、無いという結論に至る。確かゲームの画面としてならば、似たような画面は何度か目にした。
だが実際にその場に立つと、いかに雄大で、いかに壮大で、いかに美麗か。何倍もの臨場感が、僕をいとも容易く圧倒する。
絶景に魅了されていた僕は、ふと、その風景を傍目に疑問が思い浮かぶ。確か僕が遊んでいたゲーム機の機種は視覚を画面で埋め尽くす事で、仮想世界にいるかのように体感する物の筈。だが今は──。
そよ風が肌を触れ、草木同士が擦れる音を奏で、緑の香りが鼻腔をくすぐる。自然を感じているのだ。まるでそこに居るかのように。
明らかにおかしい現状に困惑し、自分が今、何をすべきか全くと言っていい程、見当がつかない。
そんな状態で呆けていると、自然の音ではない生き物の息遣いが聞こえている事に気が付いた。息遣いで吐き出されただろう生暖かい吐息が、僕のうなじを掠るように流れる事実は、その生物がすぐ後ろに居る事を証明しており。
理解すると同時に、すぐさま背後を見やると────そこには顔面があった。
「ひっ────」
全身の血の気が引く事を体感し、心臓の鼓動が急激に加速していくのを自覚する。今までまるで気配を感じず、いきなり目の前に顔面があれば誰でも驚くだろうが、問題はそこじゃなかった。
「グルゥゥゥゥ……」
人の形をした、だが決して人とは程遠い緑色の肌を持つ醜い巨体が────ゴブリンがいたからだ。
ゲームの序盤によく出てきた魔物。見た事のある容姿ではあるが、その大きさは想像を逸脱して、巨大だった。目の前の出来事に放心している僕の顔を、前屈みになって覗き込んでくるゴブリン。時折口から吐き出される、生ごみが発するような吐き気を催す異臭が周囲を漂う。
気持ちが悪い。愚直ではあるが、適当な言葉だろう。紛う事無き僕の感情だ。
あまりに強烈な臭いに白目を向きそうになるが、その場から離れるべきだと思い至り、吐き気に抗いながらすぐさまその場を離れる。
呻き声を上げながら、逃げる僕に近付いてくるコブリン。地面を踏み鳴らす大きな足音が、近くに感じられていくにつれ、恐怖が込み上げてくる。
こんな所で死にたくない、そんな一心で足を動かした────。
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「はぁ……はぁ……」
未だに警鐘を鳴らす心臓に呼吸を乱されながらも、隠れた僕を見つけようと近くを彷徨くゴブリンを警戒する。
逃げる途中、あの怪物の右手に握られた、何かに黒く染められた棍棒が、走る僕の真横に叩きつけられた時は、果たして生きて逃げられるのだろうかと自問自答した。
だからこそ冷酷無比に振るわれる凶器に、標的に当てる程の正確性が無くて助かったとこれほど感謝した事はない。それに加え、今こうして隠れて生き残れたのは、林の中に逃げ込めた事が大きいだろう。
今もなお木々の物陰に隠れながら、周囲の様子を窺う僕。先程まで断片的な振動──足音が地面を揺らしていた筈だが、今は揺れも音も感じられない。立ち止まっている、という可能性も無くはないが、そんなことを言っていては埒があかない。
周りを見回してみると、地平線の彼方に石の壁が曲線を描いてそびえ立っている光景を目にした。遠くで細部までは見えないが、明らかに人工物で、恐らく街を守る壁だろう。壁の向こうには、時計塔のような長細い建物の先端が見える。
入れるかどうかはさておき、街の近くまで行けば安全は確保されるのだが。そこまでの道のりは無情にも遥か遠く、一日二日ではどうしようもない距離であった。
それでも動かなければ、何も始まらない。聞き耳を立て周囲を警戒しながら、泣く泣く歩みを進めた。
■ □ ■ □ ■ □ ■
元々数が少ないのか、それとも幸運なだけなのか。どちらにしろ、これまでゴブリンのような魔物と遭遇せずに、着々と街に近づいて来れたのだから幸運だと解釈しておこう。その途中で街道を発見し、特に不都合のないまま進んできた僕であったが────。
「着かない……」
自然と愚痴を呟く。街らしき建物に向かい歩き始めて数時間。森の中で見上げた時には真上に輝いていた太陽が、傾いて夕陽となりかけていた。進んでも進んでも、先に見える石の壁はその大きさを変えない。
それに加え、先程から空腹感が僕を地味に苦しめている。水分補給も満足にならないまま、炎天下での運動のせいで徐々に力が入らなくなっており、心無しか視界も霞んでいるような気がした。
かと言って、魔物が出るかもしれないこんな所で休憩する訳にもいかず。今できる事と言えば、何かいい方法はないかとうんうん、と悩みながら足を動かす事だけだった。
■ □ ■ □ ■ □ ■
力が入らない。
重い足取りでふらつきながらも、大地を踏みしめ前へ前へと進んできた僕。幾分か近付いたようだが、まだ半分も来ていないだろう現実を認識して心の中で抗議する。既に心情を声にする程の気力も、歩く体力もなくなってしまい、悲鳴を上げる足を止めて立ち止まった。
やはり稽古を疎かにしていた為に、体力の低下が著しい。前はこんな事では音を上げてはいなかった筈だが、これも自業自得というもの。ふくらはぎや太ももをさすりながらその場に座り込む。
こんな状況だというのに、太陽は遠方の山々に沈んでおり、辛うじて周囲を視認できる程度の明るさしかない陽の光は、何とも頼りない。もうすぐ夜になるというのに街に着いていない上、前もって準備ができている筈もないこの現状では、野宿すらまともなものにはならないようだ。
だが下手に動いて、夜行性の魔物なんて遭遇してしまえばそれこそ終わり。遭遇した暁には、逃げるという選択肢しかない僕にとって闇雲に走って街を見失う訳にはいかない。
今は街の方向は分かっていても、暗闇のせいで視認はできていなかった。だから尚更、街を見失うような真似は極力避けたい。街道のど真ん中に居座る、この状況もどうかと思うのだが。
それでも今は人が通る可能性にかけるしかないだろうと、疲れた体を休憩させる為に全身の力を抜く。
「はぁ……」
今日は散々であったと、自分の溜め息が鼓膜を震わせる。ゲームをやろうと思えば意識を失い、気がついたらゴブリンに追われ、挙げ句の果てには野宿を強いられる。唯一の救いと言えば、野宿の場所の気候が暖かい事くらいだろうか。
しばらく意識を朦朧とさせていると、すっかり日は落ち、周りは暗闇に染まっていた。だが未だに人は見かけず、生物の気配すらしない。
今日はもう無理そうだから明日に賭けようと諦め、仰向けに寝転がる。後頭部に、街道の地面の硬さが伝わり、とても寝にくいが致し方ない。これも、人に気づいてもらう為。
仰ぐ空には星が幾千億と輝き、時折流れ星が流れる。
明日は人に会えればいいな、と愚直な希望を流れ星に願いながら眠りに落ちていった。