従者は公爵令嬢と幸せになる
「お嬢様、お乗りください」
「…………」
目の前に居るのは、誰もが見惚れる美しいミラ・クローリー公爵令嬢。しっかりと前だけを向いて、背筋をぴんと伸ばす。堂々としたその態度は本当に悪事を起こしたのかと誰もが首を傾げることだろう。
「さっさと魔の森へ行き死ねば良い」
低い声でそう言うのは現当主である彼女の父だ。冷ややかにミラを見つめて、ミラに似ているその目には微塵も我が娘を思う気持ちなどは感じられないように思える。まるで知らない誰かを見るような冷えきった目。
「妹を虐め、王族の怒りを買ったお前は一族の恥だ」
ミラの手を取り、ゆっくりと馬車に乗せた。
体を震わせ今にも泣きそうなフリをしている彼女の義妹は目に歓喜の思いを滲ませている。
「お姉様……」
思わず睨みつけたくなる衝動を押さえる。
彼女が何をしたというのだ。義妹への虐めなど彼女はやっていないし、義妹に籠絡された王太子が義妹が言った言葉を信じて勝手に彼女を切り捨てただけだ。勿論、その言葉は嘘の塊でしかない。その王太子の勝手な行動を現王も自分の子供が可愛いのか、許している。
本当に反吐が出そうな程に馬鹿だ。
彼女ほど有能な者はどこに居ようか。全てにおいてトップだった彼女。だからこそ、義妹や婚約者である王太子に疎まれていたのかもしれない。
「グレン、お前にはまた新しい仕事をやろう」
返事は返さずに軽く頭を下げる。返事をする価値など、ないと思った。
「行ってまいります」
彼らを背にして、馬車に乗り込む。
ひんやりとする梅雨の深夜。こんな時間に魔の森に置いてくるなど……。まだ彼女も十七歳なのだ。成人の儀も済ませてやいないのに。
馬車はゆっくりと走り出す。馬の蹄が生み出す音が妙に耳に響く。
質素なワンピースを着て、化粧もしていない彼女は、それでも美しかった。舞踏会のときとさほど変わらない輝きを持っていた。白い肌に、つり上がっているが大きく綺麗な形の目。赤い唇に桃色の肌。ただ変わったのは、光を失ったような瞳と、長かったが首もとまで切られた銀髪だ。
ずっと前だけを見据えていたミラは小さく掠れた声を出した。
「ねぇ、グレン。長い間ありがとう」
今日ずっと話さなかった彼女が最初に口にした言葉は、グレンへの感謝だった。その言葉には確かに優しさがあったが、表情はぴくりとも変わることはなかった。
なぜ。なぜ彼女がこんな扱いを受けなければならない。彼女は無実だ。濡れ衣を着させられたのだ。
「何ですか。お嬢様らしくない」
ぎりっと噛んだ唇から血の味がして思わず舐めとる。
「……九年かしら。長いようで短かったわ。貴方と出会ったのが昨日のことみたいに思い出せるの」
わずかに俯く彼女。
彼女に救われたこと。まだ八歳だった二人。
そうか、もう九年も貴女と一緒に過ごしていたのか。
「グレン。私は、貴方と居れて、本当に幸せだった」
彼女の微笑んだ顔が胸に突き刺さる。誰が……。彼女を傷付けた全ての者に強く殺意を感じた。
ふと彼女は窓に目を向ける。
「…………雨だわ」
窓には数個の水滴。降り始めたのか。たいして激しくはないが、サーっと降る音が聞こえた。
「柔らかい雨ね、まるで心を溶かすよう」
ぼんやりと外を見る彼女は、何を思っているのだろうか。
「ねぇグレン」
驚いた顔をするミラ。
「ここは魔の森への道とは少しずれてるわ」
顔を顰めて言う。
「隣国へと、向かっております」
「なぜ? 早く止まりなさい」
あえてそう望む彼女を見るのは辛くて顔を背ける。
「お嬢様の幸せを望むのは悪いのでしょうか」
「! こんなこと、私の幸せじゃない」
「……そんな苦しい顔して言わないでください」
今にも泣きそうな顔をしている彼女。
「分かっているの? 自分が何をしているのか!」
険しい顔をして怒鳴り付けるその顔は真っ赤で、眉は困ったように八の字になっている。
「ええ、分かっております。公爵家から解雇されるでしょう、私は。しかし、お嬢様がこの世からいなくなることに比べれば易いことです」
笑顔を彼女に向ける。こればかりは本当にそうなのだ。彼女がいなくなることほど怖いことは無い。
彼女はひゅっと息を吸い込む。
「やめて! 迷惑なの! 私は早く、死にたいの!」
分かっている。彼女は自分より他人を考える。どうせ、私の人生を駄目にしてしまってはいけないとでも考えているのだろう。いつものことだ。そう言い聞かせるのに、彼女の死にたいという言葉がこだまする。死にたいと、言わせてしまうほどの悲しみを負わせてしまっていたのか。
尊敬していた婚約者には裏切られ、可愛がっていた義妹にも様々な罵詈雑言を吐かれ、実の父には捨てられた。考えればそうだ。今にも叫んで飛び出したくなるような日を彼女は整然と澄ました顔で一切の弱音も吐かず過ごした。普通の人には出来やしないことだ。
「お嬢様。私はお嬢様のお側に居られることが、喜びでございます」
「それが迷惑なの! 嫌なの! 私は貴方のことが……嫌いなのよ……」
彼女は髪を振り乱して反抗する。しかし最後辺りは静かになり、再び俯いた。
「落ち着いてください、お嬢様」
口では静かにそう言うが、やはりどんな人間でも面と向かって嫌いと言われたら腹は立つもので。
「あと、なんなんですか! 嫌いって! そこまで言うことないじゃないですか!」
そう言うと彼女はポカーンと口を開けた。
「そ、そうよ! あなたなんて嫌いよ! 大嫌い! …………だからお願いよ、あなたは、自分の事だけを一番に考えて」
切ないような笑顔を向けられる。今日初めて見た笑顔はすごく悲しくて、寂しそうで、辛そうで。
ああ、ミラは何も分かってない。
ミラの頭を手で支えて、優しくくちづけをした。そして、そっと唇を離す。
「な、な、なっ……!」
真っ赤に火照ったミラは唇を押さえ、後ろに一歩下がった。
「ミラ、落ち着いて」
そういえば、幼い頃はミラと呼んでいたと思い出す。
「グ、レン……」
まだ火照りがおさまらないミラは動揺して汗をかき、目を潤ませていた。
「俺には、ミラしか居ないんだ。ミラを見殺しにするくらいなら、自分が死んだ方がましだと思えるくらい」
真剣な目で彼女の目を射抜く。彼女の目はまだ平静さを失っており、揺れ動いている。
「でも……グレン」
「でもも何もない。ミラは死なせやしない」
彼女の瞳から一筋、涙が流れた。
「私に、幸せになる権利なんて、無いのに……」
「ミラは十分努力したよ。幸せになるべきだ。それに幸せになっちゃいけないなんて誰が決めたの?」
「グレン……っ」
嗚咽を交えて泣く彼女。泣く姿なんていつぶりだろう。昔はよく泣いてたのに、今じゃ常に凛としていて泣くことなんてなかった。
「頑張った、ミラは頑張ったよ」
頭を撫でて落ち着かせる。本当に彼女は頑張っていた。ここまで才色兼備になったのも本人のたゆまぬ努力があったからこそなのだ。
「公爵家はじきに潰れていくさ。働く者は皆ミラに命を吹きこまれた者ばかりだ。現当主は多数の汚職をしているから、その者達が王に当主の悪行を告げるだろうね」
気持ちが静まったミラが、そう、と一言だけ呟いた。
「それにこの王国もなくなるだろう。ミラの義妹の言いなりの王太子が王になるなんて、ろくなことになりそうもないよ」
ふふっ、と笑う彼女。
やっと輝きが戻ったと思った。目は元のようにしっかりと澄んでいる。
「グレン」
「何ですか」
「好きよ」
にやりと悪戯っぽく微笑む彼女。
やっぱり、ミラには敵わないな。
「俺の方が好きですから」
「…………ねぇ、グレン。私達、結婚」
言おうとしていることが分かり、彼女の唇に人差し指を当てた。これは、俺から言わなきゃいけないから。
「ミラ。俺と、結婚してください」
深く頭を下げる。すると頭の上から高い笑い声が聞こえてきた。
「あははっ! 馬車の中で求婚されるなんて思ってなかったわ!」
確かに、こんな場所でするんじゃなかったと今更後悔する。
「答えは勿論、するに決まってるわ」
優しく微笑む彼女。ああ、私の好きなのは、その太陽のような笑顔なんだ。
悪女のミラ。義妹が勝手に流した噂など何一つ彼女ではない。本当の彼女は明るくて優しくて快活で少しお転婆な楽しい人。
「あ、でも主であるお嬢様と結婚しても良いんですかね?」
「何言ってるの。私はもうお嬢様じゃないじゃない。そして、その敬語もやめて。主従関係なんてもう終わったの。私はただのミラで、私達はもう恋人同士だわ」
「そうですね」
互いに笑顔を向ける。こんなに幸せなことはないと喜びを噛み締めた。
「隣国にいる友人の別荘を借りて一緒に過ごそうか」
「良い案ね、それ」
「そして、成人の儀と共に結婚の式も挙げよう」
「うふふ、楽しみだわ」
いつまでもこうして笑い合えてると良い。そう思いながらミラに一つくちづけをする。
いつの間にか雨は止んでいた。
そうして時は流れ、八年後。二人が住んでいた王国は隣国であるこの国の領地となった。
「んー、レオンさん高いよそれ。もう少しまけて?」
「駄目だ駄目だ。こっちもこれが限界なんだよ」
「はぁー。ですよねぇ。三つ買います」
「ごめんなぁ。ほらよ」
一人の青年と一人の中年の男性。青年の方は美形で背も高くキラキラとした印象を受けるが、中年の男性の方は小太りで髭を生やしておりいかにもおやじという感じである。
「これじゃあ、ミラに怒られるなあ」
「奥さんかい。良いよな、お前は。あんな美人の奥さんが居てよお。おまけに明るくて優しい。あんな良い女性はめったに居ねえよ」
「自慢の妻ですね」
すると、人混みの中から長い銀髪の綺麗な女性が出てきた。
「ミラ」
「出てきちゃった」
「家に居てて良いのに……うっ!」
青年の脇腹にクリーンヒットする小さな足。
「おい、ハル! いきなり飛び蹴りすんな!」
「べぇーっだ! グレンの言うことなんか聞かねぇよ!」
「グレンって言うな! 父さんだろ!」
ハル、と呼ばれた五歳ほどの少年と青年は和気あいあいとおいかけっこをしている。
「ごめんなさいね、レオンさん。騒がしくって」
「いいや、構わないよ。むしろ子供のこういう姿を見ていると心が癒されるもんさ。あ、どうだい、お腹の調子は?」
女性は大きく膨らんだお腹を擦りながら、優しく微笑む。
「調子はけっこう良いです。たぶんこの子女の子なんですよね。だから今グレンと一緒に名前を考えてるんです」
「そうかい。良いね、本当に幸せそうだ」
すると女性は嬉しそうにはにかんだ。
「あ、レオンさんちょっとそれ高いんじゃないかしら」
レオンはぎくりと体を震わした。青年のときと違う反応をする。
「そうか? 俺は思わないが」
「またそうやってお金を巻き上げてるのね……。レオンさんなんて……っ! レオンさんなんて、嫌いよっ!」
「分かった、分かったよ。ちょっと安くするよ……。やっぱりあんたには負けるな」
わざとらしくミラは演技する。高い品物を見るたびミラは同じことを繰り返すのだが、未だ誰も値段を下げなかったものはいない。
「ありがとう、レオンさん」
悪戯っぽく、にやりと笑うミラ。レオンは盛大に溜め息を吐くのだった。
「ねぇ、この子名前どうする?」
「なかなか決まらないね」
「俺、アレクサンドロスミカエルシャッフルパンナコッタが良いと思う!」
「「はいはい」」
そうして三人で笑い合う。誰が見ても幸せそうなその光景は、この国の一種の名物となった。
王国一幸せそうな家族が居る。毎日毎日笑って楽しそうで。あんな家族になりたいと。
彼らを見て皆がそう思うのだった。
ありがとうございます