第12話 マグカップ
「綾乃は耳を触られると力が抜けてしまうんだ」
岩瀬先輩が生徒会室から出ていく間際に、まるでこれから本当に楽しい事があると言った表情をしながら教えてくれた。
つまり、あの人はこうなることが分かっていて僕に教えたんだろう。
ただいま、僕は椅子があるというのに地面に正座させられ、目の前には会長が顔を真っ赤にしながら、手をブンブンを振りながら僕に対して熱弁している。
「君は本当にやって良い事とやってはいけないことが分からないの!
普通、女の子の耳触る?!ましてや、あんな状況で触るなんて本当に不謹慎だよ!
奈央も奈央だよ!どうして私の弱点をワンちゃんに教えるのかな!!!」
「いや、そっちの方が楽しいと思ったからかな」
本来、僕が座るべき椅子に岩瀬先輩が座り、雑誌を片手にコーヒーを啜る。
どう考えても彼女はこっちで正座をするべき立場の人だと思うのは僕だけだろうか?
そもそもの原因は岩瀬先輩が勝手に会長の恥ずかしい秘密をバラまいたせいであって、僕に非は無いはずだ。
耳を触ったのも命の危険性を感じての行動だったわけだし…。
「まぁまぁ綾乃もさ、もう良いじゃない。コップの件も忘れてくれるって言ってくれてるわけだし。コップを割ったお詫びだと思えば良いんじゃないかな?」
「思えないよ!」
コントだ…コントが目の前で行われている…それも僕をほっておいて…。
無視されること自体は別に良いのだ。ただ…正座をしているせいで足が痺れてきてるのだ。
「あの~…帰って良いですか?」
いちいち足を伸ばすことを会長に聞くのもめんどくさいからスッと立ってからカバンを持って生徒会室のドアに近づく。
そして、ドアに手を掛けると会長の返事を聞かずに生徒会室を出た。
「な~に、1人だけで逃げようとしてるのかなぁ?」
瞬間移動できるのか…この人は…。
「逃げるわけじゃないですけど、コップを買いに行こうかと思ってるんです」
「そっか。でも、今は私の話を聞くべきだと思うわ」
「えっと…それは生徒会長の権限を使うんですか?」
「いいえ、藤堂綾乃自身の意見です」
「つまり、四條学園の生徒としてですか?」
「そうよ。ワンちゃんの先輩としての助言です」
「なら僕は副会長の権限を使ってこの場を抜けだします」
「むきぃー!!私は生徒会長よ!」
「岩瀬先輩、あとよろしくお願いしますね。おつかれさまでした」
今日はもう疲れた…。
会長の後ろでニヤニヤする岩瀬先輩にすべて任せるようにその場を去った。
のだけど………。
どうしてこうなった…。
「私はこっちが良いと思うの」
「いや、犬塚くんならこっちでしょ?」
「分かって無いなぁ、奈央は。意外とワンちゃんは可愛いモノ好きなんだよ。だからこっちのこのクロネコの」
「綾乃、さすがにそれは無いよ」
俺もさすがにそれは無いと思います…会長…。
会長の持っているコップは何故か耳が付いていて、持つ所が尻尾のようになっている。かなり持ちにくそうで飲みにくそうなマグカップだ。
確かに多少可愛いのが好みな僕だけどアレは無い。しかし、岩瀬先輩の持っているマグカップも黒単色で面白味も無いから買う気になれない。
つまり、この2人に選んでもらうと一生買えないということなのだ。
僕は2人を無視しながらお気に入りのマグカップを探す。
僕の好みとしては派手すぎず地味すぎない奴だ。
「うわ、これ良いかも」
スイスの国旗をモチーフにしたマグカップ。
赤色で派手に見えるかもしれないが、赤と白しかないこのスイスマグカップは何故か僕の心をガシッと掴む。
値段もお手頃な所だからこれはもう買いだ。
未だに言い合う2人は他人のふりをして会計を済まし、さっさと店を出る。
「これで明日もコーヒーが飲める」
さっき買ったマグカップが入った箱を見ながら満足感に浸る。
そして、満足感に浸りながらも明日から頑張ろうと気合を入れたのだ。