ニイニイゼミ
この作品は、12年前に自殺した幼馴染の少女をモデルとして書きました。もし、自分がタイムスリップできたら、彼女の死を止められたのか、という思いを込めて。
「あの」
足早に歩いていた彼女の背中が止まったのを見てから、急に現実に引き戻されてしまって、僕は声をかけたことを後悔した。
無精ひげに汚らしい服装の三十男が、朝早く一人で歩く制服姿の女子高生に声をかけたのだから、通報されてもおかしくはない。
彼女は警戒するようにゆっくりと振り返った。懐かしい顔を見ることができて僕は、このまま警察官に連れて行かれてもいいとさえ諦観した。
「シン……ちゃん?」
しかし彼女は僕の名前を呼んだ。その声に答えるように、大きくうなずいた。僕は本当なら彼女よりも二つ上の十九歳のはずだった。今僕がいる十二前、一九九九年当時は。
* * *
二〇一一年七月、前の日に買ったロープをユニットバスのカーテンレールに巻きつけた。しっかりと何重にも結わえつけて、輪っかにした部分を首にかけた。
僕は何もできない男だった。誰でも知っている一流大学を卒業して大手企業に入って八年、新入社員に毛が生えた程度の仕事しかできなかった。積極性がなかったから会議ではほとんど発言しないし、気が利かないので営業先と親密に付き合って売り上げを伸ばすこともできない。引っ込み思案なので同期の飲み会でも何もしゃべれないし、おべっかもごますりもできないので可愛がってくれる上司もいない。信頼してくれる部下もいない。
「お前、本当に慶應ボーイか? 幼稚舎からやり直してこいよ」
「福澤先生に失礼だと思わないのかよ。卒業証書返納してこいよ」
慶應に落ちて法政に進んだという先輩には、毎日のようにそんな言葉を投げつけられた。
もう限界だった。誰も助けてはくれなかった。
金曜日に仕事を休んで、伸びてきた髭も剃らずに土曜日の午後、決行することにした。遺書は簡単に済まそうと思ったけど、書き出してみると便箋三枚になり、生きることへの未練を自覚してしまった。
それを吹っ切るように、首にかけたロープの輪っかに、体重をかけた。首に衝撃がかかるのが分かった。目を強くつむった。
目を開けると、見覚えがある場所に僕は立っていた。そこは地獄でも、勿論天国でもなく、東京都大田区、JR大森駅の前だった。
―懐かしいなあ。駅前のイルカの回転寿司屋がまだある。確か二〇〇三年か二〇〇四年にローソンに変わったんだ。
僕は大学の四年間と社会人三年目まで、大森のアパートに住んでいた。
駅のキオスクで売っている新聞から、今日が一九九九年七月七日だと知った。俺は自殺したのに、何で十二年前の世界にいるんだ?まともな思考は全くできない。混乱は頂点に達していたけど、その混乱が逆に突拍子もない考えを思い浮かばせた。
―一九九九年七月七日、確か昼過ぎに、アメ横で十万円入りの財布を拾った日だ。
その金で僕は生まれて初めて女を抱いた。横浜黄金町の中国人だった。今は神奈川県警によって一掃されたその場所には、数百人の外国人女性がピンクのネオンの下に怪しく佇む、日本とはとても思えない光景が広がっていた。今日は最高の七夕だ、君は織姫だよと中国人に言ったけど、彼女は僕の話す日本語が理解できなかったようだ。
首をくくった時にポケットに入れていた財布から五千円札を取り出して切符を買った。大森駅から京浜東北線に乗り、御徒町を目指した。空いている座席に座って、車窓から流れる景色を見ながら、僕はもう一つの記憶を思い出した。
―待てよ。景子ちゃんが死んだのは、中国人を抱いた次の日だったよな、確か。
☆ ☆ ☆
景子ちゃんは幼馴染で、歳は二つ下で一人っ子だった。僕が小学校四年生の時、景子ちゃんは近所に引っ越してきた。彼女は可愛らしい顔立ちをしていた。僕は彼女を良く遊びに誘ったけど、習い事をたくさんやらされていた景子ちゃんには、いつも誘いを断られていた。
でも一度だけ、一緒に遊んだ時があった。彼女の父親が自家用車で、景子ちゃんと僕と僕の妹とを、カブトムシの幼虫を捕りに連れて行ってくれたのだ。
景子ちゃんは見たこともない笑顔で、顔をくしゃくしゃにした。森の中で僕らは、農家の人に許可を取って、積み上がった堆肥をほじくり、次から次に見つかるカブトムシの幼虫を探して泥だらけになった。もう七月だったので蛹になっているものも多かった。蛹の部屋、蛹室を壊さないように気をつけた。
幼虫は三十匹見つかった。そんなに多くは飼えないから、僕と妹で五匹、景子ちゃんは三匹持って帰ることにした。
幼虫を腐葉土ごとビニール袋に詰め込んで帰ろうという時、景子ちゃんは何かに耳を澄ますように目を閉じていた。
「何、聴いているの?」
「蝉の声」
真似をして僕も耳を澄ましていると、鳴き始めのアブラゼミの大きな声の中に、小さく地味な鳴き声が聞こえてきた。
「ああ。あの小さな声ならニイニイゼミだよ」
「あたし、あの蝉が一番好き」
ニイニイゼミは身体が小さく、色もくすんでいる。泣き声も地味で目立たない。乾燥に弱く、適度な湿り気がある場所じゃないと生きられない。
アブラゼミのように大きくはないし、ミンミンゼミのように大声では鳴けない。ヒグラシのように美しい声は出せないし、ツクツクホーシのように派手な鳴き方もできない。
でもニイニイゼミには、他の蝉にはない、愛嬌がある。小さいけれども奴らにしかない可愛らしさがある。景子ちゃんはそんなニイニイゼミが好きだった。
一九九九年七月八日早朝、景子ちゃんはJR雀宮駅のホームから、宇都宮線の列車に飛び込んで死んだ。白いセーラー服を彼女は、真っ赤に染めたという。
一夜で髪が真っ白になった景子ちゃんの父は、病的なまでにやせていった。やがて彼女の両親は離婚した。
☆ ☆ ☆
平日昼間の京浜東北線は快速になるので、御徒町を通過する。僕は上野まで行って下車し、御徒町まで戻ることなく宇都宮線に乗り換えた。
―景子ちゃんに会ったからって、どうにもできないかもしれない。第一、実際より十二歳も歳をとっている僕に会っても、彼女は僕だとは分からないかもしれない。
でも僕は宇都宮に向かった。どうせ自分で殺した命だ、僕はいつになく勇敢になっていた。
雀宮駅に着くと僕は、知り合いに会わないように駅の公衆便所の個室にこもった。終電の時間だけは近くのコンビニに移動して、閉まったままの便所の個室を駅員に不審に思われないようにし、終電が過ぎてしばらく経つとまた公衆便所の個室に戻って朝を待った。
* * *
「俺だって分かる? 景子ちゃん」
「分かるよ。照れ隠しで後頭部をかくのは、シンちゃんの癖だから」
僕は後頭部をかきながら、彼女の観察眼の鋭さに感心した。
「どうしたの? こんな朝早くから制服着て」
景子ちゃんは下を向いて少しだけ黙ったけど、ゆっくりと口を開いた。
「ちょっと、学校に」
こんなに朝早く学校開いているの? その問いかけは声にならなかった。
「そっか」
適当な返事をしてしまったことを後悔した。でも僕は、彼女をこのまま駅に向かわせてはいけないと思った。だけどどうすればいいか分からなかった。
「景子ちゃん。あの森、覚えてる?」
「カブトムシの幼虫をとった森?」
「そう。あの森に、行ってみようよ」
僕はそんな無茶苦茶の提案しかできない自分が憎らしかった。でも、景子ちゃんは、
「いいよ」
はっきりとそう言った。余りにもあっさりとした承諾の返事に、僕は拍子抜けた。
「行こう。今なら朝早いからクワガタがいるかもしれない」
僕は先に立って歩いた。景子ちゃんは最初、少し距離を置いてついてきたけど、やがて僕に肩を並べて歩くようになった。
「シンちゃん、何で年取ってるの?」
「十二年後から来たんだよ」
「十二年後?」
彼女は少しも驚かなかった。それは死の世界に片足を突っ込んでいるかのように思えた。
「二〇一一年だよ」
「ふうん」
まん丸の瞳を朝日に輝かせながら、彼女はただ前を向いていた。
「ノストラダムスの大予言は?」
「外れたよ」
「二〇〇〇年問題は?」
「大したことなかった」
「あたしは? どうしてる? 十二年後」
一瞬答えを迷ったけど、動揺を悟られないように、早口で答えた。
「結婚してるよ。幸せになってる」
景子ちゃんは前を向いたまま、感情を入れていないように淡々と質問を続けた。
「あたしの、お父さんとお母さんは?」
「仲が良いままだよ」
その時、いきなり大声で呼び止められた。振り返ると自転車にまたがった警察官の姿があった。
「君、何やっている」
三十過ぎの小汚い男が、朝の五時台に制服の女子高生を連れているんだ。職務質問されてもおかしくはない。僕は警察官の視線から逃れるように顔を背けることしかできなかった。
「お兄ちゃんです。学校前に、虫捕りに行くんです」
「は?」
「あたし生物部なんで、今日学校に虫を捕っていかなきゃいけないんですけど、一人じゃ怖いからお兄ちゃんに付いてきてもらったんです」
景子ちゃんは僕の腕に自分の腕を回して、歩き出した。
僕らは警察官の職務質問を何とか乗り切った。景子ちゃんのぬくもりをしっかりと感じてしまって、恥ずかしかったけど胸が締め付けられる強烈な苦しさを覚えた。僕はお金で買った以外に女を知らなかった。女の子と、こうやって二人で歩いたことだって、大人になってからは多分一度もなかった。もっと生きていれば、こういう機会もあったのかな。僕は胸の苦しさを紛らわすように、ぼんやりと考えた。
「習い事ばかりで遊びにも行けないし、親はあたしの話を聞いてくれないんだ」
僕は黙って彼女の言うことを聞いていた。
「こうやって、虫捕りに行ったり、したかった」
「行けるようになるよ。その内。お父さんもお母さんも、景子ちゃんに期待しているんだよ」
「うん……」
「俺は東京にいるけどさ、東京は遊ぶ場所がいっぱいあって楽しいよ」
「本当に? 今度案内してよ」
「俺で良かったら、いつでも案内するよ」
景子ちゃんは笑った。えくぼと八重歯が可愛らしくて、笑顔に見とれてしまった。
カブトムシの幼虫を捕った森に着いた。朝日はすっかり昇っていた。森に腐葉土はもう盛られていなかった。見渡せば周りにあった田んぼも畑ももうなくて、家ばかりになっていた。カブトムシの幼虫がだめなら、カブトかクワガタの成虫を探そう。
スカートの景子ちゃんを森に入れるわけにはいかないので、僕が一人で森の奥にある樹液が出る樹まで行った。だけどクワガタもカブトもいなかった。
「虫、いなかったよ」
森の入口に戻ると、景子ちゃんは目を閉じてじっと立ち尽くしていた。僕の声が聞こえていないように。
「景子ちゃん」
彼女はじっとしたままだ。僕は彼女の肩にそっと触れようとしたけど、手は虚しく空振ってしまった。
―ああ。そうか。俺はもう消えるんだな。
景子ちゃんがニイニイゼミの声に耳を傾けているのは分かった。自分でも身体の色が薄くなっているのを感じながら僕も、ニイニイゼミの「ジー」という地味な鳴き声に耳を澄ました。
景子ちゃんはしばらくして目を開けて、僕が入っていった森の奥のあたりを見たり、僕の名前を呼んだりしたけど、僕の姿がもうどこにもないのを知ると、ちょうどニイニイゼミの声のする方に向かって叫んだ。
「絶対、東京、案内してよ!」
僕はニイニイゼミの声を静かに聴いていた。徐々に朝が始まった街の物音の中で、ずっとずっと微かな蝉の声を聴いていた。
弱く、ジーッという地味な鳴き声が聞こえている。ニイニイゼミの声だよ。間違いない。まだ森にいるのかと目を開けて、そこがユニットバスだと知ってしまった。首にかけられたロープの輪っかと、抜け落ちたカーテンレールが続けざまに目に入った。ふらつく足でユニットバスを出て、壁にかけられたカレンダーを見た。それは二〇一一年七月を示していた。
死ねなかった。首吊り自殺は失敗した。僕は声を出して泣いた。嗚咽する自分の泣き声が鼓膜を貫くように響いてきた。こんなに、思いっきり泣いたのは生まれて初めてだろう。身体中の水分が全部出ていってしまうくらい、泣き続けた。
僕ももう少し、頑張ってみよう。失敗してしまったとはいえ、一度自殺できたんだ。そして僕は、おそらく、景子ちゃんの自殺を、何とか踏みとどまらせたはずだ。それをやってのけたんだ。人の命が救えて、仕事をやれないはずはない。
土曜日はもう夕方近くになっていたけど、僕は実家に行くことを決めた。親に仕事の愚痴を聞いてもらいたいというのもあるけど、景子ちゃんの生存を、確かめたかったのが一番大きい。
心を落ち着かせて、もう一度耳を澄ませた。ジーット細い声が聞こえてきた。僕が栃木にいた高校生の頃までは、乾燥に弱いニイニイゼミは、都心部などの都会には生息できなかった。それがいつの間にか、都心の乾燥にも耐えられるようになったんだ。自己主張する小さな蝉の声も聴く余裕さえなかった、都会での生活を顧みた。
そしてじっと聴いた。ニイニイゼミはか弱い声で確かに、僕の鼓膜を揺らしていた。
タイムスリップのような日常には起こり得ないエンタメ要素はほとんど書いたことがないのでひどい出来だと思います。