帰還が遅すぎた勇者
「もし運命を変える機会があったなら、お前はどうする……?」
月人が目を開けたとき、空は彼の知らない青色だった。
彼は数秒間、身動きひとつせずに上を見つめていた。ただ目覚めるという行為そのものが、彼の身体にはあまりにも重い仕事であるかのように。彼の頭上では、細長い雲が白い筆跡のように大空を横切っていた。風は枯れ草と古い石の匂いを運び……そして、何か別のものの匂いも混じっていた。
静寂。
あまりにも広大な静寂に、一瞬、ツキトは自分が死んだのだと思った。
「……いや」
自分自身の声が彼にはかすれて聞こえた。
彼はゆっくりと身体を起こした。身に着けていた黒と銀の鎧は、同じ箇所が壊れたままだった。赤いマントも引き裂かれている。聖剣は彼から半メートルほど離れた場所に突き刺さっており、疲れたような輝きで太陽の光を反射していた。
思い出した。
魔王の城が崩れ落ちていく光景。
血。
怪物の心臓を貫く剣。
最後の瞬間の魔王の笑い声。
「英雄よ、お前の勝利もまた、お前の罰となる。」
その後、白い光。
そして、何もなかった。
ツキト、手を握りしめ、それを地面に叩きつけた。
「ルナ? セリス? ドルグ?」――子供じみた、馬鹿げた希望を込めて呼びかけた。――「ミナ?」
誰も答えなかった。
彼は勢いよく立ち上がり、振り向きながら周囲を見回した。
そこは玉座の間ではなかった。城の廃墟でもなかった。彼は膝まで届く白い花に覆われた広大な平原の真ん中に立っていた。遠くの丘の上には城壁都市が見える。その塔は奇妙な形をしており、彼の記憶よりもずっと洗練されていた。青い旗が城壁の上でたなびいている。
ツキト眉をひそめた。
――それはそこになかった。
彼は剣を手に取り、掲げた。それは変わらず同じ剣だった。アストレイア――中央神殿の巫女から授けられた祝福の剣。金属はかすかな囁きのように震え、まるで彼の手を認識したかのようだった。
まだ生きている。
剣が生き残っているなら、他の者たちも……。
ツキトは街の方へ歩き始めた。
ほどなくして、何かがおかしいことに気づいた。
石畳の道はあまりにも綺麗すぎた。見覚えのない刻印が彫られた石柱が立っている。通り過ぎる馬車は馬ではなく、青みがかった皮膚を持つ大きなトカゲに引かれていた。そして人々の服装も……。
「なんだってんだ……」
商人たちの一団が彼とすれ違った。彼らは彼を上から下まで眺めると、居心地の悪そうな表情のまま通り過ぎていった。ツキトは立ち止まった。
問題は彼の見た目だけではなかった。
彼らの視線だった。
まるで仮装した狂人を見るかのような目。
街の門へたどり着くと、二人の衛兵が槍を交差させて彼を止めた。
「身分を明かせ」
一人が言った。
ツキトは彼を見た。その鎧には魔法が付与された部品があり、接合部にはマナクリスタルが埋め込まれている。そんなものは彼の時代には存在しなかった。
—俺はツキトだ
衛兵はまばたきをした。
―ツキトの何?
—ツキト・如月だ
二人の衛兵は顔を見合わせた。
そして笑い出した。
ツキトには理解できなかった。
―面白い冗談だな、坊主―低い方の衛兵が涙を拭いながら言った。「じゃあ広場へ行くのか?」
「広場?」
「もちろんだ。今日は公演の日だからな。『聖なる勇者ツキトの帰還』だ。まあ、その格好は役者たちより立派だけどな」
――冗談ではない。とツキトは言った。
背の高い衛兵は、まだ笑みを浮かべながら咳払いをした。
「ああ、そうか。で、俺は魔王だ。まあ、入りたければ入れ。ただし問題は起こすなよ。祭りのせいでこっちは十分忙しいんだ」
祭り。
ツキトは胸に奇妙な痛みを感じた。
彼は中へ入った。
街は人であふれていた。色とりどりの天幕、食べ物の屋台、木剣を持って走り回る子供たち、笛や太鼓を演奏する楽師たち。至るところに、金色で描かれた人物の姿をあしらった旗が掲げられていた。黒髪の男が剣を天へ掲げている。
ツキトはその場で立ち止まった。
それは彼だった。
正確には違う。
だが、彼だった。
高潔な笑みを浮かべ、傷ひとつないマントをまとい、純粋でほとんど神聖とさえ言える眼差しを持つ、理想化された彼自身。
彼は即座に強い居心地の悪さを覚えた。
「買わないならどきな!」
売り子の女が唸るように言った。
ツキトは我に返り、当てもなく歩き出した。群衆のざわめきを追うように進み、やがて中央広場へとたどり着いた。
そこで彼はそれを見た。
十メートルを超える像が噴水の上にそびえ立っていた。それは剣を掲げる勇者ツキトを表しており、その足元では一人の乙女が跪き、王冠を差し出している。両側には戦い、ドラゴン、そして悪魔たちのレリーフが刻まれていた。
そして土台には、こう刻まれていた。
ツキト、天上の勇者
神々に愛されし者
人類永遠の救世主
暁の初代聖王
ツキトはその言葉を一度読んだ。
それから、非常にゆっくりと視線を上げた。
「何……?」
少女が近づいてきたことに気づかなかった。
「すごいでしょう?」
ツキトは顔を向けた。
そこにいたのは十七歳ほどの少女だった。黒髪を乱れたポニーテールにまとめ、生き生きとした金色の瞳をしている。短い灰色のマントに旅装束を身にまとい、脇には手帳を抱えていた。貴族にも商人にも見えない。やたらと質問をする人間特有の鋭い目をしていた。
「観光客には大人気なのよ」
彼女は付け加えた。
「まあ、人体の構造はちょっとおかしいけどね。肩なんてひどいものよ」
ツキトは黙って彼女を見つめた。
少女は首を傾げた。
「へえ。本当に役になりきってるのね」
「役じゃない」
――当然だ。
「違う。あれは……」――彼は像を見ながら言った。――「俺だ」
彼女は数秒間彼を見つめた。
それから微笑んだ。
「完璧。じゃあ、あなたはまさに私が必要としていた種類の変人だわ」
「何?」
少女は手帳を開いた。
「私の名前はリン。見習い年代記編纂者、非常勤の記録保管員、そして専業の禁書物語収集家。そしてあなたは……」――彼女はペンで彼を指した。――「歩く問題そのものね」
ツキトは眉をひそめた。
「お前の言っていることも、何が起きているのかも、何ひとつ分からない」
「それは見れば分かるわ」――リンは像を見上げた。――「ねえ。本当にあなたがツキトなら、その記念碑に腹を立てるはずよ」
彼は像から目を離さず、低い声で言った。
「腹は立っている……」
リンの笑みが消えた。
「……そう」
祭りの音楽と人々の声に飲み込まれながら、二人の間に小さな沈黙が落ちた。
リンは手帳を閉じた。
「ついてきて」
「どうしてだ?」
「その顔でその像を見続けていたら、神官に冒涜罪で告発されるから。それに……」――彼女はもう一度彼を上から下まで観察した。――「とても、とても馬鹿げた仮説を確かめたいの」
ツキトは彼女について行った。
なぜなのか、自分でも分からなかった。
たぶん、この街で初めて彼を即座に嘲笑しなかった人間だったからだろう。あるいは、目覚めてからというもの、すべてが異質に感じられていたからかもしれない。そして、その金色の瞳の少女は、この世界の中を、どこに亀裂があるのか知っている者のように自然に歩いていた。
彼らは狭い路地、石の階段、建物の間に架かった吊り橋を渡っていった。歩くたびに、ツキトは見覚えのないものを目にした。マナ灯籠、輝く板に印刷された広告、小さな荷運び用ゴーレムが箱を運んでいる。
その都市は、別の都市の廃墟の上に築かれていた。
まるで地層のように。
まるで幾世紀もの歳月のように。
彼らは陶器店の裏に隠れるように建つ古い家へたどり着いた。
外から見れば廃屋同然だった。
だが中は天井まで本で埋め尽くされていた。
ツキトは立ち止まった。
古い紙の匂いが真正面から彼を打った。
一瞬、ミナのことを思い出した。
仲間の魔導師。いつも違う本を抱えていて、ドルグが魔導書の上にジョッキを置くたびに文句を言っていた。
«もう一度ページを折ったら、ただじゃおかないんだから!»
ツキトは乱暴に視線を逸らした。
リンは扉を閉め、鍵をかけた。
「さて」
彼女は言った。
「始めましょう」
「遊びに付き合う時間はない」
「遊び?」――リンは紙だらけの机にもたれた。――「聞いて。可能性は二つある。一つ、あなたは役に入り込みすぎた役者。二つ、とても説得力のある狂人。三つ……」
――二つと言った。
「三つ目。本物の如月月人である」
月人は彼女をじっと見つめた。
「そうだ……」
彼は少し沈んだ声で言った。
リンは鼻から息を吐いた。
「じゃあ答えて。最後の戦いで勇者と共にいた四人の仲間の名前は?」
「ルナ・アージェスト、西の神殿の巫女。セリス・レーヴァテイン、王国の剣士。ドルグ・バルムンド、石の氏族の戦士。ミナ・エルティア、青の塔の大魔導師」
リンは何も書き留めなかった。
「そんなのは誰でも言えるわ」
「ルナは海の巫女だったのに魚が嫌いだった。セリスは枕の下にナイフを置いて寝ていた。ドルグは見張りをサボるためにいびきをかくふりをした。ミナは『ちょっとした実験だから』と言うたびに嘘をついていた」
リンはまばたきした。
ツキトは止まらずに続けた。
「ルナの左肩には傷跡があった。いつも法衣で隠していた。セリスは歌がひどく下手だったが、酒を飲むと必ず戦歌を歌おうとした。ドルグは幽霊が怖かった。ミナは……」
彼の声が揺れた。
「ミナは閉め切った窓に打ちつける雨音が苦手だった」
リンは動かなくなった。
「そんな話、どの年代記にも載っていない」
「年代記は、あの場にいなかったからだ」
重い布が落ちるように沈黙が広がった。
リンは唾を飲み込んだ。
「ありえない」
「目覚めてからずっと、俺もそう言っている」
少女は二歩後ずさりし、震える手で紙の山を漁り始めた。
「待って。待って。もしこれが本当なら……もし本当にあなたが彼なら……じゃあ、封印記録や地下図書館の記録は……」
彼女は木箱を取り出し、それを開いて、破れた羊皮紙を何枚も机の上に広げた。
「何年も前、異端文書の中で『時間のずれ』への言及を見つけたの。神官たちは、勇者は天へ昇ったのではなく、魔王の最後の呪いによって時の狭間へ封じられたと言っていた。でも、公式の記録はすべてそれを否定しているわ」
ツキトは羊皮紙を見た。現代の文字の半分も理解できなかったが、いくつかの名前は認識できた。
「今は何年だ?」
リンは顔を上げた。
「統一太陽暦八四二年」
「何から数えて八四二年だ?」
「もちろん、暁の聖王国建国からよ」
ツキトは背筋を冷たいものが走るのを感じた。
「聖……王国?」
リンは眉をひそめた。
「そう。魔王を倒した後、勇者ツキトが建国した王国よ」
「俺は王国なんて建てていない」
「分かってる。まあ……知らなかったけど、それこそが問題なのよ」
ツキトは動かなかった。
部屋が突然狭くなったように感じた。
「最後の戦いから……どれくらい経った?」
リンは小さな声で答えた。
「五百十二年」
ツキトの手から剣の柄が離れた。
五百十二。
彼はその数字を心の中で一度繰り返した。もう一度。
何の意味もなさなかった。
意味があるはずがなかった……。
ルナ……死んだのか?
セリス。
ドルグ。
ミナ……。
全員。
全員が老い、生き、苦しみ、あるいは姿を消した。彼が終わりのない一秒の中で眠っている間に。
ツキトは音も立てずに椅子へ腰を落とした。
リンは何も言わなかった。
時には沈黙こそが唯一可能な礼儀だった。
しばらくして、ツキトは尋ねた。
「どこに埋葬されている?」
リンは一瞬理解できなかった。
「勇者の仲間たちのこと……?」
「そうだ」
少女は視線を落とした。
「確認された墓はないわ」
ツキトはゆっくりと顔を上げた。
「『確認された墓はない』とは、どういう意味だ?」
リンは深く息を吸った。
「公式の歴史では、大いなる勝利の後、勇者ツキトは暁の聖王国を建国し、聖なる乙女ルナと共に賢明に統治したことになっている。王家の剣はその血統へ受け継がれた。セリスは初代聖騎士団長となり、ドルグは北の城壁の守護者として列聖された。ミナは中央魔法学院を設立した。それが学校で教えられている歴史よ」
ツキトは彼女を見つめたままだった。
「それは嘘だ」
「……」
――これは全部偽物だ。
「そうでしょうね」
「それに、俺が王国を治めるはずがない」
「じゃあ、これは全部嘘なの?」
少女は尋ねた。
ツキトは目を閉じた。
時の流れなら受け入れられる。死も受け入れられる。自分を必要としなくなった世界で目覚めたことさえ受け入れられる。
だが、それは……。
仲間たちが作り話の操り人形へと変えられていたこと。
それは別種の残酷さだった。
「誰がその物語を書いた?」
彼は尋ねた。
リンは唇を引き結んだ。
「暁の教会よ」
「何だそれは?」
「大陸で最も強大な宗教兼政治組織。勇者ツキトを神聖な存在として崇拝し、王家をその直系の子孫として正当化している」
ツキトは乾いた笑いを漏らした。そこに愉快さはなかった。
「俺には子供などいない」
リンは指を一本立てた。
「知ってる。その点だけは前から疑っていたわ」
「……」
「じゃあ、本当に全部が巨大な詐欺だったのね」
「……」
ツキトは彼女を見た。リンも視線を逸らさなかった。
その瞳に嘲笑はなかった。あるのは疲労だけだった。
「私は何年も矛盾を調べ続けてきたの」
彼女は言った。
「封印された文書、書き換えられた年代記、捏造された家系図。真実に近づくたびに記録が消えたり、深入りするなと警告されたりした。だから私は噂を集め始めたの。周縁の伝承や、遠い村に残る歌を」
「それで何を見つけた?」
リンは楽しげではない笑みを浮かべた。
「勇者の伝説は、語る人によって変わるということ。ある物語ではあなたは純粋な聖人。別の物語では残忍な戦士。あるものではルナはあなたの妻。別のものでは神々に選ばれた義理の妹。中には七人の王女の愛の力で魔王を倒したという話まであるわ」
ツキトは顔を手で覆った。
「頼むからやめてくれ」
「ごめんなさい。それは私も腹が立つ」
初めて、ツキトは少しだけ笑いそうになった。
ほんの少しだけ。
ほんの一瞬だけ。
リンはそれに気づき、口を閉じた。
それから、より穏やかな声で尋ねた。
「最後の戦いを、正確にはどこまで覚えているの?」
「……」
ツキトは顔から手を離した。
「玉座の間にたどり着いたことは覚えている。ドルグはすでに致命傷を負っていた。ミナは魔王の結界を破るために魔力を使い果たした。セリスは……」――彼は唾を飲み込んだ。――「俺の道を開くために左腕を失った。ルナは身体の内側から崩れ始めても、聖なる術を維持し続けた」
リンの表情は少しずつ変わっていった。
―死んだのか?
―知らない。
―それで、その後どうなった? お前は何をしたんだ?
ツキトは自分の掌へ視線を落とした。
「俺は魔王の心臓に剣を突き立てた。奴は俺を見て、勝利が罰になると言った。その後は……何もない」
リンは黙った。
突然、外の祭りの音が信じられないほど遠く感じられた。
「じゃあ、彼らはあなたの歴史を偽造しただけじゃない」
彼女は囁いた。
「彼らから死さえも奪ったのね」
ツキトは奥歯を噛み締めた。
その言葉は予想以上に胸を刺した。
なぜなら、それは真実だったからだ。
彼らは本来の姿のまま安らかに眠ることさえ許されなかった。作り変えられ、飾り立てられ、偽りを支える柱へと変えられた。
リンは机の上に地図を広げた。
「答えが欲しいなら、行くべき場所があるわ」
「『行くべき』だと?」
「そう、『私たちが』行くべきなの。そんな歩く悲劇みたいな顔をしたあなたを一人にするつもりはないし。それに、本当にあなたが勇者なら、生きた証拠として大陸で最も危険な存在よ。教会が知ったら、あなたを閉じ込めるか、列聖するか、殺すかするでしょうね。どれが一番ひどいか分からないけど」
「お前はよく喋るな」
「あなたは脚の生えた墓石みたいだもの。ちょうど釣り合うわ」
ツキトは鼻で息を吐いた。
――どこへ行く?
リンは北に描かれた山を指差した。
「初暁の霊廟。公式の歴史では、勇者の聖遺物がそこに安置されていることになっている場所よ。入れるのは高位神官だけ」
「なら、入るまでだ」
リンは微笑んだ。
「やっと伝説の主人公らしくなってきたわね」
二人は夕暮れ時、街の裏門から外へ出た。
祭りの喧騒はなおも彼らの背後で轟いていた。金色の灯籠が空を照らしている。ツキトは黙って歩いた。そしてリンも、珍しく言葉で沈黙を埋めようとはしなかった。
霊廟への道は、古い森や草に覆われた丘を横切っていた。月は高く昇り、白く輝いている。一歩進むごとに、ツキトは胸の空虚さをより鮮明に感じていた。
どの風景にも、彼がかつて知っていた場所の歪んだ残響が残っていた。流れを変えた川。廃墟となり、その後ぶどう畑へと変わった村。石の塚へと成り果てた聖域。
五百年という歳月は、世界が自らの姿さえ忘れるには十分な時間だった。
「何を考えているの?」
ついにリンが尋ねた。
「いろいろだ。それに……風の音は変わらないな、と」
「予想外に詩的だったわね」
「黙れ」
ツキトは穏やかな口調で言った。
「ごめん……」
少女は微笑みながら言った。
二人はしばらくさらに歩いた。
「それから」
ツキトは付け加えた。
「俺は、自分が何をすべきなのか分からないとも考えている」
リンは横目で彼を見た。
「名誉を回復したくないの?」
「俺の名なんてどうでもいい」
「じゃあ、仲間たちの名は?」
ツキトはすぐには答えなかった。
「真実を知りたい」
やがて彼は言った。
「たとえ、それが誰の役にも立たなくても」
リンはうなずいた。
「時には真実は役に立たない。ただ重いだけ」
「なら、その重さを背負う」
「今のは勇者っぽかったわね」
「黙れと言ったはずだ」
優しい声で言った。
霊廟は夜明けに姿を現した。
それは山の斜面に埋め込まれた白大理石の建物で、柱と彫像に囲まれていた。遠くから見れば神殿のようだった。近くで見ると、自分自身を誇りすぎている墓だった。
衛兵がいた。
しかも大勢。
「くそっ、予想してたよ」
「力づくで突破できる」
「ええ。そして大陸の半分に知られる。やめておきましょう」
二人は糸杉の陰に身を隠した。リンは鞄から小さな道具や薬瓶、そして銅の印章をいくつも取り出した。
ツキトは彼女を見た。
「年代記編纂者じゃなかったのか?」
「柔軟な年代記編纂者よ」
「なるほど」
「いいえ、全然分かってないわ。むしろその方がいいけど」
一時間後、二人はすでに中にいた。
ツキトはどうやったのか聞かないことにした。リンが神官に微笑みかけ、偽の書類を見せ、盗んだ鍵を滑り込ませ、誰にも気づかれないよう正確に石を投げて灯籠を消すのを見ていたからだ。彼女は不気味なほど有能だった。
「お前、ただの記録保管員じゃない気がしてきた」
ツキトはつぶやいた。
「そして私は、あなたが驚くほど察しが悪い気がしてきたわ」
二人は霊廟の主室の下へ続く螺旋階段を降りていった。壁一面にはフレスコ画が描かれている。
ツキトは怒りと違和感の入り混じった表情でそれらを見つめた。
そこには天使たちに戴冠される彼自身の姿があった。
神聖な花嫁として描かれたルナ。
優しく微笑む母のようなミナ。
巨大で無敵のドルグ。
そして、一度も存在しなかった旗へ忠誠を誓うセリス。
「くだらない」
ツキトは言った。
その声は石壁に反響した。
リンは反論しなかった。ただ数秒間、彼を見つめていた。
やがて二人は、七つの儀式用の錠前が取り付けられた黒鉄の扉へたどり着いた。中央には太陽の紋章が刻まれている。
ツキトはアストレイアを近づけた。
聖剣は淡い光を放った。
乾いた音を立てながら、錠前が一つずつ開いていく。
リンは目を大きく見開いた。
「今の、すごかった……しかも劇的だった」
「アストレイアは聖なる鍵でもある。ただ、使えるかどうか分からなかっただけだ。トリックなんかじゃない。」
「それでも、すごいし……劇的だったわ」
「……」
内部の部屋は冷え切っていた。
宝物はなかった。
聖遺物もなかった。
ただ五つの石棺が、薄暗がりの中に並んでいるだけだった。
石棺を見た瞬間、ツキトの胸に怒りと郷愁、そして悲しみが入り混じった感情が押し寄せた。
彼はゆっくりと歩み寄った。
それぞれの石棺には名前が刻まれている。
ルナ・アージェスト
セリス・レーヴァテイン
ドルグ・バルムンド
ミナ・エルティア
キサラギ・ツキト
ツキトは最後の石棺の前で立ち止まった。
自分の名前。
自分の墓。
「趣味が悪いわね」
リンがつぶやいた。
ツキトは手を伸ばし、冷え切った石に触れた。
何も感じなかった。聖なる気配も、魔力の痕跡もない。あるのは冷たさだけだった。
「開けろ」
彼は言った。
「本気?」
「開けろ」
二人で最初の石棺の蓋をずらした。
空だった。
二つ目も空。
三つ目も同じだった。
ツキトの呼吸が徐々に荒くなる。
リンは緊張した手で四つ目を開いた。
空だった。
残るは一つ。
ツキトの石棺。
蓋が轟音を立てて落ちた。
中には王族の衣装の残骸と錆びた冠を身につけた骸骨が横たわっていた。
ツキトではない。
当然、ツキトであるはずがなかった。
だが誰かが、それをツキトに見せかけようとしていた。
リンは骨の傍らに半ば隠されていた封印済みの筒を見つけた。
「何かある」
彼女は封を破った。巻物を広げる。最初の数行を目で追った途端、その表情が硬くなった。
「何と書いてある?」
リンは唾を飲み込んだ。
「告白文よ」
「読んで。」
少女は従った。
「『この墓を開いた者へ。もしお前がここへ辿り着いたのなら、帳はすでに落ちたか、あるいは落ちようとしている。私、暁の初代国王エドリアン・ソル四世は、治世三年目にこれを書き記す……』」
リンは顔を上げた。
「ツキト」
「続けろ」
「『私は血統にも神にも選ばれてはいない。私は最終決戦の三日後に魔王城へ辿り着いた一介の隊長だった。私は崩れた玉座の間、勇者の四人の仲間たちの遺体、そして岩に突き立てられた剣を発見した。勇者の姿だけがどこにもなかった』」
リンは読み続けた。その声は次第に小さくなっていく。
「『部下たちは逃げようとした。だが私は理解した。古き王国はすでに滅びており、象徴がなければ人類は再び戦乱の中で血を流し続けるだろうと。ゆえに私は許されざる決断を下した。私は一つの物語を作った』」
ツキトは巻物から目を離さなかった。
「『私は真の遺体を隠させた。奇跡に疑問を抱かせぬためだ。そして勇者は生き延び、私を後継者に指名し、その仲間たちは新時代の礎となったと宣言した。人々が必要としていたのは、血に塗れた真実ではなく伝説だった』」
リンは紙を握り締めた。
「『年を追うごとに、その嘘は大きくなった。神官たちはそれを磨き上げた。王たちはそれを受け継いだ。私はまだ小さいうちに止めようとしたが、その頃にはすでに世界を支えていた。もし本物のツキトがいつの日か帰還するなら、どうか私を呪ってほしい。私は許しを乞うためではなく、この罪が私自身のものであると記録するためにこれを書き残した』」
最後の一文はほとんど消えかかっていた。
「『倒れた者たちの遺体は、戦いが終わった場所に眠っている。人が忘れても、せめて大地だけは覚えているように。黒き玉座の下に封印した』」
リンはゆっくりと巻物を落とした。
ツキトは動かなかった。
「つまり……」
彼女は言った。
「少なくとも遺体は破棄されていなかった。古い城にあるのね」
ツキトはなおも黙っていた。
「ツキト」
彼は突然笑い出した。
リンは一歩後ずさった。
それは普通の笑いではなかった。
壊れた笑いだった。
「『人々が必要としていたのは伝説だった』」
ツキトは繰り返した。
「なんと都合のいい言葉だ」
「……」
「仲間たちは死んだ。俺は消えた。そして一人の成り上がり者が誰よりも先にその遺体を見つけ、王国の土台にすることを決めた」
「そうみたいだ。」
「それで上手くいったのか?」
リンは答えるまで一瞬ためらった。
「ええ」
ツキトは彼女を見た。
「はっきり言え」
リンは拳を握った。
「上手くいった。何世紀にもわたる相対的な安定が続いた。領土は統一され、内戦は抑えられた。都市や街道、学院も築かれた。教会はあなたの名を利用して支配し、操作し、検閲もした。でも同時に、大陸を一つに保ったのも事実よ」
ツキトは目を閉じた。
それは予想していたよりも悪かった。
なぜなら、それは無意味な嘘ではなかったからだ。
成果を生んだ嘘だった。
実を結んだ嘘だった。
だからこそ、何のためらいもなく憎むことができない。
「吐き気がするな」
彼は囁いた。
「……」
その時、背後で金属音が響いた。
リンは即座に振り返った。
地下室の扉が開いていた。
白い法衣と儀礼用の鎧を身につけた男たちが出口を塞いでいる。
先頭には、黄金の杖を持った背の高い老人が立っていた。
その目は鋭く、それでいて落ち着いていた。
「お前はいずれここへ辿り着くと思っていたよ、記録保管員リン」
老人は言った。
「だが、これほど手の込んだ舞台になるとは予想していなかった」
リンは舌打ちした。
「大司教」
老人はツキトへ視線を向けた。
そして歴史上初めて。
勇者は見知らぬ人間の瞳の中に、嘲笑ではなく認識を見た。
「やはり本当だったか……」
大司教はつぶやいた。
「魔王の時の呪い。五百年遅れではあるが、生きていたとは」
ツキトは一歩前へ出た。
「知っていたのか?」
「可能性は知っていた」
「それでも嘘を守り続けたのか」
老人は杖に両手を添えた。
「真実は貧しい者の腹を満たさない。侵略を止めない。王位継承戦争を防がない」
「死者を言い訳に使うな」
「言い訳ではない。説明しているのだ」
リンはツキトの隣へ並んだ。
「私たちを殺すつもり?」
「できればそうしたくはない」
大司教はため息をついた。
「勇者ツキト。この世界はお前が去った世界ではない。お前の名は、もはやお前自身のものではない。それは制度なのだ。もし公の場に現れれば、混乱が起きる。王家は正統性を失う。属国は反乱を起こす。教会は分裂する。血が流れるだろう」
ツキトはためらいなく答えた。
「もう血は流れた」
「そして、その血によってさらなる流血は防がれた」
「それはお前の言い分だ」
老人はわずかに頭を傾けた。
「いや。歴史がそう語っている」
ツキトはアストレイアを抜いた。
地下室は銀色の光で満たされた。
神官たちは後ずさる。
「歴史は嘘をつく」
ツキトは言った。
「歴史は常に嘘をつく」
大司教は言い返した。
「問題は、その嘘が支えるのか、それとも壊すのかだ」
リンが小声でつぶやいた。
「はあ……権力を持った老人が哲学を語り始めるの、本当に嫌い」
「リン」
「は、はい……準備はできてる」
大司教の後方にいた衛兵たちが前へ出た。
彼らは詠唱を始める。
別の一団は槍を構え、攻撃の体勢を取った。
その者たちはゆっくりと前進し――次の瞬間、一斉に駆け出した。
戦いは短く、そして激しかった。
ツキトは何世紀もの間閉じ込められていた嵐のように前へ進んだ。
彼の剣は光の軌跡を描き、魔法障壁を粉砕し、儀礼用の槍を断ち切った。
衛兵たちは現代の基準では強者だった。
だが伝説の勇者の前では、ただの残響に過ぎなかった。
それでもツキトは誰一人殺さなかった。
打ち倒し。
退かせ。
息ができる状態のまま残した。
一方、大司教だけは退かなかった。
杖を掲げる。
光の鎖が放たれ、アストレイアへと絡みついた。
ツキトは腕に力を込めた。
床がひび割れる。
「聞け、キサラギ・ツキト」
老人の声が地下室に響いた。
「もし真実を暴けば、お前は五百年の秩序を壊すことになる。仲間たちはそれを望んだだろうか?」
ツキトは一瞬だけ動きを止めた。
その問いは、あまりにも正確だった。
ルナなら、何千もの人々のために嘘を受け入れただろうか。
ミナなら、崩壊を防げるなら偽りを許しただろうか。
ドルグなら。
セリスなら。
……。
分からない。
知ることなどできない。
彼らはもういない。
そして、それこそが最も残酷なことだった。
決断を下すのが、自分一人しかいないこと。
ツキトは光の鎖を力任せに引きちぎった。
「二度とあいつらの名を勝手に使うな!」
彼は叫んだ。
一撃。
乾いた音とともに、大司教の杖が真っ二つに折れた。
老人は膝をついた。
リンは彼が次の魔法を使おうとする前に武装を奪った。
「今のはちょっと気分が良かったわね」
彼女は認めた。
ツキトは告白の巻物を拾い上げた。
「魔王城へ行く」
大司教は顔を上げた。
その表情に初めて本物の焦りが浮かぶ。
「やめろ! 黒き玉座の封印を破れば――」
「何が起こる?」
老人は歯を食いしばった。
「あそこにあるのは遺体だけではない。魔王の残留核も残されている。何世紀もの間、教会はあの場所を封印し続けてきた。軽率に手を加えれば、災厄を解き放つことになるかもしれん」
リンの顔が青ざめた。
「今なんて言ったの……? そ、それ……どの巻物にも記録にもなかったわよ」
「お前の資料は断片に過ぎん」
大司教はうなった。
ツキトはしばらく沈黙した。
そして言った。
「それでも行く」
「何のためにだ?」
ツキトは巻物を見た。
それから空の石棺を見た。
「連れて帰るためだ」
それは英雄的な決断ではなかった。
壮大な決断でもない。
政治的な決断でもない。
ただ、人としての決断だった。
二人は警鐘に追われながら霊廟を後にした。
正午になる頃には、半ば地域全体が彼らを探していた。
リンは馬を二頭盗んだ。
「リン、お前は少し首を突っ込みすぎじゃないか?」
「私はずっとこの全部を疑ってた。そして今、真実のすぐ近くまで来てる。ここで諦めるつもりはないわ」
「……」
「この馬たちは借りるだけよ」
「お前は犯罪者だな」
ツキトは悲しみを隠すような、かすかな笑みを浮かべた。
「黙って」
彼女は穏やかな声で言った。
リンはそれに気づいていた。
だが、それ以上何も言わなかった。
出発の時、ただ数秒だけ彼を見つめただけだった。
北へ向かって馬を走らせながら、ツキトは自分なしでも生き延びた世界を見た。
畑。
風車。
村。
橋。
国境を支える偽りなど知らぬまま生きる人々。
小さく、平凡な人生を送る人々。
彼らを憎んではいなかった。
だからといって愛することもできなかった。
埋められない距離を感じていた。
まるで、自分が古い歌の一節になってしまったかのように。
誰かが意味も分からず口ずさみ続けている歌の。
三日目。
二人は廃城へ辿り着いた。
いや。
廃城だったものへ。
砕けた黒い石の山。
根と霧に呑み込まれた遺骸。
空気は静止していた。
鳥も虫も近づかない。
ツキトはその静寂を知っていた。
「ここだ」
リンはゆっくりと馬から降りた。
「怖いわ……それに、何か変な感じがする」
「マナの残滓だろう。何世紀経とうと消え切らなかったんだ」
二人は瓦礫と崩れた通路を下り、玉座の間へ辿り着いた。
辛うじて形を保っているだけの場所だった。
天井は崩れ、空へ開いている。
巨大な亀裂が倒れた柱を走っていた。
魔王の玉座。
焼け焦げたガラスのような黒い物質で作られたそれだけは、広間の奥で頑固な影のように残っていた。
そしてその前。
ひび割れた石床には四つの円形の刻印があった。
葬送の封印。
ツキトは足を止めた。
近づく必要すらなかった。
「ここにいる」
リンは何も言わなかった。
勇者は一歩進む。
そして、また一歩。
五百年間目覚めようとしていた夢へ向かうように。
彼は最初の封印の前で膝をつき、手を置いた。
かすかにしか残っていない魔力が応えた。
敵意ではなく。
認識として。
アストレイアの淡い光が広間へ広がる。
刻印が一つずつ輝き始めた。
大地が震えた。
怒りではない。
途方もない悲しみとともに。
まるで廃墟そのものが、五百年間閉じ込めていた息を吐き出したかのように。
封印が開く。
その下には、それぞれ一つずつ石棺が眠っていた。
装飾はない。
偽りもない。
ただ、手で刻まれた名前だけがあった。
ルナ
セリス
ドルグ
ミナ
リンは驚いて、手を口元に当てた。
ツキトは何も言わなかった。
ただ見つめるだけだった。
彼らだった……
その世界には、まだ真実のまま残っているものがあった。
彼はまずルナのところへ近づいた。慈悲と残酷さは時として同じ仮面をかぶるのだと語っていた時の、あの穏やかな瞳を思い出した。次にセリスのところへ。いつも決闘を挑んできそうな、あの皮肉な笑みを浮かべていた彼女。そしてドルグ。世界の重みが自分の肩にはそれほど重くないかのように、皆を背負っていた巨人。最後にミナ。彼が迷いを感じた時、その心を落ち着かせることができる唯一の存在だった。
彼の仲間たち……
彼が選んだ家族。
彼らの本当の結末。
ツキトはミナの棺に両手を置き、目を閉じた。
「遅くなった」
その言葉は石の間に消えていったが、リンには聞こえた。
彼女は何も言わなかった。ただ頭を下げただけだった。
その時、玉座が軋んだ。
湿っていて深みのある音だった。まるで何トンもの岩の下で骨がねじ曲がるような。
リンは勢いよく顔を上げた。
「ツキト」
黒の玉座の下の影が動いていた。
座の中央から赤い亀裂が走った。続いてもう一本。そして呼吸。生きた呼吸ではなく、消えることを拒む意志の残響だった。
魔王の残留核。
大司教は嘘をついていなかった。
「下がれ」――ツキトは命じた。
「そんなの――」
「リン!」
彼女は歯を食いしばったが、従った。
玉座は黒い破片の雨となって砕け散った。その内部から現れたのは凝縮された闇の塊だった。肉体を持たない心臓。憎悪と呪いと記憶によって形作られた存在。顔はない。腕もない。ただ一つの赤い目が闇の中で開き、彼を見つめた。
『勇者。』
その声は空気には響かなかった。
彼の頭の中で響いた。
ツキトはアストレイアを構えた。
「まだ生きていたのか」
『いや。だが、お前も生きてはいなかった。』
影が脈打った。部屋全体が砕けた鏡の反射のような断片的な映像で満たされた。
倒れるルナ。
叫ぶセリス。
マナの過剰によって燃え尽きるミナ。
膝をつき、盾と己の身体で皆を守るドルグ。
ツキトは拳が白くなるほど強く剣を握りしめた。
「黙れ!」
『五百年の沈黙。五百年、どこにも居場所がなかった。教えてくれ、勇者よ……本当に勝ったのはどちらだった?』
リンは拘束魔法を放とうとしたが、影はそれを煙のようにかき消した。
ツキトはすぐに真実を理解した。
これは以前のような敵ではなかった。ただ斬れば終わる肉体ではなかった。時間に根を下ろした呪いだった。そしてそれは、まさに彼が残した空白によって養われていた。彼の孤独によって。彼が失ったすべてによって。
だからこそ、それは待っていたのだ。
なぜなら魔王の罰は、ただ彼を眠らせることだけではなかったからだ。
それは、彼の名を呼べる者が誰一人残っていない世界へ彼を返すことだった。
『人類がお前の記憶に何をしたか見てみろ』と闇は囁いた。『お前を都合のいい嘘に変えた。お前を空っぽにして崇めた。分からないのか? 私がしたのは、彼らがいずれ行うことを明らかにしただけだ。』
ツキトは深く息を吸った。
そして、恐ろしいほど短い一瞬だけ、迷った。
痛かったからだ。
それが真実だったからだ。
彼の一部は、すべてを壊したいと願っていたからだ。
教会を。王国を。像を。民衆を。仲間たちの骨の上に築かれたすべての台座を。
その嘘が崩れ落ちるのを見たかった。
世界が軋む音を聞きたかった。
あまりにも激しい怒りと憤怒を感じていた。闇が今にも彼を飲み込もうとしていた……
その時、袖に触れる手を感じた。
リン。
それはかすかな力だった。儚く、人間らしい。
「耳を貸さないで」――彼女は震える声で言った――「もしあなたがすべてを憎むことを選ぶなら、その時こそ本当に全部奪われてしまう。」
ツキトは涙を浮かべたまま、答えなかった。
リンは唾を飲み込んだ。
「私はあなたの友達を知らない。あなたの時代も知らない。ただ、この壊れてしまった世界と、私が育った嘘しか知らない。でも……」――彼女はほんの一瞬だけ視線を落とし、再び顔を上げた――「あなたがまだここにいるなら、その嘘が物語の終わりであるはずがない。」
影が咆哮した。
足元の床が裂け、その亀裂から呪いの残滓で形作られた黒い腕が生えた。ツキトは一太刀でそれらを粉砕した。アストレイアの光は闇を傷つけたが、それだけでは消し去れなかった。
力だけでは。
今回は違う。
剣が彼の手の中で震えた。
何かを思い出したかのように。
最後の戦いの力ではない。
栄光でもない。
別の何か。
祈り。
ルナのものだった。
ツキトは目を大きく見開いた。
「リン。封印だ。」
「え?」
「四つの棺だ。玉座の周囲に配置しろ。」
「今それを言うの!?」
「動け!」
リンはそれ以上問いただすことなく走り出した。
影は黒の波動を放った。ツキトはそれを受け止め、アストレイアを地面に突き立てた。聖なる光が壁のように上へと爆発し、一瞬だけ彼は二つの異なる時間が重なって見えた。現在の廃墟と、五百年前の玉座の間。
そこにいた。
ルナが儀式円を支えている。
ミナが唇に血を滲ませながら詠唱を続けている。
セリスが左翼を守っている。
ドルグが盾と折れた斧を握りしめ、なお立ち続けている。
それは幽霊ではなかった。
違う。
彼らは時間の境界に閉じ込められた最後の共同行使魔法の残滓だった。
リンは最後の棺を指定の位置まで引きずり、叫んだ。
「準備完了!」
四つの名前が輝き始めた。
ツキトは一瞬で理解した。
魔王の呪いは、城や教会の封印だけで維持されていたのではない。
それは仲間たちの最後の行動によって固定されていたのだ。
彼らは残された力を使い、その核をこの場所に縛り付けた。
待つために。
もし彼がいつか戻るなら、そのための出口を残すために。
光の円が砕けた黒い玉座の周囲に形を成した。影が初めて動揺し、身をよじる。
「違う…!」
ツキトは光の中へと歩み出た。
「お前はいつも傲慢だった」――赤い目を見据えながら言う――「負けてもなお、他人の勝利を汚そうとした」
『できた。』
「いや。」
剣を掲げる。
「確かに遅れた。確かに皆はいなくなった。確かに世界は俺を忘れ、書き換えた。だが、それでも俺は残されたもので何をするかを選べる」
魔王の声が悲鳴へと変わった。
『許すのか? お前を利用した者たちを!』
ツキトは石像を思い出した。
王の告白。
大司教。
受け継がれた嘘の下で耕す農民たち。
そして、自らの人生すべてをかけて真実を探し続けたリン。
「いいや」――彼は言った――「だが、お前にも俺を決めさせはしない」
アストレイアを円の中心に突き立てる。
光が爆発した。
それは炎でも雷でもなかった。
夜明けだった。
白く、巨大で、絶対的な光。
リンは顔を覆いながら後ろに倒れた。影は千の声で叫び、人の声、怪物の声、空虚な声が混ざり合い、そして光に削り取られて跡形もなく消えていった。
そして光の中で、ツキトは彼らを見た。
ほんの一瞬だけ。
ルナが悲しげに微笑んでいる。
セリスが腕を組み、「遅い」と言っているようだった。
ドルグが静かな大きな笑いを浮かべている。
ミナが髪を整え、呆れと安堵を同時に浮かべている。
誰も何も言わなかった。
言葉は必要なかった。
ツキトは手を伸ばしたが、その姿は光の粒となって崩れた。
玉座の間は沈黙した。
城は呼吸をやめた。
すべてが終わった。
リンはしばらくしてようやく起き上がった。
「……伝説って、どうしていつも仕組みの説明を省いて奇妙なことを起こすのよ」
ツキトは小さく笑った。今度は本物の笑いだった。
疲れていた。
壊れていた。
それでも本物だった。
リンは驚いて彼を見た。
「へえ。最後にそんな顔もできるんだ」
「慣れるな」
彼女は微笑んだ。
そして剣に気づく。
アストレイアはまだ円の中心に突き立てられていたが、その輝きは薄れつつあった。刃には細かなひびが走っている。
「ツキト」
彼もそれに気づいていた。
「分かっている」
聖剣はその役目を終えていた。五百年前と同じように、限界が近づいていた。
リンはすぐに立ち上がる。
「ここから出ないと」
ツキトは動かなかった。
「いや」
「“いや”って何よ」
彼は四つの棺を見つめた。
「ここに彼らをまた置き去りにはしない」
「じゃあ、どうするの?」
ツキトは長い沈黙を置いた。
リンは眉をひそめた。
「ツキト?」
英雄は初めて、奇妙なほど静かな目で彼女を見た。
—封印は内側からも外側からも破られた。呪いは消えたが、城はもう安定していない。崩落する。
—だからなおさら、ここを離れなければならない。
—もし俺が去れば、真実はまた俺と共に死ぬ。
リンは目を開いた。
—何を言っているの?
ツキトは近づき、彼女の手に告白の巻物を置いた。
その後、彼はベルトから黒ずんだ小さな金属プレートを外した。五つの星が絡み合って刻まれた元の徽章だ。リンはそれを、その大きさには重すぎるかのように握った。
—これも持っていけ。
—ツキト…… —彼女は喉を詰まらせ、涙目で言った—。これ……好きじゃない。
—リン。
—ダメ。別れみたいな声で話すな。そんなの嫌いだ。
ツキトはほとんど笑いそうになった。
—お前はうるさいな。
—そしてあなたは馬鹿よ。
天井が再び軋んだ。巨大な岩が数メートル先に落ちた。
リンは一歩彼へ近づいた。
—一緒に行こう。真実を語れる。あなた自身がそれを言える。
ツキトはゆっくりと首を横に振った。
—俺が現れれば、世界はまた別の伝説を見るだけだ。使うか壊すかの象徴になるだけだ。しかしここで消え、証拠だけが残れば……人々は神話ではなく事実と向き合わなければならない。
—そんなのは馬鹿げている! —リンの声は途切れた—。ここまでして、ひとりで死ぬつもりなの?
ツキトは一瞬視線を落とした。
—違う。
リンは動きを止めた。
彼は棺を見た。
—今度は一人じゃない。
その理解が彼女を直撃した。
—……いや。
—リン。
—嫌! —彼女は彼の腕を掴んだ—。そんな冷たい顔でそんな残酷なことを言うな!
ツキトは少女が自分の袖を掴んでいる手を見た。
それは温かかった。
生きていた。
そこにあった。
ほんの短い間に、この世界で少しだけ遠くないもののように感じられるようになっていた唯一のもの。
それが、すべてをより難しくしていた。
—聞け —彼は優しく言った—。お前は記録者だろ? なら書け。真実をすべて書け。醜い部分も。誰も聞きたがらなくてもだ。
リンは震えていた。
—二人でやれる。
—いや。俺の居場所は五百年前に終わった。
—嘘よ。
彼は少しだけ目を見開いた。驚いたように。
リンは泣きながら、同時に怒っていた。
—それも嘘。あなたはここにいる。苦しくても、あなたはここにいる。そんな簡単に、自分の居場所がないなんて決められない。
ツキトはすぐには答えなかった。
賢い言葉を探した。
英雄らしい言葉を。
何も見つからなかった。
最後に、ただ真実だけを言った。
—疲れた。
リンは彼の袖を放した。
その沈黙は、どんな叫びよりも痛かった。
ツキトは側面の取っ手で棺のひとつを掴んだ。
—行け。
彼女は動かなかった。
—リン。
—……もし私が行ったら —彼女はつぶやいた— 本当にまた消えるの?
—ああ。
—あなたのこと……少し嫌い。 —彼女は俯きながら、涙を流して彼を見た。
—受け入れる。
リンは歯を食いしばり、手の甲で顔を拭い、マントの下に徽章と巻物をしまった。
—じゃあよく聞いて、伝説の英雄のバカ。
ツキトは彼女を見た。
—全部書いてやる。あなたの本当の物語。ルナ、セリス、ドルグ、ミナの。嘘つきの王の、教会の、空の墓の、全部。美しく聞こえるように飾ったりしない。
—いい。
—もし世界がそれすら別の寓話に変えようとしたら、息をするのが恥ずかしくなるまで、その原稿で追い詰める。
ツキトは鼻で息を吐いた。
微かに微笑みながら、彼は言った:
—お前らしいな。
—あなたは私をほとんど知らない。
—一緒に過ごした時間で十分だ……ありがとう、リン!
—バカ!
そして二人は同時にわずかに笑った……
地面が彼らの間で裂けた。
リンは本能で後退した。
ツキトは数秒彼女を見て、それから手を上げた。
英雄的な仕草ではない。
ただの別れだった。
彼女は一歩前に出て、そして止まった。
彼を一瞬見た。
そして最後に走り出した。
振り返らない。
もし振り返れば、もう進めなくなるかもしれなかった。
ツキトは彼女の足音が廃墟の中に消えていくのを聞いた。城全体が崩れ始める中で。アストレイアの光は次第に弱くなっていった。彼は力を振り絞って四つの棺を、まだかすかな熱を残す人工の夜明けの円の中心まで引きずった。
それから彼はそれらのそばに座った。
長すぎる旅の終わりのように。
棺のひとつに背を預け、裂けた空を見上げた。
その日の青は、まだ彼には馴染まなかった。
しかし、もうそれほど重要ではなかった。
—ルナ —彼はつぶやいた—、結局お前の言う通りだった。慈悲と残酷は同じ仮面を使う。
彼は一瞬目を閉じた。
—セリス、遅れてすまない。
石が近くに落ちた。
—ドルグ……待っていてくれてありがとう。
地面が震えた。
ミナ……
—ミナ。お前の理論の半分もまだ分かっていない。
彼はわずかに笑った。
ほんのわずかに。
—厄介な連中だな。
アストレイアの最後の光は、五人の周りに白い粒子のように立ち上った。
……
城は崩壊した。
そして英雄はそれと共に消えた。
リンは山を下りるのに二日かかった。
彼女はどうやって動き続けていたのか、よく覚えていなかった。ただ背後で遺跡が崩れ落ちていく音と、二度も誰かを置き去りにしてしまったという耐えがたい感覚だけが残っていた──伝説としてと、人としてと。
最初の都市に着いたときには、すでに噂が広まっていた。
北での奇妙な光。
古い封印の破壊。
司祭たちの動員。
そして、もちろん一つの名前。
いつも同じ名前。
ツキト。
リンは広場には行かなかった。像も見なかった。遅れた祭りの再現も聞こうとしなかった。
彼女は書物の家の自室に閉じこもり、書き続けた。
何日も書き続けた。
それから数週間。
美化せず。
削らず。
必要なときは怒りとともに、痛すぎるときは慎重に。エドリアン・ソル四世の告白を一言一句そのまま写した。空の墓を記した。霊廟。城。魔王の核。別れ。
書き終えたとき、その原稿には単純な題名が付けられていた。
遅すぎる帰還をした英雄。
教会はそれを没収しようとした。
最初の写本は焼かれた。
二つ目は禁止された。
三つ目は消えた。
四つ目は学生や商人、不満を抱えた貴族たちの間で密かに広まった。五つ目は海を越えた。六つ目は修道院に届き、何人かの修道士はそれを読んで涙を流した。七つ目は悲しいバラードのように酒場で朗読された。
そしてもはやそれを止めることはできなかった。
すぐには。
完全には。
混乱はあった。
追跡。
否定もあった。
リンを偽者と呼ぶ者もいれば、すべては王座への陰謀だと誓う者もいた。像を倒す都市もあれば、以前より熱心に清める都市もあった。役に立つ嘘を守る司祭もいれば、常に疑っていたと告白する司祭もいた。
真実は世界を救わなかった。
しかし破壊もしなかった。
ただ世界に鏡を見ることを強いた。
年月が過ぎた。
暁の聖王国はその名を捨てた。
王家の血統は神聖なオーラを失い、自らの力を別の形で正当化しなければならなくなった。教会は分裂した。その残骸から、小さな一派が生まれた。それは英雄を崇めるためではなく、記録を改ざんせず保存するための組織だった。
リンそれは数年間、隠れていた。事態が落ち着くまで移動し続けながら。
リンは年を取った。
彼女は望んでいた以上に有名になった。そして以前より気難しくもなった。誰かが物語を過度に美化しようとするたびに、彼女は杖で机を叩きながら言った。
「またあのバカを像にするな!」
その後で多くを言い返せる者はいなかった。
老後、彼女は一度だけ黒い山へ戻った。
城はもう残っていなかった。
ただ白い草に覆われた暗い石の野原だけがあった。
その中心に、五つの簡素な墓標があった。
いかなる装飾もなく。
大げさな称号もなく。
ただ名前だけがあった。
ルナ
セリス
ドルグ
ミナ
…
ツキト
リンはため息とともに彼女たちの前に座った。
—何十年も過ぎた—と彼は言った—。今でもそれがひどい別れだったと思っている。
風が草の間を吹いた。
それは五百年前と同じように聞こえた。
あるいはそれを彼は想像するのが好きだった。
リンはツキトの墓の足元に自分の本のコピーを置いた。
それは使い古された版で、手書きの修正でいっぱいだった。
—見て—と彼はつぶやいた—。結局お前は伝説になった。でも少しだけ嘘の少ない伝説だ。
彼は夕暮れまでそこにとどまった。
そして去る直前に、何かを聞いたように思った。
はっきりした声ではない。
奇跡ではない。
ただの軽い、ほとんど滑稽な感覚。
まるで記憶と風の間のありえない場所で、誰かが少しだけ小さく笑ったかのように。
リンは微笑んだ。
—はいはい。もう行くよ。
彼は苦労して立ち上がり、振り返ることなく帰り道へと歩き出した。
今度は、それが必要なかったから。
エピローグ
長い年月の後、像のない街の小さな学校で、ある女教師が本を閉じ、生徒たちを見た。
—それでは—と彼女は尋ねた—、キサラギ・ツキトとは誰だったのか?
ある少年がすぐに手を挙げた。
—魔王を倒した英雄だ!
—そう、しかしそれだけではない。
最後列の少女が小さな声で答えた:
—彼は間違って記憶された人物だった。
教師は微笑んだ。
—よろしい。では他には?
別の少年が眉をひそめた。
—彼は実在の人間だった、そうだろう?本当の友人たちがいた。
—その通り。
少女が再び口を開いた。
—そして彼は孤独だった。
…
教師はゆっくりとうなずいた。
—そう、とても。
教室に静寂が訪れた。
外では、風が木々の葉を揺らしていた。
—だから—と教師は本の表紙をなでながら言った—私たちは物語に注意しなければならない。時に物語は人を象徴へと変えてしまう。そしてそうなると、彼らにも恐れや欠点、愛したものがあり...彼らのために泣いた人々がいたことを簡単に忘れてしまう。
子どもたちは瞬きもせずに聞いていた。
教師は再び本を最初のページから開いた。
余白には非常に古い手書きのメモがあった:
「彼のために祈るな。しっかりと覚えておけ。」
—リン
教師は静かに本を閉じた。
そして、偽りから五百年後、ついに英雄は本来の姿として語られ始めた。
聖人としてではなく。
王としてではなく。
神としてではなく。
しかし、あまりにも遅く勝利した男として、
あまりにも遅く帰還し、
それでもなお、
最後には、
何かを救うことに成功した。
真実。
◇ ◇ ◇
エピローグ II
2028年、18時43分。日本、千葉県木更津市清見台。
雨は去り、街路はガラスのように輝いていた。信号機、店の看板、自動販売機がアスファルトをさまざまな色に染めていた。黒髪の少年はネクタイを緩め、学校の鞄を片肩に掛けながら、期末試験についてのクラスメイトたちの不満を聞いていた。
「明日はまた遅刻しないでよ」――一人の少女が腕を組みながら言った。
「はいはい。心配するなよ、早く来るから、約束する!」――彼は笑顔で答えた。
「はいはい」――別の一人が鼻を鳴らした。――「また明日な。」
彼らは、大通りがより静かな住宅街の通りへと続く角で別れた。風は濡れた土の匂いを運んでいた。一瞬の間、少年は灰色の空を見上げ、つぶやいた。
「なんだか変な日だな……何か大事なことを忘れている気がする。」
その時、空気が震えた。
白い光の円が彼の足元に開き、この世界のものではない紋様を描いた。街の騒音は突然消え去った。彼の目は驚きで見開かれた。ちょうどその時、光が彼の脚を這い上がり、そして突然、頭から足先まで彼を包み込み、完全に消し去った。
「おい! ヒーローの本を渡すのを忘れてたんだが……」――彼の学校の友人の一人がそう言い、追いつこうと走ったが、彼の姿はどこにも見えなかった。
「え? つ、ツキト!?」
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読んでくれてありがとう!




