パリからスコットランドへ
重徳は想像する。今まさに自分がパリのアパートメントのバルコニーで煙草を吸っている姿を。銘柄はジタンで、雨に濡れた六月のパリの街並みを見つめながら、フィルターギリギリまでしかめ面で吸い続ける。
そこで重徳は目を開ける。
六畳一間のボロアパートの一室で、彼はベッドに横たわっていた。 電気はついていて、少し身を起こしただけで部屋の中の散乱具合が確認できたが、重徳は特に気にかける様子もない。彼の視線はただ部屋の中を旋回し、ゆっくりとその足場のない床に立ち上がると、 ポケットからクシャクシャになったセブンスターを取り出して口にくわえ、窓の外に視線を落ち着けた。
窓の外は暗かった。真夜中だからではない。すぐそこが隣りのマンションの壁だからだ。隙間にして三十センチほど。建築法に引っかからないのかどうかはわからないが、そんな法律があることを重徳はもちろん知らないし、仮に知っていたとしてもそんなことを彼は気にしたりはしない。むしろそこが壁だからこそ、重徳の視線は窓に釘付けになっていたのだから。
窓にくっきりと映り込んだ自分の姿。重徳にとって窓は部屋の中で唯一の自分を映す鏡だった。洗面所には水垢でモザイクがかかっているようにしか見えない小さな鏡があるだけで、部屋には全身を映すような鏡を置く場所はない。あったとしても、買うほどの余裕も重徳にはなかったが。見た目には気を付けるほうでも、鏡を買うくらいならもう一着ジャケットでも買う。それが重徳というやつだ。
それに重徳は自分に自信があったので、普段からそこまで鏡を必要ともしてはいなかった。多少寝癖がついていようと、ちょっと鼻毛が出ていたとしても、それくらいでは重徳の外見の妨げにはならない。むしろ彼に惹かれる女性たちは見た目とは違うそういう少し抜けているところに胸をキュンとさせ、より重徳に惹かれる傾向があった。
話だけ聞いているとなんだか胡散臭くも聞こえるが、実際に重徳の見栄えはかなり良い。長身の細身だが、ただの痩せっぽちには見えず、Tシャツのラインからはしっかりと筋肉がついているのが目でわかるし、そういったスタイルだけでなく、顔の造形は重徳という名前とはかけ離れていて、欧米人とのハーフみたいに見える。彫が深く、 目鼻立ちもはっきりしていて、少し広めの額も肩まである黒髪を一本に束ねていると違和感なく、むしろ女の子のように見えなくもない。カワイイというよりキレイに分類される女子のように。とにかく人目を惹きつけるだけのビジュアルを、重徳が生まれつき持っていることは紛れもない事実で、バンドマンという肩書きもある特定の層にはもてはやされる要因になっていた。
バンドで一旗揚げてみせると、田舎から都会にやってきたいわゆるバンドマンらしく、重徳も高校を卒業とともに上京し、バイトでどうにか生計をたてながらバンド活動をしてはや十年。当時はまだ右も左もわからなかった彼も、今では都会で立派に生きている。バンドは成功とは言い難いけど、それでもライブハウス界隈では中堅どころとしてライブの声はちゃんとかかるし、それなりにファンも
ついている。もちろんバンドのパフォーマンスや楽曲にではない、 重徳のビジュアルに。メンバーはそれなりに頑張ってはいるし、重徳もフロントマンとして常に意識してはいるけど、影響力はその程度じゃ重徳のビジュアルの足元にも及ばなかった。
だから重徳のバンドのファンのほとんどは女性で、そのまたほとんどが世間でいうメンヘラばかりだった。ライブ終盤、テンションが上がってきた重徳が自分のTシャツを脱いで観客席に投げ入ると、 そこに群がる数人の女子たち。それが主にコアなファンで、本当はその輪に入りたいけど入れずにいるのが予備軍。そういうのを一括して重徳ファンクラブの総勢は五十人ほどいるが、度合いこそ違えどみなメンヘラといっても過言ではない。
ただそんなこと重徳にはどうでもよかった。相手がどんな人間であれ、自分のことが好きな女性であれば重徳は構わなかった。彼は自分のことが好きな女性が好きだった。当然好みのビジュアルはあるけど、まず第一前提として重徳のことが好きで好きで仕方がない女性であることが条件で、彼が好きで好きで追いかけた女性はこれまでの人生で一人もいない。
キミコのことも最初はそうだった。バンギャだった彼女が頻繁に重徳のライブに通い、キミコのほうから打ち上げを抜け出そうと誘ってきた。重徳にしてみればそんなことは珍しい話ではなかったし、 彼女のビジュアルは悪くなかったから彼はその誘いに応じ、それから約一年間、二人の関係はダラダラと続いた。終わりの見えない梅雨のように。
しかし梅雨はいつか明け、夏は必ずやってくる。そのことを重徳は忘れていた。湿度の変化にさえ疎いタイプだったから、もしかしたらキミコが去るまでそのことに気付くこともなかったのかもしれない。どちらにせよ、その瞬間は重徳にとって青天の霹壺とても言うべき瞬間で、「もう終わり」と泣きながら去っていったキミコの後姿を重徳は放心状態でただ見つめていた。何が起きたのか、理解するまでに時間がかかった。
重徳が理解できたのはキミコに別れを告げられてから一週間後。 要するに昨日のことだった。
朝起きて、ポケットからセブンスターを出して口にくわえ、そこら辺に落ちてるライターで火をつけた。外は晴れているのに、彼の部屋の窓の外は相変わらず暗く、そこにはいつもの自分が映り込んでいた。どこに出しても恥ずかしくない、むしろどこにでも喜んで出したい姿。それが自分であり、重徳という人間なのだと窓を見据えながら重徳は思った。
そして同時に急に目を覚ました休火山のように、得体の知れない感情が腹の底から噴き出してきた。
「そんな俺がなぜフラれたんだ?」
衝撃は計り知れなかった。しばらく放心状態になったせいで、長く伸びた煙草の灰が床に落ち、危うくボヤ騒ぎになりかねなかったし、少し落ち着いてもなかなか家を出る気にもならなかった。夕方からバンドの練習で、そのあとに深夜まで居酒屋でバイトがあるというのに、すべてを放り出しても構わないと思うほどやる気が何も起きなかった。
とはいえすべてを放り出すわけにはいかなかったので、一応はスタジオで練習をし、それから朝までバイトをした重徳だったが、頭の中ではまるで呪文のように「俺がなぜフラれたんだ?」と自問自答を続けていた。おかげでその日の練習はほとんどうわ言のようなヴォーカルしか聞けなかったし、居酒屋ではかなりの枚数の小皿を割ったり、大体注文を聞き間違えたりとほぼ戦力にはならず、メンバーにも同僚にも迷惑ばかりをかけていたが、そんなこと彼にはどうでもよかった。そういう状況でも怒られず受け入れられるのが重徳だった。
ただ重徳だってその時間を無駄に過ごしたわけではない。彼なりに納得のいく結論に達することはできたのだ。
それはこういうことである。
「俺はキミコのことが好きなのかもしれない」
どういった思考回路を経て、重徳がそう思い立ったのかはもちろん謎である。でも彼は本気でそう思い込み、そして何か行動に出ねばと考え始めた。自分にしかできない方法で彼女に思いを伝えたい、 その一心で。そしてその方法は深く考えずとも、重徳の脳裏には一つしか思い浮かばなかった。
自分にしかできない表現方法。
それは唄だ。
そこで話は最初に戻る。
重徳はベッドの端に腰を下ろし、煙草を吸い続けている。目の前の机の上にはゴミやら何やらと一緒に大学ノートがあって、開かれたページの一行目には「パリからスコットランドへ」と書いてある。それがどうやら唄のタイトルらしい。
明け方にバイトから帰ってきてもうすぐ丸一日,重徳は煙草を吸い続けながら、ずっと「パリからスコットランドへ」のことを考えていた。行ったこともなければ、地図を開いてどこがパリでスコントランドかもわからないのに。もしかしたらパリとスコットランドが同じ国だと思っている可能性だって否めないが、そういう男なのだ、重徳は。それにどうせどんな名曲を書こうとも、自分のビジュアル以上に説得力を持つことはまずありえない。そのことにおいては他の誰よりも重徳自身がよくわかっていた。




