表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

教育係の復讐 ~完璧な淑女が育てた、最愛の生贄~

作者: 奇譚端
掲載日:2026/02/01

 

 ヴォルナー伯爵邸の応接室には、秋の午後の陽光が惜しみなく注いでいた。磨き上げられた大理石の床が光を弾き、天井まで届く本棚の背表紙が金色に輝いている。窓辺には異国の花瓶が飾られ、その中の白百合が甘い香りを漂わせていた。この部屋に置かれた調度品のひとつひとつが、平民には手の届かない世界の産物であり、それらは主人の富と権威を無言のうちに誇示している。エルナ・ブレインは革張りの椅子に浅く腰かけ、膝の上で両手を重ねたまま、向かいに座る男の顔を見つめていた。


 グレン・ヴォルナー伯爵は四十八歳になるという。銀髪の混じり始めた黒髪を丁寧に撫でつけ、仕立ての良い深緑の上着を纏ったその姿は、社交界で評判の温厚な名士そのものだった。柔和な笑みを浮かべながら手元の書類に目を落とす様子には、権力者特有の傲慢さは微塵も感じられない。だが、エルナは知っていた。この男の本性を。十二年前のあの日、酒に酔って銃を構え、六歳の少年を撃ち殺したときの、あの冷たい目を。


「君の評判は以前から耳にしていた」と伯爵は書類から顔を上げ、満足げに頷いた。「ベルント子爵家、カーライル男爵家——いずれの家でも、君の教育を受けた子息は優秀な成績を収めている。特にベルント家のご令息は王立学院を首席で卒業したそうだね。大したものだ」


「過分なお言葉です、伯爵。私はただ、お子様方の才能を引き出すお手伝いをしたに過ぎません」


 エルナは静かに頭を下げた。声は落ち着いており、表情には慎ましい喜びが浮かんでいる。十二年かけて磨き上げた仮面だった。この男の前で感情を露わにすることは許されない。憎悪も、悲しみも、復讐への渇望も、すべてを奥深くに沈めて、エルナは完璧な家庭教師を演じ続けなければならなかった。


 伯爵は書類を閉じ、椅子の背にゆったりと身を預けた。「息子のアルフレッドは今年で十歳になる。そろそろ本格的な教育を施したいと考えていてね。君には彼の家庭教師として、歴史、文学、算術、そして倫理学を教えてもらいたい。どうかね、引き受けてくれるか」


「光栄でございます」


 再び頭を下げながら、エルナは視界の端で伯爵の右手が動くのを捉えた。何気ない仕草で頬を掻く、その指。十二年前、銃の引き金を引いた指。弟の命を奪った指。心臓が跳ね、背筋に冷たいものが走った。だがエルナは瞬きひとつせず、穏やかな微笑みを保ち続けた。


 面接を終え、伯爵が立ち上がって手を差し出した。その手を取る。温かく、乾いた手のひら。十二年前、弟の血に染まることのなかった手。「よろしく頼む、エルナ先生」という声が、どこか遠くから聞こえるようだった。エルナは微笑んだ。完璧な微笑みだった。この男は私を覚えていない——当然だ、踏み潰した虫の顔など誰が覚えているものか。十二年、待った。やっとこの時が来たのだ。


 応接室を辞し、使用人に案内されて屋敷の門を出ると、エルナは待たせていた辻馬車に乗り込んだ。御者に宿の名を告げ、窓の外を流れる街並みをぼんやりと眺める。煉瓦造りの商店、行き交う人々、荷車を引く馬——すべてが現実感を欠いて見えた。目を閉じると、瞼の裏にあの日の光景が鮮やかに蘇ってきた。


 十二年前の秋、王都郊外の森は紅葉に染まっていた。赤、橙、黄——燃えるような色彩が頭上を覆い尽くし、地面には落ち葉が厚く積もっていた。十歳のエルナは六歳の弟リオンの手を引いて、落ち葉を踏みしめながら歩いていた。乾いた葉が足の下でかさかさと音を立て、木漏れ日が二人の上に斑模様を描いていた。


「お姉ちゃん、見て!」


 リオンが手を振り解いて駆け出し、地面に落ちていた大きな栗を拾い上げた。艶やかな茶色の実を両手で包み、満面の笑みで振り返る。明るい髪が陽光を受けて金色に輝き、澄んだ瞳には純粋な喜びが溢れていた。「すごく大きいよ! お母さんに見せようね!」


 エルナは微笑み、弟の元へ歩み寄ろうとした。その時だった。銃声が森を切り裂いた。


 一瞬、何が起きたのか分からなかった。リオンの小さな体がぐらりと傾き、拾ったばかりの栗が落ち葉の上に転がった。そして弟の胸に、赤い花が咲いた。エルナは叫び、駆け寄り、弟を抱き起こした。小さな体は信じられないほど軽く、胸からは温かい血が溢れ続けていた。


「お姉……ちゃん……」


 リオンの唇が動いたが、声にはならなかった。澄んだ瞳がゆっくりとエルナを見上げる。そこにあったのは痛みよりも困惑だった。何が起きたのか分からない、どうして自分が倒れているのか分からない、そんな表情。血がエルナの手を濡らし、服を染め、落ち葉の上に広がっていった。温かかった。けれどその温かさは急速に失われていく。


 蹄の音が近づいてきた。顔を上げると、狩猟姿の貴族たちが馬上からこちらを見下ろしていた。その中心にいた黒髪の男が銃を手にしており、銃口からはまだ薄い煙が立ち昇っていた。別の貴族が眉をひそめ、「これは……平民の子か。グレン、君の弾が当たったようだな」と言った。


 グレンと呼ばれた男——若きヴォルナー伯爵は、馬上で身じろぎした。酒の匂いが風に乗って漂ってきた。「なぜこんな所にいる」と伯爵は舌打ちをした。苛立ちの籠もった声だった。「邪魔な場所に立つからだ」


 エルナはその言葉を聞いた。弟の血に染まった手で、冷たくなっていく小さな体を抱きしめながら、その言葉を一字一句、聞いた。伯爵は部下に「示談金を用意しろ、穏便に済ませろ」と命じ、馬首を巡らせた。一度も振り返らなかった。紅葉がはらはらと舞い落ち、赤い葉がリオンの血と混じり合った。


 馬車が大きく揺れ、エルナは目を開けた。窓の外には夕暮れの街並みが広がっている。十二年前の記憶は、今も色褪せることがない。両親は示談金を受け取ったが、程なくして壊れていった。母は毎夜泣き続けてやがて寝込むようになり、父は酒に溺れて商売を傾かせた。三年後に母が、その翌年に父が世を去り、残されたのは十四歳のエルナだけだった。あの日から十二年、エルナは復讐のためだけに生きてきた。教師としての実績を積み、評判を高め、いつかヴォルナー家に潜り込む機会を待ち続けた。そして今日、その機会がついに訪れたのだ。


 翌朝、エルナは再びヴォルナー伯爵邸を訪れた。使用人に案内され、高価な絨毯が敷かれた廊下を歩き、風景画が並ぶ壁を眺めながら二階の書斎へと向かった。どの調度品も平民の年収を軽く超える値がつくものばかりだろう。弟の命と引き換えに支払われた示談金など、この屋敷の主人にとっては端金に過ぎなかったのだ。


 書斎の扉を開けると、窓辺に少年が座っていた。黒髪に整った顔立ち、澄んだ青い瞳——父親によく似た面差しだが、その表情にはまだ幼さが残っている。膝の上には分厚い歴史書が開かれており、エルナの気配に気づいた少年は慌てて本を閉じ、立ち上がって礼儀正しく頭を下げた。


「エルナ先生ですか? アルフレッド・ヴォルナーです。よろしくお願いいたします」


 エルナは一瞬、息を呑んだ。十歳。リオンが生きていれば今年で十八歳になるはずだった。だが目の前の少年は十歳——リオンが死んだ時と同じ年齢なのだ。この子は何も知らない、とエルナは心の中で呟いた。父親が何をしたのか、自分がどんな罪の上に生きているのか、何も。


「はじめまして、アルフレッド様。今日からよろしくお願いしますね」


 エルナは微笑んだ。いつもの穏やかな教師の微笑みだった。アルフレッドの顔がぱっと輝き、「僕、勉強が好きなんです。特に歴史。昔の王様とか英雄の話とか、すごく面白くて」と早口で言った。その無邪気な笑顔に、エルナの心が軋んだ。この笑顔があの男に似ている——だが表情を崩すことは許されない。


「それは素晴らしい。では、まず古代史から始めましょうか」


「本当ですか! やった!」


 少年は嬉しそうに椅子に座り直し、目を輝かせてエルナを見上げた。教え甲斐のある生徒だ、とエルナは思った。だからこそ、この子があの男の息子であることが許せなかった。


 その夜、使用人たちが寝静まった後、エルナは自室を抜け出した。蝋燭の小さな炎を頼りに、廊下を音もなく歩く。目指すは伯爵の書斎だった。扉に鍵はかかっておらず、エルナは素早く中に入ると机の引き出しを開けた。書類の束、封蝋の押された手紙、革表紙の帳簿——目当てのものを探して指が動く。


 そして見つけた。十二年前の帳簿。黄ばんだ紙に几帳面な文字が並んでいる。指がある一行で止まった。『示談金支払い——ブレイン家宛。金貨五百枚』。それだけだった。たったそれだけの記録で、リオンの命は処理されていた。エルナの手が震えた。この一行で、すべてが奪われたのだ。弟の命も、両親の心も、エルナの未来も。だが今は感情に溺れている場合ではない。深呼吸をして震えを止め、帳簿を元の場所に戻すと、エルナは音を立てずに書斎を出た。


 自室に戻ると、エルナは荷物の中から小さな布を取り出した。そこには幼い少年の顔が描かれている。明るい髪、澄んだ瞳、笑みを浮かべた唇——リオンの肖像だった。窓から差し込む月明かりの中で、エルナはその絵に語りかけた。


「リオン、お姉ちゃんは決めたよ。あの男から全てを奪う。財産でも地位でもない。彼が最も愛しているもの——息子のアルフレッドを」


 声は静かだったが、その奥には十二年かけて研ぎ澄まされた刃のような決意があった。私は教師として彼を育てる。正しいことを教え、正義を教え、善悪を教える。そして父親の罪を知らせ、アルフレッドから父への信頼を打ち砕く。それから——エルナの瞳が、月明かりの中で冷たく光った。


 日々は穏やかに過ぎていった。朝は書斎でアルフレッドを迎え、午前中は歴史と文学、午後は算術と倫理学を教える。合間には庭園を散歩し、時には図書室で調べ物をした。アルフレッドは聡明な生徒だった。疑問があればすぐに質問し、説明を聞けば目を輝かせて頷く。知識を吸収することに純粋な喜びを感じているのが、その表情から伝わってきた。


 ある日の歴史の授業で、アルフレッドが教科書を指さして尋ねた。「先生、この部分がよく分からないんですが。古代の王様が反乱を起こした貴族を処刑したって書いてあるんですけど、なぜ話し合いで解決しなかったんですか?」


 エルナは微笑み、窓の外に目をやった。庭園の木々が秋の風に揺れている。「良い質問ね。多くの場合、争いは利害の対立から生まれるの。誰かが得をすれば誰かが損をする。そういう状況では、話し合いだけでは解決できないことも多いわ」


「でも、殺すのは……」アルフレッドは眉をひそめた。「人を殺すのは、悪いことですよね?」


「そうね。命を奪うことは取り返しがつかない。だからこそ、権力を持つ者はその力の使い方を慎重に考えなければならないの」


 あの男は慎重に考えたりしなかった、とエルナは心の中で呟いた。酒に酔って銃を撃った。それだけのことだ。アルフレッドが「先生?」と心配そうに声をかけてきて、エルナは我に返った。「難しい顔をしてます」と少年が言う。「いいえ、何でもないわ。さあ、続きを読みましょう」


 文学の授業では古典的な悲劇を題材にした。主人公が理不尽な運命に翻弄され、愛する者を失い、最後には自らも命を落とす物語。アルフレッドは読み進めるうちに目に涙を浮かべ、「この主人公、可哀想です……」と呟いた。エルナはその横顔を見つめた。リオンも、こんな風に優しい子だった。物語の中の不幸に心を痛め、他者の悲しみに寄り添える子だった。


「優しい心があるのね、アルフレッド」


「先生も、この話を読むと悲しくなりますか?」


「ええ、そうね。悲しい物語は何度読んでも悲しいわ。でも、だからこそ価値があるの。悲しみを知ることで、人は優しくなれる」


 アルフレッドは真剣な顔で頷いた。この子は本当に良い子だ、とエルナは思った。素直で賢く、優しい。教え甲斐がある。だからこそ、あの男の息子であることが許せない——その思いは日を追うごとに強くなっていった。


 ある夕刻、エルナは廊下で足を止めた。食堂の方から怒声が聞こえてきたのだ。「何をしている、この無能が!」というヴォルナー伯爵の声に続いて、何かが砕ける音、そして鈍い打撃音。エルナは物陰から食堂を覗き見た。床には高価な陶器の破片が散らばり、その傍らに年配の使用人が倒れている。頬は赤く腫れ上がり、唇の端から血が滲んでいた。


「高価な陶器を割りおって! 給金から差し引いてやる!」


 伯爵は使用人を見下ろしながら怒鳴った。先ほどまでの温厚な紳士の面影はどこにもなく、その目には冷酷な光が宿っている。エルナの背後で小さく息を呑む音がした。振り返ると、アルフレッドが立っていた。顔を強張らせ、目を見開いて父親の姿を見つめている。その瞬間、伯爵がこちらに気づいた。一瞬だけ表情が凍りついたが、すぐに柔和な笑みが浮かんだ。


「おや、アルフレッド。勉強は順調かね?」


 その変わり身の早さにエルナは内心で舌を巻いた。アルフレッドは「は、はい、父上……」と震える声で答え、俯いた。伯爵は何事もなかったかのように「エルナ先生、息子をよろしく頼むよ。さあアルフレッド、勉強に戻りなさい」と言った。


 書斎に戻る道すがら、アルフレッドは黙り込んでいた。エルナもあえて何も言わなかった。書斎に入り扉を閉めてから、アルフレッドがぽつりと呟いた。「父上は……厳しい方です。でも、それは使用人の教育のため……ですよね?」


 少年はエルナを見上げた。その目には不安と、そして切実な願いが宿っていた。父親を信じたい、父親は正しいのだと思いたい——そんな願い。エルナはその視線を受け止め、「……そうかもしれないわね」と答えた。この子は父親を信じたがっている。その信頼を、いずれ私が打ち砕く。


 秋が深まり、庭園の木々が鮮やかに色づいた頃のことだった。授業の合間に二人は庭のベンチに座り、午後の柔らかな日差しを浴びていた。風が吹くたびに紅葉が舞い落ち、芝生の上に赤や黄色の斑点を作っている。


「先生は、兄弟とかいますか?」


 不意にアルフレッドが尋ねた。エルナの手が膝の上で僅かに強張った。「……いたわ」と答えると、アルフレッドは「いた……?」と聞き返した。


「弟が。リオンという名前だった。あなたと同じくらいの年で……亡くなったの」


 アルフレッドの表情が曇った。エルナは庭園の紅葉を見つめながら続けた。「明るい子でね、いつも笑っていた。秋になると森で一緒に木の実を拾ったわ。最後に会った日も栗を拾っていたの。大きな栗を見つけて、すごく嬉しそうだった」


 一度言葉を切り、エルナは静かに言った。「……そして、貴族に殺された」


「えっ……!」


 アルフレッドが声を上げた。エルナは淡々と説明した。狩猟中の事故ということにされたこと。本当は酔った貴族が遊び半分で銃を撃ったこと。弟はたまたまそこにいただけだったこと。その貴族は示談金を払っただけで罰せられなかったこと。


 アルフレッドの手が拳を握りしめた。「それは……許せません!」と少年は言った。その正義感に満ちた声を聞きながら、エルナは心の中で呟いた。そう、あなたは正義感が強い子。その正義感が、いずれあなた自身の父を糾弾することになる。


 数日後の授業で、エルナは「正義」について語った。歴史上の不正義の事例を挙げ、法で裁けない罪について問いかけた。百年前の農民反乱では領主の重税に苦しむ農民たちが立ち上がったが、反乱は鎮圧され首謀者は処刑された。五十年前の冤罪事件では無実の男が貴族の陰謀で投獄され、獄中で命を落とした。真実が明らかになったのは彼の死後十年も経ってからだった。


「法は万能ではないわ」とエルナは言った。「権力を持つ者が法を操れば、正義は歪められる。では、法で裁けない罪はどうすべきだと思う?」


 アルフレッドはしばらく考え込んでから答えた。「でも……法がなければ復讐になってしまいます」


「そうね。復讐は新たな悲劇を生む。でも、罪を隠したまま生きる加害者は罰せられないまま天寿を全うする。被害者は泣き寝入りするしかない。それで良いのかしら」


「先生の弟さんを殺した貴族は……罰せられなかったんですよね」


「ええ。示談金だけ。彼は今も何事もなかったかのように暮らしているわ」


 アルフレッドが机を叩いた。「それは間違ってます! 悪いことをしたのに罰せられないなんて、おかしいです!」


 エルナはその様子を静かに見つめた。この子は本当に純粋だ。だからこそ、真実を知った時のショックは大きいだろう。そして、それこそが私の復讐なのだ。


 ある雨の日、アルフレッドが熱を出した。朝から顔色が優れなかったが本人は「大丈夫です」と言って授業を受けていた。しかし昼過ぎには明らかに具合が悪くなり、エルナは授業を中断させて休ませることにした。使用人がアルフレッドを寝室に運んだ後、エルナは看病を買って出た。


 濡れタオルで額を冷やし、水を飲ませ、様子を見守る。窓の外では雨が激しく降り続け、時折雷鳴が遠くで轟いていた。アルフレッドは弱々しい声で「先生……ありがとうございます。使用人に任せてもいいのに……」と言った。


「いいのよ。あなたは私の生徒だもの。それに、こういう時こそ誰かがそばにいた方がいいでしょう」


 アルフレッドはエルナを見上げ、「先生は……お母さんみたいです」と言った。その言葉にエルナの手が止まった。リオンも同じことを言った。熱を出した弟を看病した夜、濡れタオルで額を冷やしながら一晩中そばにいた時、弟は弱々しく笑って「お姉ちゃん、ありがと……」と言ったのだ。


 この子はリオンと同じだ、とエルナは思った。無垢で、優しくて、何も知らない。私は本当にこの子を——「先生? 大丈夫ですか? 顔色が悪いです」とアルフレッドが心配そうに言った。エルナは「いいえ、何でもないわ」と微笑んだが、その微笑みがいつもより少しだけ歪んでいることに、アルフレッドは気づかなかった。


 その夜、エルナは自室でリオンの肖像画を見つめていた。「ごめんね、リオン……お姉ちゃん、迷ってる」と声が震えた。アルフレッドの顔が脳裏から離れなかった。熱に苦しみながらも「先生」と呼んで甘える姿。無邪気に笑う姿。真剣に授業を聞く姿。「でも……でも!」とエルナは肖像画を胸に抱きしめた。「あの男は許せない。絶対に」——窓の外では雨が夜通し降り続けていた。


 秋も終わりに近づいた頃、夕食の席にエルナが招かれた。食堂には豪華な料理が並び、ヴォルナー伯爵は上機嫌で葡萄酒を傾けていた。「そろそろ冬だな。その前に狩猟を楽しんでおきたいものだ」と伯爵が言うと、アルフレッドが身を乗り出した。「父上、今年は僕も連れて行ってくれますか?」


「もちろんだ。もう十歳だしな。そろそろ狩りの作法も教えてやろう」


 その瞬間、エルナの手からフォークが滑り落ちそうになった。かろうじて落下を防いだが、伯爵がその動きに気づいた。「エルナ先生、大丈夫かね?」


「失礼しました。少し考え事を……」


 エルナは微笑んでみせたが、心臓は激しく鳴っていた。狩り。あの日も、この男は狩りをしていた。そしてリオンを——伯爵が「先生も狩りに興味がおありかね?」と何気なく尋ねた。「いいえ、私は……命を奪うことにあまり慣れていませんので」とエルナは答えた。


 食事の後、廊下を歩きながらアルフレッドが不意に口を開いた。「先生、狩りって危なくないですか?」


 エルナは足を止め、窓の外を見やった。暮れかけた空が紅色に染まっている。「……ええ、とても。命を奪うということの重さを、忘れてはいけないわ」


「動物の命、ということですか?」


「それだけじゃない。もっと……」


 言葉を濁し、エルナは歩き出した。間もなくこの屋敷での日々も終わる。私は決めなければならない。


 狩猟の日が来た。秋の森は紅葉に包まれ、赤、橙、黄の色彩がエルナの視界を満たしていた。十二年前と同じ光景だった。「先生も来てくれるんですね!」とアルフレッドが嬉しそうに言った。エルナは「アルフレッド様の安全確保のためよ。初めての狩りですものね」と微笑んだ。伯爵は馬上から二人を見下ろし、「まあ良いだろう。だが獲物を追う時は下がっていてくれ」と言った。


 一行は森の奥へと進んだ。伯爵と騎士たちが獲物を追い、アルフレッドは父の後ろについて歩いた。エルナは少し離れた場所から二人を見守りながら、周囲の木々に目を配っていた。そしてある場所で、エルナは足を止めた。古い樫の木。その根元に小さな石が積まれている。十二年前、エルナが自分の手で積んだ石——リオンが息を引き取った場所の目印だった。


「……ここです」


 エルナの声に、伯爵とアルフレッドが振り返った。「ここ? 何がだ?」と伯爵は怪訝な顔をした。エルナは真っ直ぐに伯爵を見つめた。十二年間、この瞬間を待っていた。この男の顔を見て真実を告げる瞬間を。


「十二年前、あなたが六歳の少年を射殺した場所です」


 森が静まり返った。鳥のさえずりさえ止んだように感じた。「……何を言っている」と伯爵の声が低くなった。


「私の名前はエルナ・ブレイン。あなたが殺したリオン・ブレインの姉です」


 アルフレッドの顔が凍りついた。エルナは続けた。「この場所で、十二年前の秋に。あなたは狩猟中、酒に酔って私の弟を撃った。たまたま森にいただけの、六歳の子供を」


「……あれは事故だった」と伯爵の顔から血の気が引いた。


「事故? あなたは撃った後、『邪魔な場所にいるからだ』と言った。そして示談金だけ払って、振り返りもせずに去った」


「そんな……そんな昔のことを……」


「昔?」エルナは冷たく笑った。「私にとっては、昨日のことです」


「父上……」アルフレッドの声が震えていた。「本当なんですか?」


「アルフレッド、これは……」


「本当なんですか!?」


 少年の叫びが森に反響した。伯爵は口を開いたが、言葉が出てこなかった。その沈黙が、すべてを物語っていた。アルフレッドの目から涙が溢れた。「父上……先生の弟を……殺したんですか……」——伯爵は何も言えなかった。エルナはその様子を静かに見つめていた。これで終わりではない。まだ足りない。


 王都の法廷は傍聴人で溢れていた。貴族が平民を殺す事件は珍しくないが、被害者の遺族が声を上げて裁判にまで持ち込むのは極めて稀なことだった。エルナは証人席に立ち、十二年分の証拠を淡々と述べた。帳簿の記録、当時の使用人の証言、事件現場の詳細な記述——声は落ち着いており、感情的になることはなかった。


 アルフレッドも証言台に立った。「父は……間違っていました」と少年の声は震えていたが、はっきりと響いた。「先生の弟を殺したことは事実です。父もそれを認めました」——傍聴席がざわめいた。貴族の息子が父の罪を認めるなど、前代未聞のことだった。被告席のヴォルナー伯爵はうなだれたまま、一度も顔を上げなかった。


 老齢の判事が咳払いをして判決を言い渡した。「被告グレン・ヴォルナーに対し、禁固五年を言い渡す。ただし爵位は維持する。事件の時効性および被告の社会的地位と貢献を鑑み、この判決が妥当と判断する」


 エルナは立ち尽くしていた。五年。たったの五年。リオンの命が、五年の禁固刑。拳を握りしめると、爪が掌に食い込んで血が滲んだ。だが痛みは感じなかった。傍聴席の貴族たちから安堵のため息が漏れ、平民席からは不満の声が上がったが、判事は意に介さなかった。木槌が打たれ、裁判は終わった。法廷を出る時、エルナの目は乾いていた。涙はとうに枯れ果てていた。これが法か。これが正義か。ならば、私が裁く。


 判決の翌日、エルナはヴォルナー邸を訪れた。アルフレッドは書斎で待っていた。目は泣き腫らし、顔色は青白かった。「先生……」と少年はエルナを見上げた。「父は罪を償います。軽い刑だけど……でも、これで終わりですよね? 先生は正しいことをしました。僕は……僕は先生を尊敬します」


 アルフレッドは続けた。「これから僕は法律を学びます。二度とこんな悲劇が起きないように。身分に関係なく、誰もが正しく裁かれる世の中を作りたい。先生のおかげで、僕は正しい道を知りました」——そして初めて笑顔を見せた。涙の跡が残る頬に、無邪気な笑みが浮かんだ。「先生、ありがとうございます」


 この子は何も悪くない、とエルナは思った。むしろ私の教えを真摯に受け取ってくれた。だがアルフレッドの笑顔が父親の顔と重なった瞬間、許せない、という思いが胸を焼いた。「先生? 大丈夫ですか?」とアルフレッドが心配そうに覗き込んだ。「ええ……大丈夫よ。また明日来るわね」——「はい! 待ってます!」と少年は嬉しそうに答えた。


 書斎を出て廊下を歩く。足取りは重かった。五年で出てくる。あの男は五年で出てくる。そしてまた何事もなかったように暮らす。リオンを殺したことなど忘れて。足が止まった。許せない。絶対に許せない。


 夜の王都、裏通りの薬師の店。薄暗い店内には怪しげな薬瓶が所狭しと並び、干からびた薬草や得体の知れない液体が埃臭い空気の中で仄かに光っていた。店の奥からしわがれた声がした。「……何が欲しい?」


「人を殺せる毒を」


 エルナは真っ直ぐに老婆を見つめた。老婆はエルナの目を見た。そこに迷いがないことを確認するように、じっと。「……確実に?」


「ええ。苦しまず、証拠も残らず」


 老婆は棚から小瓶を取り出した。透明な液体が蝋燭の光を反射していた。「これを食物に混ぜろ。数時間で心臓が止まる。苦しみはない」——エルナは金貨を置いた。老婆はそれを数えもせずに受け取り、「後悔しても知らないよ」と言った。「しません」とエルナは答え、小瓶を懐にしまった。店を出ると夜空には月が浮かび、冷たい秋の風が頬を撫でた。リオン、お姉ちゃんはもう戻れない。でも、それでいい——足音を響かせながら、エルナは夜の街を歩いていった。


 穏やかな秋の日だった。空は高く澄み、陽光が庭園を金色に染めていた。木々の葉は鮮やかに色づき、時折吹く風に揺れてはらはらと舞い落ちる。エルナは庭園のベンチに腰かけ、傍らには銀のティーセットを置いていた。


「先生、今日は外で授業ですか?」


 アルフレッドが嬉しそうに駆け寄ってきた。エルナは微笑んだ。「ええ、特別授業よ。今日が最後の授業になるわ」


 アルフレッドの顔が曇った。「えっ? 先生、どこか行っちゃうんですか?」


「……ええ、少し遠くへ。だから、特別なお茶を用意したの」


「先生のお茶、いつも美味しいです」


 アルフレッドは無邪気に笑った。エルナは紅茶をカップに注いだ。琥珀色の液体が陽光を受けて輝いている。懐から小瓶を取り出す。手が震えていた。


 今ならまだ間に合う——アルフレッドは庭園の花を見ていた。その横顔が陽光に照らされて、まるで天使のように見えた。この子は何も悪くない。私の教えを真剣に聞いてくれた。正義を信じ、法律家を志すとまで言ってくれた。脳裏にリオンの顔が浮かんだ。木の実を拾って嬉しそうに笑う顔。血に染まって苦しそうに息を引き取る顔。


 エルナの手が止まった。リオン——小瓶の蓋を開けた。透明な液体をカップに垂らした。紅茶に溶けて、消えた。


「さあ、召し上がれ」


 エルナはカップをアルフレッドに差し出した。「ありがとうございます!」と少年はカップを受け取った。湯気が秋の空に立ち昇る。一口飲んで、「美味しい……先生のお茶、本当に好きです」と言った。エルナは黙って見ていた。アルフレッドは二口目を飲んだ。三口目。


「先生、また会えますか?」


 少年が不意に尋ねた。「……ええ、いつか」とエルナは答えた。嘘だった。


「先生、僕……」


 アルフレッドが何かを言いかけたその時、彼の顔が歪んだ。胸を押さえ、カップを落とした。琥珀色の液体が芝生に染み込んでいく。


「アルフレッド!?」


 エルナが声を上げた。演技だった。アルフレッドは苦しそうに息をしながら膝から崩れ落ち、芝生の上に倒れた。「せん……せい……なん……で……」——澄んだ青い瞳がエルナを見上げた。そこにあったのは苦痛よりも困惑だった。理解できない、という表情。十二年前のリオンと同じ表情だった。


「ぼく……せんせいを……しん……じてた……のに……」


 アルフレッドの唇が震えていた。エルナはその傍らに膝をついた。アルフレッドの手が弱々しく伸びてきた。エルナの手を探すように。


「ごめんなさい」


 エルナの声が震えていた。「ごめんなさい、アルフレッド」——涙が頬を伝った。止めようとしても止められなかった。アルフレッドの瞳から光が失われていく。最後に微かに唇が動いた。何かを言おうとしていた。だが声にはならなかった。そして——静かに息を引き取った。


 風が吹いた。紅葉がはらはらと舞い落ちた。エルナはアルフレッドの亡骸を見下ろしていた。「ごめんなさい……」と声が掠れた。「ごめんなさい……」——秋の陽光が二人を照らしていた。穏やかで、残酷なほどに美しい午後だった。


 その夜、ヴォルナー伯爵邸は騒然としていた。使用人がアルフレッドの遺体を発見したのは夕刻のことだった。庭園のベンチの傍らで、まるで眠っているかのように横たわる少年の姿を見つけた時、使用人は最初、昼寝をしているのだと思った。だが体は冷たくなっていた。医師の検視で毒物が検出され、茶器からも反応が出た。「エルナ・ブレインはどこだ!」と騎士団長が叫んだが、エルナの姿はすでになかった。部屋はもぬけの殻で、荷物も消えていた。窓は開け放たれ、夜風がカーテンを揺らしていた。「国境を封鎖しろ! 王国騎士団に指名手配を出せ!」——馬蹄の音が夜の街に響いた。


 王都牢獄で、ヴォルナー伯爵は独房で本を読んでいた。禁固刑とはいえ貴族の扱いは平民とは異なり、個室が与えられ本を読むことも許されていた。五年耐えれば元の生活に戻れる——そう考えていた。扉が開き、看守が駆け込んできた。「伯爵様……! アルフレッド様が……」——看守の声が震えていた。


「アルフレッドがどうした?」


「……毒殺されました」


 本が床に落ちた。言葉の意味が頭に入ってこなかった。「犯人はエルナ・ブレインという女です」——その名前を聞いた瞬間、ヴォルナーの脳裏ですべてが繋がった。森での告白。裁判。そして——


「……あの女……」


 ヴォルナーは鉄格子に掴みかかった。「アルフレッドは!? 今どこにいる!? 会わせろ! 息子に会わせろ!」——「もう葬儀の準備が……」と看守が言った。「嘘だ……嘘だ……!」——ヴォルナーは鉄格子を揺すったが、びくともしなかった。膝から崩れ落ち、「アルフレッド……アルフレッド……!」と叫んだ。


 あの女は俺から——俺が十二年前に奪った命の代わりに——俺の息子を——すべてを理解した。号泣した。声を上げて泣いた。だが牢獄の中では何もできなかった。息子の最期を看取ることも、葬儀に出ることも、何も。


 五年が過ぎた。ヴォルナー伯爵邸はひっそりと静まり返っていた。刑期を終えた伯爵が戻ってきた時、屋敷には数人の使用人しか残っていなかった。多くは暇を出されるか自ら去っていった。伯爵の姿は五年前とは別人のようだった。髪は真っ白になり、頬は痩け、目は虚ろで、かつての威厳は跡形もなかった。


 彼は真っ直ぐにアルフレッドの部屋へ向かった。扉を開けると、五年前のままだった。教科書が机に並び、玩具が棚に飾られ、ベッドにはアルフレッドが好きだった絵本が置かれていた。窓からは庭園が見えた。息子が毒殺されたあの庭園。伯爵は床に座り込んだ。「アルフレッド……許せ……父が……父が悪かった……」——涙ももう出なかった。枯れ果てていた。誰もいない部屋で、ただ呟き続けた。窓の外では秋の風が木々を揺らし、紅葉がはらはらと舞い落ちていた。


 隣国の修道院。質素な部屋に、修道女の服を着た女が座っていた。栗色の髪は短く切られ、かつての面影はほとんど残っていなかったが、淡い褐色の瞳だけは変わっていなかった。壁には二枚の肖像画が掛けられていた。一枚は明るい髪と笑みを浮かべた唇の幼い少年——リオン。もう一枚は黒髪と澄んだ青い瞳の少年——アルフレッド。


 エルナは毎晩同じ夢を見た。庭園のベンチ、紅茶のカップ、そしてアルフレッドの声。『先生……なぜ……?』『信じてたのに……』——目を覚ます。息が荒い。冷や汗が全身を濡らしている。窓の外は曇天だった。灰色の空がどこまでも続いている。


「私も……地獄にいる」


 エルナは二枚の肖像画を見つめた。「リオン……これで良かったの?」——答えは返ってこなかった。風が窓を揺らした。どこかで鐘の音が響いていた。


 復讐は完遂された。だが、誰も救われなかった。ただ二人の無垢な子供が死に、二つの魂が壊れただけだった。秋の風が誰もいない庭園の落ち葉を舞い上げる。紅葉は今年も赤く染まり、やがて枯れ落ちる。そして、また春が来る。何事もなかったかのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ