風邪っぴきの来訪者
週の半ばの水曜日。感染対策室の窓の外は、朝からしとしとと雨が降り続いている。梅雨に逆戻りしたかのような陰鬱な空模様は、人の気力まで奪っていくようだ。
私はパソコンのモニターに映る院内感染のサーベイランスデータと睨めっこしながら、三杯目になる熱いコーヒーを啜っていた。
いつもなら、この時間は静寂に包まれているはずだった。週に一度の嵐、小日向ひまりの来訪は、決まって月曜の午後。だから、油断していた。廊下の向こうから聞こえてきた、覇気のない、引きずるような足音に、私はまったく気づかなかった。
コン、コン。
弱々しいノックのあと、ドアがゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、私の予想を裏切る人物だった。
「しつちょー……ちわーす……」
そこにいたのは、いつもの太陽みたいな彼女ではなかった。ヨレヨレの不織布マスクで顔の半分は隠れているものの、覗く目元は潤み、頬は不健康に赤い。声はカサカサに掠れ、ピンヒールではなく、ぺたんこのローファーを履いているせいで、心なしか背中まで丸まって見える。
「小日向さん? あなた、どうしたの、その格好」
「いやあ、なんか、昨日から喉イガイガするなーって思ってたら、今朝んなって、ガッツリ……。 風邪、ひいちゃったみたいで……へへ……」
へへ、じゃないわよ。私は思わず眉をひそめた。熱があるのは一目瞭然だ。ふらふらと覚束ない足取りでパイプ椅子に向かう彼女の姿に、私は反射的に立ち上がっていた。
「あなたねえ、体調が悪いなら会社を休んで家で寝てなさい。そんな状態でうろつかれたら、あなたがウイルスを撒き散らす感染源になるのよ」
私の強い口調に、ひまりは「うっ」と怯んだように肩をすくめる。
職業病、と言われればそれまでだ。だが、感染管理を司る者として、看過できる状況ではなかった。
「サーセン……。 でも、なんか、室長の顔見とかないと、週の後半、頑張れる気がしなくて⋯⋯」
しゅん、と効果音がつきそうなほど落ち込む彼女に、私は大きなため息をついた。説教は後だ。今は、目の前の患者(?)をどうにかするのが先決だった。
「……はあ。しょうがないわね。とりあえず、その役立たずのマスクは捨てて。こっちを使いなさい」
私はストック棚からサージカルマスクを取り出し、彼女に手渡した。さらに、体温計を深くはさむ。ピピ、と鳴った電子音が表示したのは『38.2℃』という、見過ごせない数字だった。
「やっぱり。熱があるじゃない。いつから?」
「昨日の夜から、なんかダルいなあとは……」
「水分は摂ってるの?」
「あまり……なんか、食欲もなくて……」
「馬鹿ね。脱水になったら余計に悪化するわよ。ちょっとそのまま座って待ってなさい」
私は自分のデスクの引き出しを探った。中には、緊急時用にストックしてある経口補水液の粉末が入っている。給湯室で経口補水液を作り、ひまりに渡す。
同時にPHSで内科医に連絡し、COVID-19とインフルエンザの検査オーダーをもらう。
「今、内科の先生から検査オーダーもらった。検査キット持ってくるからこれを飲みながら待ってなさい」
「は、はい……」
ひまりは、いつもの軽口も叩かず、子犬のようにおとなしく私の指示に従った。潤んだ瞳で私を見上げ、こくこくと経口補水液を飲む姿は、普段の彼女とはまるで別人のようだ。
その様子を見ていると、脳外科病棟にいた頃の記憶が蘇ってきた。体が勝手に動く。これはもう、体に染みついた看護師としての習性のようなものだ。
検査科から迅速検査キットを受け取って戻ってくると、ひまりは、パイプ椅子の上でぐったりと背中を丸めていた。
「……なんか、室長がオカンに見えてきました……」
「光栄ね。でも、生憎あなたみたいな大きな娘を持った覚えはないわ」
そう言って、私は彼女の鼻腔に細長いスワブを入れる。鋭い痛みにひまりは思わず顔をしかめる。
「へへ……厳しいとこも、そっくり……」
鼻をかみながら、そう言って弱々しく笑う彼女の体が震えていた。
私は自分のデスクからブランケットを取り出すと、何も言わずに彼女の肩にかけた。
「え、でも、これ、室長の……」
「いいから。悪寒がするんでしょう」
「……あざます……」
検査結果はどちらとも陰性だった。
内科医に報告すると、総合感冒薬と解熱鎮痛剤を院内処方で出してくれた。
薬剤師が届けてくれた薬を飲み、ブランケットにくるまったひまりは、しばらくすると、すー、すー、と穏やかな寝息を立て始めた。
無防備な寝顔は、普段のギャル気質な彼女からは想像もできないほど、幼く見える。
その寝顔を見ながら、私は静かに自分の席に戻り、パソコン作業を再開した。カタカタ、というキーボードの音だけが、ひまりの寝息に重なっていく。
どうして、彼女はこんな状態になるまで無理をしたのだろう。大人しく家で寝ていればいいものを。なぜ、わざわざ、この感染対策室まで、ふらふらとやってきたのか。
『室長の顔見とかないと、週の後半、頑張れる気がしなくて』
彼女の言葉が、頭の中でリフレインする。
この殺風景な部屋が、彼女にとっての「安全地帯」なのだということは、前に聞いた。
だが、それは、元気な時の話だと思っていた。弱っている時こそ、人は一番安心できる場所に帰りたくなるものだ。彼女にとって、それは実家でも、自分の部屋でもなく、この私の城だったというのだろうか。
気づけば、私の指は止まっていた。モニターの数字が、少しだけ滲んで見える。
私は、この若者にとって、一体何なのだろう。ただの営業先の、不愛想な看護師。それだけのはずだった。なのに、彼女は風邪をひいて、熱に浮かされながら、ここにやってきた。
まるで、巣に帰る鳥のように。
一時間ほど経っただろうか。ひまりが、もぞもぞと身じろぎをした。
「ん……」
ゆっくりと目を開けた彼女は、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった、という顔で、きょろりと部屋を見回した。
「……あ、室長……。 すいません、私、寝ちゃって……」
「少しは楽になった?」
「はい。おかげさまで……。 なんか、熱がスッて引いた感じです」
解熱鎮痛剤が効いたのだろう。顔色も、さっきよりはずいぶんいい。私はもう一度、体温計を彼女の脇に挟んだ。37.1℃。まだ微熱はあるが、峠は越したようだ。
「よかったわね。でも、今日はもう、このまま家に帰りなさい」
「はい……。 あの、室長……」
ひまりは立ち上がると、深々と頭を下げた。
「今日は、本当に……ありがとうございました。検査とか、薬とか……マジで、神対応でした……」
「別に。仕事よ、これも」
「ううん、なんか……すっごい、安心しました。室長の顔見たら、大丈夫だって思えた。ここに来たら、なんとかしてくれるって、勝手に思っちゃってて……。 ほんと、ガキみたいですけど」
そう言って、彼女ははにかんだように笑った。その笑顔は、いつもの太陽のようなそれではなく、雨上がりの空に架かる淡い虹のように、儚くも綺麗だった。
「……別に、ガキでいいんじゃないの。あなたはまだ、二十歳なんだから」
私はぶっきらぼうにそう言うと、彼女の背中をポンと叩いた。
「さ、早く帰りなさい。温かくして、ちゃんと栄養のあるものを食べるのよ。分かった?」
私の言葉に、ひまりは素直にこくりと頷いた。そして、ドアノブに手をかけたまま、何かを言い淀むように、少しだけ躊躇っている。
「どうしたの? まだ何かある?」
促すと、彼女はマスクの下で少しだけ頬を赤らめながら、視線を泳がせた。
「あの、ありがとうございました。……真澄さん」
初めて呼ばれた、下の名前。
それは、いつもの「室長」という、役職で区切られた響きとは全く違う温かい音だった。そのたった三文字が、私の心の分厚い壁をいともたやすく通り抜けて、柔らかな場所にすとんと落ちていく。
不意打ちのそれに、私は一瞬、言葉を失った。ひまりはそんな私の反応を見て、
「じゃ、お疲れ様でした!」とぺこりと頭を下げ、逃げるように部屋を出ていった。
去り際の足取りは、来た時よりもずっとしっかりしている。
一人になった部屋に、静寂が戻る。でも、その静寂は、さっきまでのそれとは、どこか違って聞こえた。パイプ椅子の上に、彼女がかけていたブランケットが、温もりだけを残して畳まれている。
私は自分の席に戻り、飲みかけで冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
いつの間にか、外の雨は上がっていた。雲の切れ間から差し込む光が、濡れたアスファルトを照らしている。
(真澄さん、か……)
もう何年も、私を下の名前で呼ぶ人はいなかった。みんな私を「三上さん」「室長」と呼ぶ。それが当たり前で、何の疑問も感じていなかった。
だから、あの若い声で呼ばれた自分の名前は、まるで知らない誰かの名前のように、新鮮で、少しだけくすぐったい。
(でも、悪くない響きだ)
なんて、そんなことを考えている自分がおかしくて、私は小さく笑った。
この城は、いつの間にか、私一人だけのものではなくなってしまったらしい。
来週、彼女は私を何と呼ぶのだろう。また「室長」に戻るのか、それとも……。
そんな、ほんの些細なことが、少しだけ楽しみになっている自分に、私は気づかないふりをした。