地味で滋味な弁当とキラキラソーダ
壁の時計が無機質に正午を告げる。PHSが沈黙を守っていることを確認し、私はオフィスの片隅にある冷蔵庫へと向かった。
その奥から引っ張り出したのは、ずいぶん久しぶりに使う二段式の弁当箱。
チーン、と軽い電子音を立てて温め終わったそれをデスクに運び、プラスチックの蓋を開ける。
ふわりと立ち上ったのは、醤油と出汁が混じり合った、郷愁を誘う香り。……我ながら、見事なまでに地味な弁当だ。
一段目。ひじきの煮物、きんぴらごぼう、切り干し大根。箸休めの卵焼きは、ちょっと焦げ目がついて不格好だ。
二段目。白米の海に浮かぶ孤島のごとく鎮座する、鮭の塩焼き。
彩り、映え、ときめき。そういった現代社会が求める概念が、綺麗さっぱり家出してしまったかのような光景。まるで昭和の食卓をそのままミニチュアにしたような、地味で、滋味深い弁当。
(……どうして、こんなものを作ろうなんて思ったんだろう)
全ての始まりは昨日の夜。仕事帰りのスーパーで、なぜか根菜コーナーだけが、ステージ上のアイドルのようにスポットライトを浴びていたのだ。
ごぼう、人参、れんこん。普段なら視界にすら入らない地味な彼らを、私は無意識に買い物カゴへ。帰宅後、何かに憑かれたように、無心で台所に立っていた。
誰に食べさせるでもない料理を、ただ黙々と作る時間。
それは驚くほどに静かで、心が凪いでいくような、満たされた時間だった。
結婚していた頃は、元夫の好物──ハンバーグや唐揚げばかり作っていた。それは『妻の役割』という名の、義務であり呪縛だった。
離婚してからは、その反動で料理の一切を放棄した。外食、コンビニ、デリバリー。孤独を生き抜くための、気楽で合理的な選択。
それでいい、それがいいはずだったのに。
(この地味で茶色い弁当は、なんだ? この手間と時間は、一体、何のために──)
そんな自問自答と共に、不格好な卵焼きに箸を伸ばした、その時だった。
「しつちょー! なんか今日、めちゃくちゃ和風な匂いしません!?」
週に一度の嵐、小日向ひまりが、ノックもそこそこに勢いよくドアを開けて入ってきた。
その手にはコンビニの袋。中からは、大きな鮭おにぎりと、カップラーメンの容器が覗いていた。
「あら、ずいぶん豪勢なランチね」
「サーセン! 今日マジで腹ペコで、炭水化物に炭水化物をぶつける背徳飯の気分だったんす! って、室長、それ……」
ひまりの視線が、私の手元にある茶色い弁当箱に突き刺さる。彼女は目を丸くすると、遠慮なくデスクのそばまでやってきて、中を覗き込んだ。
「うわっ! 茶色ッ! 渋ッ! まるでおばあちゃん家の食卓じゃないすか!」
デリカシーを母胎に置き忘れてきたかのような、清々しいまでのストレートな感想。私は澄ました顔できんぴらごぼうを口に運び、彼女の次の言葉を待つ。
「え、何すか何すか! ついに彼ピできたとか!? それとも、『男を射止めるは胃袋から』作戦の予行演習っすか!? いやでも、このチョイスは渋すぎません? やっぱ男子は肉っしょ、肉!」
「……残念だけど、不正解ね」
ゆっくりと咀嚼し、飲み込んでから、私は静かに告げた。
「これは、私のための弁当よ。私が、私のために作ったの」
「え、自分のために? わざわざ?」
ひまりは心底信じられない、という顔で、自分のカップラーメンとおにぎりを交互に見比べた。
「マジすか!? 私、自分のために作るとか、カップ麺にお湯を入れるくらいが限界っすわ。自分を労わるってなったら、ネイル新しくするとか、服爆買いするとか、そっち方面なんで。食い物は、ぶっちゃけ腹に入ればなんでもOK的な?」
「若い証拠ね」と、私は小さく笑う。
「そのうち気づくわよ。体こそが資本だって。外側を飾るだけじゃなく、内側からのメンテナンスも必要になるの」
「メンテナンス、かあ……」
ひまりはそう呟きながら、ケトルでお湯を沸かし始めた。やがて、カップラーメンの蓋をめくってお湯を注ぐと、抗いがたいジャンクな香りが部屋に充満する。私の弁当の滋味深い和の香りと混じり合い、仁義なき戦いを繰り広げ始めた。
「でも、なんか分かります。うちのオカンも、よくこんな茶色いの作ってました。当時は『またきんぴらかよー! 唐揚げがよかった!』とか文句ばっかでしたけど」
三分待つ気などない彼女は、割り箸で麺をほぐしながら言う。
「今思うと、あれが愛情だったんすかねえ。毎日毎日、飽きもせず、よくやってたなあって」
「そうね……」
私は、かつて唐揚げを揚げていた自分を思い出しながら、相槌を打った。
「自分のためだけなら、お腹を満たせればそれで良い。あえて、手間ひまかける必要性なんてないから。」
一人分の食事作りは、絶望的に効率が悪い。だから、いつしか作らなくなった。その気楽さに、心までどっぷりと浸かっていた。
でも、昨夜、ひじきの煮汁がコトコトと煮詰まるのを眺めていた時、ふと思ったのだ。
一人で食べるご飯は、確かに自由だ。でも時々、自分が何を食べているのか、分からなくなる瞬間がある。ただ空腹を満たすためのエネルギー補給。味気ない、作業のような食事。
「ああー! それ、めっちゃ分かります!」
麺をすすりながら、ひまりがぶんぶんと首を縦に振った。
「ただのエネルギー補給って感じの時! スマホいじりながら食ってて、気づいたらなくなってて、何食ったか記憶にない、みたいな!」
意外な共感に、私は少しだけ驚いた。一人で生きるということは、いつの時代も、こういう寂しさを内包しているのかもしれない。
「だから、たまにはいいかなって。自分の体を、ちゃんと慈しむ時間も必要よね」
私は少しだけ崩れた鮭の塩焼きを、丁寧にほぐしながら言った。
「この地味で茶色いおかずはね、派手さはないけど、手間をかけた分だけじんわり体に染みていく感じがする。すり減った何かを、内側から補ってくれるような、ね」
ひまりは、カップラーメンをすする手を止め、じっと私の弁当を見つめていた。その視線が、不格好な卵焼きの上で、ぴたりと停止する。
「その卵焼き、なんか、おいしそうな顔してますね」
「……甘いのよ。昔から、うちのは」
母が作ってくれた、おやつのように甘い、あの卵焼き。私の唯一のレパートリー。
「へー、甘いんだ。……今度、私にも作ってくださいよ! その甘い卵焼き!」
「もう少し、上手に焼けるようになったらね」
「やった! 約束っすよ!」
彼女は満面の笑みでそう言うと、残りの麺とスープを勢いよく平らげ、鮭おにぎりにかぶりついた。
私は静かに席を立ち、棚から長い間出番を待っていたペアグラスを取り出した。
足元のバッグから取り出したタンブラーを傾け、用意してきた淡い琥珀色の液体を注ぐ。
仕上げに炭酸水を加えれば、シュワ、と心地よい音がして、無数の泡が立ち上った。
「これでも飲んで、少しは体を労わりなさい」
そう言って差し出したグラスは、繊細なカッティングが光を乱反射させ、まるでそれ自体が輝いているかのよう。琥珀色のソーダの中では、ミントの緑とレモンの黄色が涼やかに揺れていた。
「え、何すかコレ! めっちゃオシャレじゃないすか!」
ひまりは目を輝かせ、恐る恐るグラスを受け取った。
「カモミールとレモングラスのハーブティーを、炭酸水で割ってみたの。蜂蜜を少しだけ垂らしてあるわ」
「ハーブティーの炭酸割り……。 そんなハイレベルなドリンク、はじめてなんですけど! てかこのグラス、鬼綺麗じゃないすか。室長の私物?」
「ええ。後輩の引き出物。ずっと眠ってたけど、こういうのは、使ってあげないと可哀想でしょう?」
食器棚の奥で埃をかぶっていた、私の過去の象徴。一人で二つのグラスを使う気にはなれず、かといって捨てることもできなかった中途半端な存在。でも、先週ひまりと話してから、ふとここで使おうと思ったのだ。
ひまりは、カップラーメンの塩気で満たされた口を潤すように、こくりと一口。
「……なにこれ、うま……! シュワっとして、ふわって香って、ほんのり甘い……。 なんか、女子力が爆上がりする味がします……!」
「女子力はどうか知らないけど、気分は少し落ち着くでしょう」
「落ち着くっていうか、なんか、すごい大事にされてる気分になりますね、これ」
そう言って、ひまりはグラスの中で踊る泡を、愛おしそうに見つめた。
「手作り弁当に、手作りハーブティーソーダ……。 室長、マジで誰かいるんじゃないすか? こんなの毎日出てきたら、私なら秒で胃袋掴まれちゃいますって」
私はクスッと笑い、もう一つのグラスに口をつけた。ハーブの優しい香りと炭酸の刺激が、心地よく喉を通り過ぎていく。
地味で滋味深い弁当と、きらきらしたハーブティーソーダ。ちぐはぐで、アンバランスな組み合わせ。でも、悪くない。今の私には、これくらいが、きっと丁度いい。
「じゃあ、ご相伴にあずかります!」
ひまりは嬉しそうにグラスを掲げると、もう一度、幸せそうにそれを呷った。
あの甘い卵焼きを、今度こそ、もう少しだけ上手に焼いてみようか。そんなことを考えながら、私もハーブティーソーダをもう一口飲んだ。