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ダチの結婚式

 長く続いた梅雨が、ようやくその重い腰を上げた。

 七月も半ばを過ぎた空は、まるで溜め込んでいた鬱憤を晴らすかのように、容赦のない陽光を地上に叩きつけている。

 感染対策室の窓から見えるアスファルトは陽炎で揺らめき、世界全体が巨大な蒸し風呂になったようだった。

 エアコンが懸命に冷気を吐き出す私の城に、今日も今日とて、真夏の太陽を連れてくる嵐がやってきた。


「しつちょー! 梅雨明けおめーっす! マジあっつくて溶けるかと思いました!」


 ノックもそこそこにドアを開けた小日向ひまりは、ノースリーブの白いワンピース姿だった。健康的に日焼けした腕が、その白さを一層引き立てているが、およそ医療材料メーカーの営業のする格好ではない。

 手にはもちろん、氷がたっぷりと入ったコンビニのアイスコーヒーが二つ。


「……おめでとう、でいいのかしら、これは」

「いいんすよ! 夏はテンション上げてかないと! ほら、室長も。こんな日はキンキンに冷えたコーヒーっすよ!」


 差し出された無糖ブラックを受け取ると、カップの表面にびっしょりと掻いた汗が指を濡らした。一口飲むと、冷たい液体が火照った喉を滑り落ちていく。

 ひまりはいつものパイプ椅子に腰を下ろすと、おもむろにスマホを取り出し、深刻な顔で画面を睨み始めた。いつものように近況をマシンガントークで語り始めるかと思っていた私は、少しだけ拍子抜けする。


「どうしたの。仕事で何かあった?」

「いや、仕事じゃないんすけど……室長、ちょっと意見聞かせてもらっていいすか?」


 そう言って、ひまりはスマホの画面を私に向けた。そこには、二人の女性モデルが着こなす、二種類のパーティードレスの写真が並んでいた。

 片方は、体のラインがくっきりと出る黒のIラインドレス。もう片方は、ふわりとしたパステルグリーンのAラインドレスだ。


「今度、地元のダチの結婚式なんすよ。どっちがいいと思います?」

「ずいぶん、タイプの違うドレスね」

「黒の方は、なんかイイ女風じゃないすか?  でも、緑の方も、清楚系でモテそうっていうか」

「……結婚式で、モテる必要があるの?」

「当たり前じゃないすか! 新郎側のイケてる友達とか、ワンチャンあるかもしれないし!」


 ひまりはケラケラと笑う。彼女にとって、友人の結婚式は祝福の場であると同時に、出会いのチャンスでもあるらしい。実に合理的だ。

 私は画面の二つのドレスを眺めながら、遠い昔の記憶の扉が、ギシリと音を立てて開くのを感じていた。


「⋯⋯祝うって、意外と体力いるのよね」


 ぽつりと、自分の口からそんな言葉がこぼれ落ちた。ひまりはきょとんとした顔で私を見る。


「え、そうですか? 料理も美味いし、お酒も飲めるし、幸せのお裾分けもらえて、最高じゃないすか」

「それはそうなんだけどね。他人の幸せを真正面から受け止めて、心から『おめでとう』って言うのには、結構なエネルギーがいるものなのよ。自分の心が、元気じゃないとできないことだから」


 自分の経験から出た言葉は、思った以上に重たい響きを持っていたらしい。

 ひまりは一瞬、戸惑ったように目を泳がせた。彼女の浮かれた気分に、冷や水を浴びせてしまったのかもしれない。


「……ごめんなさい。あなたの楽しい計画に、水を差すようなことを言ってしまって」


 私が慌ててそう言うと、ひまりはぶんぶんと首を横に振った。


「いや、そんなことないっす! むしろ、なんか、深いなって。室長って、たまにそういう核心突いてくるじゃないすか」


 そう言って、彼女は少しだけ真面目な顔で続けた。


「でも、確かにそうかも。失恋したばっかの時とか、仕事で病んでる時とかって、人の幸せ、素直に喜べない時ありますもんね」


 その素直な言葉に、私は少しだけ救われたような気がした。そして、記憶の蓋が、ゆっくりと開いていく。


 離婚してようやく半年経った頃、後輩の結婚式に呼ばれた時のことだ。バツイチという、自分でもまだ持て余している肩書きを背負って出席する結婚式は、想像以上に過酷な場所だった。

 チャペルの扉が開き、幸せそうな後輩がバージンロードを歩いてくる。聖歌隊の歌声が響き渡り、誰もが笑顔で彼女を見つめている。

 私も、笑顔を作らなければならない。そう思うのに、顔の筋肉が鉛のように重く、こわばっていくのが分かった。

 披露宴で流される、二人の馴れ初めのムービー。笑い合い、肩を寄せ合う写真の数々。そして、クライマックスで読まれる、両親への感謝の手紙。


「お父さん、お母さん、今日まで本当にありがとう。私は、世界一幸せです」


 涙ながらに語る後輩の声が、会場に響き渡る。すすり泣く声、温かい拍手。そのすべてが、私には眩しすぎて、直視できなかった。


「おめでとう」


 その言葉が、喉の奥に引っかかって、すぐに出てこない。周りに合わせて拍手をしながら、私は必死で、自分がここにいる意味を探していた。

 あの時の私には、他人の幸福を受け止めるだけの体力が、完全にごっそりと抜け落ちていたのだ。


「……あの頃の私は、逃げ出さないようにするだけで、精一杯だったわ」


 気づけば、そんな本音まで口にしていた。ひまりは、いつもの軽口も叩かず、ただ黙って私の話を聞いていた。

 彼女のそういうところが、私がこの週に一度の時間を憎からず思う理由なのかもしれない。

「でも」と、私は言葉を続けた。


「今なら、少し違うかもしれないわね」


 あれから、十年以上の月日が流れた。一人でいることにも慣れ、仕事という確固たる自分の居場所もできた。

 何より、こうして他愛もない話ができるギャルの営業もいる。空っぽだと思っていた私の心も、気づかないうちに、少しずつ満たされていたのかもしれない。


「今なら、きっと、素直に『おめでとう』って言える気がするわ。あの頃より、少は体力がついたから」


 それは、自分自身でも驚くほど、自然に出た言葉だった。

 私の言葉を聞いて、ひまりの顔がぱっと輝いた。


「マジすか! じゃあ、今度一緒に誰かの結婚式、行きます!?」

「なによ、いきなり。共通の友人なんていないでしょ」

「前の担当の山田さんは? 今度インドネシア人の彼女と再婚するらしいっすよ! 55歳が20代の嫁捕まえるってヤバないっすか?」

「山田さんは友達じゃないわよ。……それに、何か事情もありそうだから、そっとしておきなさい。根掘り葉掘り聞いちゃだめよ」

「はーい。 ……あーあ、 室長が黒のドレスでビシッと決めてきたら、絶対カッコいいのに」


 肩を落としながらスマホをフリックするひまりを見て、私はクスッと微笑んだ。


「じゃあ、ドレス、こっちにしよっかな」


 ひまりはそう言って、パステルグリーンのAラインドレスの写真をタップした。


「なんか、今の室長の話聞いたら、ちゃんと自分の心で、ダチのこと祝いたいなって。こっちのドレスの方が、そういう気持ちに合ってる気がする」


 その言葉が、なんだかとても嬉しかった。私がこぼした過去の痛みが、巡り巡って、彼女の素直な祝福の気持ちに繋がった。それだけで、あの日の苦い記憶も、少しは報われるような気がした。


「そうね。その方が、あなたらしいわ」


 私がそう言うと、ひまりは「でしょ!」と、いつもの太陽みたいな笑顔に戻った。


「よーし、このドレスで全力で祝って、ついでに全力で出会い、探してきまーす!」


 彼女は元気よく立ち上がると、空になったコーヒーのカップを軽々とゴミ箱に放り込んだ。


「じゃ、室長、また来週!」


 嵐のように去っていくひまりを見送りながら、私は一人、静かな部屋に残された。

 ふと、自宅の食器棚の奥で眠っている、ペアグラスのことを思い出した。後輩の結婚式の引き出物。ずしりと重く、私の心を嘲笑っているように感じた、あのグラス。

 長い間、箱からも出さずにしまい込んでいた。一人で二つのグラスを使う気にはなれず、かといって、捨てることもできなかった、中途半端な存在。


「……あのグラス、そろそろ使ってみようかしら」


 小さく呟きながら、私は自分のデスクの引き出しから、小さなメモ帳を取り出した。

 その時、ふと黒のIラインドレスを着た自分が、パステルグリーンのAラインドレスを着たひまりと一緒に披露宴会場のテーブルに座っている姿が頭に浮かんだ。


「いやいや、ないから」


 私は苦笑いしながら首を振り、メモ帳に『炭酸水』『ハーブティー』と書いた。


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