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捨てられない白衣

 七月の生ぬるい空気が、感染対策室の窓から流れ込んでくる。

 梅雨明けを間近に控えた、粘りつくような湿度が肌にまとわりつき、思考まで鈍らせるようだ。

 年に二度の環境整備と称してキャビネットの整理を始めたものの、この暑さでは捗るはずもなかった。


 キャビネットの最上段、その一番奥。クリーニング屋のビニールを被ったまま、まるで時が止まったかのように眠っている一着の白衣があった。

 私は脚立に乗り、埃をかぶったそれに手を伸ばす。ずしり、とした重みが腕に伝わった。

 ビニールを剥がすと、防虫剤の匂いに混じって、もう十年以上も前に嗅いだはずの、懐かしい病棟の匂いがした気がした。

 それは、消毒液の匂いだけではない。シーツの匂い、食事の匂い、そして、人の匂い。様々な匂いが混じり合った、混沌とした生活の匂いだ。

 それは、私が手術室に異動するよりもさらに前、新卒で配属された脳神経外科病棟で七年間着続けた白衣だった。

 襟元はうっすらと黄ばみ、袖口は何度もボールペンのインクで汚しては染み抜きを繰り返した跡がある。ポケットの縁は、PHSのクリップを何度も留めたせいで、少しだけ生地がへたっていた。

 なぜ、これだけが捨てられずにいるのか。自分でも、その理由は判然としなかった。

 私は何かに導かれるように、キャビネットの奥に手を伸ばすと、指先に固い物が触れた。

 掴んでみると、それは経年変化で色あせたメモ帳だった。メモ帳の最後のページを開くと、そこには走り書きの、今となっては自分でも判読が難しいほどの乱雑な文字が並んでいた。


『田中さん、19時、レート低下。ご家族への連絡、20時以降』

『鈴木さん、CVカテを明日挿入予定』

『伊藤さん、窓際のベッドへ。月が見たいと』


 最後の一文に、私の指が止まった。そうだ、これは、あの日のメモだ。

 私の脳裏に、十三年前の、ある夜勤の記憶が鮮明に蘇ってきた。


                 * * *


 当時、七年目の私は、患者の検査データと症状を正確に追うことこそが正義だと信じていた。脳神経外科病棟という、目まぐるしく患者の容態が変化する現場で、感情は邪魔でしかなかった。

 私は、患者を「田中さん」「鈴木さん」という記号で認識し、彼らに必要なケアを淡々とこなす、感情のないマシーンになることで自分を守っていた。


 伊藤さんは、そんな私の前に現れた、少し風変わりな患者だった。元々は高校で国語を教えていたという70歳の女性。脳梗塞で入院してきたが、幸い麻痺は軽度で意識も比較的はっきりしていた。ただ、時折、現実と妄想の境が曖昧になることがあった。


「三上さん」


 ある日の午後、伊藤さんが私を呼び止めた。


「私を、窓際のベッドに替えてはいただけないかしら」

「どうしてです? 今のベッドでも、特に不自由はないですよね」

「今日の夜は満月なの。どうしても、月が見たいのよ。あそこからなら、きっとよく見えるわ」


 彼女が指差した先は、ちょうど空いている窓際のベッドだった。

 私はカートに乗せている電子カルテに目を落としたまま、事務的に答える。


「ベッドの移動には、師長の許可が必要です。それに、今夜は曇るそうですから、月が見えるかわかりませんよ。窓際は夜になると冷えますから、今の場所の方が体温管理の面でも望ましいですよ」


 それは、正論だった。だが、彼女は諦めなかった。


「お願い。私にとって、とても大事なことなの。見えないかもしれないけれど、とても大事なものが、私には見えるのよ」


 見えないもの。その言葉が、私の心のどこかに小さく引っかかった。だが、私は首を横に振った。業務の効率と、管理のしやすさ。それが、当時の私が最も優先していたことだったからだ。


 その夜、伊藤さんの容態が急変した。大規模な脳出血だった。緊急手術が行われたが、意識が戻ることはなかった。命は取り留めたものの、彼女はもう、言葉を発することも、月を見たいと願うこともできなくなってしまった。


 翌日の夕方、出張先から息子さんが駆けつけた。憔悴しきった表情で、眠り続ける母親の手を握る彼に、私は事務的に状況を説明した。


「手術は成功しましたが、意識の回復は……」


 息子さんは、こくりと頷くと、力なく微笑んだ。


「そうですか……。でも、生きていてくれて、よかった」


 そして、ふと何かを思い出したように、私に尋ねた。


「あの、昨日の夜、母は何か言っていませんでしたか? 月が見たい、とか……」


 その言葉に、私は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。


「……ええ、そうおっしゃっていました」


 声を絞り出すのがやっとだった。息子さんは、遠い目をして窓の外を見つめた。


「やっぱり……。 今日は、父の月命日なんです。数年前に亡くなったんですが、母は毎月この日になると、昔、父と一緒に見た月を探すんです。空の上で父が見ているから、自分も同じ月を見たいんだ、と」


 彼の言葉が、私の頭の中で反響する。


「母にとって、父との繋がりそのものだったんです。『見えなくても、いつも心にあるのよ』って、それが口癖で……。 だから、どうしても、昨夜、月が見たかったんでしょうね。父に、まだこっちで頑張ってるよって、伝えたかったのかもしれない」


 私は、何も言えなかった。彼女が「見たい」と願った月。それは、ただの天体ではなかった。

 亡き夫との、かけがえのない記憶。魂の繋がり。彼女にとって、それは生きる希望そのものだったのだ。「見えないけれど大事なものが、私には見えるのよ」という言葉が、今になって重い意味を持って私の胸に突き刺さる。


 私は、何ということをしてしまったのだろう。

 患者のバイタルサインや検査データ、そういう「目に見えるもの」ばかりを追いかけ、彼女が本当に求めていた「目に見えないもの」を、私は無下にした。

 効率や管理のしやすさという自分の都合で、彼女の切なる願いを冷たく片付けてしまった。私は、彼女の心を殺したも同然だった。


 罪悪感で、息が詰まりそうだった。その場から逃げ出したい衝動に駆られたが、私の足は床に縫い付けられたように動かなかった。

 息子さんは、そんな私の様子に気づいたのか、静かに言った。


「看護師さんも、お忙しいでしょうから。無理を言った母が悪かったんです」


 その優しい言葉が、さらに私を追い詰めた。違う、悪いのは私だ。あなたの母親の、最後の願いを、踏みにじったのは、この私なのだ。


 その日、私は初めて、自分の意志でマニュアルから逸脱した。

 師長の判断を待たずに伊藤さんのベッドを窓際に移動させた。師長は何も聞かず、ただ黙って追認してくれた。


 夜が更け、病棟が静寂に包まれる頃、私はそっと伊藤さんの病室を訪れた。分厚い雲に覆われていた空に、奇跡のように切れ間が生まれ、煌々とした満月が顔を覗かせた。銀色の光が、眠る伊藤さんの穏やかな顔を、優しく照らし出していた。

 その光景を、私はただ、息を詰めて見つめていた。

 彼女に、この光が見えているわけではない。でも、この光は、きっと彼女の心に届いている。そう、信じることができた。


                 * * *


 この出来事は、私の看護観を根底から変えた。

 目に見えるデータや症状だけを追うのではなく、その人の背景にある「見えない物語」に耳を傾けること。効率や正論だけでは、人の心は救えないこと。あの夜、窓から差し込む月光が、私の心の固い殻を、静かに溶かしてくれたのだ。


 私は、手の中の古い白衣を丁寧に畳み、再びビニールのカバーをかけた。これは、捨てられない。捨てるべきではない。これは、私の過ちと、そこから得た大切な教訓の記憶そのものなのだから。


 白衣を元の場所に戻し、脚立から降りる。窓の外は、いつの間にか夕暮れのオレンジ色に色味を変えていた。じっとりとした空気が、少しだけ和らいだように感じる。

 私は気持ちを切り替え、デスクに向き直った。その時だった。


 コツ、コツ、コツ。


 廊下の向こうから、週に一度の、陽気な時報が聞こえてきた。私はふっと口元を緩める。どうやら、新しい「捨てられない記憶」が少しずつ増えていきそうだ。


「しつちょー!  蒸し暑い中、おつかれサマーです!」


 ノックもそこそこにドアを開けたひまりの手には、スタバの新作フラペチーノ。そして、その指先は、空に打ちあがった花火のように、色とりどりのラメでキラキラと輝いていた。


「もうすぐ梅雨明けらしいっすよ! 夏、来ちゃいますね!」


 そう言って笑う彼女の「好き」を守るための武装。それは、かつての私には理解できなかった「見えないけれど大事なもの」そのものだ。

 私は、そんな彼女の来訪を、今では少しだけ、楽しみにしている自分に気づいていた。


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