インフルエンサーと認定看護師
「……はあ」
新人看護師向けの感染予防対策研修会を終え、私は重い足取りで自分の城へと戻ってきた。
新人たちの「分かりませーん」と顔に書いてある、あのキラキラした瞳。正しい知識を伝えることの難しさを、今日も今日とて痛感させられる。
疲れ切った体で感染対策室のドアを開けると、そこには少しだけ予想外の光景が広がっていた。
「……何してるの、あなた」
部屋の主である私より先に、いつものパイプ椅子に小日向ひまりがちょこんと座っていた。
スマホの画面に釘付けになり、耳にはワイヤレスイヤホン。その表情は、私が知る限り最も真剣なものだった。
「ちょ、今いいとこなんで! あと1分、1分だけ!」
ひまりは私に人差し指を立てて制止すると、再びスマホの世界に没入していく。画面からは、軽快なBGMと若い男性の声が微かに漏れ聞こえていた。
(……一体、ここのセキュリティはどうなってるの?)
そう心のなかでボヤいたところで、自分がドアの鍵をかけ忘れていた事に気がついた。
やれやれ。私はため息をつき、無言でデスクの椅子に腰を下ろす。
カバンから資料を取り出し、今日の研修会の報告書を作り始めようとした、その時だった。
「――はい、今日のまとめ! 正しい手洗いは、ハッピーバースデーの歌を2回歌う長さが目安だよ! みんなも推しの誕生日を思い浮かべながら、しっかりゴシゴシしちゃってね! じゃあね、バイバーイ!」
動画が終わったのだろう。ひまりは満足げな顔でイヤホンを外すと、興奮冷めやらぬ様子で私に向き直った。
「室長、見ました!? いや見てないか。聞いてくださいよ! 今、私が一番ハマってる医療系インフルエンサー、『ドクターK』!」
「ドクター……K? 野茂英雄?」
「⋯⋯え、逆に誰っすか、ノモって?」
「……なんでもない」
世代間ギャップに頭を殴られ、軽くめまいを起こしている私に構うことなく、ひまりはスマホの画面を突きつけてくる。
そこには、やけに顔のいい、爽やかな笑顔の白衣の男が写っていた。背景は、どう見ても本物の診察室ではなく、それっぽく飾られたスタジオだ。
「この人、医者らしいんすけど、難しい医療の話を超わかりやすく説明してくれるんすよ! フォロワー100万人! マジ神じゃないすか?」
私は突きつけられたスマホを胡散臭げに一瞥する。なるほど、確かにテロップや効果音は派手で、素人にもウケが良さそうな作りだ。
今日のひまりのネイルは、パステルカラーのマーブル模様。テーマは『夢見るユニコーンの涙』だそうだ。その夢見がちなネイルで、彼女は「これ見て!」と別の動画を再生し始めた。
「特にこの、おすすめの手指消毒剤の解説動画がマジでヤバくて! ほら、『日常の手指消毒には、保湿成分入りのこのジェルタイプがおすすめ! アルコール臭も少なくて、女子力もキープできちゃう! しかも幅広い微生物に有効』ですって! 私、速攻ポチりましたもん!」
「あなた、競合他社製品買ってどうすんのよ」
「いや、それはそれ、これはこれっすよ」
得意げに見せられた動画の中で、ドクターKは市販のジェルを手に取り、ウインクしてみせた。
多分、メーカーとのタイアップだろう。さっきから調子のいいことしか言わない。
「 室長の研修会も、これくらいポップにやれば、新人ちゃんたちも食いつくんじゃないすか? ハッピーバースデー作戦とか、秒で導入すべきっすよ!」
(ハッピーバースデー作戦……)
もう何年も前から、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)が推奨している手法だ。今さら、このドヤ顔のイケメンが発明したみたいに言われても。
私は冷静に、ドクターKが推奨していたジェルについて尋ねた。
「そのジェル、幅広い微生物に有効とか言ってたけど、具体的にはどの微生物まで有効なの?」
「え……? さあ? でも、医薬品メーカーのやつだし、全部いけんじゃないですか?」
私はため息をつく。
「ノロウイルスみたいなノンエンベロープウイルスには効果が薄いし、ウェルシュ菌のように芽胞を形成する菌には、そもそもエタノールは効果がないの」
「のん……えんべろーぷ……? がほう? 」
ひまりの頭上に巨大なクエスチョンマークが浮かぶのが見えた。
私はため息をついて、話を続ける。
「それに、そのドクターKとやらの手洗い動画、洗い方はほめられたものじゃないわよ」
「えっ、そうですか!? あんなに丁寧にやってたのに!?」
「まず手に取る消毒剤の量が少なすぎる。あれじゃ、ただ手を擦ってるだけ。それに手を流水で洗った後、濡れたまま手指消毒してたでしょ。それだと、エタノールが薄まって効果がなくなる。感染制御の視点から言えば、赤点ね」
バッサリと切り捨てると、ひまりは「うそ……」と小さな声で呟き、自分の推しが全否定されたかのようにショックを受けていた。
「だって……あんなに分かりやすかったのに……」
「分かりやすさと、正しさは必ずしもイコールじゃないのよ」
私は今日の研修会を思い出す。正確な情報を伝えようとすればするほど、専門用語が増え、内容は複雑になる。新人たちが退屈そうな顔をするのも無理はない。
一方、ドクターKは難しい部分を大胆にカットし、耳触りのいいキャッチーな言葉でくるんで提供する。その結果、フォロワーは100万人。
「……なんか、やるせないっすね」
ひまりがぽつりと言った。
「私、ドクターKの言うこと、めっちゃ信じてた。分かりやすいし、面白いし、正しいことを教えてくれてるんだって。でも、室長の話聞いてると、どっちが本当なのかわかんなくなってくる」
「彼がすべて間違っているわけじゃないわ。一般家庭での感染予防意識を高める、という点では、彼の功績は大きいのかもしれないわね。ただ、ここは病院。人の命を預かるプロの現場。ここでは、100万人からの『いいね』より、たった一つの『正しい』情報の方が価値があるの」
そうだ、私は別に、100万人に好かれようとしてこの仕事をしているわけじゃない。私が届けたいのは、この病院城で戦う、プロたちだけだ。
「……そっか。プロの現場、か」
ひまりは何かを納得したように頷くと、スマホの画面をオフにした。
「じゃあ、室長は、いわばプロ向けのインフルエンサーってことっすね。フォロワーは少ないけど、ガチ勢しかいない、みたいな」
「……どういう例えよ、それ」
「いや、だって、室長の話って、ドクターKより全然面白くないけど、なんか、説得力ハンパないんすもん。本物感っていうか」
……面白くない、は余計だ。
「じゃあ、室長。私に、その『のんえんべろーぷ』ってやつにも効く、最強の消毒液、教えてくださいよ。プロの営業として、ちゃんと知っときたいんで」
ひまりはそう言うと、カバンから小さなメモ帳とペンを取り出した。
その目は、いつものおちゃらけた光ではなく、真剣な学びに飢えた輝きを宿していた。
『夢見るユニコーンの涙』はどこかへ消え、そこにいたのは「医療材料メーカーの営業、小日向ひまり」だった。
私は少しだけ口角を上げると、デスクの引き出しから一本の水性マジックを取り出した。
「いいわ。じゃあ、特別講義を始めてあげる。今日のテーマは、『エンベロープウイルスの構造とアルコールの作用機序について』。覚悟はいい?」
「うわ、名前だけで眠くなってきた! でも、聞きます! プロとして!」
その日の感染対策室は、いつもの雑談の代わりに、私の少しだけ専門的な講義と、ひまりの真剣な質問の声が響いていた。
私に100万人のフォロワーはいない。動画にして流しても視聴回数は伸びないだろう。でも、たった一人のフォロワーが、目の前で必死にペンを走らせている。
まあ、それも悪くないか。私はそんなことを思いながら、ホワイトボードにウイルスの簡単な構造図を描き始めた。