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後任への引継ぎ

 三月になり、あたしのこの会社でのサラリーマン人生も、いよいよカウントダウンに入った。

 その日の午後、あたしは一人の巨大な男を引き連れて、あたしの聖地である感染対策室のドアの前に立っていた。

 彼の名前は、佐々木大輝。

 あたしの後任として、この難攻不落の城を引き継ぐことになった営業マンだ。

 あたしより二つ年上で、大卒。でも、入社はあたしより一年後輩。

 中学から大学まで、ずっとラグビー一筋だったというその体は、まるで岩のようで、スーツがはち切れそうだ。

 口数が極端に少なく、無骨。でも、真面目で礼儀正しいことだけが取り柄。

 その不器用さが災いしてか、営業成績はいつもどん底を這っているらしい。


「……あの、小日向先輩」


 佐々木くんが、緊張でガチガチになった声で、あたしに話しかけてきた。


「ここの感染管理室長って、やっぱり、その……厳しい方なんですか? 前任の山田先輩が『あの人は鉄の女だ。絶対に怒らせるな』って……」


 あたしは、ぷっと吹き出しそうになるのを堪えた。

 鉄の女。まあ、間違っては、いないか。


「大丈夫、大丈夫!」


 あたしは、彼の岩のような背中をバンバンと叩いた。


「確かに、なかなかの切れ者だし、正論パンチは重いけど。でも、本当は、最高に面白くて優しい人だから。緊張しないで、いつも通りやれば平気だって」

「……いつも通り、ですか」

「そう! 佐々木くんのその真面目さ、絶対伝わるから!」


 よし、と、あたしはドアノブに手をかけた。


「じゃ、行きますか!」


 そう言ってドアを開けようとした、その瞬間。

 ガチャリ、と無機質な音がして、ドアは開かなかった。

 鍵がかかっている。


「……あれ?」

「……あの、小日向先輩」


 佐々木くんが、いぶかしげな目であたしを見ている。


「アポイント、取ってますよね……?」

「え? いや、取ってないけど。いつもこの時間は絶対いるから」


 佐々木くんの顔が、みるみるうちに青ざめていく。

 そのあまりに初々しい反応がおかしくて、あたしはケラケラと笑ってしまった。

 と、その時だった。


「……何を騒いでいるの」


 背後から、地を這うような低い声。

 振り返ると、そこには呆れ顔の三上真澄さんが立っていた。


「あ、真澄さん! ちょうど良かった! あたしの後任の佐々木くんです」

「そう、よろしく。この先輩が、おかしなことを言っているようだけど、次からはきちんとアポイントを取ってから来てちょうだい」

「は、はい! 申し訳ありません!」


 佐々木くんが直立不動で頭を下げる。

 真澄さんは、そんなあたしたちを一瞥すると、鍵を開けて部屋の中へと入っていった。

 感染対策室で、改めて名刺交換が行われる。

 佐々木くんの緊張はマックスに達しているようで、その巨大な体は小刻みに震えていた。

 沈黙が気まずい。

 あたしは助け舟を出すことにした。


「佐々木くん、すごいんすよ! 中学から大学まで、ずっとラグビー部で、ポジションはプロップ。スクラムの最前線で体を張ってた、リアル・ラガーマンなんすよ!」

「……へえ」

「特技はスクワット! ベンチプレスは120キロ上げるらしいです! ね、佐々木くん!」


 あたしが話を振ると、佐々木くんは顔を真っ赤にしながら、小さな声でこう答えた。


「……うす」


 ……それだけかい!


 あたしは心の中で盛大にツッコミを入れた。

 これじゃあ話が続かない。

 真澄さんの、あの値踏みするような鋭い視線に、佐々木くんが潰されてしまう。

 あたしは、必死でフォローに回った。


「いやー、でも、すごいですよね、プロップ! チームの縁の下の力持ち、的な! 佐々木くん、そういう、自分を犠牲にして仲間を支える、みたいなポジション、得意なんすよね!?」

「……うす。まあ」

「仕事でもそうなんすよ! あたしが資料忘れた時とか、黙ってコピーしてくれたり! 見かけによらず、めっちゃマメで優しいんですよ、こいつ!」

「……いえ、別に、そんな」

「そんなこと、ありますって! ほら、佐々木くん、もっとアピールしないと! 室長に、自分の良いところを!」


 あたしは佐々木くんの岩のような背中をバンバンと叩いた。

 彼は、あたしの必死のアシストを受けて、覚悟を決めたように口を開いた。


「……あ、あの、室長」

「はい」

「自分は、その……体力には自信があります。なので……重い荷物とか、運ぶのは得意です」

「……そう」

「あと……声も大きいです。なので……応援とかも、できます」

「……なるほど」

「それから……ええっと……」


 佐々木くんは、必死で自分の長所を探している。

 だが、そのあまりにピンポイントで営業とはまったく関係のないアピールに、真澄さんの眉間の皺が一本、また一本と深くなっていくのが分かった。

 あたしの額にも、冷たい汗が流れる。

 まずい。このままでは撃沈だ。

 あたしは最後の望みをかけて、彼にとっておきの話題を振ることにした。


「そ、そうだ! 佐々木くん、ラグビーの話ならできるでしょ! ほら、室長にラグビーの魅力、語ってあげてよ!」


 すると、佐々木くんの目が、ほんの少しだけキラリと光った。

 来た! これだ!


「……ラグビーは、ボールを持った人間は、前に進むことしかできません」

「……ええ」

「でも、パスは後ろにしか出せないんす」

「……そう」

「……だから、みんなで繋いで……トライするんす」


 ……以上だった。

 彼のラグビー愛のプレゼンテーションは、わずか三文で終わってしまった。

 しーんと静まり返る感染対策室。

 あたしは、もう天を仰ぐことしかできなかった。


 真澄さんは、そんなあたしたちの不毛なやり取りを、黙って見つめていた。

 そして、おもむろに口を開いた。


「……佐々木さん。あなたは、どうしてこの仕事を選んだの?」

「……え?」


 そのあまりに本質を突く質問に、佐々木くんは言葉に詰まった。


「……それは……その……」


 佐々木くんは、しばらく俯いて黙り込んでしまった。

 そして、ようやく絞り出すように、話し始めた。


「……大学の時、大きな怪我をしました。試合中に、膝の靭帯を切って……。 選手生命は、それで終わりました」

「……そう」

「手術とリハビリで、長い間、入院しました。その時……お世話になったんです。ドクターや看護師さんたちに。……俺みたいな、ただの学生に、みんな親身になってくれて……。 だから、今度は、俺が医療の現場を支える仕事がしたいって……そう思ったんす」


 初めて聞く、彼の過去。

 いつも無口で、何を考えているかわからないと思っていた、この不器用な後輩。

 彼の中にも、ちゃんと熱い想いがあったんだ。

 真澄さんは、黙って彼の話を聞いていた。

 そして、彼が話し終えると、静かに言った。


「……いい動機ね。素晴らしいと思うわ」

「……うす」

「でも、その大切な想いを、相手にうまく伝えられなくて、もどかしい思いをしているんじゃないかしら」


 その、あまりに優しい問いかけ。

 まるで彼の心の奥底まで見透かしているかのような言葉だった。

 佐々木くんは、ハッとしたように顔を上げた。

 その大きな瞳が、驚きと、そして安堵が入り混じったように揺れている。


「あなたの、その少ない口数は、きっと、一つひとつの言葉を大切に選んでいるからでしょう。誠実さの現れよ。でも、それがなかなか相手に伝わらない。やる気がないなんて、誤解されてしまうこともありそうね」


 図星だったのだろう。

 佐々木くんは何も言えずに、ただこくりと頷いた。

 その大きな肩が、少しだけ小さく震えているように、あたしには見えた。


「営業は、相手の懐に飛び込み、信頼関係を築き、相手が本当に何を求めているのかを引き出す仕事でもあるでしょう。でも、そのやり方は一つじゃない」


 真澄さんは、静かに続けた。


「この小日向さんのように、太陽みたいに相手を照らして、心の壁を溶かしてしまうやり方もある。でも、あなたにはあなたのやり方があるはずよ」


 彼女は、佐々木くんの目をまっすぐに見つめて言った。


「あなたは、きっと、人の話をじっくりと聞くことができる人だわ。相手の小さな変化にも気づくことができる。その誠実さと真面目さこそが、あなたの一番の武器になる。……無理に、誰かの真似をする必要なんてないのよ」


 その言葉は、まるで魔法のようだった。

 がんじがらめになっていた佐々木くんの心を、優しく解きほぐしていく。

 彼の目に、みるみるうちに涙があふれてきた。


「……うす」


 彼は、鼻をすすりながら、声を絞り出した。


「俺、ずっと……口下手で、うまく喋れない自分が嫌でした。周りからはいつも、『もっと明るく、ハキハキしろ』って言われて……。 でも、どうしたらいいか分からなくて……」

「……そう」

「でも、今、室長の言葉を聞いて……。 なんか、初めて自分を認めてもらえた気がします」


 あたしは、思わずもらい泣きしそうになった。

 すごい。この人は、本当にすごい。

 ただ正論をぶつけるだけじゃない。

 相手の一番弱い部分を見抜き、それを優しく包み込んで、強さに変えてしまう。

 あたしがずっと、この人に惹かれてきた理由が、分かったような気がした。


「……頑張ります」


 佐々木くんは、涙をごしごしと乱暴に拭うと、決意に満ちた顔で言った。


「俺、俺のやり方で、最高の営業マンになってみせます」

「ええ。楽しみにしているわ」


 真澄さんの口元に、穏やかな笑みが浮かんだ。


 ***


 その日の引き継ぎは終わった。

 佐々木くんは、来た時とは別人のように、やる気に満ちた顔で帰っていった。

 あたしは、もう少しだけ真澄さんと話したくて、部屋に残った。

 真澄さんがコーヒーを淹れてくれる、その背中を眺めながら、あたしはふと、彼女のデスクの上に置かれた書類の束のなかに、一通の手紙がはみ出しているのに気が付いた。

 手紙の見出しには「……講師の依頼について」。

 差出人の名前ははっきり見えなかったが、「教授」と「新潟中央看護大学」の文字。


 (……真澄さん、大学の先生になるんだ)


 あたしの胸が、きゅっと締め付けられる。

 もうすぐ、あたしはここを卒業する。

 そして今度は、真澄さんが新しい世界へ旅立とうとしている。

 嬉しい。嬉しいはずなのに。

 もう、会うこともままならなくなるのかもしれない。

 そう思うと、たまらなく寂しかった。

 ……でも。

 あたしが、真澄さんの背中を押さなきゃ。

 あたしが、真澄さんから勇気をもらったように。


「佐々木さんに偉そうなこと言っちゃったけど、当の私が実践できないのは何でかしらね?」


 真澄さんがぼやきながら、コーヒーを注いだマグカップを持ってくる。


「……真澄さん」

「何?」

「あたし、応援してますからね。真澄さんが、どこに行っても」

「……何、言ってるの。急に」


 コーヒーを持って椅子に座った彼女は、不思議そうな顔をしていた。

 あたしは、いつもの太陽みたいな笑顔で答えた。


「なんでもないっすよ! ただ、真澄さんがどんな風に、あいつを鍛え上げるのか、楽しみだなーって思っただけです!」


 あたしはそう言って、熱いコーヒーを受け取り、一口飲む。

 温かいコーヒーの苦みが、胸に染みわたる。そんな気がした。

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