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クレゾールの匂い

 週明けの私の城――感染対策室には、紙とインクの香りが漂っている。デスクの隅には、先週発行した『院内ニュースレター感染対策室だより 第48号』の束。


 『あなたの「守りたいもの」は何ですか?』


 我ながら悪くないタイトルだ。あのギャル営業、小日向ひまりに乗せられて勢いで書き上げた一文から始まるこの記事は、院内で予想外のささやかな波紋を呼んだらしい。

 すれ違いざまに外科のベテランナースから「三上さん、読みましたよ。ちょっと考えさせられました」と真顔で言われ、薬局の若手には「三上室長の記事、エモかったです!」とキラキラした目で告げられた。


 (エモい……? )


 感情的、情緒的、とかいう意味だったか。私が書いたのは感染対策の重要性を説くためのレトリックであって、ポエムじゃないんだけど。まあ、読まれずにゴミ箱直行よりは、百万倍もマシか。

 そんなことを考えていると、廊下の向こうから、今や私にとっての時報となった陽気なヒールの音が聞こえてくる。


 コツ、コツ、コツ。


 ああ、来た。週に一度の嵐が。


「しつちょー! 今週も一週間、おつかれsummer!」


 ノックは飾り。返事を待たずにドアを開ける太陽みたいな声の主、小日向ひまりが、白いレースのブラウスにレモンイエローのスカートという、夏を全力でフライングした格好で飛び込んできた。手にはもちろん、ノートパソコンではなくコンビニコーヒーがふたつ。


「……summerってまだ六月よ」

「気持ちが夏なら、それはもう夏なんすよ!  あ、これ、今週の賄賂です」

「差し入れ、でしょ」


 ツッコミを入れつつ、差し出された無糖ブラックのカップを受け取る。ひんやりとした感触が、キーボードを叩き続けた指にやけに心地いい。


 ひまりはいつものパイプ椅子にどかりと腰を下ろす。ギッ、と今日も椅子が悲鳴を上げた。


「室長のニュースレター、聞きましたよ!  看護師さんのなかでちょっとバズってたらしいすよ! 『守りたいもの』ってテーマが刺さるーって、みんなで恋バナになったって言ってました!」

「目的はそこじゃないんだけど」

「まあまあ、固いこと言わずに!  感染対策って、結局は想像力じゃないすか?  ウイルスが目に見えないように、誰かの大事なもんも目に見えない。それを想像して行動するのが大事、みたいな? そういう意味では、恋バナもあながち無関係じゃないと思うんすけどね!」


 得意げに語る彼女の指先が、視界の端でキラリと光る。今週のネイルは、淡いイエローのグラデーションに、小さなホログラム。


「今週は『真夏の初恋レモンソーダ』っす。推しがCMやってるんで。シュワキュンって感じしません?」

「しないわね。炭酸が抜けたソーダにしか見えない」

「辛辣! でも、そのドライな感じが室長の良いとこでもあるんすけどねー」


 (褒めてるのか、それ……?)


 彼女はケラケラ笑いながら、自分の甘そうなコーヒーをかき混ぜる。


「そういえば、その恋バナの流れで、うちの友だちが彼氏と別れたんすよ。理由がマジしょうもなくて。『俺の作るカレーと、君の作るカレーの味が違いすぎる』って言われたんですって。意味わかんなくないすか?」

「……味覚の不一致は、時に致命的よ」

「うわ、室長までそっち側!?  いやいや、それを理由に別れるってどうなんすかね?  歩み寄る気ゼロかよ、みたいな」


 (……歩み寄り、ね)


 それは、お互いにその気がなければ成立しない、究極の共同作業だ。片方だけが歩み寄るのは、ただの自己犠牲でしかない。

 そんなことを考えていると、ひまりがハッと何かに気づいた顔で、私をまっすぐに見つめた。


「あ、そうだ。室長はどうだったんすか?」

「どうって?」

「元旦那さんと味覚の不一致があったとき」


 (……は?)


 その質問は、何の予告もなく、私の静寂な世界に隕石のように落下してきた。


「……もう忘れたわ。ずいぶん前の事だから」

「あ、そう言えば、元旦那さんって、どんな人だったんすか? え、なんで別れたんすか?」


(このギャルは、地雷原の上でタップダンスでも踊る気か?)


 キラキラした瞳。悪気ゼロ。純度100%の好奇心。だからこそ、タチが悪い。

 私は持っていたカップをデスクに置いた。カツン、と硬い音が、やけに大きく部屋に響く。

 何年も、誰にも話さなかったこと。心の奥底に鍵をかけて、存在しないことにしていた記憶の箱。


(どんな人、だったか……)


 脳裏に浮かぶのは、今はもう顔もおぼろげな男の姿。穏やかで、優しい人。でも、どちらも言い得てない気がする。


「……クレゾールの匂いが、嫌いな人だったわ」


 自分でも驚くほど、冷静な声が出た。ひまりは、その言葉の意味が分からないと顔に書いて、大きな瞳をぱちくりさせている。


「え?  匂いフェチ的な話じゃなくて……?」

「違うわよ」


 私は小さく首を振って、記憶の箱の蓋を、そっと開けた。


「私から病院の匂いがするって、先にシャワーを浴びておいでよっていつも言ってた。彼に悪気はなかったのは分かってた。彼はただ生活感のある匂いを求めてただけだって」


 生活感のある匂い。柔軟剤やシャンプーの香り。キッチンから漂う、夕飯の支度の匂い。


「でも、当時の私に染みついていたのは、非日常の匂いだけ。手術室のクレゾールの匂い。彼は、それを家庭に持ち込んでほしくなかった。でもそれは、当時の私自身を否定することと同じだったのよ」


 彼が求めた『普通』の幸せに、私はなれなかった。私が戦っていた『現場』を、彼に理解してもらえなかった。

 その小さなズレと寂しさは、少しずつだが確実に、誰にも見えないところで、静かに沈殿していった。

 やがて、彼が大きなプロジェクトを任されるようになると、すれ違いの生活が続き、家からはクレゾールどころか生活感のある匂いさえ消えた。

 私たちは、いつのまにか、違う道を歩き始めていたのだと気が付いた。

 だから、別れもまた、自然だった。

 派手な口論もなければ、泣きわめくような修羅場もなかった。

 ただ、お互いの静かな納得の上で、離婚届に判を押した。

 「またね」と言った彼の声は、本当に穏やかで――

 だからこそ、二人の終わりを、私は深く受け入れることができたのだ。


「ただ、それだけのことよ」


 まるで他人事のように、私は話を締めくくった。

 不思議と、痛みはなかった。あの頃の陰鬱な感情は、長い年月をかけて風化し、今はもう、ただの事実としてそこに存在するだけ。

 ひまりは、いつもの軽口も叩かず、ただ静かに私の話を聞いていた。その真剣な眼差しに、少しだけ居心地の悪さを感じる。


「……そっか。なんか、むずいっすね、大人って」


 やがて、彼女はぽつりと呟いた。


「私は、そういうの、全部ひっくるめて好きになってくんないと絶対ヤダな。仕事でピリピリしてる私も、推しのことで騒いでる私も、どっちも私だし。カレーの味が違ったら、『じゃあ今度一緒に作ろーぜ!』って言える人がいい。消毒液の匂いがするなら、『お、今日も世界救ってきたんだ、おつかれ!』みたいな?」


 世界を救う、か。なんて大袈裟な。

 でも、彼女の真っ直ぐな言葉が、硬いかさぶたになっていたはずの私の心に、じわりと染み込んでいくのを感じた。そうだ、私はただ、目の前の命を救うこの仕事を認めてほしかっただけなのだ。

 それを、このギャルはあっさりと肯定してくれた。

 思わず、ふっと息が漏れた。それは笑いともため息ともつかない、おかしな音だった。


「……あなたみたいな人と結婚すればよかったのかしらね」

「えーっ!?  私、女子ですけど! でもまあ、室長となら、ナシではないかも! 家事とか完璧にこなしてくれそうだし、私が稼いできますんで!」


 ひまりが冗談めかして胸を張ると、部屋の空気が一瞬でいつもの色に戻る。この場の空気を一瞬で塗り替える才能には、感心を通り越して、もはや呆れてしまう。


「じゃあ来週までに、源泉徴収票持ってきて」

「え、マジレスやめてくださいよ!」


 慌てて立ち上がるひまりを見ながら、私は密かに笑っていた。

 嵐のように現れて、嵐のように去っていく。ドアが閉まり、静寂が部屋を満たす。

 私は自分の両手を見下ろした。短く切りそろえられた爪。この手で、多くのものを守り、たった一つのものを手放した。

 元夫とのことは、ただ「住む世界が違った」と諦めていた。でも、この殺風景な部屋を「リセットされる感じでいい」と言ってくれる、おかしなギャルもいる。

 違う世界の人間は、すれ違うだけじゃない。こうして、思いがけず交わることもある。

 ふと、消毒液の匂いしかしないはずのこの部屋に、彼女が飲んでいた甘いコーヒーの香りが、ほんの少しだけ混じったような気がした。

 来週、彼女は一体、どんな話を持ってくるのだろう。

 そんなことを考えながら、私は窓の外に目をやった。傾きかけた西日が、私の城を、ほんの少しだけ、温かい色に染めていた。

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