Let it snow
十二月二十四日、クリスマスイブ。
世間では、恋人たちが静かに愛を語らい、家族が賑やかに食卓を囲む、一年で最も華やかな夜。
だが、病院という場所に、そんな浮かれたカレンダーは存在しない。
私にとってのそれは、ただの、忙しい金曜日に過ぎなかった。
『真澄さん! 見てください、雪ですよ、雪! ホワイトクリスマス!』
昼間、スマホに届いたひまりからのLINEには、窓の外に舞う雪を写した写真が添えられていた。関東には珍しい、本格的な雪だった。
彼女は、彼氏もなく、友人たちもそれぞれの予定で捕まらず、見事なまでの「クリぼっち」が確定したらしい。
そして、私を道連れに、「せめて、豪華にパーッと過ごそう!」と、一ヶ月も前から、ホテルディナーに誘ってきていたのだ。
そのレストランが、かつて、彼女が花火大会で砕け散った、あの田中さんと過ごすために、先走って予約していた場所だということは、武士の情けで、触れないでおくことにしている。
『ええ、綺麗ね。こちらも、今日は落ち着いているから、時間通りに、行けそうよ』
私も浮かれていたのか、自分でフラグを立てた事に気が付かなかった。
定時が近づき、そろそろ帰り支度をしようかとした思ったその時だった。
私のPHSの着信音が、緊急事態の発生を告げた。
『小児病棟の木下です。子供たちがあちこちで嘔吐しています!』
私のクリスマスの予定は、その一報で、粉々に砕け散った。
小児病棟は、すでに戦場と化していた。泣き叫ぶ子供たち、走り回る看護師たち、そして、そこかしこに処理しきれない吐物の臭い。
私は、即座に、感染対応の指示をだす。
「感染者を個室に隔離して! 個室が一杯なら、感染者を同じ部屋にあつめて!」
「吐物は、次亜塩素酸ナトリウムで、適切に処理をして!」
「ノロウイルスなら、アルコールの効果が低いから、流水と石けんの手洗いを徹底させて!」
矢継ぎ早に指示を飛ばし、私も個人防護服に身を包み、汚染区域の消毒作業にあたる。
ようやく、現場が落ち着きを取り戻し始めた頃、息つく暇もなく、次の、絶望的な知らせが舞い込んできた。
『亜急性期病棟です! 新型コロナウイルスの患者が5人発生しました!』
私は歯を食いしばり、次の戦場へと向かった。
高齢者が多い亜急性期病棟でのクラスターは、小児病棟のそれとは、比較にならないほどの緊張感を伴う。人ひとりの命に、直結するからだ。
ゾーニングの指示、換気の徹底、そして防護服の着脱方法の再指導。
私が持てる知識と経験のすべてを注ぎ込んだ。
すべての対応を終え、ぐったりと、ナースステーションの椅子に座り込んだ時、ふと、壁の時計に目が留まった。
時刻は、午後八時を回っていた。
ひまりと約束していたディナーの時間は、とっくに過ぎ去っている。
窓の外は、いつの間にか、ただの雪ではなく、吹雪になっていた。
病棟のテレビでは、アナウンサーが、神妙な顔で交通網の麻痺を伝えている。
(……もう、無理ね)
私は、力なく笑った。
感染対策室に戻り、スマホを手に取ると、そこには、ひまりからの夥しい数の不在着信と、LINEの通知が並んでいた。
『ごめんなさい。感染症対応で、行けなくなったわ。本当に、ごめんなさい』
それだけを打ち込み、送信ボタンを押す。既読の文字がすぐについた。
私は、大きなため息をつき、冷え切った椅子に深く腰を下ろした。
その時だった。
ガラッ!!
ドアが勢いよく開かれ、そこに雪だるまのような人影が立っていた。
コートも、髪も、真っ白な雪に覆われた、ひまりだった。
「……小日向さん?」
「やっぱり、ここにいた」
彼女は、凍える手でコートの雪を払いながら、部屋に入ってきた。
その手には、ホテルのロゴが入った、小さなケーキの箱が、大事そうに抱えられている。
「レストランで待ってたんですけど、真澄さん来ないし、連絡もないし。きっと、仕事で何かあったんだろうなって。この雪でレストランも臨時休業になるって言われたから、ケーキだけはもらってきたんです。で、バスも、電車も、止まっちゃったから、途中から歩いて」
「……馬鹿ね、あなた」
「へへ。だって、真澄さん、一人でここにいるんだろうなって思ったら、なんか、あたしも一人で家に帰りたくなくて」
その時、ぐう、と、盛大な音が、静かな部屋に響いた。音の発生源は、言うまでもなくひまりのお腹だ。
彼女は、恥ずかしそうにお腹を押さえた。
「……すいません。お腹、すいちゃって」
私は思わず吹き出してしまった。そして、立ち上がる。
「ちょっと待ってなさい。今、とびっきりの、クリスマスディナーを用意してあげるから」
私は、栄養科の厨房へと向かった。
大雪で予定されていた入院が、何件もキャンセルになったことを私は知っていた。
つまり、病院食がいくつも余っているはずだ。
栄養士に事情を話し、温かい病院食を、二人分用意してもらう。
質素な、魚の煮付けと、ほうれん草のおひたし。でも、今の私たちには、どんな豪華なフレンチよりもご馳走に思えた。
感染対策室に戻り、さあ、食べようか、と、箸を取った、その瞬間だった。
ぷつり、と、音がして、部屋のすべての光が消え、エアコンも止まった。
停電だった。
「ええーっ!? 停電!? 病院、大丈夫なんすか?」
ひまりの素っ頓狂な声が、暗闇に響く。
「大丈夫。すぐ非常用電源に切り替わるから。病棟と手術室はね」
私は、手探りで、デスクの引き出しから防災用のろうそくを取り出し、火を灯した。
ゆらゆらと揺れる、小さな炎が、私たちの顔を、ぼんやりと照らし出す。
「……なんか、これはこれで、雰囲気あるかも」
ひまりが、呟いた。
私たちは、ろうそくのささやかな明かりの中、隣り合って病院食を食べた。
レストランのフルコースには到底、及ばない。
でも、なぜだろう。今までで、一番、美味しいクリスマスディナーのような気がした。
「ごめんなさい。こんな、ディナーになってしまって」
私がそう言うと、ひまりはほうれん草のおひたしを美味しそうに頬張りながら、にこっと笑った。
「ううん。全然。あたし、前から思ってたんすよ。何を食べるかじゃなくて、誰と食べるかの方が絶対大事だって」
その、あまりにストレートで屈託のない一言が、何の防御もしていなかった私の心の一番柔らかい場所に、すとん、と落ちてきた。
豪華なディナーでも、きらびやかな夜景でもない。
ただ、この騒がしくて、手のかかる親友と、一緒にいること。
それだけで、凍てついていたはずの心が、じんわりと、温まっていくのを感じる。
四十にもなって、柄にもないとは思うけれど、今のこの感情を、人はきっと「きゅんとする」と、言うのだろう。
ふと見ると、ひまりが、ぶるッと小さく身震いをした。
彼女は、今日のディナーのために、おしゃれを優先したのだろう。
薄手の、白いワンピース姿だ。吹雪の中を歩いてきて、体は、すっかり冷え切っているに違いない。
私は、何も言わずに立ち上がると、自分のロッカーから、一つの紙袋を取り出した。そして、ひまりの背後に回ると、中から取り出したマフラーを、そっと、彼女の首に巻いてあげた。
「え……?」
突然のことに、ひまりが、驚いて振り返る。
「……これ、あなたに。クリスマスプレゼント」
水色のマフラーが、彼女の白いワンピースによく映えていた。
「え、え、え!? マジすか!? プレゼント!? うわー!」
ひまりは、一瞬、固まった後、歓声を上げた。
「真澄さんの手編みのマフラー……嬉しいっす」
「手編みなわけないでしょ。『GU』で、買ってきたのよ」
「あはは! でも、嬉しい! あたしの事を思いながら、時間をかけて選んでくれたってことがとても嬉しいっす!」
ひまりは、大喜びで、マフラーに顔をうずめている。
「あ。でも、あたし、プレゼント用意してなかった……」
「いいのよ。もう、もらったから」
私がそう言うと、一瞬、ひまりはキョトンとするが、すぐに笑顔になる。
「あ、ケーキっすね! どうぞ、どうぞ食べてください。ここのケーキ、マジでヤバいんで」
そう言って、ひまりは雪でヨレヨレになった箱から小さなホールケーキを取り出した。
「まぁ、そう言うことにしときましょうか」
私は、苦笑いしながら小さく呟いた。
「なんか、言いました?」
「ううん、何も」
私たちは、ケーキを二人で分け合って食べた。
暗闇と寒さのせいか、ひまりは、いつの間にか私の隣に、ぴったりとくっついて座っていた。
「……ちょっと近いわよ」
「えー、今日くらい、いいじゃないすか。寒いし」
そう言って、彼女は私の肩に、こてん、と頭を乗せてくる。
「……今日だけよ」
私はそう言いながら、彼女の雪でまだ少し湿った髪を、くしゃくしゃと撫でた。
『Oh, the weather outside is frightful
But the fire is so delightful
And since we've no place to go
Let it snow, let it snow, let it snow』
気がつくと、私はロウソクの灯を眺めながら、柄にもなく、クリスマスソングを口ずさんでいた。
「……ねえ、真澄さん」
ひまりが、いたずらっぽく、囁いた。
「いっそのこと、うちら、付き合っちゃいます?」
あたしは、微笑んで、ひまりを見つめながら答えた。
「……百万円、積まれても、ごめんよ」
「えー、ひどーい!」
その時、パッと、蛍光灯の光が、再び部屋を照らし出し、エアコンから暖かい風が吹き出した。
彼女の抗議の声と、私の笑い声が、いつまでも部屋に響いていた。
窓の外では、あれほど激しく降っていた雪も、いつの間にか止んでいたのだった。




