あなたにかける魔法(前編)
ドアをノックして入ると、彼女は、ベッドの上で膝を抱えて、窓の外をぼんやりと眺めていた。その小さな背中は、ひどくか細く見える。
「ゆずはさん、こんにちは」
私が声をかけると、彼女はちらりと、こちらを一瞥しただけで、すぐに、また窓の外に視線を戻してしまった。
「……なに」
その声は、ガラス玉のように冷たくて、無機質だった。
私がこの13歳の少女、長島ゆずはちゃんと会うことになったのは、先刻、小児病棟に環境ラウンドに来た時の事だった。
***
その日の午前、私は定例の環境ラウンドで小児病棟を訪れていた。
子供たちの笑い声と、時折混じる泣き声。キャラクターのイラストで彩られたナースステーション。
ここは、病院の中でも特殊な空間だ。
生命力と、そして、その脆さが常に同居している。
感染制御の観点から言えば、最も注意を要する危険なエリアのひとつでもある。
私は病棟に入り、ナースステーションを見回す。その病棟の感染管理は、ナースステーションを見れば大体わかる。
ナースステーションが散らかっている病棟は、汚物処理室やリネン庫の管理も適当なことが多い。
窓際のシンクに置かれた、透明のスプレーボトルを見つけ、私はため息をひとつ漏らす。
スプレーボトルには『ハイター』と書かれていた。
私はスプレーボトルを手に取り、振り返る。私に気づいた看護師達が蜘蛛の子を散らすようにナースステーションから出ていく。
業務上、ナースステーションから離れられない、リーダーナースは目を合わせないように電子カルテを凝視している。
私は、その憐れなリーダーナースに声をかける。
「そこのあなた。どうして次亜塩素酸ナトリウムが透明のスプレーボトルに入っているのかしら? 」
「ひっ!」と、リーダーナースが肩を震わせる。
「あ、どうしてでしょう……助手さんが作ったのかも……」
「そう。次亜塩素酸ナトリウムは、紫外線で簡単に分解されるから窓際には置かないで。すぐに希釈し直して」
「は、はい!」
「それと、噴霧は厳禁。理由は分かる?」
「……えっと……」
「消毒効果は消毒液の濃度と接触時間で決まるの。噴霧したらそのどちらも満たさないから効果がない。そればかりか、肺に吸い込んで化学性肺炎を起こすの。基本中の基本よ」
「……すみません」
「それと……」
まだ何かあるのかと、リーダーナースは今にも泣き出しそうな顔になる。
そこに、見かねたように、この病棟の主、師長の木下さんが割って入ってきた。
「三上さん、ちょっとお話ししたいことがあるんだけど……」
その困り果てたような、しかし、どこか慣れっこになっている苦笑い。
逆に、私の追及から逃れられたリーダーナースは、心底ホッとした表情をする。
「ちょうど良かったです、木下師長。次亜塩素酸ナトリウムの保管を指摘していた所です。あと、先ほど廊下を手袋をしたまま歩いていた看護師がいました。感染を拡げる原因になりますので、指導をお願いします」
「ええ、分かったわ。ところで、できたら、もう少し……こう、お手柔らかに、お願いできないかしら」
「手加減はできません。子供たちの命を守るためですから」
「いえ、指摘内容ではなくて、伝え方っていうのかしら……」
「ちゃんと根拠も伝えていますが? それで、私に話しとは?」
木下師長は、やれやれ、と肩をすくめると、私をナースステーションの隅へと手招きした。
「今度、病棟でクリスマス会を開くのだけど、その催し物のことで、少し知恵を貸してもらえないかしら」
「相談ですか。私に?」
「ええ。自分でもどうかしてると思うけど、それだけ困ってるのよ」
「……心外ですね」
木下師長は、苦笑いしながら話しを続けた。
「毎年、プロバスケットボールチーム、『川崎ブレイブサンダース』の選手が、ボランティアで来てくれるの。これが、男の子に大人気でね」
「……バスケットボール」
私の口から、思わず落胆の声が漏れた。なぜ、フロンターレではないのか。
いや、もちろんブレイブサンダースが、地域貢献に熱心な、素晴らしいチームであることは知っている。だが、フロンターレだって……。
いや、言うまい。私の個人的な感傷を、師長は知る由もないのだから。
「小さい子たちには、看護師とドクターによる、ハンドベルの演奏会。左右のベルを別々に振るのって、意外と難しいのよ。今から、練習しないと」
「……それは、ご苦労さまです」
「でもね、問題は、少し大人びてくる年頃の女の子たちなの。特に、中学生くらいになると、バスケの選手にも、ハンドベルにも、もう、あまり興味を示してくれなくて……」
師長は、一人の少女の名前を口にした。
長島ゆずはさん、十三歳。
骨肉腫で、この病棟で入退院を繰り返しているという。
「あの子、最近、ずっとふさぎ込んでいるのよ。私たちとも、あまり話してくれなくて。何とかして、クリスマスの日くらい笑顔にさせてあげたいのだけど……」
「なるほど……」
「まあ、三上さんもお忙しいでしょうから、無理にとは……」
「承知しました」
「……え?」
「いまから、ゆずはさんに会ってきます」
「いや、そんな無理しなくても」
「大丈夫です。私の得意とする所です」
「いや、でも⋯⋯」
木下師長が言うのも構わず、私は、ゆずはさんの病室に歩いて行った。
木下師長とリーダーナースが困ったような、焦っているような顔に見えたのは、私の気のせいだろう。
***
「今週末、外出許可が出ているのに、行きたくない、って聞いたわ。どうして? 何か、あった?」
「……別に」
「お友達と会えなくてもいいの?」
「……うるさい。あなたには、関係ないでしょ」
その、突き放すような言葉。分厚い、氷の壁。
私は、それ以上、踏み込むことができなかった。
部屋を出る間際、ふと、ベッド脇のゴミ箱に、目が留まった。
そこには、くしゃくしゃに丸められた、ファッション雑誌のページと、そして、ほとんど使われていない、可愛らしいピンク色のマニキュアの瓶が、無造作に、捨てられていた。
私は何も言わずに、その光景を胸に焼き付けて病室を後にした。
***
「それ、木下師長が真澄さんを体よく追い出そうとしたんじゃないすか?」
私が、デスクの前で腕を組み、考え込んでいる後ろで、ひまりがクロスワードパズルを解きながら呟いた。
全て解くと、抽選で『プラネット☆スターズ』グッズが当たるらしく、感染対策室に来てからも一心不乱に解いている。
この集中力の一割でも営業にまわせば、売上もずいぶん違うだろうに。
「そう? 随分困ってたみたいだけど」
「困ってたのは、そうでしょうけど⋯⋯クリスマス会というより、ラウンドにじゃないすかね⋯⋯」
「?」
「いや、なんでもないっす」
そう言って、ひまりはクロスワードパズルに戻る。
「関東は濃口醤油、関西は〇〇醤油。これは簡単、薄口だ」
私は彼女の顔を見て、ふと思った。
このキラキラした世界の権化のような彼女なら、何かヒントをくれるかもしれない。
「ねえ、一般論として聞きたいんだけど、お洒落が好きな子って、入院中であってもお洒落したいもの?」
ひまりは、信じられないといった表情で顔を上げる。
「当たり前じゃないすか! むしろ、入院治療を乗り切るために、普段より気合い入れますよ!」
「やっぱり、そうよね」
「え、だめなんすか!?」
「ネイルは基本的に禁止。指先の色でチアノーゼを見極めたりするし、酸素飽和度を正しく測定できなくなるから」
「え!? せめて、トップコートは?」
私は黙って首を振る。
「あたし、絶対ムリ。死んだほうがマシ」
「友達にも会いたくないほど?」
「当然じゃないすか! お洒落キメた友達にあったら、自分が惨めになるだけっすよ!」
やっぱり、そうか。⋯⋯でも、規則を変えることは難しい。まして、彼女は抗がん剤治療中だ。体調の細やかな観察は必須だ。
私は、再び腕を組み考えを巡らす。
「⋯⋯あたし、頭悪いんでよく分からないんすけど」
ひまりが、クロスワードパズルを見ながら呟いた。
きっと、何かに気づいたに違いない。私は、喜び勇んで振り向いた。
「濃口醤油を水で薄めたら、薄口醤油になるんすかね? だったら、濃口醤油を買った方がお得じゃないっすか?」
本当に、頭の悪い質問だった。
私は、身体から力が抜けるのを感じた。
「あのね。醤油の濃口、薄口っていうのは色の違い。塩分はむしろ薄口の方が多いのよ」
「へぇー、さすが真澄さん。あたし、塩分減らせば薄口になるって思ってました」
私は、ため息をついてパソコンに向き直した。その時、ひまりの言葉が頭に引っかかる。
「減らす⋯⋯か。そうか、それなら交渉の余地はあるかも」
「⋯⋯真澄さん?」
私の声のトーンが変わったことに気づいたひまりが、声をかける。
私は、椅子から立ち上がると、ひまりの肩をガシッと掴んだ。
「ありがとう、小日向さん。あなたのおかげで、アイデアが浮かんだわ」
「え、マジすか!? あたし何か言いましたっけ?」
「ええ。小日向さん、ネイルサロンをやってちょうだい」
「⋯⋯へ!?」
「クリスマス会の、その日、一日だけでいい。あなたが、入院中の女の子たちのために、世界で一番、素敵なネイルを施してあげてほしいの」
「でも、入院中、ネイルはダメなんじゃ?」
「そこは、私が何とかする。……さあ、どうするの。引き受ける? それとも、断る?」
私は、彼女の返事を待った。
魔法の始まりの合言葉を。




