表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/40

あなたにかける魔法(前編)

 ドアをノックして入ると、彼女は、ベッドの上で膝を抱えて、窓の外をぼんやりと眺めていた。その小さな背中は、ひどくか細く見える。


「ゆずはさん、こんにちは」


 私が声をかけると、彼女はちらりと、こちらを一瞥しただけで、すぐに、また窓の外に視線を戻してしまった。


「……なに」


 その声は、ガラス玉のように冷たくて、無機質だった。

 私がこの13歳の少女、長島ゆずはちゃんと会うことになったのは、先刻、小児病棟に環境ラウンドに来た時の事だった。


 ***


 その日の午前、私は定例の環境ラウンドで小児病棟を訪れていた。

 子供たちの笑い声と、時折混じる泣き声。キャラクターのイラストで彩られたナースステーション。

 ここは、病院の中でも特殊な空間だ。

 生命力と、そして、その脆さが常に同居している。

 感染制御の観点から言えば、最も注意を要する危険なエリアのひとつでもある。

 私は病棟に入り、ナースステーションを見回す。その病棟の感染管理は、ナースステーションを見れば大体わかる。

 ナースステーションが散らかっている病棟は、汚物処理室やリネン庫の管理も適当なことが多い。

 窓際のシンクに置かれた、透明のスプレーボトルを見つけ、私はため息をひとつ漏らす。

 スプレーボトルには『ハイター』と書かれていた。

 私はスプレーボトルを手に取り、振り返る。私に気づいた看護師達が蜘蛛の子を散らすようにナースステーションから出ていく。

 業務上、ナースステーションから離れられない、リーダーナースは目を合わせないように電子カルテを凝視している。

 私は、その憐れなリーダーナースに声をかける。


「そこのあなた。どうして次亜塩素酸ナトリウムが透明のスプレーボトルに入っているのかしら? 」


「ひっ!」と、リーダーナースが肩を震わせる。


「あ、どうしてでしょう……助手さんが作ったのかも……」

「そう。次亜塩素酸ナトリウムは、紫外線で簡単に分解されるから窓際には置かないで。すぐに希釈し直して」

「は、はい!」

「それと、噴霧は厳禁。理由は分かる?」 

「……えっと……」

「消毒効果は消毒液の濃度と接触時間で決まるの。噴霧したらそのどちらも満たさないから効果がない。そればかりか、肺に吸い込んで化学性肺炎を起こすの。基本中の基本よ」

「……すみません」

「それと……」

 

 まだ何かあるのかと、リーダーナースは今にも泣き出しそうな顔になる。

 そこに、見かねたように、この病棟の主、師長の木下さんが割って入ってきた。


「三上さん、ちょっとお話ししたいことがあるんだけど……」


 その困り果てたような、しかし、どこか慣れっこになっている苦笑い。

 逆に、私の追及から逃れられたリーダーナースは、心底ホッとした表情をする。


「ちょうど良かったです、木下師長。次亜塩素酸ナトリウムの保管を指摘していた所です。あと、先ほど廊下を手袋をしたまま歩いていた看護師がいました。感染を拡げる原因になりますので、指導をお願いします」

「ええ、分かったわ。ところで、できたら、もう少し……こう、お手柔らかに、お願いできないかしら」

「手加減はできません。子供たちの命を守るためですから」

「いえ、指摘内容ではなくて、伝え方っていうのかしら……」

「ちゃんと根拠も伝えていますが? それで、私に話しとは?」


 木下師長は、やれやれ、と肩をすくめると、私をナースステーションの隅へと手招きした。


「今度、病棟でクリスマス会を開くのだけど、その催し物のことで、少し知恵を貸してもらえないかしら」

「相談ですか。私に?」

「ええ。自分でもどうかしてると思うけど、それだけ困ってるのよ」

「……心外ですね」


 木下師長は、苦笑いしながら話しを続けた。


「毎年、プロバスケットボールチーム、『川崎ブレイブサンダース』の選手が、ボランティアで来てくれるの。これが、男の子に大人気でね」

「……バスケットボール」


 私の口から、思わず落胆の声が漏れた。なぜ、フロンターレではないのか。

 いや、もちろんブレイブサンダースが、地域貢献に熱心な、素晴らしいチームであることは知っている。だが、フロンターレだって……。

 いや、言うまい。私の個人的な感傷を、師長は知る由もないのだから。


「小さい子たちには、看護師とドクターによる、ハンドベルの演奏会。左右のベルを別々に振るのって、意外と難しいのよ。今から、練習しないと」

「……それは、ご苦労さまです」

「でもね、問題は、少し大人びてくる年頃の女の子たちなの。特に、中学生くらいになると、バスケの選手にも、ハンドベルにも、もう、あまり興味を示してくれなくて……」


 師長は、一人の少女の名前を口にした。

 長島ゆずはさん、十三歳。

 骨肉腫で、この病棟で入退院を繰り返しているという。


「あの子、最近、ずっとふさぎ込んでいるのよ。私たちとも、あまり話してくれなくて。何とかして、クリスマスの日くらい笑顔にさせてあげたいのだけど……」

「なるほど……」

「まあ、三上さんもお忙しいでしょうから、無理にとは……」

「承知しました」

「……え?」

「いまから、ゆずはさんに会ってきます」

「いや、そんな無理しなくても」

「大丈夫です。私の得意とする所です」

「いや、でも⋯⋯」


 木下師長が言うのも構わず、私は、ゆずはさんの病室に歩いて行った。

 木下師長とリーダーナースが困ったような、焦っているような顔に見えたのは、私の気のせいだろう。


 ***


 「今週末、外出許可が出ているのに、行きたくない、って聞いたわ。どうして?  何か、あった?」

「……別に」

「お友達と会えなくてもいいの?」

「……うるさい。あなたには、関係ないでしょ」


 その、突き放すような言葉。分厚い、氷の壁。

 私は、それ以上、踏み込むことができなかった。

 部屋を出る間際、ふと、ベッド脇のゴミ箱に、目が留まった。

 そこには、くしゃくしゃに丸められた、ファッション雑誌のページと、そして、ほとんど使われていない、可愛らしいピンク色のマニキュアの瓶が、無造作に、捨てられていた。

 私は何も言わずに、その光景を胸に焼き付けて病室を後にした。


 ***


「それ、木下師長が真澄さんを体よく追い出そうとしたんじゃないすか?」


 私が、デスクの前で腕を組み、考え込んでいる後ろで、ひまりがクロスワードパズルを解きながら呟いた。

 全て解くと、抽選で『プラネット☆スターズ』グッズが当たるらしく、感染対策室に来てからも一心不乱に解いている。

 この集中力の一割でも営業にまわせば、売上もずいぶん違うだろうに。


「そう? 随分困ってたみたいだけど」

「困ってたのは、そうでしょうけど⋯⋯クリスマス会というより、ラウンドにじゃないすかね⋯⋯」

「?」

「いや、なんでもないっす」


 そう言って、ひまりはクロスワードパズルに戻る。


「関東は濃口醤油、関西は〇〇醤油。これは簡単、薄口だ」


 私は彼女の顔を見て、ふと思った。

 このキラキラした世界の権化のような彼女なら、何かヒントをくれるかもしれない。


「ねえ、一般論として聞きたいんだけど、お洒落が好きな子って、入院中であってもお洒落したいもの?」


 ひまりは、信じられないといった表情で顔を上げる。


「当たり前じゃないすか! むしろ、入院治療を乗り切るために、普段より気合い入れますよ!」

「やっぱり、そうよね」

「え、だめなんすか!?」

「ネイルは基本的に禁止。指先の色でチアノーゼを見極めたりするし、酸素飽和度を正しく測定できなくなるから」

「え!? せめて、トップコートは?」


 私は黙って首を振る。


「あたし、絶対ムリ。死んだほうがマシ」

「友達にも会いたくないほど?」

「当然じゃないすか! お洒落キメた友達にあったら、自分が惨めになるだけっすよ!」


 やっぱり、そうか。⋯⋯でも、規則を変えることは難しい。まして、彼女は抗がん剤治療中だ。体調の細やかな観察は必須だ。

 私は、再び腕を組み考えを巡らす。


「⋯⋯あたし、頭悪いんでよく分からないんすけど」


 ひまりが、クロスワードパズルを見ながら呟いた。

 きっと、何かに気づいたに違いない。私は、喜び勇んで振り向いた。


「濃口醤油を水で薄めたら、薄口醤油になるんすかね? だったら、濃口醤油を買った方がお得じゃないっすか?」


 本当に、頭の悪い質問だった。

 私は、身体から力が抜けるのを感じた。


「あのね。醤油の濃口、薄口っていうのは色の違い。塩分はむしろ薄口の方が多いのよ」

「へぇー、さすが真澄さん。あたし、塩分減らせば薄口になるって思ってました」


 私は、ため息をついてパソコンに向き直した。その時、ひまりの言葉が頭に引っかかる。


「減らす⋯⋯か。そうか、それなら交渉の余地はあるかも」

「⋯⋯真澄さん?」


 私の声のトーンが変わったことに気づいたひまりが、声をかける。

 私は、椅子から立ち上がると、ひまりの肩をガシッと掴んだ。


「ありがとう、小日向さん。あなたのおかげで、アイデアが浮かんだわ」

「え、マジすか!?  あたし何か言いましたっけ?」

「ええ。小日向さん、ネイルサロンをやってちょうだい」

「⋯⋯へ!?」

「クリスマス会の、その日、一日だけでいい。あなたが、入院中の女の子たちのために、世界で一番、素敵なネイルを施してあげてほしいの」

「でも、入院中、ネイルはダメなんじゃ?」

「そこは、私が何とかする。……さあ、どうするの。引き受ける? それとも、断る?」

 私は、彼女の返事を待った。

 魔法の始まりの合言葉を。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ