それぞれの安全地帯
白い画面の末尾で、カーソルが無感情に点滅を繰り返している。
『院内ニュースレター感染対策室だより 第48号』
タイトルと発行番号を打ち込んでから、私の指は三十分以上もキーボードの上を彷徨っていた。
ネタがない。
いや、正確に言えば、ネタはいくらでもある。
手指衛生の重要性、COVID-19の予防策、針刺し切創の報告。だが、どれもこれも職員たちが眠気をこらえながら読み飛ばす、お馴染みの説教に過ぎない。
(どうすれば、読んでもらえるんだろう……)
私の仕事は、院内の感染率をゼロに近づけること。それは正しい知識を周知徹底することと同義でもある。でも、正論はいつだって退屈だ。
ふと、先週のひまりの言葉が頭をよぎる。
『私の世界は私が守んないと、誰も守ってくれないんで』
自分の「好き」を守るための武装だと言い切った、毒々しいネイル。理解不能な理屈だったが、その言葉だけが妙に耳に残っていた。
(守りたいもの、か。私にとっては患者の安全。じゃあ、職員たちにとっては? )
そこまで考えた時、廊下の向こうから、先週と寸分たがわぬ陽気なヒールの音が近づいてきた。
コツ、コツ、コツ。
やれやれ、週に一度の時報だ。私は小さく息を吐き、点滅するカーソルから目を離さずに、その来訪を待った。
「しつちょー! 今週もおつかれ様でーす!」
ノックは形式だけ。返事を待たずにドアを開けるのは、医療材料メーカーの営業、小日向ひまり。今週は、ノースリーブブラウスに紺のジャケットを肩に羽織っている。手にはもちろん、営業資料ではなくコンビニのアイスカフェラテ。
「……懲りないわね、あなたも」
「継続は力なり、って言うじゃないすか! あ、室長、これどうぞ」
ひまりは私のデスクに同じカップをこともなげに置いた。無糖のブラック。いつかの会話で、私が甘いコーヒーは飲まないと話したのを覚えていたらしい。意外と律儀なやつだ。
「賄賂?」
「差し入れっすよ! 外、夏みたいに暑いんで、熱中症対策!」
「カフェインは利尿作用こそあっても、水分補給にならないのよ」
「えー、マジすか!? じゃあこの水分、プラマイゼロじゃないすか!」
そう言って、ひまりはいつものパイプ椅子にどかりと腰を下ろした。ジャケットを脱ぐと、健康的に日焼けした肩が露わになる。
私の視線は、自然と彼女の指先に吸い寄せられた。先週の『銀河の果ての守護神』は跡形もなく、今週は燃えるようなオレンジ色に塗り替えられている。
「今週のテーマは?」
「お、わかってきたじゃないすか、室長! 今週はズバリ、『情熱のサンセットビーチ』! 推しの故郷の海がテーマなんすよ。エモくないすか?」
「エモい、の意味はよくわからないけど、目には痛いわね」
無表情に言い放ち、差し出されたコーヒーに口をつける。冷たい液体が喉を滑り落ちていく。
「それより、あなたに聞きたいことがあるんだけど」
「なんすか、なんすか! ひょっとして恋の悩みとか?」
「違うわよ。ニュースレターのネタに困ってるの。どうすれば、みんなが興味を持って読んでくれると思う?」
自分でもどうかしていると思った。この、仕事への情熱がネイルに全振りされているような若者に、何を期待しているのか。でも、藁にもすがる思いだった。
案の定、ひまりの目は好奇心でキラキラと輝き出した。
「マジすか! 任せてくださいよ! 私、そういうの得意なんで! バズる記事にしましょ!」
彼女は勢いよくスマホを取り出すと、慣れた手つきでフリック入力を始めた。
「やっぱ鉄板はランキング企画っすね! 『院内イケメン医師・看護師グランプリ』!」
「却下。ルッキズムだってハラスメント委員会に訴えられる」
「じゃあ、『潜入! 院長室の秘密』とか! 普段見れないとこ、見たいじゃないすか!」
「懲戒解雇ものね」
「うーん……じゃあ『本当にあった! 病院の怖い話特集』! 夏も近いし、ヒヤッとするやつ! 古い病棟とか、絶対なんかあるでしょ!」
次々と繰り出されるゴシップ記事のような企画案に、私はこめかみを押さえた。
「あなたねえ、これは院内の公式な広報誌なの。だいたい、感染制御と関係ないじゃない」
「えー、固いこと言わないでくださいよー。じゃあ、心理テストとかどうすか? 『あなたが選ぶ消毒液でわかる! あなたの深層心理!』みたいな」
「消毒液のチョイスで分かるのは、その人の感染制御に関する知識レベルだけよ」
くだらないやりとりに、強張っていた肩の力が少しだけ抜けていくのを感じた。
私はため息をついてパソコンに向き直る。もういい、手指衛生の基本についてでも書くか。そう思ってモニターを睨んでいると、ふと、ひまりがあごを手に乗せて窓の外をぼんやりと見ているのに気がついた。
「小日向さん?」
声をかけると、彼女はハッと我に返り、少しだけはにかんだ。
「あー、なんか、ここ、落ち着くなって思って」
そう言うと、彼女は大きく伸びをして、パイプ椅子に深く体を預けた。
「そう? 本とパソコンしかない殺風景な部屋だけど」
「ん-、それがいいんすかねえ。なんか、余計なもんが全部リセットされる感じがして」
ひまりは視線を自分のオレンジ色の爪先に落とした。いつもの太陽のような明るさが、少しだけ翳る。
「会社だと、なんかずっと……息苦しいっていうか。フロア中にピリピリした空気が流れてて。誰がどの病院から契約取ったとか、誰の売上がヤバいとか、そういう話ばっかりで」
ストローでカップの底をかき混ぜながら、彼女は続ける。
「他の病院行っても、先生たちは忙しそうだし、ナースステーションは戦場みたいだし。なんか、どこに行っても『営業の小日向さん』でいなきゃいけない。ペコペコして、愛想笑いして、本当は全然わかんない医療の話にもわかったフリして……」
彼女は、はは、と力なく笑った。
「でも、ここだと、別に何もしなくていいじゃないすか。室長、どうせうちの商品買ってくれないし」
「……まあ、そうね」
間髪入れずに、静かに答える。
「ですよね。だから、いいんすよ。ただの私でいられるっていうか。無理して営業しなくても、怒られない場所。会社の外に一個くらいそういうとこないと、マジでやってらんないんで」
初めて聞く、彼女の本音だった。いつもの太陽みたいな明るさの裏側にある、切実な願い。
数字でしか評価されない世界で、自分という存在が揺らいでしまう恐怖。
この殺風景な感染対策室が、彼女にとっての「安全地帯」。
(……安全地帯か)
ゆっくりと、私はキーボードに指を置いた。
カチリ、と小さな音がして、点滅していたカーソルが動き出す。
『あなたの「守りたいもの」は何ですか?』
「小日向さん、ありがとう。ネタ、できたわ」
私がそう言うと、ひまりはきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「え? 私なんかしましたっけ? イケメンランキングの話とか?」
「ええ。毎週来て、私の仕事の邪魔をしてくれたおかげよ」
私が冗談めかして、滅多に見せない笑みの形をほんの少しだけ口角に作ると、ひまりの顔がぱっと輝いた。
「えへへ、お役に立てて光栄っす! じゃあ来週も、全力で邪魔しに来ますね!」
ひまりは元気な声だけを残して去っていった。
ドアが閉まると、私はパソコンに向き直し、本文を書き始めた。
『私たちの職場には、目に見えない感染リスクが常に存在します。しかし、私たちが感染予防対策をおこなうのは、院内感染のリスクを回避するためだけではありません。
家族との時間、趣味に打ち込む週末、同僚と笑い合う休憩時間。あなたが守りたいと願う、かけがえのない日常のために、まずはあなた自身を感染から守ることから始めてみませんか。正しい手指衛生は、病原性微生物から、自分の大切なものを守る『安全地帯』を作るための、一番身近な『武装』です』
完成した原稿を見つめる。読み古した本の匂いしかしないはずのこの部屋に、ほんの少しだけ、情熱のサンセットビーチの香りが混じったような気がした。