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譲れない聖戦

(やらかした。もう取り返しがつかない……)


 その日の私は、朝から仕事が全く手につかなかった。

 パソコンのモニターに映る院内感染のデータも、月末に提出すべき報告書も、まるで色褪せた風景画のように、私の意識を素通りしていく。頭の中を占拠しているのは、ただ一つの、絶望的な事実。


 ――アントラーズ戦のチケット、取り忘れた。


 何を隠そう、私、三上真澄は、J2時代からJリーグの川崎フロンターレを応援し続ける、熱心なサポーターである。

 普段、感情の起伏が乏しいと評される私も、スタジアムでは別人だ。タオルマフラーを掲げ、選手のプレー一つひとつに一喜一憂する。そこは、ロジックもエビデンスもない、情熱と信仰だけが支配する、私の「聖地」。


 特に、ホーム・等々力陸上競技場に、宿敵・鹿島アントラーズを迎える一戦は、ただの試合ではない。絶対に負けられない「聖戦」なのだ。

 それを、取り忘れるなんて。あまりの多忙さに、チケット販売の日時をすっかり失念していた。気づいた時には、もちろん全席完売。私の聖戦は、始まる前に終わった。


「……はあ」


 今日、何度目か分からない、深いため息をついた、その時だった。


「ますみしつちょー! なんか今日、空気、重くないすか? 失恋でもしました?」


 週に一度の嵐、小日向ひまりが、いつものようにアポなしでやってきた。

 今日の彼女は、流行りのシアーシャツを羽織り、いかにも涼しげな顔をしている。その能天気さが、今は少しだけ憎い。


「別に。いつも通りよ」

「いやいや、絶対なんかあったでしょ。顔に『世界の終わり』って書いてありますよ」

「書いてないわ」

「そっすか? ならいいんすけど」


 ひまりがいつものパイプ椅子に座ろうとしたその時、カバンから一通の封筒がこぼれ落ち、2枚のチケットが飛び出す。そのチケットに印刷された文字を私は見逃さなかった。


『J1リーグ第33節  川崎フロンターレ vs 鹿島アントラーズ  メインスタンドSS指定席』


 私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。


「こ、小日向さん……それって……」


 自分でも声がうわずっているのが分かる。


「ああ、営業先のクリニックの院長からもらったんすよ。フロンターレのスポンサーやってるんですって。予定があっていけないからってくれたんす」

「へ、へえ。良かったじゃない」

「いやー、それが、そうでもないんすよ。私、サッカーとか全然興味ないし。ルールも分かんないし」

「そう。じゃあ、誰か誘えばいいでしょう」

「それが、一緒に行く人もいなくて。地元のダチはみんな興味ないし。うーん、このチケット、どうしよっかなあ」


 ――欲しい、欲しい! ください!


 だが、しかし。「ください」と、頭を下げられるだろうか。いや、断じてできない。それは、私のプライドが許さない。

 フロンターレがアントラーズに無条件降伏するのと同じくらい、あり得ないことだ。

 ならば、どうするか。方法は一つ。

 ――彼女の方から、誘わせればいい。


「無駄にするのも、院長先生に悪いわね。それなら、誰かに譲ったらどうかしら。院内にも、サッカー好きの職員はいるでしょう」

「ふーん。 誰かいますかね?」

「さあ。でも、確か、外科の若手の先生が、熱心なサポーターだったような……。 どこのチームだったかしら。浦和、だったかしらね」


 私は、わざとライバルチームの名前を出して、地雷を避ける。


「へえー。でも、知らない先生に声かけるのも、なんか気まずいっすよねえ」


(そうよ、気まずいでしょう。だから、一番身近な人間に声をかけるのが、最も合理的な解決策なのよ)


 私の心の声が、必死で彼女にテレパシーを送る。


「じゃあ、やっぱメルカリ……はダメなんですよね。うーん……」


 ひまりはスマホをフリックしながら呟く。


「あ、この大島って選手、良くないっすか? なんか可愛い系イケメンみたいな。サッカーも上手いんですかね?」


 上手いも何も、天才の名をほしいままにする日本を代表するMFだ。


「そ、そうなんじゃない。よく知らないけど」

「あ、このフォワードの選手はなんかすごいっすね。ベテランの人。顔は、アンパンマンみたいで正直そんなタイプじゃないんすけど」


(……なんですって?)


 私のこめかみが、ピクリと動いた。彼女が言っているのは、長年チームを支え続ける、小林選手に違いない。彼の顔がタイプじゃない、だと?

 彼の魅力は、顔の造形ではない。その献身的なプレーと、ゴールへの嗅覚、そして、チームへの海より深い愛情にあるのだ。

 サッカーを知らないとは言え許すまじ。これは鉄拳制裁もやむを得ないか。


「……選手の容姿で、選手の価値を判断するのは、浅はかね」


 思わず、心の声が漏れた。


「え、そうですか? でも、やっぱ見た目って大事じゃないすか。入り口としては」

「……」


 いけない。これ以上、この話題を続けるのは危険だ。ボロが出る前に、軌道修正しなければ。


「それより、等々力が初めてなら、少し注意点を教えてあげるわ。等々力は住宅地に囲まれていて迷いやすいから、武蔵小杉からならバスの利用をお勧めするわ。あと、SS指定席でも、相手チームの応援グッズを身につけるのは、マナー違反だから気を付けて」

「へえ、そうなんすか。あざす。室長、サッカー興味ないのに、なんでそんなに詳しいんすか?」

「……か、感染対策の一環として、スタジアムのような人が密集する場所の動線について、知識を蓄えているだけよ」


 我ながら、見事な言い訳だ。


「なるほどー! さすが室長! プロ意識の塊っすね!」


 ひまりは、素直に感心している。よし、このまま押し切れる。


「身近な人でスタジアムの歩き方とか、応援の仕方とか、詳しい人がいると心強いと思うわ」

「なるほど。たしかにそれは心強いかも!」


(そうでしょう。だから、私を誘いなさい。さあ!)


 私は、心の中でガッツポーズをした。勝利は、目前だ。


「じゃあ、決めた! 後輩の田中と行ってきます!」

「…………は?」

「田中、サッカー好きだって言ってましたし! こないだも、日本代表の試合、見てたって! これあげたら、マジで喜ぶだろうなあ」

「……ま、待ちなさい」


 気づけば、私は、そう口にしていた。声が、少しだけ震えていたかもしれない。


「そのチケット……。 教育、という観点で言うなら、私が直接、あなたを教育してあげた方が、効率的だわ」

「え、私を、ですか?」

「そう。あなたのような、全くの素人を一人前のサポーターに育て上げる。その過程を経験することで、今後の営業活動における、新規顧客開拓のノウハウも学べるはずよ。これは、あなたのためなの」


 完璧な論理だ。もはや、反論の余地はないはず。

 すると、ひまりは、「クックックッ……」と吹き出したかと思うと、堰を切ったかのように大笑いを始めた。

 私は呆気にとられ、言葉も出ない。


「……はあ。もう、降参っす」


 ひとしきり笑い終え、ひまりが涙を拭いながら言った。


「…… 何が?」

「室長、マジでプライド高いんすから!  最初から、素直に『一緒に行こう?』って言えばいいじゃないすか! フロンターレ大好きなんでしょ?」

「知ってたの!?」

「当たり前じゃないすか!  デスクのフロン太君、スマホのロック画面! 全部、知ってて、今まで黙ってたんすよ! いつ、室長が白状するか、面白くて!」


 そう言って、ひまりは再び笑い出した。

 顔から火が出そうだった。このギャルの手のひらの上で、私は、ただ、転がされていただけだったというのか。


「はい、どうぞ。真澄室長の分。小林選手の顔、ほんとは結構好きですよ」


 ひまりがチケットを差し出しながら言った。


「……どうも」


 私は、ぶっきらぼうにそれを受け取った。紙切れ一枚のはずなのに、ずしりと重い。


「じゃあ、決まりっすね! 来月、等々力で! 私、サッカーのこと、全然分かんないんで、色々教えてくださいね、師匠!」

「……師匠じゃないわ」

「いいじゃないすか! 当日は、武蔵小杉駅で待ち合わせで!  私、ちゃんとフロンターレカラーの水色の服、着ていきますからね!」


 そう言って、彼女は太陽みたいな笑顔で、私の城から去っていった。


 一人になった部屋で、私は手の中のチケットを、ただ、じっと見つめていた。

 プライドは、粉々に砕け散ったかもしれない。

 でも、手に入れた、この週末への希望は、何物にも代えがたい。


(まあ、いいか。たまには、こういうのも)


 すべてお見通しの、騒がしいギャルを一人、私の聖地に連れて行く。

 それはそれで、いつもとは違う、面白い「聖戦」になるのかもしれない。

 気づくと私は、小さく、フロンターレの勝利のチャントを口ずさんでいた。


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