ひまり、失恋する
「負けました……。完膚なきまでに、惨敗です……」
月曜日の夕方。いつものように、威勢よくドアを開けて入ってくるはずの嵐は、今日に限って、しょぼくれた小雨のような姿で現れた。
小日向ひまりは、パイプ椅子に腰を下ろすなり、机に突っ伏した。
その背中は、貸し出し用の白衣のように、くたびれて見える。
手には、コンビニのコーヒーすらない。完全に、手ぶらだ。
先週末、彼女は、意中の男性グループとの花火大会へ、万全の『武装』を整えて出かけていったはずだった。
黒地に牡丹の、華やかな浴衣。それに合わせた、夜会巻き風のアップヘア。そして、気合いを入れた、きらびやかなネイル。
『これはもう、ただの花火大会じゃない。あたしの未来を賭けた、一大決戦なんです!』
そう息巻いていた彼女の、あの自信は、一体どこへ消えてしまったのだろう。
「……何があったの」
私が静かに尋ねると、ひまりは、うつ伏せのまま、くぐもった声で語り始めた。
「田中さん……あたしのダチのミカのことが、好きだったんすよ……」
「……そう」
「あたしに、ミカを紹介してくれって……。 そのために、あたしを誘ったんですって……。 ひどくないすか……?」
やはり、私の懸念は、的中してしまったらしい。
あの日の、合コンの後の、私と全く同じように。
「田中さんの友達の、もう一人の方は?」
「数合わせに呼ばれただけの、ただの、いい人でした……。 ずーっと、野球の話してました……」
「……そう」
私は、かける言葉が見つからず、ただ、相槌を打つことしかできなかった。
ひまりは、ゆっくりと顔を上げた。その目は、少しだけ赤く、腫れぼったい。泣いたのだろうか。
「一番、腹立つのが、あたしが、ミカのために、甲斐甲斐しく、お膳立てしちゃったことなんすよ」
彼女は、自嘲気味に、はは、と乾いた笑いを漏らした。
「花火が始まる前、田中さんが『ちょっと飲み物、買ってくるよ』って言ったんす。で、その時、あたし、田中さんにこっそり耳打ちしたんすよ。『ミカ、緊張すると、すぐ喉乾くタイプなんで、お茶、多めに買ってきてあげてください』って」
「……」
「そしたら、田中さん、すっげえ嬉しそうな顔して、『小日向さん、ありがとう! 優しいね!』って……。 あの時の、あたしの優しさ、返してほしい……」
良かれと思ってやったことが、結果的に、恋敵へのアシストになってしまっていた。これほど、みじめなことはない。
分かる。痛いほど、分かる。
あの日の私も、そうだった。
彼に、同僚の好きな食べ物や、趣味の話を、たくさん話してあげた。
その時の彼の、感謝に満ちた笑顔が、後になって、どれほど私の心を抉ったことか。
「しかも、浴衣! あの、黒地に牡丹の、勝負浴衣!」
ひまりは、自分の選択を悔やむように、頭を抱えた。
「ミカは、白地に朝顔の、地味な浴衣だったんすよ。だから、あたし、絶対、あたしの方が目立ってるって、勝利を確信してた。なのに、田中さん、ミカのこと見て、なんて言ったと思います?」
「……なんて?」
「『ミカちゃんの浴衣、清楚で、すごくいいね。俺、そういう、家庭的な子、好きなんだ』だって……。 あたしの、この、気合いの入った牡丹は夜の蝶ならぬ、夜の蛾でした……」
付き合ってもいない。告白して、振られたわけでもない。
ただ、勝手に期待して、勝手に舞い上がって、そして勝手に砕け散っただけ。
一人で、自分の間抜けさを呪うしかないのだ。そのやり切れなさが、一番、堪える。
「……まあ、いい勉強になったじゃない」
私は、ようやく、それらしい言葉を、口にした。
「世の中には、あなたのその明るさや、華やかさだけでは、なびかない男もいる、ということが分かったのだから」
「うう……。 真澄室長の正論が、今日は、骨身に沁みます……」
ひまりは、まだ机に突っ伏したまま、くぐもった声で答える。
その背中が、あまりにも小さく見えて、私は、気づけば、いつもは決して開けない心の引き出しを、一つ、また一つと開けていた。
「……でもね」
私は、静かに続けた。
「私から見れば、その田中さんという人の目は、節穴としか思えないわ」
「……え?」
ひまりが、ゆっくりと顔を上げた。その潤んだ瞳が、信じられない、というように私を見つめている。
「だって、考えてもみなさい。あなたは、いつも、太陽みたいに明るくて、周りの空気を一瞬で変えてしまう力がある。誰にでも物怖じせずに話しかけられて、相手の懐に飛び込むのが、とても上手い。私がたまに、意地の悪い皮肉を言っても、全部、笑い飛ばしてくれる。そういう、あなたの強さを、彼は全く見えていなかったということでしょう?」
「あたしの、強さ……?」
「そうよ。それに、あなたは、意外と真面目で、律儀なところもある。私が甘いコーヒーは飲まないと知れば、次からは必ず無糖のブラックを用意してくる。一度交わした約束は、絶対に忘れない。そういう、細やかな気遣いができる人よ」
「……」
「おまけに、自分の『好き』という気持ちに、どこまでも正直で、そのために努力を惜しまない。あなたのそのきらびやかなネイルは、ただの飾りじゃない。あなたの、生き方そのものじゃないの」
私は、一気にそこまでまくし立ててから、ふと我に返った。一体、何を熱くなっているのだろう。らしくない。
でも、言葉はもう止まらなかった。
「こんな、いい女の魅力に気づかないなんて。その男は、見る目がないだけ。あなたが、気に病む必要なんて、これっぽっちもないわ。むしろ、人を見る目がない男に、早々に見切りをつけられて、幸運だったと思いなさい」
私の、あまりに熱のこもった弁論に、ひまりは、ぽかんとした顔で私を見つめていた。
やがて、その口元が、ふっと緩んだ。
「……ちょっと、褒めすぎですって。でも、なんか室長が言うと、めちゃくちゃ説得力ありますね」
「当然でしょ。私の方が、あなたより、二十年長く人を見てきてるんだから」
「そっか……。 二十年分の、データがあるわけですね」
「……まあ、色々ね」
色々、あった。良い人も、そうでない人も。たくさんの人を見てきた。
その、私の目が、目の前のこの若者は、間違いなく、魅力的だと、そう告げているのだ。
ひまりは、すっくと、椅子から立ち上がった。
その顔は、もう、来た時のような、小雨模様ではない。雨上がりの、少しだけ湿り気を帯びた、晴れやかな顔をしている。
「よーし! 分かりました! 田中さんのことは、見る目がなかった残念な男ってことで、記憶から抹消します! そして、あたしは、あたしの良さが分かる、もっとイイ男、見つけます!」
そう言って、彼女は、力強く、ガッツポーズをしてみせた。
その姿に、私は、満足げに頷いた。
「そうこなくっちゃ。じゃあ、決起集会と、残念な男との決別会を兼ねて、今から、飲みに行くわよ」
「え?」
私の、あまりに唐突な提案に、ひまりは、目を丸くした。
「いいんすか? まだ、終業時間まで、少しありますけど……」
「いいのよ。今日は、もう、仕事は終わり。タイムカードは押し忘れたってことにする」
私は、PHSの電源を落としてデスクに置き、ひまりの背中をポンと叩いた。
「さあ、行くわよ。美味しいものを食べて、たくさん喋って、そして、忘れなさい。男の傷は、美味しいお酒で、上書き保存するのが、一番よ」
「……真澄さん……!」
ひまりの目に、今度は、嬉し涙が、みるみるうちに、溢れていく。
「今日の真澄さん、マジで、最高に、カッコいいです……!」
そう言って、彼女は私の腕に、ぎゅっと、しがみついてきた。
「真澄さんになら、お持ち帰りされても良いっすよ」
そう言って、いたずらっぽく上目遣いで見てくるひまりの頭を、私は苦笑いしながらくしゃくしゃと、撫でてやった。
夏の終わりの、少しだけ、センチメンタルなたそがれ時。
たまには、こういう寄り道も悪くないのかもしれない。




