そのネイルが守るもの
窓の外では、梅雨入り前の六月の太陽がアスファルトをじりじりと焼いている。
そんな熱気とは裏腹に、院内PHSの無機質な呼び出し音と、パソコンのキーボードを叩く乾いた音。
私、三上真澄の世界は、いつもそんな音で満たされている。
ここは感染対策室。本館と新館を繋ぐ渡り廊下の途中にひっそりと存在する、私の城だ。訪れる者はほとんどいない。静かで、清潔で、誰にも邪魔されない、完璧な仕事場。
私のデスクの隅に隠す様に置かれた、川崎フロンターレの公式キャラクター、フロン太の小さなマスコットが、この殺風景な城における、私の唯一の個人的な領域だ。
室長、なんて肩書はあっても部下はゼロ。この病院の感染管理は、実質、私ひとりで回している。
室内に満ちるのは消毒用アルコールの匂い。この慣れ親しんだ匂いを肺いっぱいに吸い込み、私は院内感染の発生率をまとめたグラフに最後の数字を打ち込んだ。
(よし、今日のノルマは終わり)
あとは夕方のカンファレンスまで、少しだけ自分の時間が持てる。
その、ほんの束の間の静寂を切り裂くように、廊下の向こうから軽快すぎる足音が近づいてきた。
コツ、コツ、コツ。
(……来たな)
まるで病院という空間のルールをガン無視するかのような陽気なヒール音。私はため息ともつかない息を細く吐き、パソコンの画面に視線を固定したまま、週に一度の嵐の来訪を待った。
「しつちょー! ちわーす!」
ノックより先に、太陽みたいな声が私の城のドアをこじ開けた。声の主、小日向ひまりは、今日も今日とてきっちりアポなしだ。
谷間ぎりぎりまでボタンを外したブラウス、膝上20センチはあろうかというタイトスカート。背中まで伸びる髪の毛は表面こそダークブラウンだが、しっかりと金色のインナーカラーを入れている。手には営業ツールじゃなく、黒い粒が沈んだタピオカドリンク。医療材料メーカーの営業とは思えない、場違いなまでの華やかさ。まるでキャバ嬢の出勤風景だ。
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「……小日向さん、ここ、病院だからもう少し静かに」
「サーセン!」
ちっとも反省していない声で敬礼し、彼女は訪問者用のパイプ椅子にどかりと腰を下ろした。ギッと悲鳴を上げた椅子が少し可哀想だ。
彼女がこの病院の担当になったのは今年の三月。通常は地区ごとに営業担当が決まっているが、隣の病院の同期に聞くと「え、うちは山田さんのままよ?」と言われた。
理由は分かっている。私がこの子のメーカーの商品を一向に買わないからだ。商売にならない厄介な客に、若干二十歳のギャル気質が抜けない厄介な営業を担当につけた。お互いさまという訳だ。
私は自分で文献を調べ、実際に手に取って納得したものを購入する主義だ。営業マンにあれこれ言われるとかえって買う気を無くしてしまう。その点、ひまりは営業トークを一切してこないので、結果的に助かっている。
「まだ梅雨入り前だっていうのに暑いっすね。外回りマジ地獄っすよ」
ぱたぱたと顔をあおぐ仕草だけで、甘い香水の匂いがふわりと漂う。私はパソコンの画面から視線を外し、彼女の指先に目を細めた。十本の爪は、毒々しいほどに鮮やかな赤色で彩られ、薬指には銀色の立体的なパーツが神殿のように鎮座している。
「そのネイル、すごいわね。眩しくてサングラスがいるわ」
「でしょー! 推しの新曲イメージなんすよ。テーマは『銀河の果ての守護神』! この赤がメンバーカラーで、薬指のパーツは絶対的センターの彼を象徴してるんす!」
Vサインを作って爪をこれでもかと見せつけてくる。その瞳は本気でキラキラしていた。ダメだ、このギャルに私の皮肉はミリも通じてない。
「守護神、ね。その爪の隙間に何億の細菌が守られてるか、考えたことある?」
「えー、ないっす。てか、ちゃんと手ぇ洗ってるし。見てくださいよ、泡タイプのハンドソープ、ちゃんと使ってますって」
「洗い残しが一番多いのがどこか知ってる? 指先、爪の周りよ。特にそのネイルパーツの下なんて、細菌にとっては格好のシェルターなんだから」
やれやれ、職業病だ。手術室にいた頃、爪は常に短く切りそろえ、ブラシで執拗なほど洗浄した。清潔は、患者の命を守るための絶対条件。その感覚が、今も私の体に染みついている。
「シェルター! なんかカッコいいじゃないすか。私の爪、菌類にまで優しいとか、マジ慈愛に満ちてません?」
「満ちてないわよ。不潔なだけ」
「でも大丈夫。私、この手で患者さんには触んないんで。室長に触るくらいっすかね」
「私が迷惑するじゃない」
「えー、ひどい。あ、そうだ、室長もネイルしません? 超気分アガりますよ」
ニコニコしながらスマホを私に向ける。
「室長なら、やっぱベージュ系のフレンチネイルとか? でもワンポイントで薬指にちっちゃいストーン置いたりして。ちょい攻めもアリじゃないすか?」
「結構です」
「じゃあマットコートは? つや消しで大人っぽく! それか、いっそマグネットでギャラクシーな感じとか! 小宇宙感じません?」
「感じるのは細菌繁殖のリスクだけよ」
「えー、つまんない。じゃあ痛ネイル! 院長先生の似顔絵とかどうすか!? 忠誠心アピれてボーナスアップするかも!」
「小日向さんが社長の似顔絵ネイルをするなら、考えてあげてもいいわよ」
「アハッ!! 社長ネイルとか 絶対ムリ!」
ケラケラと屈託なく笑う彼女に、私は少しだけ真面目なトーンで尋ねた。
「あなた、なんでそんなにネイルにこだわるの? 別に私は良いけど、色々言ってくる人もいるでしょう?」
すると、ひまりはスマホから顔を上げ、まっすぐに私を見た。その瞳は、いつもおちゃらけている彼女のものとは思えないほど、静かな色をしている。
「んー。……逆に室長はどうして爪を切りそろえてんすか?」
なんのため? そんなの、決まっている。
「……患者と、職員の安全を守るためよ」
我ながら模範解答すぎて笑える。でも、本当のことだから仕方ない。
「目に見えないものから、守るのが私の仕事だから」
ウイルスや細菌。人間の慢心や油断。時には、無自覚な悪意からも。孤独で、誰にも褒められず、終わりなき戦い。それが私の日常だ。
「ですよね。私も一緒っす」
(は? 一緒?)
何がどうなって、このキラキラネイルと私の仕事がイコールになるっていうの?
「私も、私の『好き』を守りたいんで。このネイルはそのための武装みたいなもんすよ。毎日毎日、スーツ着て頭下げて、意味わかんないことで怒られて。マジやってらんないじゃないすか。でも、この爪見ると『ああ、私の守護神も頑張ってんだから、私も頑張ろ』って思える。私の世界は私が守んないと、誰も守ってくれないんで」
悪戯っぽく笑って、彼女はタピオカドリンクに口をつけた。ずぞぞ、と黒い粒が吸い上げられていく音が、やけに大きく聞こえる。
私は半ば呆れて、またパソコンに視線を戻した。
けれど、ふと思う。
患者を『守る』ための手指消毒。自分の世界を『守る』ためのネイル。同じ『守る』でも、対象も方法もまるで違う。けれど、その根底にある切実な思いに、貴賤なんてないのかもしれない。
(……武装、か)
じゃあ私にとっての武装は、この切り揃えた爪と「感染管理認定看護師」という肩書きなのだろうか。
「あ、ヤバ! もう行かないと!」
ひまりは立ち上がると、思い出したように言った。
「そうだ、一応営業しとかないと報告書に書けないんで。室長、うちの新しい手指消毒剤、マジ保湿力アップしたんで買ってください! サンプルだけでも!」
「いらない。間に合ってるから」
即答すると、ひまりは「ちぇー」と大げさに肩を落とす。
「じゃあしょうがないっすね! 室長、来週のミーティングもよろしくでーす!」
元気な声だけを残して、嵐は去っていった。ドアが閉まると、室内に甘い香りと静寂が戻ってくる。私は、ふっと息を吐いた。その息は、自分でも気づかないうちに、少しだけ温かいものになっていた気がする。
(ミーティング、か……)
来週、彼女はきっとまた、新しい色の守護神を連れてくるのだろう。
次はどんなテーマで、どんな色をしているのか。なんて、少しだけ楽しみになっている自分がおかしくて、私は誰にも聞こえない声で、小さく笑った。