7話 枯れゆく翠の森
エルフの森に足を踏み入れた瞬間、アリアは息を呑んだ。
そこには、彼女が知っていた“精霊たちの楽園”の面影など、どこにもなかった。
森は死につつあった。
かつて空を覆うほど繁茂していた木々は枝を垂らし、葉は枯れ、地面には焦げた痕が点在していた。
どこかから漂ってくる、鋼と血の匂い。
鳥の囀りも、虫のざわめきもない。まるで、命そのものがこの地を離れたかのようだった。
「……ひどい」
隣を歩くレリシアが小さくうなずく。
「帝国軍による攻撃は断続的に続いています。
森を焼き、聖域を荒らし、私たちを追い詰めているのです。
戦う術に乏しいエルフたちは、多くが命を落としました。
この森は……もうすぐ、終わってしまう」
アリアは辺りを見渡した。
枯れた木々の間に、必死に生き残っている小さな草花がある。
弱々しくも、確かに根を張っているその姿に、かつての自分を重ねてしまう。
(助けなきゃ……でも、どうやって?)
森を癒すには、莫大な魔力が必要だ。
だが、それをすれば、また“神”として崇められ、利用されるかもしれない。
それに、帝国がそれを嗅ぎつければ、再び森は戦場となる。
それでも、アリアの中にある衝動は止まらなかった。
•
彼女が森の中心部へ向かうと、見張りのエルフたちが緊張の面持ちで迎えた。
彼らの多くは若く、痩せこけ、弓を構えていても手が震えていた。
「よくぞお越しくださいました……神霊アリア様……!」
最も年長らしき一人が、深く頭を下げた。
その声には敬意と、同じくらいの恐怖が滲んでいた。
(また、“神”……)
アリアはそれを否定することもできず、肯定することもできなかった。
レリシアが彼らに説明していた。「彼女は救いの象徴だ」と。
「エルフの聖域は、もう守りきれません。
大樹も病に侵され、精霊の声も途絶えました。
私たちは、滅びの道を歩んでいるのです」
彼らの言葉に、アリアは静かに森へ手をかざした。
彼女の体から、微細な魔力が溢れ出す。
その瞬間、風が揺れ、枯れかけた木の枝に、小さな新芽が生まれた。
「……!」
エルフたちがどよめいた。
「今のは、ほんの少し。……これ以上使えば、この森だけじゃなく、世界中に影響が広がるかもしれない」
アリアは、自分の力がもはや自然の循環を超えた“神性”に達していることを理解していた。
だからこそ、慎重でなければならない。
「私は、世界を癒したい。でも……壊したくない。だからこそ、導いてくれる存在が必要なの」
そのとき――
「ならば、導こう。久しぶりだな、アリア」
静かに響いたその声は、風とともに現れた。
アリアが振り返ると、そこには、一人の老エルフが立っていた。
白銀の髪と深緑のローブ。背は曲がっているが、目だけは鋭く、知恵の深さを湛えている。
「シルヴァン……?」
「そうだ。私だよ、アリア。忘れたとは言わせんぞ。お前がまだ“人”だった頃の記憶も、私は知っている」
アリアの瞳が見開かれる。
(どうして……私のことを?)
「お前の転生の背後に何があったか。何者がそれを望み、何が歪めたか。
この世界が何を背負い、何を失おうとしているのか――私は、それを知っている」
老賢者シルヴァン・エルディアス。
かつて人の国で賢者と呼ばれ、すべてを捨てて森に隠遁した男。
彼は、アリアにとって唯一、“神”として扱わなかった存在だった。
「今こそ、その記憶を思い出すときだ、アリア。
この世界を救いたいのならば、自分が何者であるかを……知る必要がある」
アリアは、ただ頷いた。
その言葉に、逃げ場はなかった。
けれど、それが“目を背けていたもの”に向き合うきっかけになると、心のどこかで分かっていた。
――エルフの森での再会は、静かに、しかし確かに、世界の運命を動かし始めた。