6話 森の外から来た影
風が変わった――そう感じたのは、森に吹く香りが少しだけ違っていたからだった。
アリアは高くそびえる木の上に立ち、遠くの空気を感じ取っていた。
(この森の気配じゃない。どこか、乾いた……外の空気)
森の外から、誰かが近づいてきていた。
それは、帝国軍とは違う、もっと静かで、しかし確かな意志を持った足取りだった。
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「ご挨拶が遅れました。我が名はレリシア・エルフェイン。
北方の翠の森、エルフ族の使者でございます」
透き通るような白銀の髪に、翡翠の瞳を持つ女性が、アリアの前に跪いた。
その姿は優雅で、礼儀正しく、そしてどこか切迫していた。
「私たちの森もまた、帝国の侵攻に晒されています。
この森に宿る“神霊”の噂を聞き、すがる思いでまいりました」
アリアは答えを返せなかった。
目の前のエルフは、彼女を“神”として見ている。
まるで村人たちと同じように――。
「……私は、神なんかじゃない。人間だった。昔の記憶もある。ただ……この森で、眠っていただけ」
「……それでも、森は変わった。
私たちの森は、いま枯れようとしています。
どうか……助けてはいただけないでしょうか。力を貸してほしいのです」
エルフの女性は、誇り高い種族のはずなのに、ひれ伏すように頭を下げた。
その姿に、アリアは言葉を失った。
(私の力は……救いにもなる。けれど、それはまた、争いを生むかもしれない)
答えを出せずにいたその夜、再び来訪者が現れた。
今度は、エルフとはまるで異なる雰囲気を持っていた。
「やあ、神さま。森に噂の“金がなる草”があるって聞いてね。
ドワーフ商人団《鋼の足》の者だ。名はバラル。交渉しに来たよ」
灰色の髭を結い、革鎧に鉱石の飾りをつけた男が、ぶっきらぼうに笑った。
その後ろには、荷馬車に積まれた薬草や鉱石の山。
森の資源を手に入れるため、商談を持ちかけに来たのだった。
「取引しよう。あんたの力で育った森の恵み、俺たちが高値で買い取る。
代わりに、帝国とも他種族とも渡り合える武具や金属を提供する。悪い話じゃないだろ?」
アリアは黙っていた。
村人たちは喜んだ。
「アリア様の恵みを世界に分け与えるべきだ」と語り、交渉の場に立とうとした。
だが、それは――アリアの“力”を、信仰と金で等価交換しようとする行為だった。
(私は、誰のものでもない)
その言葉が喉元まで出かかった。
けれど、村人たちの純粋な笑顔が、それを飲み込ませた。
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数日後。アリアは夜の森を歩いていた。
月明かりに照らされた草木が、彼女の足元でそっと揺れる。
(この森だけじゃ、もう足りない……)
世界は崩れかけている。
帝国は止まらず、他種族も苦しんでいる。
そして、アリアの存在が、その中心に置かれ始めていた。
(私は、外に出なきゃいけない)
森の中で守られるだけでは、何も変えられない。
信仰されるだけの存在では、誰の手も引けない。
――ならば、自分の足で歩こう。
誰かの“奇跡”ではなく、“意志”として。
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翌朝、アリアは村の広場に立った。
その姿を見て、村人たちは次々とひざまずいた。
「アリア様、どうかお言葉を……」
「私は、旅に出ます」
静かな声だった。
けれど、その言葉は村中に響き渡った。
「この森だけでは、足りない。
この世界が、どれほど傷ついているかを、自分の目で確かめたい。
だから、しばらく森を離れます」
村人たちは動揺した。
「どうして……」「どこへ行かれるのですか」「我らが何か……」
口々に言葉が飛んだ。
アリアは首を横に振った。
「私の意志です。
そして……これは、信仰ではなく、対話のための旅。
私は世界を見て、考えて、選びたい」
その瞳は迷いなく、まっすぐに光っていた。
そして、アリアは森を出る。
エルフの密使と共に、第一の目的地――北の森へと。
森の精霊は、ついにその足で世界を踏みしめる。
それは、癒しの旅か。戦いの旅か。
まだ誰にも分からない。
けれどその歩みは、確かに“始まり”を告げていた。