5話 揺らぐ心、目覚めた森の神
血の匂いが、風に乗って森を撫でた。
木々はざわめき、葉は震えている。
アリアはただ、その場に立ち尽くしていた。
(どうして……)
視線の先には、燃え残る黒煙と倒れ伏した帝国の兵士。
その傍らには、村人たちの姿があった。素朴で、穏やかだったはずの人々が、今は槍と弓を手に、戦士のような顔をしている。
「アリア様の御加護あってこその勝利です!」
誰かが叫んだ。すると、周囲の村人たちが一斉に頭を垂れた。
「森の神に感謝を……!」
(私は、そんなこと望んでいない)
だが、誰も彼女の内心には気づかない。いや、気づいていても受け入れない。アリアが驚きや戸惑いを見せても、それすら“神の深きお考え”として解釈されてしまう。
かつて孤独だった彼女にとって、誰かに求められることは、温かいものだった。
けれど今、その温もりが重く、息苦しく、どこか狂気めいて感じられる。
――森の神。
――九尾の精霊。
――奇跡をもたらす巫女。
アリアに与えられた呼び名は日々増え、村の広場には彼女の石像まで建てられていた。
子供たちはその像の前で「アリア様のお話」を読み聞かせられ、いつしか彼女は“人”から“象徴”へと変わっていった。
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帝国軍の侵攻が始まったのは、突然のことだった。
森の南端に駐屯地を築いた彼らは、周囲の森林資源と地下鉱脈を狙っていた。
だが、その場所は――アリアが眠っていた聖域の一角だった。
森が苦しみ、風がざわめいた。
それを感じ取った村人たちは、戦う決意を固めた。
「アリア様の安寧を守るために!」
言葉は信仰に変わり、信仰は剣となった。
そして、それを止めようとしたアリアの声は、祈りとしてしか届かなかった。
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戦いは終わった。
帝国軍は一時的に撤退し、村には勝利の歓声が響いた。
だが、アリアの心には静かに疑念が広がっていた。
(あれは……本当に、守るための戦いだった?)
村人たちの目は、どこか狂気を孕んでいた。
勝利の余韻に酔いしれた彼らは、アリアの力を“奇跡”と讃え、その存在をますます絶対視していった。
その夜、広場で開かれた祝祭。
灯された松明の炎が風に揺れ、村人たちは神殿のように飾られた祠の前で歌い、踊っていた。
アリアはその場にいた。
けれど、その笑顔の奥で、静かに涙をこぼしていた。
(私は……これから、どうすればいいの?)
誰かを傷つけるつもりなんてなかった。
ただ、静かに眠っていたかった。
ほんの少し、誰かと心を通わせたかっただけだった。
でも今、アリアの存在が、誰かの正義になり、誰かの戦いを正当化している。
そして、彼女の意志とは関係なく、人々が“信仰”という名の力を振るおうとしている。
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その夜、アリアは森の奥に佇んでいた。
夜露に濡れた草花の香りが、かすかに揺れる。
「……私は、もう、ただの存在じゃいられない」
誰にも届かない言葉だった。
けれど、それは確かに、彼女自身の“意志”だった。
アリアは静かに目を閉じた。
そして、風とともに立ち上がる。
九本の尾がふわりと舞い、月明かりを受けて銀色に輝いた。
その姿は、まさしく“森の神”そのものだった。
けれどその瞳の奥に宿るものは――静かな決意と、抗いがたい痛みだった。