3話 波紋の始まり
――帝国辺境・監視塔
風が鳴いていた。
冷たく乾いた風が、荒れ果てた大地を吹き抜け、石の砦に粉塵と熱を運ぶ。ここは、帝国北部に築かれた監視拠点《ノルド砦》。
その塔の最上階、荒削りの石で造られた展望室に、一人の男が立っていた。
レオニス・ヴァルター、帝国軍の元上級将校にして、現在は辺境防衛の任を帯びる警備隊長。
灰色の外套を翻し、重厚な双眼鏡を握る手には、かつて戦場を駆けた傷が幾筋も刻まれていた。
「……信じられん。あの森が、ここまで変貌するとはな」
目を細めて見据える先には、《禁域の森》――通称“精霊の森”が広がっていた。
百年前、探索部隊が全滅して以降、帝国はその森への直接的な関与を禁じていた。だが今、その森の中心から異常な魔力が周期的に放たれている。
草木は異様なまでに繁茂し、季節にそぐわぬ花が咲き乱れ、野生動物は巨大化と知性化の兆しを見せている。
そして何より、周囲の農地に影響が及び始めていた。土地が肥え、作物は倍の速度で育ち、人々の間に「奇跡の土地」との噂が広がっていた。
「まるで……神の祝福でも受けたような有り様だ。だがそれは、同時に“呪い”でもある」
副官の青年が、一歩後ろに控えて報告を挙げる。
「レオニス隊長。中央より命令が届きました。
“森の聖域”を再調査し、必要とあらば占領を開始せよ、とのことです」
「……馬鹿どもが」
かすかに唇を歪めた。
森の中枢にある“聖域”――古くから伝わる、精霊信仰の根源であり、神秘と畏怖の対象だった場所。
帝国はそこを“エネルギー資源の供給地”と位置づけ、軍事利用を視野に動き出したのだ。
「この戦争は、物資を巡る地獄だ。水も、金属も、魔力も、すべて枯れ果てた世界で……奴らは森の奇跡に縋ろうとしている。
だが、俺には見える。そこに踏み込めば……何か、取り返しのつかないものが目を覚ます」
レオニスはかつて、同様の“奇跡”に出くわした経験があった。
豊穣の地。だがその奥には“神格化した精霊”が眠っており、軍が接触した瞬間、数千の命が灰になった。
「あの森の中には、“精霊”を超えた存在がいる。……あれは、兵器じゃない。祈りの対象でも、管理できる資源でもない」
レオニスは双眼鏡を下ろし、天空を仰いだ。
――あの森に、再び人の足音が踏み入る時、それは“世界の転換点”となるだろうと、彼は確信していた。
⸻
――銀の樹海・古の神殿
月光が淡く揺れる霧の森。
その中心に広がる神秘の湖。その水面の上に浮かぶように佇む、水晶と蔦の神殿。
そこは、千年前の大精霊たちが宿したとされる聖地《リフ=アナリエ》。
静寂を切り裂くことなく、時の流れがそのまま止まったかのような場所。
その中央、銀糸のような髪を揺らす老エルフがひとり、静かに祈りを捧げていた。
「……アリア。お前の魂が、再びこの世界に目覚めたか」
老賢者シルヴァン・エルディアス。
精霊術を極めたかつての大導師であり、転生と魂の循環を研究していた“叡智の守人”。
彼は知っていた――百年前、病に伏した一人の少女が、穢れなき魂のまま森に受け入れられたことを。
その魂が、「九尾の狐」という特異な形で精霊に昇華されたことを。
「彼女は、世界が生んだ“最後の希望”であると同時に……破滅の火種にもなりうる」
彼の前に、水鏡が揺れた。
そこには、眠りから覚めたアリアの姿――静かに森の変化を見つめる少女の面差しが映っていた。
「……この気配を、帝国の者たちも感じているだろう。
精霊が目覚めれば、森は世界に干渉を始める。彼らは、その力を“奪える”と信じている」
弟子たちが緊張した面持ちで尋ねる。
「賢者様、我らが動く時が来たのでしょうか? 精霊を守るために、禁域へと踏み込むと……」
「精霊を“守る”のではない。彼女を“導く”のだ」
シルヴァンは静かに言った。
「アリアは未だ、自らの影響力に気づいていない。だが、彼女が目覚めた以上、この世界は間違いなく動き出す。
争いの火種を遠ざけるためにも、我らはまず――彼女に“選ばせなければならぬ”。
この世界の加護となるのか、あるいは……神として崇められ、血を呼ぶ偶像と化すのか」
水鏡に映るアリアの金の瞳が、ふとこちらを見つめたような錯覚に、弟子たちは息を飲んだ。
「精霊ではなく、“神格”に近づく存在――それは秩序すら変えてしまう。
……それを知る者が、果たしてどれだけいるのか」
老賢者の杖が床を鳴らす。
銀の神殿に、ひとすじの風が吹き抜けた。
⸻
このように、アリアの目覚めがもたらす影響は、既に“世界”を巻き込みつつある。
精霊という名の静寂は破られ、神という名の嵐が、今まさに吹き荒れようとしていた――