1話 再誕の森
風が止まり、木々が静まり返る。
それは、まるで森そのものが息を潜めたかのような瞬間だった。
深い森の中心、幾千年もの時を生きた巨木の根元に、一人の少女が静かに眠っていた。
その身には獣の耳、そして九本の尾が揺らめき、淡い金の髪が土の上に流れている。
この森に住む者たちは知らない。
彼女こそが“森の精霊”と崇められてきた存在であることを。
名はアリア。
かつて病弱な体に生まれ、孤独と痛みに苛まれながら短い命を終えた人間だった。
心を閉ざし、誰とも深く関わることのないまま、ただ病室の窓から外を眺め続けていた日々。
死の瞬間すら、涙も後悔も湧かなかった。ただ、「これでやっと、眠れる」と思っただけだった。
そして気がつけば、森の中にいた。
生命のうねりと魔力が渦巻くこの地で、アリアは新たな存在へと変わっていた。
森と呼吸を合わせ、風と共に眠る。そんな静かな再誕。
彼女は、それを“救い”と感じた。
「……やっと、安らげる場所を見つけた」
そう思って、彼女は長い眠りについた。
それから百年――
アリアの魔力は絶え間なく森へと流れ込み、土を豊かにし、花を咲かせ、動物たちの力を引き上げ、
時に病を癒し、時に空を晴らすほどの力を振るっていた。
だがそのすべては無意識。彼女はただ、眠りながら願っていたのだ。
「誰も傷つけず、誰にも傷つけられず、静かに眠っていたい」と。
森の外の世界では、終わりなき戦争が続いていた。
人間、エルフ、ドワーフ、獣人、龍人、魔族、悪魔、神々――
多種族が資源と聖域を奪い合い、無数の命が消えていった。
そしていつしか、この森だけが奇跡のように豊かさを保っていると知られるようになり、
村が築かれ、祠が建てられ、アリアは「森の精霊」として崇拝されるようになった。
人々は祈りを捧げ、感謝を捧げ、森の恩恵を当たり前のように受け取っていった。
だが――彼女自身は、そのすべてを知らないままだった。
*
その日、森に異変が起きた。
風が逆巻き、空が低く唸り、木々の葉がざわめいた。
空気が震え、まるで森全体が呼吸を止めたような感覚。
そして、森の最奥に横たわるアリアの体に、一筋の光が落ちた。
「……うるさいな」
かすれた声が、静寂を破った。
狐耳がぴくりと動き、金のまつ毛の奥で、瞳がゆっくりと開かれる。
「また……目を覚ましちゃった」
視界に映るのは、百年前と変わらぬはずの森――
けれど何かが違う。木々の葉は重たく垂れ下がり、風の流れには緊張が宿っていた。
アリアは起き上がり、手のひらを地面に触れさせた。
一瞬で、森中の空気が彼女に流れ込む。
――痛い。
世界が、悲鳴を上げている。
森の外で起きている争い、流された血、灰に染まる空と焼かれた大地。
彼女が安らぎを求めていた間に、世界は静かに壊れていたのだ。
「……これは、何?」
アリアの瞳に迷いが差す。
眠ることしか望まなかったはずの心が、微かにざわめいていた。
まるで、誰かの声が聞こえた気がした。
――起きて。
――あなたは、まだ終わっていない。
――世界は、あなたたちを必要としている。
遠く、森の彼方で、別の光が瞬いた。
それは、アリアと同じ精霊の目覚めの兆しだった。
風が吹いた。
それは久しく感じなかった、意思を持った風。
新たな物語の幕開けを告げるように、森が静かに動き始めていた――




