後
「そーれ」
「いーち、にーい」
「そーれ」
「いーち、にーい」
再び三途の川に漕ぎ出した俺たちはさっきまでとは明らかに流れが荒くなっていることに気付いた。流れているのかいないのかわからない、どっちが上流か下流かもわからない向こう岸もよく見えないほど広い川幅の川だったはずが急流になっている。
「頑張って漕いでくださーい。下流に流されれば川幅が広くなって漕ぐ時間が増えますよー」
「どれくらい流されるんですかー?」丸田君が質問する。
「うーんどこまでかなあ、人間時間で100年前に流されてまだ着いてない船がありますよー。」
12人がどよめいた。
「それ、遭難してるんじゃ?転覆とか沈没とか捜索しないんですか?」
「大丈夫です。スタッフとは連絡がついてますからね。みんながんばって船を漕いでますよ。みなさんももうひと頑張りです」
気を取り直した俺たちはオールに力を込めた。波が当たりオールを水の中に入れる時にも抜く時にも力がいる。ひたすら漕いでいると頭がからっぽになっていたらしい。
ピーーーー、ホイッスルの音で俺は我に返った。
「お疲れ様です。今日はここで一泊ですよ。」
カッター船は木の杭が打たれた昔ながらの船着き場に滑り込んでいた。
俺たち12人はスタッフ2人に引率されて宿泊場所に進んだ。
ところどころに人が立っている。みんなどこかで見たことがある人たちだった。俺以外の人達も「あ、お母さん」「元気なのかしら」などとつぶやきが聞こえてくる。本人に見えても本人ではないというのにはみんな気付いているから話しかけることはなかった。と思ったら嫁に見える女性は立ち止まり一人の男の前で立ち止まっていた。男は俺には嫁の兄さんに見えた。嫁のお父さんも兄さんも実直で真面目な人だが酒好きで飲むと面白い人だった。息子の実直さは俺ではなく嫁の実家の血を引いているのかもしれない。
12人の最後尾にいた引率のスタッフに肩を叩かれ嫁は列にもどった。
嫁に見える女性は涙ぐんでいたが60年の結婚生活で俺が見たことがないほど穏やかで嬉しそうな顔をしていた。
この世界にも太陽があるのか空が茜色に染まっていった。途中5,6歳当時の俺の弟に見える坊主頭の子が俺の幼馴染の酒屋の和田君と相撲を取っていた。その横に建具屋の野口君と国谷のケンちゃんが応援している横顔が見えた。
和田君は優しい男で俺ならすぐ転がしてしまうのに「いい力の入れ方だ。すごいすごい」と褒めながら弟の相手をしながら相撲を取ってくれた。だから弟は和田君に懐いていた。
国谷のケンちゃんはうちの隣に住んでいて俺より年上で釣りやメンコの仕方を教えてくれた。中学に入るから俺はもういらないとお古のマンガをもらって何度も読み返した。俺はマンガを読んだのはそれが初めだった。
暑い夏の日、弟の手を引き浜まで泳ぎに行った。小さい弟と一緒だと泳げないからひとしきり遊ばせた後に、ここに居ろ、絶対へそまでしか入っちゃダメだと言い含めてちょっと深いところまで行くと弟に向かってバタフライで泳いで行った。顔を上げた時に弟が目を真ん丸にして俺を見ていた。
「にいちゃんすげぇ、あれトビウオってやつだろう!すげえ」とうれしそうにぴょんぴょん飛びながら言ってくれた。
けだるい午後、帰り支度をして弟の手を引くと砂浜に直接流れ込む小さな川のほとりに一頭の馬がいた。飼い主が川で体を洗ってやっているのをしばらく見て俺たちは帰った。
そんなことすっかり忘れていたが馬を見た後潮風に当たって疲れた弟をおぶって埃っぽい田んぼのあぜ道を帰ったのだ。
周囲がだんだん暗くなってきていたがそこに女の子と男の子の2人が手をつないで立っていた。俺の2人の子の小さい時だった。誰の顔を見ているのか視線はちょっと上向きでニコニコしていた。周囲は草ッ原だった。ああ、昔二人を連れて田んぼにホタルを見に行ったことがあった。弟をおぶって帰ったあぜ道を子供たちの手を引いて行けば真っ暗な中ふわりふわりと黄緑がかった黄色の光が光る。イネの裏側でも、光っている。キャッキャッと喜ぶ子供たち。牛乳瓶に水と草を少し入れてホタルを2,3匹捕まえて入れる。紙の蓋には二三か所空気穴を開けてある。家に帰って嫁に見せるためだったと思う。
「ほ、ほ、ほーたるこい」と娘が歌った。田んぼの真ん中だが夜だからどこまで声が通るかわからない。
「うるさい、夜に歌うな」俺はピンと娘の頭を軽く叩いた。暗くて見えないが多分泣いただろう。ピタリと話をしなくなったからだ。娘は音楽の成績がよかったらしくオルガンも弾いたし歌も上手かった。誰に似たのかわからない。
俺は音痴だった。笑いを取れる音痴ではなく、俺が歌うと静まり返りどんないじめっ子でも気の毒がってからかう気にもなれないような音痴だった。子供たちの次に同級生でいつも俺をからかっていた田口君と太田君が小学生の姿で立っていたので思い出した。
ついた頃には真っ暗になっていたが寺か神社のような建物が見えて来た。昔、紅白が終わって嫁と初詣に行く途中理由は忘れたがケンカした。怒った嫁は帰ってしまったのを思い出した。正月だというのに何をやってるんだと腹が立ったが夜が明ければ親戚が年始にくるのでその準備もある、お年玉もいる。自分が労ってもらえるわけでもない。嫁も色々腹に据えかねていたのだろう。と今ならわかる気がする。
建物は木造で中は薄暗く廊下が数部屋行くごとに直角に曲がりまた数部屋あるを繰り返していた。奥まで何回曲がりどれだけ部屋があるのかはわからない。大勢の人が歩いているのでなんとなくざわざわしていた。
「ゆっくり休んでくださいね」そう言って個室に案内された。ドアを開けるといきなりシングルベッドがある狭い部屋。3畳ほどだろう。昔出張でそんな部屋に泊まったことがあった。
ベッドに転がり込むとすぐ俺は意識を手放した。
翌朝?起こされた俺たちはホテルのフロントというか役所のカウンターとか病院の会計前のようなベンチに座っていた。いよいよ引導を渡されるのかと思った。他の人たちもちょっと緊張した顔をしている。ほかの船のメンバーらしい人たちも続々と集まってきた。その中にニコニコしている母の顔をみつけた。だいぶ晩年の顔をしていたが、スーツは明るい色が混じった生地で高そうに見えた。中のブラウスは白で長いリボンを前で蝶結びにしている。スカートは長めで靴はかかとが太くて低い靴。短めのつばでぐるりと花が巻いているスーツとおそろいの帽子をかぶっている。
ニコニコしている顔を見たら、ああ旅行に行くのかと納得した。母に声をかけたのは愛人だった男ではなく亡くなる前の父の顔をした男だった。もしかしたらスタッフなのかもしれないがうれしそうにその男と奥に消えた。愛人だった男を見るとなんの感慨もなさそうだったから違う人に見えてるのだろう。ちょっとほっとしてしまった。
俺に迎えが来たのは12人のうち10番目だった。丸田君と嫁の顔をした人が手を振って送ってくれた。
白い壁の6畳ほどの部屋に入った。椅子が2つデスクがひとつ。上にはパソコンのようなディスプレイがあった。俺を連れてきてくれたスタッフの一人が対面に座った。
「お疲れさまでした。ここまで来る時に懐かしい人たちに会われましたか?」
穏やかに尋ねられた。
「はい、色々な人の顔を見ました。中身は俺の知った人ではありませんでしたが」
「そうですね、あなたの人生の思い出のカギとなる人たちの姿だと思います」
俺は無言でうなずいた。顔を見るたびに色々なことを思い出した。思い出したくないこともあった。顔をしかめた俺を見てスタッフはちょっと困った顔をした。
「すいません、いやなことを思い出しました。」
「いえ、いいんですよ。実はここに来るまであなたの記憶と感情を別々にしていました」
はあ?意味がわからん、ガタリと音を立てて俺は立ち上がった。
「落ち着いてください。ここに来るまで船を漕いでいる間、懐かしい人の顔を見て泣きそうになるほど感情が動いたり、いじめっ子の顔を見て殴ってやりたいと思うほど激情に駆られたりしましたか?」
「……いえ、そんなことは」
「本当は記憶に伴って感情もよみがえりますが、それを分けて蓄積していました」
スタッフは何かを操作してディスプレイのスイッチを入れたらしく。遺影に使われた俺の写真が浮かんだ。
「80数年の人生で、毎日同じことを繰り返したわけではありませんがあなたの印象に残っていることをピックアップしたのですよ。見てくださいね」
そう言ってスタートしたのは俺の一生だった。
俺は自宅で産婆に取り上げてもらったと聞いていたが母は大泣きして俺を産み落とし父は家から出されてウロウロしていたのが俺の産声で近所のおじさんからバシバシと肩を叩かれるというドラマみたいな場面。
父親が病みつき母は働きに出て俺がおかゆをつくり、弟は父の布団のそばでソロバンひっくり返して汽車ごっこして遊んでいる場面。家の前を走る蒸気機関車。港の封鎖のためにアメリカ軍の爆撃があって防空壕行ったら満員だからとことわられ弟をおぶった母の手を引き山の近くまで逃げたこと。多分父は家でそのままだったはずだ。
その父の葬式。お骨拾い。便所の前で苦しむ俺とそれを見てオロオロする弟。仕事から帰って便所の前で漏らして苦しむ俺を見て汚したと怒る母。その後医者を呼んで大ごとなのを知って青くなる母。ソロバンを習って矢田先生に頭を初めて撫でてもらったこと。音楽の時間に初めて歌を歌って自分が下手なのがわかったこと。
小学校、中学校、高校、役場の経理の仕事、結婚。パラパラと思い出は画面に流れて行った。俺は大学に行きたかった。親父が死んでなければ親父の店を継いで弟が就職した港湾の会社みたいに店を大きくして全国に打って出たかった。母が俺の世話を焼くのも嫌だったし嫁にイヤミ言うのを聞くのも嫌だった。
幼い娘がなぜか全裸の俺の股間を見てウンチだーと笑いキャッキャッとイチモツを握ろうと追いかけてくるので俺も笑いながら逃げ回る場面も出て来た。嫁も大笑いしてそれを見ていた。次の場面では同じ部屋で嫁の腕をつかんで壁に体を何度も叩き付けそれを娘が泣きながら止めていた。
男の子が生まれた。これまで女のグダグダを見せられてきたからこれで俺の味方ができたはずだ。娘は息を詰めるように俺を見ていたが息子は俺になついた。どんどん大きくなって行く息子を色々連れて行った。その度に嫁は娘も連れていけと言ったが娘は行こうとしなかった。母と嫁の仲は、母の姉二人が来て3対1で嫁を攻め立てたから決定的に決裂した。もう駄目だった。それでも嫁は母が入院したら世話してくれたから俺は安心して遊んだ。娘はずっと嫁に寄り添っていた。嫁の味方かと思っていたが結婚したらとたんに帰ってこなくなった。
口汚くののしる嫁に暴力で応える俺を見ていたらいつかどちらかが死ぬ、娘の自分がいることで抑止になるかもしれないと思っていたと。だが私は目が覚めた。逃げる。勝手にやってろ、と結婚式前夜に言っていた。
一応気が咎めて、結婚してから一度も夫婦二人で出かけたことがないから金曜日の日帰り出張のあと自腹で嫁と一緒に京都で一泊しよう誘ったことがあった。断られるかと思ったら嬉しそうにやってきて京都の町を歩き南禅寺の近くで湯豆腐を食べた。新幹線の席に並んで座って車内販売で固いアイスを買ってやった。嫁は木の匙が折れそうなそれを手で温めながら溶かしていた。俺は新聞を読みながらいつもは目を吊り上げて怒っている嫁の珍しく可愛らしいしぐさに横目でニヤニヤしていた。
がその裏でアキコさんと遊んでいたのは嫁も知っていたはずだ。家の中は冷たく刺々しい。嫁は母にも娘にも息子にももちろん俺にも全方位的にいつも怒っていた。家に帰っても楽しい事なんかひとつもない。
帰りたくなくて駅前の公衆電話で話をしてた時に買い物に来た嫁に見られた。鬼のようなひどい顔で向かってきて「電話貸せ」と手を伸ばしてきたときは怖かった。本当に怖かった。電話越しにあの絶叫が聞こえてさすがのアキコさんも腰が引けて、小料理屋の周辺にアキコさんは浮気してるとハガキ爆撃をされて俺たちは別れたのだ。
カッター船で見た嫁と同じ顔の人はニコニコとよく笑っていたが俺は笑い顔をほとんど覚えていない。
嫁が出て行ってからの俺のアルバム?は新聞のコラムを写経のように書き写して原稿用紙が入ったミカン箱に埋もれるように囲まれてまだ何か書いている俺。
母の葬式と俺が倒れて病院に担ぎ込まれた場面、施設に行った場面、数回の子供たちの面会、臨終、葬式とわりとすぐ終わった。ダイジェストでこころが割と動いた場面はあまりなかったということだろう。
俺は画面が急に見えなくなった。なんだと思ったら湧いてくるように涙がでていた。そして涙の後からその当時の感情がどんどん蘇ってきていた。場面はどんどん変わるのに感情はついていけていないから心の中は悲しかったり寂しかったり罪悪感が湧いたりと忙しく楽しいことがあっても覆い隠すように暗い感情が出て来ていた。そしてその上から楽しかった思い出やうれしいことが重なる。頭は一回り膨らんだのではないかと思うくらいガンガンと脈打っていた。
スタッフがどこからともなくテイッシュペーパーを差し出した。俺は遠慮なく何枚も出して鼻をかんだ。
画面は俺の棺桶が火葬場の窯の中に入っていく場面で終わっていた。
「これであなたの生きていた場面は終わりです」
スタッフは穏やかに話し出した。
「長い一生お疲れさまでしたね。今見た思い出の中で足りないという記憶はありますか?」
俺は首を振った。感情に振り回されて疲れていて口をきくのも億劫だった。
俺はしばらくぼーっとしていたが、スタッフも黙っていた。
先に口を開いたのは俺だった。
「俺はこれから地獄に落ちるんですか?」
「落ちませんよ」
スタッフは即答した。
「これを見てください」
画面いっぱいにグラデーションで暖色から寒色にそれがまた違った暖色へと変化していっている。真っ黒なところも真っ白なところもわずかながらあるけれど大体は色がのった画面だった。昔見たことがあるカラーチャートのように規則正しく色や明るさの流れがあるのではない。渦を巻いているような波のような色のグラデーションだった。
「これはあなたの一生の感情の喜怒哀楽の分布を示したものです」
「この明るい場所は『喜と楽』、暗い色の場所は『怒と哀』系ですね」
「青とか緑とか寒々しい色はいい感情ではないのですか?」俺は質問した。
「いい感情ではない、とは?」
「うらやましいとか憎らしいとか金さえあればとか」
「感情は何色と決まっていませんよ」スタッフは面白そうに答えた。
「うらやましいから俺も頑張ってやってみようと思ったこともあったでしょう?
お金がないから仕方ないけど別の物で我慢しようと思ったとかベクトルが全てネガティブなことはあまりないでしょう?」
俺はうなずいた。
「反対にうれしくてたまらなくても、これからのことを考えたら不安になったとか……」
これはものすごく心当たりがあった。出世して初めての場所に異動したときは不安がいっぱいだった。子供が生まれてうれしいがこの子を育てて大学まで行かせるのは気が遠くなるようだった。今思えばあっという間だったけれど。
「ポジティブとネガティブが入り混じっているあなたの感情を色で表していますがグラデーションがかかった感情のほうが多くて憎しみだけとか喜びだけという100パーセントの感情のほうが珍しいとおもいますよ。あなたが勝ってうれしかったら相手は負けて悔しい。負けた相手に嫌な感情を持たせたからといってあなたが悪いわけではないですよ」
スタッフは画面の白と黒の部分を指さした
「ほら、こんな少しだけでしょう。黒い感情だって『殺してやる』と一瞬本気で思ったことはあるでしょうがあなたは殺さなかった。真っ黒な部分はそんな感情の蓄積ですからあって当たり前なんですよ。」
なんというか俺の人生を肯定してくれている気がした。この人は俺の人生をあるがままに見てくれている。女房子供に苦労させて自分は見ないふりして生きてきたが、俺はこれでいいのかと思えた。本当は違うのはわかっているけどまた涙が出そうになった。
「俺はこれからどうなるのですか?地獄に行かないのならどこで何をすればいいんでしょうか?」
いままで穏やかな顔で俺と話をしてくれていたスタッフが背筋を伸ばした。俺も思わず座りなおした。
「ご自分の名前を憶えていますか?」
「……いえ、友達の名前は憶えていても自分の名前はわかりません」
「そうですね、では一度だけ申し上げましょう。あなたの亡くなる前の名前は××××さんです」
ああ、そうだ。さっき見た映像が思い出された。これが走馬灯なのか。俺は実感した。さっきのは嫌な場面もあったが今はうれしくて楽しい場面だけが思い出された。楽しいことがそんなに多くない人生だったからかすぐ終わったけれど、それでも楽しいことはあったのだと改めて思った。
「あなたの感情、あなたの知識、経験は全てあなたの人生で得た物です。それはとても膨大です」
スタッフは俺の名前が書かれた定期券サイズのプラスチックカードを渡した。
「それでもデータ圧縮してこの中に納めました。これがあなたの一生の記録です。」スタッフの顔はいっそ厳かに見えた。
「あなたはお疲れですからね、しばらく休養します。期間はわかりませんがのんびりと温泉に浸かったりまだ同じ場所にいらっしゃるお友達に会えれば思い出話をしたりできるでしょう。三途の川の船の機関士として働いている方も見ましたね。まあ順番待ちなんですが。そして時がくればあなたは長い眠りについて次に呼ばれるのを待ちます。目覚める時には今までのことは忘れて次に行けます。」
「生まれ変わるんですか?」
「そうです。次の人生の目標があれば眠る前に申告してください。ただし金持ちの家に生まれたいとかは無しです。金持ちになるために努力するというのはありですよ。ああ、最近は昔読んだ小説の主役に転生したいという希望もありますね。」
スタッフは真面目な顔のままちょっと口角を上げた。
「もしそういう申告があればそれが人生の課題になります。」
「じゃあ例えば医者になりたいと決めたら……」
「例え貧乏な家に生まれて、理解のない親に反対され続けたとしても医者になるために邁進するのが決められている人生になります。」
そんな大層な人生になるのか。
「平凡でいいです」俺はうなだれて言った。
「その件は私の管轄でないのでその時にお願いします。」
「なんかもう一度あんな苦労してイヤな思いをして生きるのがいやなんですが」俺はぼやいた。
「ここに来た方はみなさん一度はそうおっしゃいますよ。ですが…うーんパソコンをご存じなようですからそれに例えましょうか。パソコンを使っていると定期的に更新がかかりますよね。ですがパソコンだとメモリを増やしたりボードを替えたりしてもOSのアップデートに対応できない日が必ず来ます。処理速度が追い付かないこれ以上メモリを増やせない。自分のマシンに乗せたいソフトが対応していないなどです。人生では老化といいますが…」
俺は深くうなずいた。
「今のはあなたの体の話です。体は老化し朽ちていきますが魂と呼ばれるものはまだまだアップデートできるのですよ。だからアップデートして働くのが正しい魂の使い方です。せっかくの魂なのに使わないともったいない。高スペックのマシンがオフィスの隅でホコリかぶってて思い出した時には時代遅れの時もありますがそんな残念なことにならないように」
「全ての魂がアップデートしていくと、そのうち世界中が聖人君子ばかりになるのですか?」俺は訊く。
「それはありませんね。高スペックなマシンで映画を作ってる人もいれば小説を書いている人も悪いことに使っている人もいますしね。色々ですよ。」
男は笑った。俺もちょっと笑った。
「また迎えに来ます。それが早いか遅いかはあなたの体感です。それまでのんびりされるのもよし、働いてみるのもいいですよ。もしかしたら懐かしい人たちと本当に会えるかもしれません。」
男は立ち上がってドアを開けた。俺は一礼してドアをくぐった。
青い空に白い雲が薄くかかっているのが見えた。
草原の中を道が一本長く続いていた。
遠くに山脈が見えたがその途中に町があるようだ。俺がいる場所からはもちろん、他の山々からも道が町に向かって伸びているのが見えた。あの町に行けば何かがあるのだろう。そういえば俺はメガネが手放せない人間だったが今は外してもよく見える。手元も遠くもよく見える。
俺はうれしくなってその気持ちのまま町に向かって歩き出した。
こんなあの世の入り口もあってもいいかなと思いました