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三途の川をカッター船で漕ぎ出した俺たち12人。

時代劇でみるような船頭が櫂で漕ぎ数人の客が乗る渡し舟やガレー船やポンポン汽船の他にも1人乗りの白鳥の足こぎボートが見えた。あんなので向こう岸の見えない三途の川を渡ろうなんて、なんて勇気があるのだろうと思ったら乗っているのは俺たちを引率している二人と同じ服装の人だった。なんだ、あの世の職員?的な人か。それとも宅配の人なのか、足漕ぎとは思えないほどのスピードで真っすぐ進んできて後ろ向きに漕いでる俺たちの横を通る時に片手を上げて合図をするとすぐ追い越していった。

「そーれ」

「いーち、にーい」

「そーれ」

「いーち、にーい」

割と声にあわせて上手く漕げていると思った。男たちも掛け声の合間に「上手いですよ。その調子」と褒めてくれていた。俺たちも「くっそ~」とか「なんじゃこりゃ」とブツブツ言う声もした。

カッターや公園のボートというのは進行方向に背を向けてオールを漕ぐ。だから俺たちは三途の川の自分たちが乗った岸を見ながら漕いでいた。大小さまざまな種類の船が停泊している船着き場が少しずつ小さくなっていく。それは自分たちが生きた世界からあの世にどんどん近づいてくるのを否が応でも感じられる。自分たちが死んだことも火葬され体はもうないことも頭ではわかっているがなんとなくみな動揺していたと思う。今から俺たちはどこに連れていかれるのだろう。俺は進行方向を見たくて漕ぎながら体を捻ろうとしてタイミングをはずしゴッとオールが何かにぶつかった。

後ろで漕いでいる若い男と目があった。あせって目だけで謝ると、男はわかってるよとニコッと笑った。

「ほらほら、振り向かない。私がきちんと指示しますよ。変なところには連れて行きませんから安心してください。そーれ……」舳先で舵を取る男がニコニコして言う。

「いーちにーい」俺はやけくそで声を上げた。

俺たちの船の横をポンポン汽船が通って行った。横波を受けてカッターはグラリと揺れた。船には20人ばかり子供たちが乗っていた。無表情の子もいればニコニコしながら手を振ってくれる子もいた。その中に誰かに似た顔があった。誰だ?

俺だ。子供のころの俺だ。

小学校の遠足で川の向こう岸にあるちょっと大きな町の映画館にサウンドオブミュージックを見に渡し舟に乗って行った。船には30人しか乗れないから100人の同級生を運ぶために何度も何度も往復していた。俺は船に初めて乗ったから妙に固くなっていた。緊張した顔はそんな俺に似ていた。映画を見た後は近くのデカい寺の境内で弁当のおにぎりを食べたはずだ。父が亡くなる前は港の近くで店を張って商売をしていたと母は言っていたが祖父の代で店が傾き、その後父が継いだが酒で体を壊し身上(しんしょう)も潰したと親戚から聞いた。

父親が早くに亡くなって、母が俺と弟を育ててくれた。父親は江戸時代から続いた材木問屋を潰した。戦後焼け野原の土地に家を建てられるように建材が必要だったからアメリカやソ連から安い材木を輸入することができれば店は持ち直したはずだ。

母は田舎では割といい家の人だったらしいが、昔のことなので女性の仕事なんかそうない。で、どうしたかと言えば今でいう港湾労働者というやつで港に着いた船から荷物を陸揚げ、または陸から船へ荷物を運ぶという仕事を男に混じってやっていたと聞いた。当時は町の景気は右肩上がりで俺たちが映画を見に行った次の年、うちの町にも映画館ができたくらいだ。

荷運びはキツイが割のいい仕事らしく母の働きだけで俺たちは高校に進学できたし、家も直せた。それを母はずっと誇りにしていた。それが俺の高校卒業ごろにでっかいクレーンが港に設置され荷運びの仕事は激減して町の人口も激減し映画館もつぶれた。母の仕事も減ったが俺が就職して今度は俺が家を支えることになった。小さいころの俺は母が港に働きに行っている時に留守番していて自分で料理を作っていた頃の俺だ。ジャガイモがあったのでそれを醤油味で煮たが皮はむいても芽をきちんと取らなかったので食べた俺は死にかけた。腹が痛くて上からも下からも洪水のようになって這って便所へ行き、そのままその前で一晩中苦しんだ。食った量が少なかったのかかろうじて死ななかったが以来ジャガイモはポテトチップスといえど食べなかった。船の上の俺のやつれた顔は死にかけてまだまともに食事が摂れないのに映画を見に行くからと無理して登校したからだった。

小学校中学校高校と成績はトップだった。だが俺は貧乏な家しか知らない。寝たきりの父と港で荷下ろしの仕事をしひどい汗の臭いと油のにおいが混じる母しか覚えていない。父は長年寝ついて俺が小学校4年の時に亡くなった。

昔のことで俺の住む小さな町には火葬する建物は無かった。だが火葬『場』はあって山の中のある場所で町内の男衆で一晩かけて焼くのだ。本来なら父親が行くのだが寝ついている父の代わりに俺が行かされていた。

そんな俺も自分の父親が亡くなると小学生で喪主を務めた。父を火葬場に送りそのまま焼き場に残ろうとしたら近所のじいちゃんが頭をなで「明日の朝が御骨拾いだから」と帰るようにと言う。なんか気になって振り返り振り返り家に帰ったのを思い出した。翌朝には母と弟と親戚のおじさんが3人ほど来てくれて一緒に御骨拾いをした。

あまり詳しくしないが肉をフライパンで焼いたりスルメを焼いたりすると水分が抜けて焦げ目がついてと同時にクルクルッと身が巻いたり縮んだりするはずだ。

俺は何度もその光景を見て肉が食べるのが嫌いになったのだと肉を食べられる生活になってから気付いた。子供の頃は貧乏だったのであまり肉は食べなかったから気が付かなかった。

父も亡くなり母一人の稼ぎしかないので成績はいいが大学に行くつもりはなかった。担任が心配してくれて田舎では一番安定している公務員になった。俺の高校からは割と有名人や有名企業の経営者が出ていた。同窓生から○○賞とかいう文学賞をもらったやつがいた。医者になったやつもいたがとりあえず母と弟を養うことが大事だった。

俺の後ろでオールを漕ぐ若い男は職場で一緒だった丸田君に似ていた。俺より1年先輩でいつもニコニコと明るく俺が20歳になった時に煙草を教えてくれた。深く吸ってそのまま後ろにひっくり返った俺の後頭部を慌てて支えて床で頭を打たないようにしてくれた。初めて食べたラーメンは丸田君がおごってくれた。

隣でオールを漕いでいる女の人は老いてはいるが先輩の林さんに似ている。公務員だから結婚しても女の人は辞めないしお姑さんに子供を任せて産後3か月ほどで復帰してくる人が多かった。結婚退職が当たり前の昭和の頃には女性には貴重な職場だったと思う。林さんは俺と同い年くらいの子供がいる定年間際のベテランで俺が隣の課に異動するまで俺の隣の机で仕事を教えてくれた。丘の上にある役場に毎日雨の日も雪の日も歩いて通勤してきていた。パチパチとソロバンをはじき俺の作った伝票や書類の検算をし「○○君は絶対間違えないねぇ、すごいねぇ」と親からも褒められたことが無かった俺を褒めてくれた人だ。


俺たちのカッターをなんとプレジャーボートが追い越していった。横波はポンポン船以上でカッターは大きく揺れた。「うぉっ」と声が上がり漕ぎに没頭していた俺たちは我に返った。プレジャーボートに乗っていたのは二人。あれは俺の初体験の相手の桃ちゃんとそのダンナになった浩二だな。

「あ、シン子ちゃん」後ろの男が思わずといった感じで声を上げた。

「なんでお姉ちゃんと一緒に船乗ってんのよ!!」どこからか若い女の人の声がした。

振り向くと高校の時に俺と一緒に珠算部副部長をやってた島村だった。こいつは口うるさいヤツだった。シャツがズボンから出てる。フケが出てるから風呂入って髪洗えなどと生活態度についてよく小言を言われたもんだ。あいつは暴れん坊の弟がいて大変だとよく愚痴っていたから姉ちゃんはいないはずだ。よくわからんが俺はももちゃんに見えるが他の人は自分の知り合いに見えるのか。

「なんでこんなに揺れますかね」林さんぽい人はつぶやく。

「大丈夫ですか?」舳先の男が優しく林さんに声をかけた。

「ええ、そんなに荒れた川でもないのにねえ、川でも急に波立つことがあるんですねぇ」

林さんはあのプレジャーボートが目に入っていなかったらしい。

ピーーー男がホイッスルを吹いた。

「はい注目!お疲れ様です。気が散ったみたいなので、ちょっとここで休憩します。オールから手を放してください」

船が揺れていなかった。あれ?と思ったら浮遊感を感じた。エレベーターのように船は持ちあがって船の周囲はウッドデッキのようになっていた。船底にぴったり合うような型の中に船がはまっているのでグラグラしない。それでも俺たちはそっと立ち上がりみんなで顔を見合わせながら足元に気を付けて船から下りた。

丸田君に似た男はニコニコしながら寄ってきて俺に「道下さんですよね?俺より10年以上前に亡くなったはずですがどうして同じ船に」と訊いてきた。

「違いますよ。俺は……誰だったかな。でもあなたは丸田君じゃないんですか」

「違います俺は、……俺も自分の名前が出てきませんが丸田じゃないのは確かです。おかしいな、友達や仕事の人間の名前は出て来るのに」

2人とも首をかしげたが「俺は公務員でした。町役場です。ソロバンが得意だったので経理にいました」と自己紹介した。

「俺は俳優やってました。割と売れてたはずですが俺の顔知りませんか?」

「あーあなた家具屋のコマーシャルに出てた人でしょう?リクライニングチェアでひっくり返る人」

林さんぽい人がニコニコしながら近寄ってきた。

「確かに出ましたよ。ええ、あのCM好評だったんでベッドのもあったんですよ。ありがたいことにどっちも10年以上続いたCMでした。いやあ気が付いてくれてうれしいです。最後は自分で運転してる車にトラックが突っ込んできましてねえ、事故死です」ニコニコしながら俳優さんは笑った。名前は出てこない。

「あの、あなたは同じ事務所の先輩だった二宮さんですか。僕と入れ替わりに出産で女優をやめられた…」

「いいえ、私は高校を出て3年働いて結婚して子供3人産んでキツイ舅姑に仕えて見送って我儘な夫を見取った後、子供夫婦と孫6人に囲まれて大往生できた主婦ですよ。この時代には幸運でしたね」ほほほと上品に笑う老婦人だがキツイ舅姑に仕えたという表現はその当時幸せだったとは思えなかった。

「あなたのCMのベッドを買いましてね、そこで寝起きしてたんですが主人とどこかの女がそこで浮気してたんですよ。怒った私はベッドに出刃包丁突き立てましてね、ビリビリにしてやりました。」淡々と林さんぽい人は言った。

俺と丸田君は思わず顔を見合わせると青い顔をした丸田君は「そのベッドはどうなりましたか」と恐る恐る訊いた。

「はさみとペンチとのこぎりを渡して全部自力で分解して粗大ごみに捨てに行けと言いました。チェーンソーを使おうとしたのでコードを切ってやりました。自分の力でやり遂げろと、それで許してやると言いましたよ」口調は乱暴な言葉が混じっていたが林さんぽい人の優しい目はそのままだった。

「懐かしいですね。今まで忘れてたんですよ。」


今なら気の毒なことをしたと思うがあの当時は嫁がうっとおしかった。まだ存命だった母もわけのわからないことでブツブツ言うのもうっとおしかった。家に帰りたくなくて酒飲んで賭け事して遊んでいたから運転免許も取らなかった。免許を取れば車を買え、迎えに来い、乗せて買い物に連れていけと嫁に言われて縛られるのが嫌だったからだ。土日は朝からパチンコに行ったのは家にいたくなかったからだ。

逃げ回る俺と業務連絡すら話す時間がない嫁は、俺が具合が悪くて寝ていると枕元で、食事をしているとその横でトイレに入るとトイレの前で延々と母親に対してもグチをこぼした。布団の中、食事中、トイレは絶対動けないから嫌でも耳に入る。たまに「聞いてるの?」と言いながら自分の悪口を町中に言いふらされているだの、トイレを汚すだの洗濯物を溜める、嘘をつくだの長々と続くのは心底嫌になった。そんなだから家に居たくなかった。インフルエンザで寝込んでいても枕元でグダグダやられたから朦朧としながら確か引っ叩いたはずだ。

次の日嫁はいなかった。文句垂れながらもおかゆを作ってくれていたがそれも無くなり母は役に立たず熱出しながら買い物に行って正直大変だった。それ以前から娘は嫁に行って以来寄りつかなくなったし息子は家を出ていたから家は俺と年老いた母だけになった。殴ったのは初めてではないのになんで今更出て行ったのか今でもわからん。

そんなことを思っていたら向こうから作業服を着たおじさんが2人来てカッター船のリーダーをやってた男たちと話始めた。

「矢田先生!!野々村!」俺は叫んだ。

矢田先生は学校ではなく俺が行っていた近所のそろばん塾の先生だ。俺がやった唯一の習い事だがこれで俺は自分が計算に強いことに気付いた。すぐ昇級していって一級が取れて高校でも珠算部部長をやって公務員になって伝票の計算が正確で褒めてもらえてと本当に楽しかった。計算が楽しいからこそなのか2桁×2桁の掛け算くらいなら70過ぎまで暗算でできた。その下地を作ってくれたのは矢田先生だった。そろばん塾も家からすぐそこだった。月水金の週に3回だったが俺は予備日の火曜日も行った。父親が亡くなってからは矢田先生が一番身近な男だった。俺は、計算が上手くない生徒向けの読み上げ算の時に簡単すぎて退屈で騒いで先生からよく拳骨をもらったがその後ニヤニヤしてたから先生に叱られるのが嫌ではなかったのだろう。

野々村は俺と同級生で俺たちは碁打ちだった。腕前は俺と互角なので休みの日にじっくり碁を打った。一緒に詰碁をしたり早打ち3番勝負をやった俺の友達だ。お互いの家に行って打ち合っていたが結婚してからは疎遠になっていった。近くに碁会所なんかないから自宅でやるしかない。だが長考の時は二人とも煙草を吸うし子供の声をうるさがるしでお互いの嫁の機嫌も悪くなるしで徐々に会わなくなった。もうこっちに来てたのか…。

「えっ?ああ、君、大川君?こんなとこで会えるなんて、また卓球やろうぜ」野々村はいや、野々村に見える人は俺を大川と呼んだが俺は球技はからっきしだから別人に見えているらしい。

「西川君じゃないか、俺が死ぬ前にやってたプロジェクトどうなったか知ってる?交通事故だけど途中で死んで迷惑かけたよねえ。パソコンのファイルの場所わかった?」ぺらぺらと事情を話す男には矢田先生の厳しくも優しい面影が無い。なんか変だ。

案内の男たちはニコニコしながら俺たちを見ている。

「この人たちはあっちの船の人たちですよ」指さした先にはでかい船が停泊していた。エンジン付きの船だ。

矢田先生はニコニコしながら「機関長をやってましてね。いやあ久しぶりですが楽しいですね。」

「機械屋さんですか」

「まあ昔はそうだったんですがどんどんコンピュータにとってかわられまして修理と言えば基板の交換ばっかりになって、管理職になって現場から離れましてねえ。だから久しぶりの油まみれは楽しいですよ」矢田先生はにこにこ楽しそうに笑いながら缶コーヒーを飲んだ。野々村(に見える男)も違うメーカーの缶コーヒーを手にしながらやはり楽しそうに話し出す「俺は車のメーカーで車を組み立ててたから工具使うのは得意でね。助手をやりながらエンジンのこと教えてもらってるんだ。都度都度直す箇所が違うだろう。同じことずーっとやる仕事だったからこういうのは楽しいね」

2人とも嬉しそうだった。なんかいいなあと2人を見て思っていたら「そろそろ行きますよ」と声がかかった。

船に乗り込むと12人のうち3人の顔が違った。だがやはりどこかで見た顔だった。「出航!!」どこかで銅鑼が鳴った。

「そーれ」

「いーち、にーい」

「そーれ」

「いーち、にーい」

少し休んで元気が出た俺たちは声を張り上げた。

俺の仕事は経理で毎月毎月同じことの繰り返しだ。金が絡むから予算を引っ張るためにどうしても媚び売るヤツや反対に自分の金でもないのに金に汚いヤツと言われたりした。確かに毎日計算ばかりしていたが数字は毎回違うのだ。だから結果も違う。当たり前のことだが俺は数字を扱うのが好きだったのだ。飲みに行って瞬時に割り勘を計算して「おーっ」と声が上がり肩を叩かれるのも実はうれしかった。

スーパーに買い物に行っても全部計算しながら歩いた。消費税も計算してレジの合計と同じだとうれしかった。たまに値引きとか3個でいくらというのを忘れたのはくやしかった。物理や数学で道路や建物の設計や強度計算みたいなデカい仕事ではないし微分積分も得意ではないから「電卓の代わりにしかならん」とたまに馬鹿にされるがそれでもよかったのだ。俺の足し算引き算は電卓より早かったが掛け算割り算は電卓の勝ちだとちゃんと認めていた。頑固で時代から取り残されそうになるわけでなく仕事場にあった和文タイプで書類も作ったしそのあと導入されたワープロもパソコンも割とすぐ覚えた。

船を漕ぎながら俺は思い出していた。俺のサラリーマン生活は確かにイヤなこともあった。俺は家に帰るのが嫌でずっと役場にいてそれからパチンコや酒場に行ってという生活をしていた。嫁には出勤といいながら有給取ってどこかに行ったこともある。そこに嫁から電話があった、または上司から俺宛に電話があり息子が『仕事に行ってます』と言ったこともあるから上司からの評価は低くなった。出世も遅れた。最後は火葬場の出納係だった。だが計算は好きで淡々と毎日違算を出さずに正確な仕事をしていたのだ。それでいいと思っていた。

仕事以外は家にあまり寄り付かないで遊んでいたから嫁がどんな思いでいたのかわからん。ただ気に入らなかったのはわかったからあまり顔を合わせないようにしていただけだ。タダで遊ぶわけにはいかないからお金はたくさん必要だった。借金もしたサラ金からも借りた。キーキー言っていたが、俺は経理一筋だ。俺が倒れた時に調べたら借金は何もないと枕元とで息子が嫁や娘に話していて俺は口はきけないが「ほら見ろ」と胸を張っていた。計算通りに遊び計算通りに借金は返して年金と恩給ですごし無一文で死ぬ。なんという無駄のない人生だ。俺の家は貧乏だったが俺はなんとかなった。母も弟も立派に働いたし俺も立派に働いた。なら俺が金を家に入れなくて貧乏でも嫁も子どもたちもなんとかなると思った。

そしてなんとかなったというか嫁はなんとかしたんだから誇って偉そうにしていればいいのに出て行った。離婚をしてくれと言われたが年金分割のことも考えれば離婚しない方があいつのためにもいいから月に3万ほど婚費を送金して好きにさせていた。

あいつにはあいつの理屈があるように俺には俺の考えがあった。分かり合えんかったのは仕方ない。会話が無かったから当たり前だ。

嫁と俺は見合いだった。嫁は小柄でコロッとしていて可愛かった、と思う。ラブレターを書いたこともある。葬式の時にラブレター発見したと嫁の実家の子が言ってたな。あんなもん60年も前の物なんだからさっさと燃やしてくれ。

嫁はにこにことおとなしそうな子だから母親とも上手くいくと思ったのだ。まだ弟も独身だったが同居で4人家族になり新婚生活が始まった。

結婚式は家の座敷でやったがそこに嫁の従兄だという藤原という男が来た。俺の同級生だ。

「止めとけと言ったんだがなあ。お前みたいな暗いやつ」と披露宴で上座に座る俺に銚子を持って酌をしながら苦々し気に言う藤原だった。隣の嫁は聞こえているはずなのに知らんぷりをしていた。

うちはその当時でも珍しいかまどで煮炊きする家だったので嫁入り道具に電気釜を持ってきた。母はそれを使わせずに家風に馴染むようにかまどを使えと命じた、らしい。嫁いびりである。うん、いびってたのは知ってた。母は10数年俺を自分の亭主のように頼りにしていた。そんな長男に嫁が来たから嫉妬に狂ったわけである。

結婚しないほうがよかったかもしれんが25になれば早く結婚しろと周囲からせっつかれる時代だった。ちなみに藤原は生涯独身だった。

嫁相手には嫉妬に狂うのに、母は未亡人でモテたというかお手軽と思われたからか俺の結婚当時にも彼氏がいた。1週間に一回くらい母の部屋に泊まっていった。

来るときは玄関で声をかけず窓から母に声をかけた。母はイソイソと迎えに出た。

俺は母の女を感じさせるその男の来訪は嫌だったが、俺は見ているぞという意味でキチンとあいさつをした。弟は顔も見ずに逃げ出していた。嫁もいやーな顔をして弟に同調していた。俺が挨拶するのを弱腰と思っていたらしい。

なんでこんなことを思い出したかというと船の新しいメンバーの一人は藤原そっくりだったし、もう一人は母の彼氏だった男にそっくりだった。そしてもう一人、女性は出奔する前の俺の嫁に見えたからだ。

そして嫁に見える女は俺の顔を見ると目を見開き口をポカンと開けた。そしてニコリと笑った。あんな顔の嫁を見たのはいつだったかな。「こんなところで会えるなんて」と口が動いた。俺にとって嫁に見えるようにあの女は俺の顔が誰か懐かしい顔に見えるのだろう。行き交う人の顔が全て自分に関わりがあった人の顔に見えるが本人ではないということに俺も気付いたがここにいるあと11人も皆気付いてきたのだろう。

これだけ知った顔を見てそいつに関しての思い出がどんどん出てきて自分がどうしたかの記憶もあるのに自分の名前が出てこない。

「さあ、出発ですよ」

案内の男がパンパンと手を叩いた。

「あと半分ですよ。用意してください」今度は黄色のメガホンではなくハンドスピーカーだった。

「波が荒くなってきました。気合を入れて行きましょう。

そーれ!」

「いーち、にーい」

「そーれ」

「いーち、にーい」

再び俺たち12人は三途の川に漕ぎ出した。


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