LV96「沼地の魔」
蔵人は森をめざして歩いた。
「うう、頭が」
後方には昨晩飲み過ぎたせいで頭痛を覚えたアシュレイが青白い顔でふらついている。二日酔いの特効薬というものは存在しない。強いて言えば時間だけが酒精の毒から身を助ける。蔵人はアシュレイを気遣ってか、緑の多い歩きやすい小道を選んで進んだ。夏迷宮は身を炙られる強烈な日差しが支配するフィールドである。夏の魔女の魔力で構成されている空間であるが、それを微塵も思わせぬ、広く大きな世界であった。
「ちょっと休もう」
日本の夏と違って気温は高くとも湿度が低いので日差しさえ濃い緑の傘の下に入ってしまえばそれほど不快感はない。森の中もフィトンチッドが濃密に分泌されており、アシュレイの体調も驚くほど短時間で正常に戻ってゆく。なだらかな木々の合間には天の碧よりも清冽な色をした小川がところどころに走っている。
「足をつけるとスッキリするぞ」
蔵人が半長靴を脱いで透明な水辺に腰かけるとリンジーやシェリルがそれに続く。アシュレイもひんやりとした空気の誘惑に負けて靴を脱ぐと、細く輝くような白い脚を水の中に浸した。
「ああ……」
アシュレイは陶酔したような表情を露にして白い喉を晒し艶っぽい声を漏らした。厚い修道服からスラリと伸びた細い足首を横目で見ながら蔵人は激しい劣情を催し、ゴクリと生唾を呑み込んだ。
「あー、すっずしい。気持ちいいわねー」
「うむ」
リンジーとシェリルは年ごろの娘としては恥ずかしいほどに大口をパカッと開けて清流の心地よさに浸っている。
蔵人の隣ではジェシーが無心にパシャパシャと水を足で蹴りながら川底をジッと見つめている。
「どした」
「あるじさま、カニです」
「ああ、カニだな」
「煮て食おうか焼いて食おうか」
ジェシーは川底から素早い動きでカニを摘まみ上げると料理法をつぶやく。
「サワガニみてぇだが、無理して食うほど美味くはないだろうから逃がしてやれ」
「そうですね。さ、あるじさまの寛大な処置に感謝して水にお帰り」
蔵人の言葉に従ったジェシーはカニをすぐさま川に優しく放した。
(てか、サワガニっぽい大きさだけどエメラルドブルーのカニなんぞ食欲湧かん)
カニは蔵人の好きな配色ではなかったことで命拾いをした。
「そうだそうだ。罪なき水辺の小動物はイジメちゃいかんぞ」
小休止を取ったのち、蔵人は再び歩き出した。
緑の森は濃密で人の手が入った気配はまるでないのだが、しばらく歩くと異常なまでに刈り込まれた下草と整地されている小道がほどなくして見つかった。
――やはりすべては魔女によって造られた土地なのだな。
人がまったく立ち入らない本当の森ならば、このような歩きやすい道がついているはずもないし、そもそもが繁茂する雑木で踏み入ることすら難渋したであろう。
(整地された登山道を歩ているようなものだ)
アシュレイはともかくほかのメンバーはこの森のあまりに作為的なにおいに気づいている気配もなそうだ。
小一時間ほど歩くとあっさりと森を抜け出た。
「やけにあっさり塩味だと思ったが、こういうことかよ」
緑のフィールドを抜けた蔵人たちを待ち受けていたのは、瘴気が漂う目もくらみそうな悪臭で塗り込められた沼地だった。
黒と茶の目にしただけで吐き気を催しそうなほどの小さな池が無数に点在し、それらを縫うようにしてどうにか人ひとりが通れそうな小道が縦横無尽に走っている。
「気をつけていこう」
「え、わわっ」
蔵人がそう言った途端、ブーツをすべらせたリンジーがバランスを崩して滑稽なステップを小刻みに踏んだ。
「だから言ったそばから落ちようとするなっての」
「あ、あわわ。ごめん、助かったわ」
ぼちゃん、と音を立てて小石を呑み込んだ沼から強烈な悪臭があたり一面に拡散される。
「うっ」
あまりに濃い瘴気に耐えかねたリンジーは顔を手で覆って涙目になった。
「クランドの言うとおりです。この沼沢地は危険すぎます。一気に抜けましょう」
「手ェ引いてあげようかお嬢さん」
「うっさいわね。このくらい大丈夫よ」
差し出された手を払ってリンジーが吠えた。ジェシーもシェリルも危なげなく凹凸の激しい小道をすいすいと渡ってゆく。
(ふたりとも運動神経は相当にいいみたいだな)
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。わたしはこういうのあんまり得意じゃないのよっ」
「じゃあ、どういうのが得意なのですか」
クールにジェシーが訊ねるとリンジーが目を三角にする。
「どういうのって、そりゃ当然、ここよ。ここ。わたしは本来頭脳労働専門なの。こういう身体を使ったりするのは不得意なの。わかる?」
「さあ。私は機械のお人形さんなのでわかりかねますけれど」
「ににに」
リンジーは歯軋りしながら妙な声でジェシーを威嚇する。
「我がおんぶしようか?」
「……結構です」
「きみたち余裕だね」
ある程度進むと傾斜がきつくなった。注意しながら上りをゆくと、丘の向こう側には沼地が延々と広がっていた。リンジーだけではなく全員にうんざりしたような気配が漂う。ちょうどよくみなが座ったり休んだりできるような場所がない。蔵人が先頭になって歩き出すと導かれるように皆も続いた。
「なにか聞こえる」
最初に気づいたのはシェリルであった。幼げに聞こえる声がやや震えている。シェリルは両耳に手を当てて、薄紫の瘴気が煙る彼方にジッと目を凝らしている。
「私にも聞こえます。争っている声ですね」
アシュレイが表情を引き締めて声のする方向に向き直った。蔵人が目を細めていると全員の荷物を一手に引き受けているジェシーがザックを担ぎ直そうと背中をうしろに反らして揺らす音に泥を叩くものが混じった。
「あぶねえ!」
蔵人は素早く長剣を引き抜くとジェシーが肩に通そうとしているショルダーベルトを切った。
この世界のザックはカニのように極端に横幅が広く、クッションもフレームもないキャンバス地の異様な頑丈性だけが誇りのものだ。
「おっとお!」
片手でジェシーを抱き止める。荷物は影に引き込まれるようにして瘴気の沼に消えた。蔵人はザックにしがみついた真っ黒な影を見て、瞬時に判断し荷物を捨て去ることに躊躇がなかった。
「荷物が」
「ンなもんどうでもいい。怪我はないか!」
「いえ、機械ですので」
だが、そう言ったジェシーの瞳にはわずかに潤んでいた。すぐさま離れていたアシュレイたちが駆けよってくるが、道は狭く沼に挟まれているので固まることができない。基本的に列になることしかできないのだ。
蔵人たちが陣形を整えるのを嫌うように沼から鋭い鞭のようなものが走った。蔵人はジェシーを横抱きにしながら身を反らしてかわす。
頬に熱いものが走った。
切り裂かれた傷口から真っ赤な血がパッと飛んだ。
「あるじさま!」
ジェシーが激高して常にない甲高い声で叫んだ。
「いよいよ敵サンきやがったな」
蔵人が野太い笑みを浮かべると周囲の沼のあちこちから、ドス黒い体表を持つ仔牛ほどもあるトカゲのような生き物が無数に現れた。




