LV66「昏い家」
「おろろーん。おあふっ。よう寝た。アシュレイちゃん、ぐっもーにん……ってどうしたんだよ、その顔は」
「おはようございます、クランド」
朝一番の伸びと同時に隣を振り返ると、そこにはすでに修道服に着替え終えたアシュレイが頭に今にも振り出しそうな雨雲を乗せたように陰鬱な表情で正座していた。
「ずいぶんと早起きじゃないか」
「寝てませんから」
いつもはクールで隙のない表情がいかにも暗い。アシュレイのような顔立ちが整った女が不機嫌にしていると、並の男が苛ついているよりもはるかに恐怖なのだ。
「あーとにかくだ。メシでも食ってから話を聞かせてくれ。俺たちに、いまもっとも必要なのは話し合いだと思う」
これっぽっちの印象にも残らない朝食を終えた後、蔵人は昨日の釣り人と出会った岸辺へとアシュレイを誘った。
「ふー」
ひと通りアシュレイから昨晩の出来事を聞き取った蔵人はしゃがんだまま拾った小石を川の流れに投じた。
鋭く放られた平べったい石はぴっぴっと勢いよく川面を跳ねながら飛んでいった。
「なるほど。アシュレイちゃんはえっちっちな夢を見てバーニンしちゃったわけね」
「違いますっ」
「冗談だよ。マジになるな」
「怒りますよ」
アシュレイの瞳が狂気を帯び始めたので蔵人はそれ以上からかう予定を急遽変更して、幾分真面目な顔つきをした。
「たぶんそいつはナイトメア。つまりは夢魔だな」
「夢魔、というと寝ている間に人間の精気を奪うとされる魔物」
「そ。たぶん、アシュレイちゃんを襲ったのはインキュバスだろう。くそ、おしかったな。なぜ、俺のところにサキュバスちゃんがやってこなかったのか……目にもの見せてやったのにな」
「確かに。それならば納得がいきます。あのような夢を自然に見るはずが」
「詳しく聞かせてほしいところだが」
「絶対ダメです」
「けち」
蔵人は立ち上がると尻の埃を払いながらサッと川岸の向こうを指差した。
「これはまあ聞き流してもらってもいが、なんか、あっちにある謎な建物が怪しいじゃねーかなと俺は思うんだが。釣りしてたジジイが言うにはなんでも魔道学院とかいう怪しげな機関らしいぞ。ま、旅を急ぐ俺たち関係ないけどな」
「ゆきましょう。調べなくてはなりません」
「聞いてた、人の話?」
「クランドもおかしいとは思いませんか。この村は異様なまでにご年配の人間だけで若者がおりません。実は、昨日、クランドが出かけたあと村のあちこちで聞いて回ったのですが、誰も口を頑なに閉ざしたまま、当然いて然るべきの子や孫の所在を一言たりとも漏らさなかったのです。私たちがよそ者だからという理由だけではおかしいのです。かかる難儀には必ず理由があるはず。それには探索が必要なのではありませんか?」
――珍しく荒ぶっていらっしゃる。
蔵人はアシュレイの行動理念に私怨があるのはわかっていたが、彼女が自分と同じくらいに頑固な性格であることを知っていたので説得はやめた。
「わーかったよ。それに俺も本音を言えば気になるからな。ひとつ探ってみるとするかね」
蔵人は河畔に小型の船を見つけると櫂を手にして意気揚々と乗り込んだ。
岸辺を突いて舟はゆっくりと動き出した。
流れはそれほど早くもなく川自体もそれほど大きいものではない。
蔵人は船頭気分で口笛を軽快に吹き鳴らす。
「断りを入れたほうがよかったのではないのでしょうか」
「ちくっと借りるだけだから気にするな」
「向こう岸で村人がなにか怒鳴っているようですが」
「俺たちの冒険を応援してくれてるんだよ。気のいいジジイだぜ」
なにごともプラスに取ることと切り替えの早さがこの男の長所である。
あっという間に岸辺に船を着けると目的の建物に向かって歩き出した。
だらだらとした広い坂を上ってゆくと、未舗装であった道がレンガを敷き詰めたモダンなものへとすぐに変わった。ほどなくして蔵人とアシュレイは魔道学院に到着した。
「やあ、思ったよりずっと綺麗じゃないか」
「クランド、気づきましたか? この建物は、死んでいます」
「だな」
敢えて軽口を叩いた蔵人は右目にかかった前髪のほつれを指先で弾き飛ばした。魔道学院は由緒正しい豪奢な建築物であり、相当に広かったが纏っている気は禍々しいものだった。
周囲を囲む壁は古びていても手入れが行き届いており、仰々しい門から先の小道はいましがた水を撒いて磨いたように美しかったが、異様な陰鬱さが籠っていた。
日差しは明るく、建物の窓から生徒の声が聞こえそうなほどなのに生命の気配が微塵もないのだ。
それが逆に春の日のように降り注ぐ暖かな光と対照的に不気味であった。歩を進めて学院の正面玄関に近づくにつれて、道に敷いてあるレンガの隙間から生えている草の丈がドンドンと大きくなる。巨大な駐車場がわずか半月程度使用しないだけでコンクリートの間から雑草が異様なほど伸びる光景と同じなのだ。
――さあ、鬼が出るか蛇が出るか。




