LV38「横槍」
米の研ぎ汁を撒いたような朝靄がゆっくりと薄れて世界がはっきりとした輪郭を帯びてきた。
蔵人が力強い動きで歩み寄る。
みるみるうちにシドとの距離が縮まった。
これ以上詰めれば即座に殺し合いになる。
蔵人は息をひゅうと吐きだすと腰に佩いた長剣の柄に指を添えた。
「この距離ならようっく顔が見える。アンタが混沌の魔女とやらの忠実な犬っころか」
「小僧。生意気な口を叩くのもほどほどにしろ。私は無益な殺生は好まぬ。目的はそこなるウォーカー公爵令嬢だ。見たところによると、人相風体から彼女に雇われた用心棒のようであるが。悪いことは言わぬぞ。とっとと消え失せろ。さすれば、もう少し長生きができよう」
「あいにくと太く短くが人生のモットーなんでな。それにカワイコちゃんを手にかけたテメェは滅法気に入らねぇや。ここでぶった斬る」
「愚かな」
一瞬で戦いの潮合が極まった。
シドは予備動作なく跳躍すると蔵人に襲いかかった。
魔人としてこの世に転生したシドのパワーはあらゆる生物を凌駕するものである。
現に、シドが本気で蹴上げれば竜の強靭な腹もウロコごと破砕する力を秘めているのだ。
宙に舞ったシド。
蔵人の顔面目がけて飛び蹴りを放った。おそらくシドの腹積もりは蔵人を一撃で屠りアシュレイの抵抗する気を消失させるものだったのだろう。
だが、現実は――。
「な、に」
長剣でシドの蹴りを防御した蔵人は地面に擦り痕を残してわずかに後退しただけであった。
「あぶねーな。貴重な相棒が蹴り割られるとこだった」
ブレードが魔人の一撃を受けてへし折られなかったのは、蔵人が咄嗟に全身の気を操作してシドの攻撃をガードできる程度の防御力をバフさせていたのだ。
これはかつての蔵人には到底できなかった技であるが、幾多の修羅場を潜り抜けた経験がこの程度の闘気の操作を可能としていた。
「手加減はしていなかったつもりであったが――」
シドは右腕を上げて構え、身体を半身にしながらその場でトントンとリズムを刻みながら跳躍し攻撃の機を窺い始めている。
「カマーン」
蔵人が挑発するとシドは身体を左右に揺らしながら打ちかかってきた。
シドのジャブが立て続けに打ち込まれてくる。
だが、蔵人は長剣を巧みに使うとシドに距離を詰めさせずに、拳を次々と捌き出した。
強化されたシドの鉄拳と蔵人の刃が宙で撃ち合いを始める。
固い音が鳴り響いて、ふたつの影が凄まじい速さで凶器を交換し合った。
わずか数秒の攻防であるが、両者はひと際高く轟音を鳴らすと互いに飛び退って距離を取った。
「貴様、なに者だ」
「テメェをぶっ殺す男だよ」
シドは構えながらガードを上げた腕から血を滴らせていた。糸のように薄い無数の切り傷が蔵人の斬撃の威力を物語っていた。
にらみ合ったふたりの間にある足元の枯れ草を風がゆすった。
ゆらりとシドが腕を揺らしながら間合いを詰める。
瞬間、蔵人は異様な闘気を感じ、遮二無二、前方へと五体を投げ出していた。
鋭い風切り音と共に矢が蔵人の腹部を貫いた。
射線上、アシュレイがいた。
蔵人は考えるよりも先に飛び出していたのだ。
全身がサッと冷たくなり、次の瞬間、腹が焼かれたように熱くなった。
意識を失いそうになるほどの強烈な痛みに吐き気を覚える。
だが、苦しむ暇があれば動かなくてはならない。戦場の鉄則だ。
咄嗟に目の前の強敵の追撃を思い身を固める。
しかし、蔵人の予想に反して、続けざま放たれた二の矢をシドは叩き落とした。
「なんのつもりだ」
シドが両眼に真っ赤な怒りの火を燃え立たせて吠えていた。太く力強い強靭な手が握った矢を握り潰している。
蔵人は視線を上げた。丘の上。小柄な少年がひょっこりと姿を現した。遠目にも浅黒い肌が目立った。おそらくは亜人なのだろう。手には長弓を構えているが次矢を射る構えは取っていなかった。
完全過ぎる隠形だ。気配を消す能力はシド以上だった。直前まで蔵人が少年の殺気を感じなかったのがその証拠である。
「クランド!」
ロクに動くことができないアシュレイが蔵人の上に覆いかぶさってくる。それではかばった意味がないと文句を言おうとしたが、喉元にこみ上げてくる血の塊が発生を遮った。
どういうつもりかはわからなかったが、蔵人とアシュレイの前にシドの巨体が壁のように立ちはだかった。
理由はわからぬが、この矢はシドの差し金ではないらしい。
アシュレイがうろたえながら袂から布切れを取り出すと蔵人の傷口に押し当ててくる。
「シド、どうして邪魔をするの。せっかく狙ったウォーカー家の小娘を取り逃がしてしまうわ」
場違いなほど甘ったるい若い女の声。蔵人が視線を転じると、着飾った小柄な女が白馬に跨ったまま、ダークエルフの射手と無数の兵隊を従えて丘の上に現れていた。
「混沌の魔女――」
アシュレイが吐き捨てるように言った。
女は蔵人を打ったダークエルフの少年を従えたまま、見事な手綱さばきで丘を駆け降りた。
当然ながら、帝国旗を翻した無数の騎馬隊と歩兵がそれに続く。
蔵人は腹に受けた矢を握りながら自分がゆっくりと包囲されてゆくのを静かに見守った。




