LV37「魔人シド」
「やったじゃんか」
蔵人に抱き起されながらアシュレイは視界がグッと狭まるのを感じ、喉を鳴らした。ひゅっひゅっと笛のように妙な音が自分から出ている。一気に力を使い過ぎたのだ。意識がぐらりと遠のきそうになるのをなんとか押し止めた。
「無理すんな」
それは強くたくましい腕だった。あたたかいそれにすべてをゆだねたくなる。蔵人の身体からは太陽のような熱を感じる。無意識の内に彼の顔を見つめていたのだろう。アシュレイはどこか気恥ずかしくなって視線を逸らした。
「どうした。いまさらながら俺がタイプだと気づいたか」
「ありがとうございます」
正直な胸の内を話せば調子に乗ることがわかりきっていたので押し黙った。
蔵人に支えられながらも、ジッと精神を集中して回復に努めると、数分後にはようやくひとりで立っていられるようになった。
「アシュレイ。見事よ。ゴーレムの弱点を的確に見破ったのもグーね」
「プレートだけあからさまに色が違いました……」
「私ってば優しいから、ね」
「どこが優しいんだよ」
蔵人がぼやいているが春の魔女の試練は難易度だけいえばそれほど高くはなかった。事前に告知していたように、ゴーレムの攻撃は物理一辺倒だったので、徒手格闘が特技のアシュレイからすれば搦め手に気を取られることなく実力を出し切れたのだ。
もっとも、第三者からすればあれほど力のある守護獣と戦うこと自体が自殺行為なのだろう。
「とりあえず少し休みなさい。私の庵はこっちにあるから」
春の魔女がやわらかな声音でそういったとき、アシュレイはわずかな気配の歪みに気づき身体中がぞぞぞと残らず総毛立つのを感じた。
声をかける暇もなかった。
「あ――」
気づけば春の魔女の胸元から勢いよく腕が生えていた。
正確には背後に立っていた男の放った手刀が春の魔女の胸を突き破っていたのだ。
「え、あ……」
春の魔女がごぶりと口元から血泡を吐いた。現実の光景とは思えない。
まさに、それは悪夢だった。
男の右腕は凄まじいまでの魔力と殺気に満ちあふれていた。
「裏切りの四騎士」
知らず、呟いていた。
アシュレイの言葉を聞くと同時に、男は春の魔女の胸から素早く右腕を引き抜いた。
ずるりと春の魔女はドレスを真っ赤に濡らして地に横たわる。
その瞬間である。
世界が、不意に軋んだ。
春の魔女が横たわっている場所に空間の裂け目が生じると、うずまきのようなものが現れて世界が呑み込まれてゆく。
次の瞬間にアシュレイが目を覚ますと、そこは先ほどいた花畑ではなく、春迷宮に乗り込むためゲートをくぐったときの荒野であった。
冷たい大地に横たわった状態でなんとかアシュレイは顔を上げた。
夜の帳が上がりかかっていた。
乾き切った台地に薄っすらと靄がかかっている。
水色の世界の向こうに陽光が降りる直前の気配が感じられた。
周囲の靄を蹴るようにして男がゆっくりと近づいてくる。
アシュレイたちに声が届く位置で男は止まった。
「春の魔女が死んだことによって、構成していたダンジョンが崩壊したのだ」
男が興味なさそうな口ぶりで言った。
瞬間、男の貫いていた春の魔女の身体が輝き変化した。
緑の玉だ。
アシュレイたちの間に緑の丸い玉がころころと寂しそうに転がり石に当たって止まった。
直観であるが、それが命を失った春の魔女であることがわかった。
先に動いたのは蔵人だった。
咄嗟に蔵人が緑の玉を拾うのがわかった。
アシュレイは蔵人に抱きかかえられたまま呆然としていた。
呆けていたアシュレイは徐々に目の前の光景を認識すると異様な闘気を放つ男を睨みつけた。
「魔人シド。なぜ、貴方がここに」
「混沌の魔女の命だ。アシュレイ・ウォーカー。ここに至ってはもはや逃れえぬ術もなかろう。潔く降参して我と共に来い。さすれば、これ以上生き恥を晒さぬよう取り計らうと約束しよう」
――よくもぬけぬけと。
混沌の魔女とその一党である裏切りの四騎士はアシュレイからすればその肉を噛み千切ってやりたいほどの不俱戴天の仇だ。
「なぜ、彼女を手にかけたのですか」
「我が大義の妨げとなる」
「そんなことで……」
出会ってからわずかの間であったがアシュレイは試練によって春の魔女との間に確かな絆を感じていた。
だが、その絆も混沌の魔女の犬である目の前の男によってあっさりと断ち切られたのだ。
許せない。
許せるものではない。
一族と、春の魔女と、賢者ロペスと――。
「貴方たちだけは許すことができない!」
怒気を込めてアシュレイが吠える。
だが、蔵人の腕から抜け出そうと力を込めるが骨が解けたように、腕も指先も動かなかった。
ゴーレムとの戦いで力を一時的に使い果たしたのだ。シドの両眼から発せられる不気味な光が憐れみを帯びたものに転じたことが理解できた。怒りと屈辱で目の前が眩む。
「この――」
「まあ、ちょっと待った」
なおも言い募ろうと身を乗り出そうとしたところで口を手のひらでふさがれた。
「アシュレイちゃん。こいつには俺にも言いたいことがある。ちょいと任せてくんねぇか」
いつもと同じような飄々とした口調。
「貴方は――」
噛みつこうとして首を曲げた瞬間、アシュレイはハッと言い淀んだ。
蔵人の瞳。
背筋が凍るような酷薄さを視た。
暗い闇の中に炎があった。
静かであるが、それは確かに轟々と音を立てて燃え盛っている。
「なんだおまえは」
そう言ったシドがわずかに表情を変えて胸の前で組んでいた両腕を解いた。
「俺は怒ってんだよ」
そう言うと蔵人は落ちていた緑の玉を拾い上げ、シドに向かって一歩踏み出した。




