LV03「優雅な船旅」
大陸と島を隔てているのは海峡だった。
大陸からもっとも島に近い突端からでも距離は二百キロを優に超えている。
ロムレス王国の大商人トレバー・クロムウェルの持ち船であるブランジェール号が港を出港したのは、秋がもう間近に迫る九月の末であった。
大陸を治める王国と島を治める帝国は表向きには外交はない。なぜならば大陸よりも小さな島を治める一族は、代々皇帝を自称し、大陸の王国を格下としていたからである。
人口からして比較にならないほど小さな島国の皇帝を王国は黙認していた。
それぞれの価値観の違いから積極的な外交はほとんどない。
両者は言語体系も違っているので意思疎通も難しかった。
そもそも互いが没交渉ならば、際立った利害関係もない。特に仲よくする必要性も皆無だ。
大陸は閉鎖空間である島とは違って平穏とはほど遠い混乱期を迎えていた。王国で長く続くかと思われる内戦が奇蹟的に終わったのがついこの間ならば、ロムレス王国は国の立て直しが最優先である。だとしても、民間では細々とした交易は行われていた。
ブランジェール号が大陸の最南端である大きな街ボー・アッシュにほどちかい港に向かって快調に飛ばしているときに、それは起きた。
客たちは甲板で景色を楽しんでいた。
その客のひとり、島にいる従姉の結婚式に出席するため乗り込んでいた十七歳のジョゼフィーヌ・ルパープは真っ白な日傘を取り落として、甲板で凍りついていた。
海から現れたのは、彼女がいままで目にしたことがないほど巨大なイカの怪物だった。
クラーケンと呼ばれる海の魔物は狂暴かつ危険なモンスターの代表格である。
ぎょろりとした巨大な瞳に射竦められ、ジョゼフィーヌは息が詰まった。
「え、あ、え……」
ロムレス貴族のジョゼフィーヌは初めての国外旅行である。
箱入り娘の彼女はほとんど遠出をしたことがなく、今回は国内の政治不安もあり父である公爵から十人近い護衛をつけることで特別に許された旅行であった。
――島に着いたらどこを観光しましょうかしら。
若い娘らしく、雪のような頬を紅潮させながら旅路で出会うはずの楽しげな空想に耽るジョゼフィーヌの弾むような喜びを打ち消すように、突如として現れた怪物クラーケンは巨大な触腕を船の縁にかけてミシミシと音を立てている。
船乗りたちは、それぞれ武器を持って応戦しているがクラーケンが触腕を軽く振るだけで、毬のように弾き飛ばされ甲板にぶつかって呆気なく絶命してゆく。
――逃げ、なきゃ。逃げなきゃ。でも、どこに?
お気にいりの日傘を放り投げて走り出そうとしてジョゼフィーヌは躓いて転んだ。
短い悲鳴と共に過呼吸で目の前が真っ白になった。
あまりの恐怖と理不尽な仕打ちに現実感がないのだ。彼女は頭がふわふわしてなんとか四つん這いからようやくその場に座り直すのが精一杯だった。
「お嬢さま、はやくお逃げくださ――!」
ジョゼフィーヌの護衛長であったレオンスという若い騎士がクラーケンの触腕にあっさりと捕らえられるのを目にしたのは不運だった。
レオンスは巨大な触腕にシュルシュルと巻き取られると、強烈な圧を込められてから奇妙な断末魔を上げた。
「おぶうっ」
巨大イカにとっては人間を捻り潰すことなど造作もないのだろう。
レオンスは眼球をポンッとピンポン玉のように飛び出させ、口元から真っ赤な血液のシャワーを噴出させた。
レオンスの亡骸は生前の二枚目面の原形も残さず絞られて放置された雑巾のようであった。
「あ、あ、あ」
ジョゼフィーヌにできることはただその場で蒼白となり呻き声を上げるだけだった。頼みの綱の護衛たちは果敢にも真っ先にクラーケンに躍りかかったせいで、周囲にはいなかった。
船乗りたちもなんとか触腕が船を海中に引き摺り込むのを阻止するのが精一杯で客であるジョゼフィーヌを顧みるものはいなかった。
「なんでもいいからあのバケモンにぶつけてやれ! このままじゃ全員海の藻屑だ!」
船長がそう言って積み荷を船乗りたちに投げさせ始めた。
人間、追い詰められると戦うか逃げるかに分かれる。
もうダメだと思ったのか、ほとんどの船乗りが見切りをつけて海に飛び込み始めた。
当然ながら、ジョゼフィーヌは泳ぐことなどできない。
死はそこまで迫っていた。
「ひ、ひぐっ。な、なんでこんなことに」
ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。王都では可憐な花として社交界で引く手数多だったジョゼフィーヌもこのような鉄火場では船乗りたちに当然の行動として無視された。
「た、助け――」
「邪魔だ!」
「きゃあっ」
航海中は鼻の下を伸ばして自分をチヤホヤしていた船乗りたちも、いまでは差し出した手を跳ね除けながら逃げるのに精一杯だ。
――もう、おしまいだ。
ジョゼフィーヌは座り込んだまま下履きが俄かに暖かくなったのを感じた。失禁したのだ。淑女にあるまじき行為であったが、甲板はクラーケンに潰された人々の血と潮でずぶ濡れになっており、誰の指摘も受けそうにないのがせめてもの救いだった。
「あ、あはは。あはははは」
知らず、笑いが漏れた。笑え。笑うしかない。ジョゼフィーヌは自分の感情がどうなっているのか、もはやわからなくなっていた。
ぎい、と音が鳴って船体が斜めになった。身体が斜めになる。つんのめって顔が厚い板をこすった。鉄臭ささが鼻腔に飛び込んでくる。潮と血が入り混じって目に入り痛かった。クラーケンがブランジェール号をついに終わりにしようと決めたのだ。
「うるっせえな。なにを騒いでやがんだ。ロクに昼寝もできねーじゃんか」
ジョゼフィーヌの笑い声を遮ったのは、寝起きで機嫌がいかにも悪そうな男の声だった。
ミシミシと船内の階段を登りきったところで男は立ち止まると、驚きの声を上げた。
「たまげたな。こんなデカいイカ久々に見たわ」
状況をまるでわきまえないのんきな声にジョゼフィーヌが振り向こうとしたとき、巨大な触腕がするすると足元にまで伸びていた。
――ひ。
声が出ない。
喉がカラカラに渇いて引き攣った。
あれに捕らえられれば助からない。
死が――迫る。
恐怖で目をつぶる。
レオンスの無残な最期が目に浮かんだ。
咄嗟にジョゼフィーヌは頭を抱え込んで身体を丸めた。
動物としての本能的な行動だった。
「あ、あれ」
だが、身体を圧し潰す痛みは一向に襲ってこない。
そっと目を開ける。
そこには長剣を引き抜いて颯爽と立つ男の背中があった。
どたんどたんと、クラーケンの丸太ほどもある巨大な触腕が甲板の上を踊っていた。
切断された触腕は痛みをこらえかねたように無様に舞っている。
船が水平に戻った。
ジョゼフィーヌは甲板をすべりながら男の斜め横に移った。
顔を上げる。
黒髪黒目の男であった。
身に着けるものも真っ黒だ。
外套が風を孕んで音を立てて揺れていた。
お世辞にも綺麗とはいえない。
風雨と塵埃が染みこんだそれは、重たげである。
背中には真新しい鞘の剣を背負っていた。
二刀を所持している。
抜剣したのは腰のものだろう。
男の右手に握られた剣の切っ先は陽光を真っ直ぐに弾き返してぴかぴかと輝いていた。
年齢は二十歳前後か。
無精髭が目立つ。
取り立てて美男、というわけではない、
だが、存在感は圧倒的だった。
逃げ惑う船乗りとは対照的に、瞳が飢えた獣のようにギラギラと異様な光を放っていた。
「強制イベント発生ってか。のんびり昼寝もこけねぇ。船旅も思ったほどラクじゃねぇな」
クラーケンの触腕がうねりながら迫ってきた。男は微塵もゆるがぬ様子で構えた長剣を左右に鋭く振った。
ジョゼフィーヌも今度ばかりは目をつむらなかった。
男はその場から一歩も動いていないというのに、襲ってきたクラーケンは二本の触腕を切り離された。
ひと抱えもありそうな触腕の先端が血塗られた甲板の上をのたくっている。
クラーケンは聞く者が総毛立つような怒声に近いものをほとばしらせていた。
甲板には船乗りが勇んでクラーケンに投げつけようとして失敗した火が回っていた。
血と潮とが入り混じった上に、逃げることもできない船乗りや客が右往左往している。
乱舞する炎と風とでクラーケンは異様な興奮状態に陥っていた。
そもそもがクラーケン自身が身体を傷つけられるなどいままであり得なかった。
大海原を我が物顔でのし歩く巨大イカにとって人間などは木っ端のようなものだ。
好き放題に船を襲い、その都度人を喰らって己の快楽を満たしてきたクラーケンが大切な触腕を奪われることなど非常事態である。
彼の中で、目の前の黒い個体が逃げもせずに悠然と構えているなどあってはならないことだった。
そもそも天敵などいないのだ。向かうところ敵なしで今日まで生きてきた。それだけに気が小さい。相手がクジラのように自分よりも大きければ恐怖を感じて逃げるという選択肢もあっただろうが、眼下の人間はあまりにも小さかった。
クラーケンはその強さゆえに苦戦を知らない。いつでも戦えば必ず勝った。
――だから、反抗されるのは慣れていない。
臆病なのだ。
臆病で小心だからいきり立って威嚇する。
この巨大イカに限らず野生の獣が吠え立てるのは、相手が威嚇して逃げてくれれば戦闘にならないと本能的に知っているからだった。
「――いいぜ、とことんやるってんなら相手になる」
ばさり、と真っ黒な外套が死神の持つ禍々しい翼のように大きく広げられた。
外套に刺繍された文字は、この世界の物ではない。
日本の律令制下の令外官のひとつで蔵人「くらんど」と読む、時代がかった名だった。
クラーケンの不幸は、黒く小さな生き物が、彼がいままで出会った生物の中でもっとも危険で無鉄砲かつ諦めなど知らない男であるとわからなかったことにあった。