LV19「一日一善」
「は――!」
蔵人はアシュレイに投げを打たれた直後、素早く立ち上がった。
全身から鈍い鈍痛が間断なく脳を苛む。
両腕を前方に伸ばして両掌を開いたり閉じたりを繰り返す。
どうやら骨折はしていないようだ。
離れた場所でアシュレイがこちらの様子を窺っていた。
「あぢぢ。結構やられたな」
妙に後ろ頭がむず痒い。
太い指先でガシガシやると固まった黒い塊がポロポロ落ちてきた。
血の塊である。
不死の紋章の効果で傷はとうにふさがっており凝固しているのだ。
アシュレイは予想以上の拳闘の達人だった。
「フフ、この俺をなにもさせずに一方的にぶっちめるとは。やるわい」
ただの負け惜しみである。
殴られてへし折れて曲がった鼻面を摘まんで勢いよく戻す。
折れた鼻骨も不死の紋章の力で瞬間的に再生した。
「ふん」
鼻腔の片方を摘まんでいきむと奥に詰まっていた血の塊が勢いよく飛び出し、地を打った。
蔵人が起きたことに気づいたアシュレイがゆっくりと近づいてきた。
「ふ、お主やるのう。紙一重の差だったな」
仮面の奥の瞳は刺すように蔵人を見ていた。
「あはは、ダメかな?」
アシュレイは驚いたように目を見開いた後、腰に手を当てたまま呆れたように言った。
「仕方ありませんね。私もめぼしい仲間が見つけられない以上、目的のためには手段を選んではいられません」
「するってぇと俺の女になるってんだな。真摯な情熱が通じたぜ。いやっほう!」
「そんなことはひとことも言っておりません」
「素直じゃないやつめ。まあいいさ。そんじゃあテキトーに茶でもしばきながら今後の作戦会議と洒落込もうぜ!」
「なんでそれほど元気なのですか……」
蔵人がノリノリでアシュレイの背を押して街にゆこうとすると宿屋のジャックが物凄い形相で立ちはだかった。
「ちょっと待てよ! シスター、本当にそいつと行くんですか?」
「なんだよォ、文句あんのかよォ」
蔵人は悪党面でメッチャ威圧した。
「大有りだ!」
ジャックが食ってかかる。
「ツバがかかるよう。きちゃないよう」
「クランド、少し彼と話をさせてください」
「仕方ねぇなあ。ちょっとだけだぞ」
ジャックはアシュレイの手を引くと井戸がある小庭のほうへ移動する。蔵人はニヤリと薄ら笑いをすると、微妙に文句がつけにくいふたりの話が微妙に聞こえる位置に立った。
壁にもたれかかって耳をそばだてていると、どうやら別れ話のような雰囲気だった。
(ケケケ、宿屋のモブ兄ちゃんよ。諦めな。イイ女はすべてこの蔵人さまのもとに集うことになってんだ。ああ、男前な自分が怖いぜ)
「シスター、正気ですか? あんな半グレについていったらどんな目に遭わされるか知れたことじゃありませんよ!」
「けれど、彼の腕の立つことは事実です」
「ハン! 一方的にシスターに叩きのめされてじゃないですか。アイツは口だけの腰抜けだ! ぼ、僕のほうがシスターを幸せに――」
「その言い方は不愉快です」
「え? だ、だってあの男は一方的に殴られっぱなしだったじゃないですか」
「彼は、クランドは最初から私に攻撃するつもりがなかったように思えます。それに、最後の一撃は、つい本気を出してしまいました。ですが、あの拳打も投げもクランドの意識を刈り取ることはできなかった。たぶん、続けていれば私の負けでした」
「そ、そんな。けど、仕事が終わればまた帰ってくるんだよね? ね、ねえ?」
「短い間でしたがお世話になりました。宿に残した荷物はたいしたものはないので処分なさってください。少ないですが、逗留分の宿代も部屋にありますので」
ジャックはわなわなと震えた後、すがろうと手を伸ばしたがアシュレイに振り払われた。
――ちょっと、気の毒だな。
蔵人はジャックに対して強い憐憫の情を抱いていた。なんだかんだで見知らぬ蔵人の遊び金も立て替えてくれた善人である。無理目のアシュレイをものにしようと努力し続けた結果が無残に打ち砕かれたのだ。男として同情の余地がある。
「それではクランド。ゆきましょう」
アシュレイはもう興味がないといった様子でジャックのことを振り返りもしない。
「あ、ちょっと待っちくり」
蔵人はがっくりとその場に両手と両膝を突く失意のジャックに駆け寄ってしゃがみ込んだ。
「そう落ち込むなって。ほら、昨日行った娼館の割引券だ。コイツをやるから元気出せ。ちなみにオプションでコスプレも可能だからそれで我慢しとけ。確か、修道服もあったぞ。おススメはコレットって子だ。吸引力が並じゃない」
「あ、あう……」
「頑張って生きろ!」
蔵人はジャックが割引券を握りしめボタボタと涙を流すさまを見て、今日もまた大いなる善行を施してしまったと、充実感をひとり噛み締めていた。