泡沫に咲く花火を
日が暮れた跡でも蒸し暑さを感じるようになってきたこの時期、納涼祭もあちらこちらで目立ち始めていた。勿論、この商店街も例外じゃない。
身動きが出来ない程の人で溢れ返り、何処の屋台も慌ただしい。何よりも、熱気と煩さがここ一帯を覆っていた。それなのに、とても賑やかで、楽しそうにも見える。そんな空気が嫌いではない。
だが、今の僕達にはどうしてもそれを楽しむことは出来なかった。
人だかりを離れ、しばらく進んだ先、商店街とは打って変わって物静かな神社の奥、雑木林の前。そこにあるベンチに座っていた。昏い中、淡い月光に照らされた彼女の浴衣姿は美しく、綺麗で、それでもって切なかった。
「陽ちゃん、大好きだったよ。そして、これからもずっと大好き」
そんなことを言う彼女の頬は既に濡れていた。だが、何も言葉に出来ず、涙を拭うことすらも出来ないという無力さについ俯いてしまう。
幼さ故、そんな言葉で終わらしていいものだけど、それが出来ないのが今を生きているということなのだろう。
「陽ちゃん、せっかくの告白なんだからそんな顔をしないで」
「だって、僕は何も……」
「ううん。陽ちゃんは私に沢山のことをくれたんだよ」
浮かぶ涙は月を映し出し、輝く瞳は僕の姿をしっかりと捉えていた。
思い返せば、幼馴染みである彼女のことがずっと好きだった。
幼稚園の頃からご近所さんとしてよく一緒に遊び、よく一緒に登校し、よく一緒に下校していた。そう、何をするときも大抵は一緒だったのだ。
彼女はとても気の強い女の子で、いつも僕がいじめられている時に助けてくれる。泣き虫だった僕の唯一の味方。ただただ側に居てくれるだけでも嬉しかったのだ。
「ほら陽ちゃん、泣かないの。私が側にいるから」
それが彼女の口癖。泣いた時には僕の頭を撫でてくれたりもした。
一体どれくらいの時間を過ごしていたのか、今となっては昔過ぎてよく覚えていないが。
でも、ある日から変わってしまった。
小学四年生の頃だったか。いつしか彼女は素っ気ない態度で僕に接し、僕を避けるように生活をし始めていたのだ。
遊ぶ時は見知らぬ友達と、登校する時は別の友達と、下校する時は全く違う友達と。そこでようやく気づいてしまう。僕らの間にあったのは、人間と人間、男性と女性という強く、とても深い溝だったのだと。
そんな当たり前のことを長らく忘れていた。
やがて「おはよう」なんていう何気ない挨拶ですらしなくなった。ましてや、近所なのにも関わらず、顔を合わせることさえ珍しい程にまで。
そのまま時が経ち、中学を卒業。高校へと進学した。ただ、何の偶然か、彼女と同じ学校だったのだ。こっちは単純に安全圏内へ一直線。それこそ、直前まで迷ってさえいた程。何処かの少女漫画ではあるまいし、偶然にもほどがあると思う。
ただ、正直、関わりもさほどのものでもなかったし、気に留めるほどでもない。
それでも一つ言えることがあるのだとすれば、いつの間にか彼女の態度にどこか苛立ちを覚えてしまったのだ。何というか、あの時の言葉が嘘だということが分かってしまったからだろうか。
兎にも角にも、好きな彼女に対し、少なからず怒りを抱えているのは、きっと僕の醜いところなのだろう。
ある日の放課後、週番だった僕は日誌の空欄を思いつく繰り返しの言葉だけで埋めていた。そんな中、何がきっかけだったかまでは覚えていないが、あるクラスメイトと夕焼けに染まる教室、そのど真ん中の席で話していたのを覚えている。
「なぁなぁ、三上。お前って好きな奴いる?」
いきなり聞かれた質問に疑問は感じたのだが、さして何も思わず、「いないけど」なんて答える。
この年頃は恋沙汰で賑わうもの。そんな話どころか、噂が立たない人間を面白がらない連中は、ついに僕にまで手を伸ばし始めていた。
「お前、幼馴染いるんだって?」
「え? あ、うん」
「それって、同じクラスの……」
「そうだよ」
「じゃあ、その子とお前が付き合ってるって噂、知ってるワケ?」
「まぁね」
なんて、適当に答えるが、別にどうだっていい。最早、彼女の存在自体意識することも無くなってしまい、会話の余地なんてないのだ。
それに、噂は所詮噂。いつしか熱は冷め、跡形もなく消えてしまう。なら、わざわざ動いて傷跡を残すよりは、適当に乗り切った方が得策だと、そう判断した。ただそれだけのことに過ぎない。
「で? その噂の真偽の方は?」
「嘘嘘。あんな美人が僕みたいなより十分いい彼氏持ってるだろうし」
「へぇ、何? あの子付き合ってるの?」
「知らね。ただの幼馴染の勘だよ」
脊髄反射だけで話している間にも、窓の施錠という最後の雑務を終わらせていて、荷物をまとめ始める。
オレンジ一色だった教室も青さが刻々と広がってきており、頃合いを見計らうと、早く出るように催促し、教室の鍵も閉めた。
「んじゃあさ、お前って好きな奴は?」
その質問には一瞬動きを止めてしまう。二度目だったのだが、そいつは本気で聞いてきていた。それに少なからず反応してしまう。
そして、脳裏に過ぎるのは––––––––。
でも、信じたくもないものだと一蹴し、「何度も言ってるだろ? いないよ」なんて苦笑いを見せ、鍵を片手に教務室へ返しに行き、そのまま帰路へと就いた。
あともう少しで家だという所にあるいつもの信号。ここだけはどうしても引っかかってしまう。
よくまぁこんな狭い住宅街の道にこれだけの車が通るなという程、忙しなく行き来は繰り返されていた。轟音、時々漏れ聞こえる音楽、流れが止まると聞こえるカラスの声、白々しく照らす壊れかけの街灯。
そんなのを横目に歩いていると、電柱の影に女子の影が見えた。暗闇に潜みながらも、よくよく見れば、うちの制服だということくらいは分かる。勿論、それが誰かも。
そこを通り過ぎようとした時、何かに掴まれるような感覚に足を止めた。
「ねぇ。誰か分かってて通り過ぎようとしてたよね?」
言われた言葉に、歯を食いしばり、袖を掴む彼女の手を振り払おうとする。
「ちょっと。……これ、返したいだけなんだけど」
ビニールの擦れる音が聞こえる。でも、別にどうでも良かった。
心の中では好きだ好きだといっていたくせに、いざ会うことになってみれば、下らない怒りが無性に湧いて出てきてしまう。
「別にいい」
素っ気なく言葉を吐き捨て、歩いて行く。そこに理由はない。ただ一つ、胸の奥にチクリとしたよく分からない痛みが走った。
途端、背中に衝撃が走る。
「私だっていらないわよ、こんなもの」
なんて聞こえた次の瞬間、彼女は走って行く足音だけ残して、その姿を夜闇に眩ましてしまった。
投げつけられた物、そのビニールに入っていたのは––––––––。
家に帰り、その日の夜、初めてその真意を知る。
「深雪さんのお宅、何かあったみたいでさあの子だけ引っ越すんだって。確か、親戚の家に引き取られるとか」
「え? またどうして」
「いや、警察が来てたから何かあったんじゃないかなって連絡したら、それだけは教えてくれたんだけどねぇ」
親がそんな話をしていたのがリビングから聞こえた瞬間、察した。彼女がどんな思いをしていたのか、彼女がどんな想いでいたかを。
下らない。下らない、下らない。本当に下らない事ばかり抱えやがって。
また膨らむ怒りはもう抑えようがなくなってしまっていた。
翌日。
わざわざ違うクラスまで行き、彼女への手紙を預け、一日を過ごした。
夏休みも近くなる時期、さして詰め込まなければいけないとかいう授業もなく、緩やかな一日だった。だが、そのせいで余計に長く感じてしまう。
それがまた焦れったくて仕方がなかった。
待ちに待った放課後、一目散に走り、帰り道にあるうちの近くの公園、そこのベンチに座る。
この時期は緑が生い茂り、いい景色とは言い難いが、時折吹き抜ける風は心地が良く、好きだ。
鞄を置き、それを枕に横になる。
涼しいここの空気の所為だろう。疲れも乗った眠気には勝てず、ゆっくりと重い瞼を閉じる。そのまま、深い呼吸は寝息へと変わり、意識はそっと夢のその奥へと飛んで行ってしまった。
ふと目が覚める。瞼を開くと、入ってくるのは鮮やかに焼けた空だった。
どのくらい寝ていたのだろう。
そっと体を起こそうとすると足元に重さがあることにようやく気がついた。
「ようやく起きた」
聞こえた声に不思議と納得してしまう。
「なら、なんでお前まで寝てんだよ」
「別にいいじゃん」
体を起こし、隣にいる彼女の顔をよく見る。
–––– 深雪 理沙を。
浮かべた笑みの奥にあるもの、そこにひたすらに隠してる気持ちをどうしても知りたくて。
「なぁ。……引っ越すんだって?」
「あぁ、知ってたんだ」
崩すことのない表情、その下にある凍った何か。
きっと僕はそれを知るべきだったのだろう。でも、目を背けた。ただ、彼女の所為にして。
「……なぁ、ごめんな」
「……何が?」
「気付いてやれなくて」
「え?」
日が暮れても暑い中、間を通り過ぎたのは凍り付きそうなほど冷たい風だった。
「し、知って、る、の?」
震える声。
「……いや、知らない」
震える手。
「な、なら、何に? 何に謝ってるの?」
震える心。
「お前の心に」
その全ては、僕の所為なんだ。全て僕の所為。
彼女が怪我をしていた時、「転んだ」なんて嘘だと思っていたのに。彼女が体調を崩した時、「風邪を引いた」なんて嘘だと気付いていたのに。
彼女が最後に僕と顔を合わせて話した時、「嫌い」なんて嘘だと知っていたのに。
それに気付くと、僕と距離を取ったのも、わざとだと言うことくらい、容易に察しがついてしまったのだ。
「……ごめん、何も出来なくて」
彼女の頬を伝う涙は、きっと色んなものが含まれているはずだ。
出そうにも出ない感情の全て。叫びたいのに出来ない悲鳴。
ふと見えた首筋に残る傷痕。赤く、腫れている。そう古いものではないのだろう。
「……バカ」
彼女の辛さなんて分からない。でも、知ることくらいは容易だったはず。
「ごめん」
「なんで、なんでそれをあの時に言ってくれなかったの」
絞り出される声。
「私は、ずっと待ってたの。ずっと前から」
力んで震える手。
「私はただ、助けて欲しかった。でも、誰も助けてはくれなかった」
傷だらけの心。
「だから、陽ちゃんだけが、私の支えだったのに」
僕が抱いた怒りの何倍もの怒りを感じたはずだ。互いが互いを裏切るなんて、そんなバカなことはあるはずもない。でも、そうして僕らの距離が生まれた。
「バカ」
「ごめん」
飛びつき、抱き締める。
知らない。何も知らないんだ。色んなことを気付いていたのに、僕は何一つとして彼女を知らなかった。
「本当にごめん」
散々泣き散らかす理沙をしっかりと抱き締める。彼女が強くあれた意味、それをこうしていると理解かったような気もする。
本当に。本当に––––––––。
「素っ気ない態度をとってごめんね。でも、そうした方がいいと思って……」
僕の手から離れ、涙を拭う。
「陽ちゃんはね、私に沢山のことをくれたんだ」
「僕は何も……して、ない」
「うん。そうかもしれないね。でも、形にはないものだってくれた時もあった」
「僕は、助けてもらった、ばかりで」
「ほら、泣かないの」
いいや、たっぷり泣きたい。
無力さ。愚かさ。それらがどれだけ人を傷つけてしまうのか。悔いるしか出来ない。
ひたすらに僕らは泣いた。沢山泣いた。吐き出せなかった想いを泣き声に変えて。
ふと見上げた空は、もうとっくに淡い青に染まり始めていた。
「ねぇ陽ちゃんはお祭りは好き?」
「……そんなことより、引っ越しは明日じゃないの?」
「お祭りは、好き?」
「あ、うん」
「良かった」
すると、鞄から見覚えのある袋を取り出す。
「荷造りしてたら着物を見つけてね。今日着て行ってもいいんだって」
「何で?」
「何でもいいじゃん。それで、陽ちゃんの家で着替えて、一緒に行きたいんだけどいい?」
「……分かったよ」
彼女の言われるままに動く。昔のように手を引かれ、僕の家へと行き、彼女は浴衣に、僕は奥にしまわれていた甚平に身を包んだ。
そして、二人肩を並べてお祭りのある神社まで歩いて行く。
にぎやかな場所だった。屋台が並び、沢山の人が右往左往している。そんな人混みの中を一生懸命進む。もう十九時を回ろうとしているのだ。一番ピークの時間帯なのだから、この状態は頷ける。
「流石に、大変だね」
「ちょっと脇道でもしようか」
大通りから外れ、人通りの少ない道なんかも使いながら、神社の前の大通りをぶらつく。この地域だと、結構大きい祭り。知り合いなんかがいてもおかしくはない。
「離れ、ないでね」
そんなことを気にするどころか、御構い無しに彼女の手を取り、人混みをかき分け進んで行った。
屋台をはしごして、沢山のものを買っていく。焼きそば、リンゴ飴なんかも食べた。しばらく歩くと、金魚すくいの屋台を見つけ、心のゆくままに楽しむ。
もう、さっきまであったモヤモヤなどは吹き飛んでしまうくらい、はしゃいだ。
彼女は金魚すくいに夢中になっていて、軽く袖は濡れているみたいだった。
そんな彼女の横顔は、とても楽しそうで、とても輝いていた。嘘偽りのない純粋な笑顔。最高に綺麗だった。
小さい頃もこうして近くのお祭りに行き、楽しんでいた。その時も金魚すくいしたっけ。綿菓子を買い、美味しそうに頬張る姿はあの時と何も変わっていない。
だが、時折見える切なさは彼女の笑顔を曇らせてしまっていた。
射的やくじ引きなんかもして大体の屋台を回り終える。
時刻は八時を過ぎる頃、沈黙のまましばらく歩いた。
「ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」
そう言って彼女はどこかへ行ってしまった。ただ、追いかけはしない。それがいいというよりは、そうしなきゃいけない気がして。
そのまま只管待った。どれだけ待っていても、理沙が現れる様子はない。気が付くと、花火が打ち上げられるまで後一分程度だった。
だが、僕の隣には彼女の姿がなく、無慈悲にもそのまま花火が打ち上げられる。手に握られた携帯の画面には『現在繋がりません』の一文が表示され続けており、メッセージにも何の反応もなかった。
ただ、なんとなくだが、そんな気はしていた。もうアレで終わり、あの時に終わったのだと、そう思わざるを得ない。
俯く視線にも花火の鮮やかな光は目に入る。色も形も様々な花火。だが、泡沫の煌めきだからこそ美しく見えるものだ。
数十分に渡った花火も終わった頃、携帯を見ると一件のメーセージが届く。
『神社の奥に来て』
その一言だけが送られてきた。
「陽ちゃん遅い。十分も遅刻だよ?」
そんな声が何故か愛しく、儚く思えた。
「遅刻したのはどっちだよ」
「ご、ごめん。……ねぇ、花火を見逃しちゃったからさ、ここで線香花火でもしよ?」
そうした彼女の足元には水が入ったバケツにロウソクとライター、彼女の手には線香花火が握られていた。
「綺麗だね」
「……そうだね」
パチパチと弱い光を放ちながらも、鮮やかな火花を散らせ、消えてゆく姿で虜にするのは、きっと打ち上げ花火もこの線香花火も変わりはしない。
でも、何かが違った。さっきから感じる切なさの正体は未だ掴めていない。やはり、そんなときに動くのは彼女だった。
「陽ちゃん、大好きだったよ。そして、これからも大好き」
彼女の頬は既に濡れていた。それを見た途端、僕には何も出来なかったと言う無力さに俯いてしまう。
「陽ちゃん、せっかくの告白なんだからそんな顔をしないで」
「だって……僕は何も……」
「ううん、陽ちゃんは私に沢山のことをくれたんだ」
「何も出来なかった……」
「私を助けてくれたんだよ、私が大変だったときに陽ちゃんは助けてくれた」
「………」
「だからね、お礼を言いたいんだ。ありがとう」
瞳が潤んだ彼女は僕と唇を重ねた。
「じゃあね、陽一くん」
刹那、小さく光っていた火花は、ポトンと落ちていった。
その日の出来事はもう遠い夢の中にしまわれた。
どうしてだか、最後にあったときに貰った言葉は今もしっかりと残っている。
「好きだよ」