62話 弔いの鐘
柔らかな春の空気に、少し夏の気配が混じってきた。畑の麦は小さいながら穂をつけている。まだ実も詰まっていない、か弱いその穂を名無しはそっと掌に載せた。
「麦らしくなってきたな」
水やりと草取りに加えて、害虫よけを撒いたりと名無し達一家は農作業に勤しんでいた。
「あとは虫と病気がやっかいだの」
「この薬はなんなんだ?」
「教会が配布してくださる農薬だ。ただ、これを撒けばいいってもんでもないんじゃ」
名無しが旅したどんなに小さな村でも教会はあった。農村で教会の存在が不可欠な理由がわかったな、と名無しは思った。教会は基本的には診療や薬による治療やこうした農業の手助けをしてくれる。ただ、その薬の製法は秘密のようだった。あの、エミリアの使っていた獣避けのペンタクルのようなものだろう。
ヨハンは農業の事になると饒舌である。ぽっかりと自分の息子の事だけを忘れてしまっているのが不思議なくらいに。
「もし……思い出したら、あんたは俺の事なんだって思うのかな」
「ん?」
「……まぁ、いいさ。そん時はそん時で仲良くやろう」
「ああ、家族仲良くだ。うんうん」
二人がちょっと噛み合わない会話をしている最中に、クロエが花束を持ってやってきた。
「パパ、準備できたよ!」
「ああ! ……じゃあ爺さん、墓参りに行ってくるからな。留守番頼むな」
名無しとクロエは教会の墓所へと向かった。ここもいくらでも生えてくる雑草が湧いてきていた。二人でそれを取り除き、墓標を綺麗にすると花を添える。
「おひげのパパ……ママ……今年も麦が育って来ました。ちゃんと勉強もしてるし、パパもいるから安心してね」
「……」
クロエがまるでそこにいるかのように墓標に向かって話しかけているのを名無しは黙って見守っていた。
「アル、クロエ。お参りですか」
「あっ、司祭様!」
二人が振り返ると、そこには教会の司祭が立っていた。この司祭は人が良くて、パワフルな村人達に振り回され気味だ。
「あのね、あのね。お星様になったおひげのパパとママにちゃーんと村の事伝えたよ」
「そうか。……ところでクロエ。おひげのパパとは……」
「あのね、死んじゃったクロエの本当のパパだよ」
「……デュークは王都で出稼ぎ中では……?」
「うん、でも王都で死んじゃったんだって。そこのパパが教えてくれたの」
クロエが司祭に説明すると、司祭は信じられないような目で名無しを見た。
「今のは……本当ですか、アル」
「ああ。俺はそれを伝えにこの村に来たんだ」
「それで?」
「クロエと爺さんに伝えた。爺さんはボケててよく分かんないみたいだ」
名無しは問われるがままに答えた。そのたびに司祭の顔が青くなったり赤くなったりした。
「どうした坊さん」
「あの……その……クロエ。それからアル。ちょっとこっちに来なさい」
司祭は怒りを押し殺した静かな声で二人を教会の中に招きいれた。
「クロエ、人は亡くなったらですね、葬儀を挙げなくてはいけません」
「そーぎ?」
「神の元で無事に暮らせるよう、お葬式をするんです」
「ああ、お葬式!」
「……デュークはお葬式をしてないですよね?」
「あ、本当だ!」
クロエはここではじめて実の父の葬儀が行われていない事に気が付いたようだ。そして……名無しも同様だった。もっとも名無しはこの村に居着くとは考えていなかったというのもあるが。
「アル! なんで私にも報告しないんです!」
「すまなかった。すぐに村を出て行くつもりだったから」
「でも、今はここに住んでますよね? いくらでも機会はあったでしょう」
司祭は心底呆れたように言った。確かにもっともな言い分である。
「……すまない」
「はーっ、まぁ仕方ありません。明日にでも葬儀をしましょう。このままではデュークが可愛そうです」
名無しはチクンと胸が痛むのを感じた。葬儀を挙げて貰えないのは可愛そうという言葉に。かつて名無しの足元に、いくつのそんな命が転がっていった事だろう。
「村の皆には今日訃報が届いたと知らせましょう。教会の馬を貸しますから、アルは町に行って手紙を取りにいったふりをして下さい」
「わ、分かった」
名無しは司祭の剣幕に思わず頷いた。
「クロエも行く?」
「いや、俺だけで行く。クロエ、爺さんに葬儀の事を伝えにいってくれ。……分かんないかもしれないが」
「わかった!」
クロエが出て行った教会で、名無しは司祭と二人きりになった。
「司祭……葬儀のついでに頼まれてくれないか」
翌日、葬儀の鐘の音が村中に響き渡る。弔意を示す黒の装いの人々が教会に集った。
「デューク……まだ死ぬのには早いのに……」
「あいつは腕っ節も良くて頭もキレた。惜しいやつを亡くした……」
デュークの訃報は名無しが思ったよりも村人達に衝撃を与えていた。それが、ここに一人の人間がいたという証拠なのだ。名無しはそれを見て、人を弔う事の意味を生まれて初めて感じていた。
「パパ……」
クロエはなんだか不安そうに名無しの手を握った。名無しはその手を握り返しながら答えた。
「クロエ、これでデュークはちゃんとお星様になるんだな」
「うん……」
その時だった。ぼんやりと立っていたヨハンがずかずかと祭壇に近づいた。
「デューク! デューク!」
そして空の棺桶に取りすがって突然吠えるように泣き始めた。
「この親不孝もの……ああ……」
その姿は、見るものの涙を誘った。そして棺桶は墓所に埋葬された頃にはもう日が傾いていた。
「二人とも。俺はちょっと司祭と話があるから……先に帰っていてくれ」
名無しはクロエとヨハンにそう伝えると、一人教会に残った。
「司祭……これなんだが」
名無しは小さな箱を取り出した。
「……それが……旅の途中であなたを殺そうとした者ですね」
「ああ。そんな奴でも弔ってくれるか」
「ええ。誰であっても……」
名無しは家の裏から掘り出したバードの指であった。すでに朽ちかけたそれを名無しは箱に入れて持ってきていた。
「仲間……だったんだ」
「では……。死の旅路を神が照らして下さいますように、次の生での幸福を願って」
司祭はそう唱えると、香の煙を振りかけた。
「……ありがとう」
「お墓はいいのですか?」
「ああ。多分あいつはうちの裏の方がいいって言いそうだから」
「そうですか」
名無しはごく簡素なバードの葬儀を一人で終えて教会を出た。
「おーい」
突然した声に名無しは顔を上げた。見ると夕闇の中にヨハンが一人で立っていた。
「終わったかい」
「爺さん……クロエはどうした?」
「村の人と一緒に先に帰らせた。一人じゃ寂しいだろうて、デューク」
「ふっ……」
名無しは小箱を抱えながら、ヨハンと二人で家へと帰った。




