「ねぇねぇ知ってる? こんな噂」
「入り組んだ路地裏に、1軒の喫茶店がある」
高校を卒業し、大学に入学するにあたって引っ越した、今から2年前に、そんな話を聞いたことがある。
どうやら、俺の通っている大学の近くに、その喫茶店があるらしい。
らしい、というのは、「確かにあるが、誰も中に入ったことがない」からだ。
店自体そんなに大きいわけでもないし、何か派手な装飾をしてあるというわけでもないため、通りがかったときには気づかないことが多いからだ。
更に、たとえ意識して店の前まで行ったとしても、外からは中が見えないような作りになっているため、店の雰囲気がわからず、入るに入れないとも言われている。
しかし俺はそんな、「噂の絶えない喫茶店」が、気になって仕方がなかった。
そして今、俺は大学での講義を終え、時間を持て余している――
「――ということで、引っ越して2年近く経つけど、ずっと気になっていたこの店に入ってみることにしよう」
大学の途中の道にあるから、外観だけはちらちら見てたけどなぜだか緊張して入れなかったんだ。
でも、さすがに俺もいい大人なんだ。緊張なんかしてどうする。
気分を落ち着けて入るぞ。息を吸って……吐いて……。
「……よし」
大丈夫、大丈夫だ。ただ店に入るだけなんだし、そんな緊張することもないさ!
「ど、どうもー」
ドアノブに手をかけ、少しずつ奥へと押して中へと入った。
店に入ってすぐ持ったイメージは、洋風。
外観が直方体のようだったので、内装を見て少し驚いたが、なんとなく心が落ち着く場所だ。
「お、いらっしゃい。そこ空いてるよ」
「あ、どうも……」
「注文何にする?」
き、気の強そうな女の人だな……。見たところ、二六~七歳くらい?
そんで、エ、エプロンがはち切れそうなほどのお、おおお、おっぱ、おっ――
「お客さん? どこ見てんだい。私の胸にゃメニューは載ってないよ?」
「え゛っ!?」
や、やべえええ! バレてた! バレてたよ!! 終わったよ俺!! 来て早々逮捕だよ!!
「あははー! 仕方ないよー、てんちゃんのおっぱい大きすぎるもん!」
「なっ!? えっ!?」
「あっはっは! まあな! 確かにそうだがお前はさっさと宿題しろ!」
「えー、つまんないの」
え? なに? 娘? なんなの?
「悪いね。あのガキ、毎日ここに来て居座りやがんだよ。そのくせ頼むのはジュース一杯で、ちっとも商売になりゃしない」
「そんなこと言って、てんちゃん私がこないと寂しいくせにー!」
「はいはい。わかったからさっさと帰れ。他の客が来たらどうすんだよ」
「来ない来ない。ここ毎日同じ人しか来ないじゃん。その男の人はすごい珍しい例だね」
「だぁー、うっせぇ」
「え……そ、そうなんですか?」
「んー……ああ。否定はできないのが悔しいよ……あはは」
「いっつもそこの席だけ空いてるんだけどね」
「へ、へぇー」
な、なんか今更だけど、来てよかったのかな?
まぁそんなこと考えてもどうしようもないんだけど……。
「時に少年よ」
うわっ、なんか気難しそうなおじいさんが話しかけてきた。
「待てジジィ。ジジィの話は長ぇのさ。注文が先だ」
「むっ……若造より長く生きとるんじゃ! 話すことが多くなるのは当然のことじゃろう!?」
「はいはい。で、お客さん何にする?」
「人の話を聞かんか!!」
「あ、じゃ、じゃあとりあえずコーヒーで」
「はーいよ」
注文を受けて、「てんちゃん」と呼ばれていた女性がカウンターの奥へと消えた。
たぶんだけど、あの女性が店主さんなんだろう。
「そ、それで……。お話とは」
「おぉ、聞いてくれるかの。君はええ奴じゃ」
「い、いえ、そんな」
「じいちゃんいっつも流されてるから、話できるのが嬉しいんだよ!」
「黙らんかちびっ子!」
「ひぃ! 怖いよー!」
「ええから宿題せえ!」
「はーい」
「コホン。……時に少年よ」
あ、ちゃんとそこからやるんだ……。
「何故ここに来ようと思ったのじゃ? 先程も話に出ていた通り、ここは毎日同じ客しか来ん。この店は外から中の様子が全く見えんじゃろう? 恐らくそのせいでな、新しい客がほとんど入ってこないのじゃ」
「は、はぁ……」
こ、言葉が止まらない……。間髪いれずに会話を紡いでくる……!
「わしは何度も中を見えるようにせいとあの店主に言うんじゃが、いくら言っても聞く耳持たんのじゃ。全く、若者が老人の話を聞かんくなったら終わりじゃて。何を受け継げばいい? 何を学ぶのじゃ? 己で全てを手に入れることができるか? 否、それなら技術は廃れまい。よいか少年。人生に必要なのは経験じゃ。何事も経験せにゃならん。少年には祖父や祖母はおるかね?」
「え、ええ……。まあ、ずいぶん里に帰れていませんが」
「おぉう、なんということじゃ。そりゃいかん。いかんぞ。祖父母は悲しんどるじゃろうて」
「そ、そうですかね……?」
「当たり前じゃろうが。わしの孫と言えばの」
「あーったく、またその話かよ。日が暮れちまうよ」
「お主には関係ないじゃろ!」
「ありまくりだよ、誰の店だと思ってんだい。回転率もへったくれもないね。
はいよ、コーヒーお待ち」
「あ、どうも……」
「全く……。ところで少年、お主はどう思う?」
「はい?」
なんのことだろう?
「この店の外観の問題じゃ。中を見えるようにした方がいいと思わんかね?」
「いーんだよ、今のままで」
「わしは少年に聞いておるのじゃ」
そ、そんな急に言われても!?
「え、えーっと……。い、今のままで、いいんじゃないでしょうか?」
「な、何故じゃ!?」
「ほーらな、だから言ってるだろ。この方が落ち着くんだよ」
「あ、それです。俺も、そう思います」
「ぬぐぐ……しかし、今のままじゃと店の経営が」
「それならその長い話をやめてくれた方がよっぽど店にとって利益になるさ」
「くぅぅ、しぶとい奴じゃ!」
「どっちがだよ」
「あ、あはは……」
「それよりお客さん、コーヒー、飲んでくれな。冷めちまったら淹れなおさねえと」
「あ、はいっ! すみません……」
「……んふふー」
「なーにニヤついてんだガキ」
「だ、だって、その人次第であれが見れるかもしれないんでしょ!? 久しぶりに見たいなー! あれ!」
あ、あれ……? あれってなんだ? お、俺なんか期待されてる?
「わしゃ勘弁して欲しい。騒がしくてたまらん」
「ははっ。そういえば随分だな。どうだお客さん、おいしいかい?」
「ワクワク! ドキドキ!」
な、なんだこれ……何が正解なんだよこれぇ!! なんでこんなに期待されてんの!? 何があんの!?
「と、とりあえず……おいしいですけど……はい」
瞬間、店内が固まった。
「おっ」
「けっ」
「あっ……」
「えっ?」
「や、やったー!! 来るよー!!」
「え!? な、なに!? なんなの!?」
ガチャ、とカウンター奥のドアが開き、黒髪セミロングの少女がスタスタと早足でこちらへと歩いてくる。
「えっ!? えっ!?」
「お、おいしいですか!? 本当ですか!? どの辺がおいしいですか!? 味ですか!? 深み!? コク!? 苦味!? 温度!?」
「な、なに!? 何が起こってるの!?」
「あはははー!!」
「あっはっは! 良かったな、優衣」
「それ私が淹れたコーヒーなんですよ! どうですか? おいしいんですよね? 良かったです!!」
「お、おいしいです! おいしいですって!」
この子はなんなんだ!? コーヒー!? おいしいよ!?
「レシピとかいります!? 淹れ方とか、そういうのなら教えられますけど!!」
「い、いえ、俺自分であまりコーヒー飲まないので!」
「そうですか!? じゃあタッパーにいれて持って帰ります!? 私が淹れたコーヒー!!」
「た、タッパー!? コーヒーを!?」
「もう一杯頼みますか!? 店主!!オーダー追加で!!」
「えぇぇ!? 何しちゃってんの!?」
「あっはっは! ふぅ……落ち着け優衣。そんなにしつこいと、今までみたいにこの人も次来てくれなくなるぞ?」
「あっ……。そ、そうですね……」
「あっ……」
な、なんかすごい落ち込んでる……そんなに飲んで欲しいのかな……。
「あ、じゃ、じゃあ……もう一杯いただこうかな~なんて。……あはは」
「なっ!?」
「えぇ!?」
「むっ」
「え?」
店主さん、小学生の女の子、おじいさんの順に驚きの声が上がり、俺もつられて声を上げてしまった。
「えぇっ!?」
見ると、先ほどすごい剣幕でまくし立てていた少女も驚いていた。
「あ、あの……俺なんかまずいこと言いました?」
「い、いやっ……。あーっと」
「は、初めてだよ……。優衣ちゃんのこの攻撃を受けてもう一杯頼んだ人」
「えっ、そうなんですか?」
「あれを目の当たりにしてさらに頼むとは……よくわからんのう」
「わ、私……。私……」
「がんばりますから!!」
少女はやる気を出したかのように、カウンターの奥へと帰っていった……。な、なんだったんだ?
「うわー、完全に火がついちゃってるね」
「おーい、火事だけはやめろよなー」
「今日は中々……味のある日じゃなあ」
あれ? なんか間違えたなこれ……。うん、間違えたな。
「はいお待ち!!」
なんかメッチャ出てきた……。
「あの、俺こんなに頼んでませんけど……。むしろコーヒー1杯だけ――」
「私特製カルボナーラに私特製サラダ! 後は私特製スープに私特製ティラミス! そして私特製のコーヒーです!!」
「わ、わぁ~。全部特製なんだぁ、すごいなあ」
「食べてみてください!」
「……あはは」
「……ふふ」
こうなったら……ええい、ままよ!
「むぐっ!ばくっ!」
「おぉ、ナイスな食べっぷりだね」
「すごーい!」
店主さんや小学生の女の子から、賞賛の声がとんでくる。
「しめて二千五百円じゃな」
「ぶほぉ!!」
「うわ!」
「え!? お金とるの!?」
それは予想してなかったよ!?
「まさか! サービスですよ、サービス」
「な、なんだ……良かったあ」
「ふぉっふぉっふぉっ、冗談じゃよ」
あ、焦った……流石にこれでお金取られるとなると、予想外の出費が――
「少女、今回のお客さんのサービス分給料から引いとくからな」
「やはり自腹でお願いします」
「えぇっ!? 嘘だろぉ!?」
「あはは! ドンマイだよ!」
「はぁ……。まあ、おいしいんでいいですけど……」
「えっ!?」
「その下りももういいです……」
「なーんだ、また見れると思ったのにー」
「二つの意味でお腹いっぱいです……」
「「……」」
俺の言葉を聞いて、おじいさんと店主さんが無言で見つめてくる。
「いや、なんか言ってくださいよ!!」
なんか恥ずかしくなって耐えられなかった。
「はぁ……もうダメ、もう死ぬ。もう何も入らない」
「よくがんばったね! 感動したよ!」
「ところでさっきから盛り上がってるけど、宿題終わったのか?」
女の子に対して、店主さんから厳しい言葉が飛ばされる。
「へっ!?」
「……皿洗い手伝え」
「いやぁぁぁ!!」
「いやぁぁぁ!! じゃねえ! 店の売り上げの邪魔するなら、少しは店のために働け!」
「働いてないのに……。まだ子どもなのに……」
「家の手伝いみたいなもんだろ。一日中いるんだからよ」
「ちぇー。はーい、お母さん」
「誰がお母さんだ誰が!!」
二人の仲睦まじいやりとりを見て、心が落ち着く。
……けど、そろそろ時間かな。
「あ、あのー。そろそろお勘定を……」
「おっ、そうか。はいよ、ちょっと待っててな」
そう言って、店主さんがカウンターに手をついて立ち上がり、俺から伝票を受け取って、値段を確認した。
すると、笑顔でこちらに向き直って一言。
「少女の暴走分は金とらないから、また来てくれよ!」
「えっ、いいんですか?」
「こっちの都合なんだから、お客さんからお金は取れないよ」
「あ、ありがとうございます……!!」
優しさが身にしみるっ……!
「あぁ。ところでお客さん、お名前は?」
「あっ、男といいます。また来ます。本当にありがとうございました」
今日はいろいろと面白かったし、サービスまでしてもらったし、お礼は言わないと、だよな。
「へへっ、客に礼言われるなんて、なんだかむず痒いよ。こっちこそ、ありがと」
店主さんは、頬を掻きながらそういった。
「また来てくれたら、皆喜ぶよ。新規のお客さんで、こんなに盛り上がるのは初めてだからさ」
「そ、そうなんですか……。そう言っていただけると、ありがたいです」
「あははっ! ホント、ガキやジジイと違って礼儀正しいよ。じゃ、またよろしくね」
「は、はい! また!」
再三お礼を告げて、店を出た。
――カランコロン、と、ドアにかかったベルの音が耳の奥に響いた。
店を出て、数歩歩いたところで、自然と足が止まる。
「……」
いい……。
「……」
いい、いいぞ……!
「……うおおおおおおおおおおおおっ!!」
気づくと俺は、無意識のうちに声を上げ、走り出していた。
「これだこれこれぇ!! 俺の憧れはこれなんだよおおおおおお!!」
高まる、高まる、高まる! 気分が! 高まるっ!!
「いぃぃぃぃぃやっほおおおおおおおおおおおうっ!!」
「ママ、変な人がいるー」
「ふぉっ!?」
「こら、見ちゃいけません!」
「あ、あはは……。どうも、すみません」
あ、危ない危ない……。テンション上がりすぎた……。
ふぅ……。
……でも、今日は本当に楽しかったな。
気の強そうな店主さん、話好きなおじいさん、黒髪セミロングの少女、小学生の女の子。
たった一日で、こんなにもキャラが強い人たちと知り合えた。
「……今日はいい日だ、うん」
心の底からそう思い、俺は自宅に向かって再び歩き出した。