魔物-1-
それはラクトの何倍もの大きさで、開いた口だけで見事に人間を丸飲みできそうだ。大きく尖った牙に、立派な緑色の顎髭、口の上には四つの丸く輝く目玉がある。それとは別に牙に守られた舌には小さな目玉がこれまた四つあり、ギョロギョロと動かしてラクトをなめるように見回した。
見た目は巨大すぎる蜘蛛。だが足は鋼のように固そうで、八本のうち一本は大木に突き刺さっている。ふさふさした体毛が呼吸に合わせて上下に動き、フシュー、フシュー、とすきま風のような呼吸音も聞き取れた。
なぜこんなにも近くにいるのに気がつかなかったのか。ラクトは思考回路が停止したようにその場で固まってしまった。
「――――ラクト!」
「―――っは…。」
シャーロットの呼び声でようやく正気を取り戻し、ラクトは今置かれている状況を本能的に理解した。そして…。
「んぎゃあああああぁ―――――――――!」
と叫びながら、一気に魔物から遠ざかった。その速さたるや、まるで光のごとく。逃がさないよう魔物が尖った足を振り下ろそうとするも、空回って地面をかすっただけだった。
その見事な逃げ足に、シャーロットも感心するしかなかった。
「…速いな、おい。」
ラクトを逃がした魔物は、すぐさまシャーロットを次の標的と定めたらしい。ミシミシと木と木の間を押し進み、舌にある目玉はグルグルと動かされ、シャーロットを観察している。
「ハンッ!お前なんかに見られたくて女磨いてるんじゃないんだ。その気色悪い目玉とっととしまいな!」
そう言ってシャーロットは後ろにある腰に差した大剣を慣れた手つきでシュルリと取り出した。
一方、一目散に逃げていったラクトはようやくシャーロットの方へ目をやり驚いた。もちろん足は止まっていない。
「―――っちょ!?シャーロットさんっ、闘う気ですか!?無理ですよっ!」
ラクトが言葉を言い終わった瞬間、辺りにガキィンッという音が響き渡った。シャーロットの剣と魔物の固く尖った足がぶつかった音だ。シャーロットは一度目に横に流すように受け止め、すぐさま二度目の剣を上から振り下ろした。魔物の足はガッと地面に叩きつけられ、魔物は体勢を少し崩したらしく、他の足を木や地面に突き刺した。が、すぐに残していた足をシャーロットめがけて振り上げた。
遠くから見ていたラクトは思わず進んでいた体にブレーキをかけ、シャーロットの方へ向き直った。
「危なっ…!」
ドスッ。
その時だ。ラクトの後ろで鈍く重い音が鳴った。
「―――――…っは…?」
今まで逃げ回っていたラクトが進んでいた方向に、大きさはやや小さいが、十分ラクトより大きな同じ蜘蛛のような魔物がいた。待ち伏せていたのか、思い切り振り下ろされた足は、草を、地面を抉ったように突き刺さしていた。
「――――――――――ッッ!」
間一髪。シャーロットの方へ振り向いて足を止めていなかったら、おそらく抉られたのはラクトの体だっただろう。運良く魔物の攻撃から逃れたラクトだが、発する声はすでに言葉になっていない。一瞬で血の気が引き、一瞬で身体中が沸騰するほど熱くなり、ラクトは大声を上げながら先ほど以上に必死に走り出した。
「ガ―――――――――――ッッ…!」
もう自分で何を叫んでいるのかわかってはいない。
「なんだ、もう一匹いたのか。」
奇妙な奇声を上げながら走っているラクトの方を見て、シャーロットは全く動じることはなかった。それどころか、今彼女はラクトを追っている魔物よりさらに大きな魔物と闘っている最中だ。必死に逃げるラクトに比べて、なんと余裕綽々なのか。
ついさっき振り下ろされた足を軽く避けて、魔物がまた体勢を崩した瞬間、足の関節を狙って大剣を振り回した。その結果魔物の足は二つに切られ、切り落とされた足先は地面に転がり、体に繋がった足からは緑色の体液が勢いよく噴き出している。
シャーロットは間髪容れずに最初に振り下ろされた足も同じように切り裂いた。これで前にあった二本の足が使えなくなり、魔物は前のめりになって崩れ、顔を地面にぶつけた。
そのときにラクトの奇声を聞いたのだが、シャーロットは助けに行こうともしない。
「っは、助けっ…!無理、っは、シャーロットさ――――!」
無我夢中で逃げていたラクトは、段々体力が消耗していくのがわかった。少しだけ魔物との距離が開き、シャーロットに助けを求めようと彼女の名を呼んだのだが。
「そのくらい自分で倒せ!じゃないとこの先も生きていられるもんか!ダメだったらそれまでだ、おとなしく喰われろ!」
「―――――――っ、んなっ…!?」
思ってもいなかった答えに、ラクトは一気に恐怖感が大きくなった。
(味方じゃ…ないの?シャーロットさんは、俺を助けてくれない?じゃあ俺はコイツに喰われて…―――――死ぬ?)
まるで口から魂が抜けていくみたいに、動かしている足の感覚さえも消えていく気がした。『勇者』に選ばれてから強く離れることのなかった"死"への恐怖心がラクトを飲み込み、目の前が真っ暗になった。
「…――――おい、ラクト!」
再びシャーロットはラクトを呼んだが、今のラクトの耳には届かなかったらしい。ガクッと下がったスピードのせいで、追いかけていた魔物がみるみるラクトに近づいていった。
「っアイツ…!」
シャーロットがラクトに気をとられていた、その時だ。
ブォンッと後ろで音が聞こえたことに気づいたが、遅かった。前足を失った魔物は、バランスがとれないながらも体勢を立て直し、一本の足をシャーロットの脇腹に打ち当てた。ドフッ、と鈍い音を立ててシャーロットは横に飛ばされてしまった。
「―――――っぐはっ!」
バキバキと吹き飛ばされた体に当たって小枝が折れる音が響いた。
「―――――…へ?」
やっと周りの音が耳に入り、ラクトは辺りを見回した。
先ほどまでシャーロットが立っていた場所にはぐらぐらしながら歩き出す魔物の姿だけで、シャーロットの姿がどこにも見えない。
(えっ…シャーロット…さんは…――――――!)
ようやくラクトはシャーロットの姿を見つけた。が、それは茂みの中で倒れ込むようにうずくまった彼女の姿だった。
「――――――――シャーロットさん!?」
途端にシャーロットの身を案じるとともにラクトは自分が恥ずかしくなる。
(何考えてるんだ俺――――無理やり連れてきたのは自分じゃないか!こんな危険な場所まで一緒に来てくれたのにっ、助けてくれだなんて、味方じゃないとか…馬鹿じゃないか!)
唇を噛んで涙目になりながら、ラクトはシャーロットの元に進み出そうとした。
「シャーロットさん――――――!」
「うるさい!自分の後ろを見てろ!」
「―――!」
ハッとして後ろを振り返ったラクトの目には、すぐそこまで近づいている魔物の姿がはっきり映った。直後、魔物の足がラクトめがけて振り下ろされた。が、間一髪で左に避けてその攻撃をかわすことができた。
「っは!――――ぶなっ…!」
避けてまたすぐに急いでラクトはその場から走りだすも、体力が消耗してきたのか、先ほどより鈍った走りだ。
(―――――シャーロットさんに言われなきゃ俺、今死んでた…!)
ラクトは横目でチラリとシャーロットの方を見た。するとすでにシャーロットは立ち上がって、もう一匹の魔物と対峙している。見た限りまだシャーロットは余裕を見せた闘いをしているように思えた。
(よかった…!シャーロットさんってやっぱりスゴイ!!)