えとちゃんのごかぞく
えとちゃんのごかぞく
白いブロック塀は高いけど足をかけられる穴も開いている。小柄なえとでも乗り越えられそうだった。塀の向こうには二階建ての家が建っている。塗り替えたばかりなのか壁はぴかぴかのクリーム色で屋根はイチゴみたいな赤色だ。庭も雑草が刈り取られているし、花壇もキレイに手入れされている。塀の穴からのぞいたお家の中は掃除もきちんとしていてるようだ。
「これならいけそうかなあ」とえとはつぶやいた。
この前のお家は最悪だった。中に入るとゴミだらけでニオイもひどくて鼻が曲がりそうだった。今日のお家はそんなことはなさそうだ。さっき見た表札には『高倉』と書いてあった。お父さんの守と、お母さんの歩美、娘の香織の三人暮らしらしい。
「よいしょっと」
思い立ったが吉日。えとは赤いランドセルを背負い直すと塀に手をかけ、一気によじ登る。ぼやぼやしてたら誰かに見つかってしまう。
白いジャンパーや黄色いシャツ、白いスカートがこすれないよう慎重に塀の上をまたぐ。一昨日買ってもらったばかりだから汚したくない。
「素直に玄関から入りなさいよ」
後ろからランが呆れた声で言う。
「仕方ないじゃない。呼び鈴鳴らしても誰も出ないんだし」
「別のお家にすればいいじゃない。住宅街みたいだし、家なんていっぱいあるのに」
「いいの、ここが気に入ったの。今日からここにするから。わかった?」
「どうぞご自由に」
ランがすねた声で言った。
「どうせアタシにはどこでも同じだしね」
「むくれないでよ、もう」
また手入れしてあげないとなあ、と思った時、塀の下から声がした。
「お嬢ちゃん、そこで何をしているのかな」
振り向くと怖そうなお巡りさんが立っていた。
「君、ここの家の子じゃないよね。どうして塀の上にいるのかな」
まずい。えとはあわてて塀を越えて庭に入る。お巡りさんがこら、と言いながら塀に手をかける。
「留置所で一晩ってのもたまにはいいかもね」
「ランは黙ってて」
今、捕まるととても面倒なことになる。えとは玄関に回り呼び鈴を連打した。誰も出ない。
振り返るとお巡りさんが塀を乗り越えて庭に着地したところだ。えとは庭の裏側に回り、お風呂場の窓に手をかけた。やった、カギが開いている。足音がすぐ近くまで迫っている。あと一〇歩もない。えとは窓を開けて窓枠におなかをこすり付けるように這い上がった。芋虫みたいに体をくねくねさせながら家の中に滑り込む。ぬれたタイルの感触が気持ち悪い。
「間に合ったあ」
靴を脱ぎながらランドセルを下ろし、胸の中に抱える。窓にもたれかかり、ほっと息を吐く。
入ってしまえばこっちのものだ。
「こら、出てきなさい」
窓の外からお巡りさんがえとを叱りつける。
「なあに、どうしたの?」
騒ぎを聞きつけたのだろう。三〇代くらいのきれいな女の人が服を着たままお風呂場に入ってきた。この人がお母さんの歩美のようだ。
落ち着いた雰囲気で一目でえとは気に入った。
バスタブの横で座り込むえとを見て、目を丸くしている。えとは精いっぱいの笑顔を作って言った。
「あ、お母さん」
「どうしたのよ、えと。お風呂場から入ってくるなんて。ちゃんと玄関から入ってきなさい」
「ごめんなさあい」
ぺろっと舌を出す。
「あの、この子は?」
お巡りさんが窓の外から困った顔を覗かせている。何がどうなっているのと言いたげだ。。
「えーと、この子はここのお家の子で間違いないんですよね?」
「ええそうですよ。えとはうちの子です」
「そうでしたか、いや自分はてっきり」
「私、泥棒じゃないよ」
むしろ、もっとたちが悪い。ひょっとしたら大泥棒かも、とえとは心の中で付け加える。
「スミマセン、ウチの子がご迷惑をおかけしまして。ほら、えと。あなたも謝りなさい」
「ごめんなさい、お巡りさん」
えとは立ち上がると丁寧にお辞儀をした。
「今度はちゃんと玄関から入るんだよ」
「はーい」
「それじゃあね、えーと……」
「『えーと』じゃなくって、『えと』だよ」
えとはきっぱりと胸を張るように言った。
「私の名前はえと。エトランゼ(異邦人)のえと」
よろしく、とえとは窓越しに手を伸ばした。お巡りさんは優しい手付きでえとと握手をした。
「いい名前だね、お母さんが付けたのかな」
「私が自分で付けたの」
「えっ?」
「冗談だよ。付けたのはね、お父さん」
えとは笑ってごまかす。
本当は冗談だというのが嘘なんだけど。
「それじゃあね、えとちゃん。お母さんを困らせちゃあだめだよ」
お巡りさんはそう言ってお家の外へ出て行った。「ふう、何とか間に合ったなあ痛っ」
ほっとするえとのほっぺを横からお母さんが引っ張る。さっきまで笑顔だったのに、今は目を吊り上げて鬼みたいだ。
「罰として今日はお風呂掃除はえとがすること。いいわね」
「はーい、ごめんなさい」
えとがいっぱい謝ると、お母さんはお風呂場から出て行った。
「あーあ、優しそうな人だと思ったのになあ」
ひりひりするほっぺをさすりながらえとはため息をつく。「人は見かけによらないね」
「自業自得よ。自分の家の子供がお風呂場の窓から入ってきたら普通は怒るでしょう」
ランの呆れた声が腕の中から聞こえてきた。
「仕方ないじゃない。非常事態だったんだから」
えとはランドセルを顔の前まで持ってくると睨みつける。
「アンタはいいわよね。私に背負われていればいいんだから」
不公平だよ、とえとはへそを曲げる。
「見守るだけっていうのもね、辛いものなのよ。わかる?」
ランは大人びた声で言う。
「えとがまたおなか壊さないかなー、とかお金落としたりしないかなーとかね」
「余計なお世話だよ。ランドセルのくせに」
「ひっどーい。差別だ差別! 訴えるわよ」
ランがすねた声を上げる。普通の子供なら寝転がってだだをこねるところだ。でもランドセルなのでえとの手の中でぴくりとも動かない。
「えとー? そこに誰かいるの?」
お母さんの声がした。
「ううん、なんでもなーい。ひとりごとー」
「お風呂掃除の後は宿題よ。お母さん、買い物行ってくるから。それまでに終わらせておくのよ」
「はーい」
もしお母さんがこの場にいたとしても、えとがランドセルに話しかけているとしか見えなかっただろう。ランはランドセルの妖怪だ。目や耳はないけど物を見たり聞いたり出来るし、口はないけどお話しも出来る。でもその声はえとにしか聞こえない。
でも自分一人では動けないからいつもえとに背負われている。
「それじゃ、始めようか」
えとはランを隣の脱衣所に置くと靴下を脱いだ。
「あ、やっぱり掃除するんだ」
「私はいい子だからね」えとはにっこり笑った。
えとちゃんはどこにでもいる普通の女の子。
でも、一つだけ、誰にも真似のできない力を持っています。
三日間、どんなお家の家族にもなれるということ。
ランドセルの妖怪ランと一緒に三日の間、あちこちのお家の子供になりながら旅をしています。
いつか『理想の家族』を見つけるために。
一
「ははは、それは大変だったなあ」
夜、ダイニングキッチンにお父さんの笑い声が響き渡る。眼鏡をかけて白いシャツ。お箸で鍋をつつく。今日の晩御飯は鳥鍋だ。春先だけどちょっと寒いのでちょうどいい。
お父さんの守は大きなIT企業の係長だ。
お母さんの歩美は駅前のスーパーでレジ打ちのパートをしていて、週に三回、陶芸教室に通っている。お姉ちゃんの香織は今年中学二年生。近所の中学校に通っている。成績はあまり良くないみたいだ。
「笑い事じゃありませんよ。泥棒みたいに」
お母さんがたしなめる。
「香織もお姉ちゃんなんだから何とか言って」
お姉ちゃんは詰まらなそうに黙々と食べていたが、話を振られるとふん、とそっぽを向く。
髪ゴムで結んだおさげが揺れる。
えとにはどんな家にだって家族として入る力がある。三日間だけそのお家の人や、周囲の人もみんなえとをそのお家の子供だと思い込む。
それだけじゃない。サイドボードには四人で行った家族旅行の写真にも映っているし、運動会のビデオにはかけっこで三等を取った時の映像が映っている。えとの力でずっと家族だったという記憶や過去の記録を作り出したのだ。
この力を使って、えとは今まで多くの家族を渡りいてきた。お金持ちの子になって大豪邸に住んだり、芸能人一家に仲間入りしてこともある。でも力を使うにはいくつかの条件や制限がある。
まず力を使うにはお家の建物の中に入らないといけない。マンションの場合だと何階の何号室まで入る必要がある。
それに一度力を使うと、三日間はえと自身にも解除できない。
前にごみ屋敷で大変な目にあっても我慢し続けたのもそのせいだ。家出するのは簡単だけど、もし捜索願を出されたらとても面倒なことになる。
お家の人たちはえとをその家族の中で一番自然な形に位置づけをする。お家によっては、妹だったり娘だったりお姉ちゃんだったりする。
えとと過ごした記憶も今までの記憶に挿入されている。たとえば家族旅行で海外に行ったのならそこにえともいたことになる。
入学式や運動会とかの学校行事も一緒に出かけたことになっている。仮にその時、家族で外国にいたとか入院していたとか、絶対に行けなかった場合は「都合が悪くて行けなかった」と矛盾のない理由を勝手に作ってくれる。
反対にえと自身は家族のことを何もわからない。お家の人たちに「家族」と思い込ませることは出来るけど、そのお家の人たちについての知識とか思い出は全然入ってこない。
だがらお家に入るたびにお家の中を調べたり、家の人たちを観察したりして、会話の中から『家族』がどういう人なのかを調べないといけない。
高倉家についてもお父さんやお母さんとの会話、アルバムや家族写真の中から知った情報を元にえと自身が組み立てた。
これを三日おきにやらなくてはいけないのがややこしいけど、慣れてしまえば平気だ。
「まあいいじゃないかそのくらいで」
お父さんが赤ら顔でえとに助け舟を出してくれる。テーブルにはビールの空き缶が二本転がっている。何だか沈んでしまいそうな舟だ。
「えと、台所に行ってビール取ってきてくれ。下の棚に入っているから」
「うん、わかった」
えとは椅子から飛び降りると台所に駆け出す。家族なのだからお家の中に、どこに何があるか知っておかないと不便だし、変に思われる。
お風呂掃除の後、家の中は一通り探検し終えていた。お姉ちゃんの部屋は鍵がかかっていて入れなかったけど、お母さんのクローゼットには真新しいお洋服が二着あることとか、お父さんのへそくりが本棚の『大日本機械工学講座』の七巻の間に挟んであるのも見つけてある。特に台所や冷蔵庫の中は、御用を言いつけられることもあるので念入りに調べてある。期限切れのドレッシングは中身を捨ててビンも洗っておいた。
「はい、お疲れ様」冷蔵庫から冷えた缶ビールを持ってくるとプルタブを開け、空いたコップに注いであげる。
「えとは気が利くなあ」
「へへへ」えとは嬉しそうに頬を緩ませる。お父さんは娘のこういう仕草が大好きなのだ。
「どうだ? また今度、月北海岸に行くか」
ツキキタ? と一瞬考えてサイドボードの上にある家族写真に映っていた場所だと気づいた。
「うん、いいねえ。それ。また行きたい」
本当は一度も行ったことはないけれど。
「キレイだったねえ、あの海」
「ああ、岬の側に白い花がずーっと咲いててな」
「あの時、えとが転んで泣いちゃったのよね」
くすくすとお母さんが笑い出す。
「えー、ヒドイよー」記憶の細部まではえとの思い通りにならないのがつらいところだ。恥ずかしい記憶までネツゾウされてしまう。
「私、そんなことで泣かないもん」
「あら、そうだったかしら?」
奥のソファに置いておいたランが冷やかす。えとはランをにらみつける。食事中なので反論できないのがまた悔しい。
「えと、ご飯食べたらお風呂入りなさい」
「はーい」お母さんに促され、席に戻ると急いで残りのご飯を平らげる。
「今度はちゃんと入口から入るんだぞ」
「もう、わかってるよお」
お父さんの茶々にほっぺを膨らませる。本当は怒ってもないけれど、そうした方が娘っぽいかなあと思ったからやってみた。
お風呂に入る前にこっそランを胸に抱えてリビングを出て、脱衣所に入る。ぴったりと扉を閉めると、ランのかぶせを開いて中からピンクのパジャマと、替えの下着を取り出す。これも前の家で買ってもらったものだ。
どんなお家にも泊まれるようにランの中にはえとの着替えや身の回りの物を畳んでしまってある。だからランの中はいつもぱんぱんに膨らんでいて、教科書やノートなんて入れる隙間はない。
「たまにはアタシも教科書入れたいんだけどね」
ランが嫌味っぽく言う。ランドセルだからランドセルらしい使い方をされたいのにえとが入れるのはお菓子だったり替えの下着だったりするのがいつも不満らしい。
「こっちの方が便利だからいいの」
「でも優しそうな人たちで良かったわ。お姉ちゃんはちょっとアレだけどさ」
「うん、そうだね」
「どうしたの、何か気になることでもあるの?」
気乗りしないあいづちを悟られたらしい。ランが不安と好奇心の混ざった声で問いかける。
「さっきの探検で死体でも見つけちゃったとか」
「それはないって」
えとは笑って手を振る。
「もうあんなのはこりごりだよ」
「じゃあどうしたのさ」
「私が夕方ここに来た時さ、呼び鈴鳴らしたよね」
「お隣から苦情が来てもいいくらいにね」
「でもお母さんは出てこなかった。なんでだろ」
「昼寝でもしてたんじゃないの」
「お母さん、起きたばかりには見えなかったけど」
「寝起きがいいのよ」
と、そこでランは言葉を区切った。
「誰かさんとは大違い」
「だったらいいんだけどね」
もし、えとの予想が正しいとしたら、お母さんはあれだけ鳴らした呼び鈴に何の反応もせずに、居留守を使ったことになる。夕方といえば洗濯物を取り込んだり、買い物や夕飯の支度とかで主婦にとって忙しい時間だ。そんな時に居留守まで使ってお母さんは何をしていたのだろう。
えとはポケットから布きれを取り出す。ラクダ色をした一〇センチ四方の皮製だ。
「なあに、それ。ハンカチ?」
「さっき二階で拾った」
「あー、それ鹿の皮ね」ランが感心したように言う。
「お父さんの眼鏡拭きじゃないかしら。鹿の皮だと汚れがよく落ちるそうなのよ。アタシも雑巾なんかじゃなくってもっといい布で手入れして欲しいわ」
「手入れは気持ちだよ」
ランの錠前を強引に閉める。変な声の悲鳴が上がったけど、えとは聞こえないふりをした。さっき余計なことを言った罰だ。
「ま、なるようになるか」
今の段階で考えてもどうしようもないと思ったので早くお風呂に入ることにした。
お風呂から出てリビングでテレビを見ていると、夜一〇時を過ぎていた。もう寝る時間だ。高倉家は二階建てだ。
一階にリビングキッチンにトイレとお風呂。二階にお父さんとお母さんの寝室と、香織お姉ちゃんの部屋。勿論、えとの部屋はない。えとの力で作れるのは『記憶』や『記録』であって、いきなりえとの部屋が増えたり、服や家具が一式揃っている、なんてことはない。アニメの魔女っ娘みたいにはいかないのだ。えとは和室の押入れから予備の枕を引っ張り出す。枕を脇に抱え、ピンクのパジャマ姿のままランを背負い、香織お姉ちゃんの部屋をノックした。
「何よ」
お姉ちゃんが不機嫌そうな顔でドアの隙間から顔を出す。もうお風呂から上がったらしく。水色のパジャマ姿だ。おなかのあたりに大きく猫の肉球みたいな模様が入っていてちょっとかわいい。今度お母さんに買ってもらおう、とえとは思った。
「用がないなら入ってこないで」
「お姉ちゃん、今日は一緒に寝よっ」
香織お姉ちゃんはドアを閉めようとする。
えとは枕をドアの隙間に挟み込み、強引に部屋の中に入る。
入口手前にクローゼットと白いチェストが並び、その奥には勉強机がある。机の上はキレイに整頓されていて、パソコンには埃よけの布切れが被せてあった。部屋の真ん中には長方形の小さなガラステーブルがあり、真正面にはテレビがドラマを流している。テレビ横のマガジンラックには中高生向けのファッション雑誌がささっている。
部屋の奥には窓には水玉模様のカーテンが揺れている。その側には大きなベッドだ。ちょっとオトナな感じもして、えとはわくわくする。
背中からランを下ろすと、窓の脇にあるベッドの脇に置いた。そしてえと自身も枕を抱えたままベッドの上に飛び乗る。
「ふかふかー」
布団に顔をうずめながらえとは猫のように喉を鳴らす。お日様の匂いがして気持ちいい。
「ちょっと、何勝手に決めてるのよ」
「いいじゃない。『いつものこと』なんだし」
返事をしながら枕をお姉ちゃんの隣に置き、布団の中にもぐりこむ。
「今日はお姉ちゃんと一緒がいいなあ」
そうじゃないと私の寝る場所がないもんね。
えとは心の中で赤い舌を出す・
「アンタ、相変わらずわがままで……相変わらず?」
香織お姉ちゃんが自分の言葉に首をかしげる。
えとが妹だというのは偽りの記憶だ。えとと過ごした思い出も、えとの力で刷り込んだものに過ぎない。今まで力が解けたことはないけど、効果の薄い人もたまにいる。香織お姉ちゃんは多分そういう人だ。
「それじゃあ、お休みなさーい。電気消すねー」
お姉ちゃんの意識をそらすために、わざと枕元のリモコンで電灯のスイッチを切った。
部屋が一瞬で真っ暗になる。
「こらバカ。勝手に消すな。寝るなら布団被って寝なさいよ」
お姉ちゃんはリモコンを取り上げると勉強机の上に置いた。
「歯は磨いた?」
「みがいたよー」
予備の歯ブラシを使わせてもらったから。
「布団汚したら殺すからね」
「はーい」
優しい人なんだろうな。本当に嫌なら無理やりにでも追い出されているはずだ。なかなかいいお姉ちゃんだね。ふふ、と布団の中で微笑みながらえとは目を閉じて眠りについた。
二
次の日、えとは朝ごはんの支度の音で目を覚ました。一階からは水道を流れる水の音、鍋の煮立つ音や、まな板を叩く包丁の音が聞こえる。えとは体を起こし、うんと伸びをする。カーテンの隙間から眩い陽光が差し込んでくる。
「おめざめ? 今日は早いわね」
遠くからランの声がした。昨日、寝る前にはベッドのそばに置いたはずなのに、何故かドアの前まで移動している。
「足でも生えたの?」
「そこの女に蹴飛ばされたのよ」
ランがぷんぷん怒りだす。
「えとが寝た後に邪魔だってアタシのこと放り投げたのよ。えとったら寝ぼけてて全然気づかないし」
「久しぶりにゆっくりできたからね」
見ると、隣にはお姉ちゃんが枕を抱えてまだ眠っている。寝る前まで弄っていたらしく、左手に携帯電話を握ったままだ。メールを打つ途中で睡魔に襲われたらしい。
「可愛い寝顔だね」
「悪魔よ悪魔。そいつアタシのこと放り投げる前になんて言ったと思う? 『きったない』って言ったのよ」
「ランは汚くないよ」
古いけど。
「アタシに『汚い』とかよーく言えたわね。そんな手垢だらけのケータイ弄っちゃってさ。バッカみたい。コドモのくせに」
「はいはい、後でね」
こうなるとランの話は長いので、えとは適当に受け流す。後でワックスで拭いてやれば機嫌もよくなるだろう。日陰干しもしてやらないと。
「誰と話してんの?」
むくりと香織お姉ちゃんが起き上がる。枕元の目覚まし時計を手に取り、スイッチを切る。
「はー、すごい」えとは素直に感心した。
「目覚まし鳴り出す前に止めるんだあ」
「意味わかんないんだけど」
頭をかきながらベッドから立ち上がると、えとをベッドから放り出す。
「着替えるから出て行って」お姉ちゃんは首根っこをつかむようにしてえとを部屋の外に出す。
それからランを部屋の外へ蹴り飛ばすとばたん、とドアを閉めた。
「アンタね、ランドセルを蹴るとかどういう神経しているのよ。足癖悪過ぎよ。アタシがサッカーボールに見えるっての。それとも目が悪いの。乱視? 遠視? 透視?」
ランの抗議の声にも構わず(というより、元々も聞こえない)、香織お姉ちゃんが扉越しに言った。
「アンタも早く着替えな。学校あるでしょ」
えとの能力は家族になった家だけでなく、その近隣住民やその家族を知っている人たちにも及ぶ。ご近所さんにとってもえとは今、高倉さん家の次女だった。でも学校はそうはいかない。高倉家を知っている人に『そこの子供』と思い込ますことは出来る。でも、元々高倉家を知らない人は学校に大勢いる。そういう人たちにえとの力は発揮しにくい。学校に行ったはいいけど、クラス中の誰一人えとを知らず、転校生かと聞かれて慌てて逃げ出したこともある。
だからえとは学校には通っていない。家を出るとたいていは近所のコンビニや本屋で時間をつぶしている。今日はやることがあるのでまっすぐ近所の公園に向かう。日陰のベンチに座り、ランドセルからワックスを取り出し、ランの手入れを始める。汚れをふき取った後、ワックスで磨いてピカピカにしてあげる。この前雨に降られたせいだろう。触ってみると背負いひもの部分がちょっと硬くなっていたので保革油を塗って柔らかくしてあげる。
「はあ、気持ちいいわあ」
ランが気持ちよさそうな声を上げる。まるでオトナの人が湯船につかった時みたいだ。前にやったのは三週間くらい前だ。怒っている時はこうしてあげると機嫌を直してくれる。
「かゆいところはありませんか、お客さん」
「背負いひもの裏側がちょっとねー。あ、えとから見て右側ね」
「はいはい」言われるままに爪でかいてあげる。
「ねえ、えと。たまには学校行ってみたら?」
ランの声音にはえとの顔色をうかがうような響きがある。えとは普通の子供とは違う生き方をしている。普通と違うというのは自由もある代わりに不利なことや不便なもある。せめて学校だけでも、とランが心配しているのはえとも理解している。
「大丈夫だよ」不安を拭き取るよう、えとは誇らしげに言った。
「私、分数の割り算は出来るから」
「国語とか理科や社会だってあるでしょ」
「漢字や本を読んでいれば覚えるし、理科だって実験ならしょっちゅうやってるじゃない」
「たき火は実験って言わないの」
えとだっていつもどこかのお家の子になれるわけではない。物凄い田舎を旅していて家が見つからなかったり、見つかってもオートロックのマンションばかりで入れなかったりで、野宿したこともいっぱいある。
「たき火だけじゃないよ。どの草が食べられるかどうかも覚えたし」
「おなか壊しても知らないから」
「そうならないための勉強なんじゃない」
えとはにこっと笑った。
「ほら、出来たよ」
ワックスを塗った後、革の表面を乾拭きする。ランドセルは子供が乱暴に使っても壊れないよう、丈夫に出来ている。手入れしてやれば長持ちする。
「アタシ、キレイになった?」
「新入生が背負ってるのと同じくらい」
「やっぱり? そうよねえ」
ランは嬉しそうだ。人間の子供ならくるりと一回転して喜ぶところだ。ランと出会ったのは、一年くらい前。ごみ捨て場に捨てられていたところをえとが拾ったのだ。それから一緒に旅をするようになった。ケンカもいっぱいしたけれど、今では一緒にいるのが当たり前になっている。
漫才師でいう相方、刑事ドラマでいう相棒だ。
「それじゃあ行こうか」
えとはベンチから立ち上がるとランを背負い、公園を出る。同じ場所にいつまでもいると、お巡りさんに『ホドウ』されてしまう。
えとにとって朝の九時過ぎからお昼の二時ごろまでが一番危険な時間だ。ランドセルを背負った子供が出歩いていれば怪しまれる。夜中には塾帰りの子もいるし、えともお家に帰ればいい。
けれど朝は学校に行っていることになっているので家にもいられない。
かといって仮病を使えば一日中お布団の中で過ごさないといけない。退屈だ。
ずる休みだってこれはこれで大変なんだけど、ランを含め誰もわかってくれない。辛いところだ。
公園を出て住宅街を一回りしてから、駅前に出る。腕時計を見るともうすぐお昼だ。どこかのコンビニかスーパーでパンでも買おう。
お小遣いなら昨日、お父さんに貰ったばかりだ。たったの五百円でも貰えるだけありがたい。
「ん? ねえ、えとあそこ見てよ。道の向こう」
ランに言われるまま道の向かい側にあるコンビニを見る。四人のツナギを来た作業員がコンビニの袋を手に出て来るところだった。若い男性に混じって一人、老けた細身の男性が猫背になりながら出てきた。右手に提げたビニール袋のお弁当も重たそうに歩いている。高倉家のお父さんだ。
えとは側にあった自販機の陰に隠れる。
「あれ、パパさんよね。どうしてあんなところで働いているのかしら」
今朝、スーツを着て家を出て行った。IT企業の仕事とは考えにくい。
「リストラされてたんだよ、きっと」
自販機で買ったココアを飲みながら、えとは事も無げに言った。
「前にもあったじゃない」
えとが潜り込んだ家族全てが、裕福で幸せな家庭ではない。お父さんが会社をクビになってアルバイトしたり、朝からお酒飲んでお家で寝転がっていたり色々だ。中には会社を首になったのに家族にも黙って出社するふりを続けていたお父さんもいた。
今回のお父さんもそのケースかもしれない。
「ママさんたち、知っているのかしら」
「さあ」知らないのか、知っていて見ないふりをしているのか。
「でもお父さんはナイショにしたいんじゃないかなあ。リストラって恥ずかしいことみたいだから」
「恥ずかしいってどのくらい?」
「うーん、オネショしたくらいかな」
「それは隠しておきたいわねえ」
かわいそう、とランがつぶやく。
見ている間にもお父さんはほかの三人に少し遅れて横断歩道を渡る。
「行くよ、ラン」
えとはお父さんの後をつける。疲れているのか、お父さんが尾行に気付いた様子はない。お父さんの向かった先はマンションの建設現場だった。ほかの人たちに続いて白い仮囲いの中に入っていく。
建設現場の中に子供が入ると目立つので、囲いの隙間から中を覗く。今はお昼休み中のようだ。大勢の作業着姿の人たちが、あちこちで談笑しながらお弁当やおにぎりを平らげている。何だか賑やかそうだ。
お父さんは一人、離れたところで美味しくなさそうに弁当に箸を付けている。時々箸を止めてため息をついている。一緒に働いている人たちは若い人や筋骨たくましい人ばかりで、もやしみたいなお父さんだけが浮いている。生気のない顔から仕事にも職場の人たちにも馴染めていないのがえとにも見て取れた。
「大変ねえ」ランが憐れむように言う。
「学校サボっている誰かさんとは大違い」
「苦労っていうのは『ドウレツ』にロンじられるものではない、ってテレビで言ってた」気がする。
えとはちらりとお父さんを見る。
「頑張ってね」
小学生がいつまでも建設現場に突っ立っていたら目立ってしまう。お父さんに見つかったら学校はどうしたとか、ややこしいことになる。えとは黙ってその場を離れた。それから駅前の図書館に行き、棚から『北風と太陽』の絵本を引っ張り出した。
三
絵本が思いの外面白かった。二〇冊以上も読んでいて、気が付いたら三時を過ぎていた。窓の外を見るとランドセルを背負った子供の姿がちらほら横切るようになった。
「もうそろそろいいんじゃない、帰りましょう」
ランは図書館が嫌いだ。
図書館にいる間は、話しかけてもえとが返事をしないからだ。でもえとにだって言い分はある。図書館では静かにしてないと怒られるし、ランと話していたら独り言ばかりのおかしな女の子だと思われてしまう。第一、本は面白い。
「そうだね、帰ろうか」
もう少し読んでいたかったけど、またランの機嫌が悪くなりそうなので本を棚に戻し、図書館を出る。
「ただいまー」
家に帰っても誰も出てこなかった。返事もない。留守かと思ったけど、靴はあるし何より玄関のカギは開いていた。
「昼寝でもしてるのかしら。今日は暖かいもんね」
ランがお気楽に言っていると、二階から勢いよく扉を閉める音と、お母さんの大きな声がした。
「香織、ちゃんと出てきなさい香織」
扉をたたく音をさせながらお母さんが切羽詰まった声でお姉ちゃんに呼びかけている。
「どうしたの。お姉ちゃん何かあったの?」
えとは急いで二階に上がる。お母さんは笑顔でおかえり、と言ったけど無理に作っているのがすぐにわかった。
「何でもないのよ。ちょっとお姉ちゃんとケンカしちゃって」
お母さんは何か言いにくそうにしている。ためらっているというより、都合の悪い事実を隠そうとしているように見える。
「それで部屋に閉じこもっちゃったんだ」
「え、ええ。そうなのよ」
返事をしながら締め切った部屋の扉を見る。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
お母さんに代わってえとがノックをする。返事はない。
「お姉ちゃーん」
もう一度呼ぶと返事の代わりに扉の向こうからものすごい音とぶつかる衝撃がした。
機械の壊れる音とチンという金属音から目覚まし時計を投げつけたとわかった。お母さんが身をすくめ、涙をこらえるかのように歯を食いしばる。
「これで寝坊しちゃったらどうするのかしらね」
背中のランはあくまでのんきだ。
「ちょっと香織、香織」
お母さんがドアに取りすがるともっとドアを叩き始めた。
「もうやめようよ、お母さん」
頃合を見計らってえとが声をかける。
「手、ケガしちゃうよ」
言われて初めて気づいたようにお母さんは自分の手を見る。手の甲が腫れて赤くなっている。
「しばらく放っておいたらどうかな。お腹がすいたら出て来ると思うよ。トイレだってあるんだし」
「でも」
なおも食い下がるお母さんに、えとは違和感を覚えた。普通のケンカならここまで粘るだろうか。
怒って部屋に閉じこもるなんて子供によくあるカンシャクだ。大抵のお家でも放っておかれる。そして数時間後には自分から出て来る。
心配性なだけ、という可能性もあるが、漠然とした不安ではなく、何か放っておけない事情や根拠を持っているように見える。えとはお母さんの手を取り、なだめる。
「大丈夫だよ、ニンゲンそう簡単にジサツなんてしないから」
お母さんが息を詰まらせる気配がした。えとは心の中でやっぱり、とつぶやく。ケンカの原因はおかずが少ないとか、ケータイ使いすぎとか、口うるさいとかそんなんじゃない。
ジサツを考えるような何かがあったんだ。
「私、しばらく二階にいるから、何かあったら呼ぶね。お母さんはお姉ちゃんの好きなおかずでも作ってなよ。あ、出来たらオムライスがいいなあ」
それだけ言って無理に一階に下がらせる。
足音が一階に降り切ったのを見届けたかのようにランが喋りだす。
「どうしてお母さんを追い払ったの」
「ぶっちゃけジャマだから」
「もう少し言い方考えなさいよ」
「いいの、作戦をスイコーするためにはお母さんにいてもらうと困るんだもん」
えとは階段の下にある納戸を開けると、埃よけのビニールに包まれた扇風機を引っ張り出す。
昨日の探検の時に見つけておいたものだ。
「あの不良娘、何したと思う?」
「さあね、万引きかエンコウじゃないかな」
お母さんがお姉ちゃんのジサツを考えるくらいだから、犯罪に関することだろうと見当はつく。人殺しならお母さんはもっと半狂乱になっているだろうし、女子中学生に出来る犯罪ならまずそのくらいだろう。
「ああ、あいつならやりかねないわね」
ランが冷やかすように言う。
「人間、やっぱ見た目通りよね」
「見た目で言うならランなんてただのランドセルじゃない」
「わかってないわね、えと」ランは得意げに言った。指でもあればちっちっと振っているところだ。
「人間はね、みんなランドセルなのよ。誰かに背負われて、ぼろぼろにされながらも耐えて耐えて生きていくのよ」
「ランはテツガクシャだね」
えとは苦笑しながらもう一度納戸に入る。
「えとは何するつもりなのよ」
「私は学校行ってないからね」
薄暗い納戸で奥に手を伸ばすとやはり埃よけのビニールに包まれた、固いものに指先がふれる。見つけた。えとはビニールを掴むと、引きずるようにしてそれを納戸から引っ張り出し、ビニールを取り外す。縦長で色は黒。
ちょっと古臭いけど、見た感じ壊れているところはない。コードも長いから電源は問題はなさそうだ。
「昔の人の知恵に頼るよ」
そう言いながら電気ストーブを二階に運ぶべく持ち上げる。
「お姉ちゃんの部屋、クーラーないんだよね」
扇風機と電気ストーブを二階まで運ぶと廊下にあるコンセントにつなぐ。お姉ちゃんの部屋の前にストーブを置き、スイッチを入れる。
その横で扇風機をドアに向け、空気を送る。
たちまち生暖かい空気が廊下に広がる。扇風機は扉の隙間からお姉ちゃんの部屋にも暖かい空気を送り込んでいるはずだった。
「これでよし」
うん、と腕組みして自分の仕事に満足する。
「手間のかかる真似するわね」
「まさか自分の家壊すわけにもいかないでしょ」
えとは廊下の突き当たりにある窓を開ける。
窓枠に手をかけ、窓の外へ体を出す。
狭い窓なので小柄なえとでも出るのはきつい。肩口を精一杯すぼめて窓から出ると、二階の屋根の上に立つ。靴下のままなので陽の光を浴びた屋根が熱い。飛び上がると落ちてしまうので爪先立ちになりながら窓をつたってお姉ちゃんの部屋まで移動する。窓の下に隠れながら部屋の中を覗く。見ると、お姉ちゃんが汗だくになりながらドアを叩いていた。
「ちょっと、何をやっているのよ」
お姉ちゃんの部屋は今、熱い空気が入り込んで半分サウナみたいになっているはずだ。でもドアを開ければお母さんが入ってくるかも知れない。クーラーも扇風機もない以上、お姉ちゃんのとる行動は一つだけだ。
「ああ、もう何よこの暑さ」
香織お姉ちゃんはベッドの側まで駆け寄るとじれったそうにクレッセント錠を外し、外の涼しい空気を取り込んだ。
「ありがと、お姉ちゃん」
えとは頭からお姉ちゃんの部屋に飛び込む。
ベッドをマット代わりに一回転すると、きれいに着地した。
「やりました、えと選手金メダルです」
両手をあげてポーズを決める。名付けて『北風と太陽作戦』は大成功だ。
「ちょっと、どこから入ってくるのよ」
お姉ちゃんはしばし呆然としていたが、はっと我に返ると顔を真っ赤にして詰め寄ってくる。
「見てなかった? 窓から」
「出てけ」
香織お姉ちゃんがえとに掴みかかる。お姉ちゃんの手が触れる寸前、えとは一気に体をかがめる。えとの頭の上をお姉ちゃんの手が空振りする。更にえとは横に跳び下がる。と同時に、目標を見失ってバランスを崩したお姉ちゃんに足をかける。
お姉ちゃんの体が派手な音を立ててフローリングの床に倒れた。
「いたたた……」
受け身を取り損ねたらしい。お姉ちゃんは息を詰まらせて体を硬直させる。えとは倒れたままのお姉ちゃんの背中に馬乗りになると手首の関節を極める。お姉ちゃんが痛そうな声を上げる。
「あのさ、私ケンカしたいんじゃないんだ。ちょっと話がしたいだけ、いいかな」
お姉ちゃんはしばらく迷っている様子だったが、やがてこくりとうなずいた。えとはお姉ちゃんの上から離れた。
「アンタ……そんなケンカ強かったっけ?」
極められた手首をさすりながらお姉ちゃんが首をかしげる。ケンカなんて今のが初めてなんだけど、お姉ちゃんの記憶の中では何度かケンカしたことになっているらしい。当然、えとの連戦連敗だろう。
「いつまでもやられっぱなしじゃないよ」
一年くらい前の『お父さん』は柔道や合気道の先生をしていて、三日間えとも仕込まれた。それ以来、暇を見つけては訓練している。といってもオトナ相手に戦えるレベルではないから普段はめったに使わないけれど。
えとは笑いながらドアを開け、ストーブと扇風機を止める。それからランを抱え、ベッドに座る。
「で、何があったの?」
「聞いてないの?」
「聞いてないかってお母さんに? ううん、全然」 素直に首を振る。
「ふん」
お姉ちゃんが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「そういう女よね、あいつ」
「ありゃりゃ」
『女』とはまたキツイ言い方だ。やはり、ちょっと叱られたくらいのケンカではなさそうだ。
「で、何があったの?」
「妹のランドセルを汚い足で蹴っ飛ばしたから怒られたのよね。泣きべそでもかいた?」
「ランうるさい」
反射的にランの側部を叩いてしまう。
「は?」お姉ちゃんが眉をひそめる。ランの声が聞こえないので、えとが独り言を言っているようにしか見えないのだ。
「あ、うん。何でもない」
えとはランを布団の中に押し込める。
「それで、本当は何があったの?」
「アンタには関係ない」
「姉妹なのに?」
「姉妹だからって」とそこでお姉ちゃんはためらうように言葉を区切った。その顔は言いたくないというより、えとには聞かせたくないように見えた。
「アンタは知らなくていいのよ」
それだけ言ってお姉ちゃんは目をそらし、押し黙ってしまった。
うーん、これは駄目かなあ。
えとは心の中でうなった。わずかに赤くはれた目や、引き結んだ唇に強い意志を感じる。口を開かせるのは難しそうだ。
「アンタ、お父さんとお母さんどっちが好き?」
唐突にお姉ちゃんが妙なことを聞いてきた。
「どっちがって……そんなの決められないよ」
実際、昨日会ったばかりだ。二人ともいい人だと思うけど、好きも嫌いも比べられない。
「どっちにつくか今のうちに決めておいた方がいいわよ」と意味深なことを言う。
「それって、お父さんとお母さんがリコンするかもしれないってこと?」
お姉ちゃんはばつの悪そうな顔をした。もしかして、お父さんのこと知っているのだろうか。お仕事がなくなったりお給料が減ったせいでリコンした夫婦を、えとは何組か知っている。
「アンタに決めさせてあげるから好きな方選びな」
「お父さんじゃなくていいの?」
リコンすればお父さんとお母さん、どちらかに引き取られる。多分、姉妹は別々に引き取られるだろう。そうなれば離れ離れだ。本物の姉妹であれば、だけど。
お姉ちゃんはお母さんとケンカしていた。だからお父さんを選ぶと、えとは単純に思っていた。
「私、どっちにも付いて行かないから」
それはつまり、独立するという意味だろうか。
「でも、まだ中学生だよ。お金とか住むところとかどうするの?」
えとみたいに特別な力があればともかく、中学生が一人で生きていくなんて、ものすごく大変なことだろう。
「何とでもなるって」
口では気楽なことを言うが具体的にどうするか何も決められていないのだろう。お姉ちゃん自身不安でたまらないんだ、とえとは悟った。
「後悔しないようにしな」
ぶっきらぼうな口調の中に妹を労わる気持ちを感じた。選ばせる、と言ったのは親に対する不信感と同時に、妹への気遣いなのだろう。
「話はそれだけ。出て行って」
「まだ肝心なこと何も聞いてないんだけど」
「話したくない」
そう言ってまた黙ってしまう。処置なしだなあ、とえとは呆れたけど口には出さなかった。
「もう引きこもらない?」
「今度やったら殺す」
廊下に出しっぱなしの扇風機とストーブを睨みながらお姉ちゃんが毒づいた。
「ちゃんとお母さんに謝っておいた方がいいよ」
「……考えとく」
「わかった、じゃあね」
布団の中からランを引っ張り出すと、脇に担いだまま部屋を出る。
とりあえず、えとの役目は果たした。まさかもう一度閉じこもる真似もしないだろう。後は『本物の』家族同士で話し合ってくれればいいんだけれど。
「それ、ちゃんと片付けといてよね」
お姉ちゃんが扇風機とストーブを顎でさす。
「はーい」
「あ、それと」ドアを閉めようとしたえとを呼び止める。
「アタシ、オムライス好きじゃないんだけど」
えとはにこっと笑った。
「おいしいオムライスを食べたらきっと好きになるよ」
階段を下りると、お母さんが駆け寄ってきた。
「どうだった、お姉ちゃんの様子は」
「理由は言ってくれなかったけど、まだ何か怒っているみたいだったよ」
「そう」心配そうにため息をつく。でもその中にほっとした雰囲気があるのをえとは感じ取った。
「ねえ、ケンカの原因は何なの?」
お母さんはためらっていたようだが意を決したらしく、口を開いた。
「実は学校から連絡があって……お姉ちゃんが万引きして警察に補導されたって」
「えっ」本当はそんなに驚いてなかったけど、声を上げて驚いた振りをしておく。
「それは大変だねえ」
えとはお巡りさんという人たちが苦手だ。
みんな「君何歳?」「学校はどうしたのかな」と猫なで声で近づきながら最後には「ちょっとそこの交番まで来てくれるかな」なんて言い出すのだ。
万引きは悪いことだし、えとも悪いことだと思うし、やったことはないけれど、責めるつもりは毛頭ない。それを言うなら勝手に他人の家に上がり込んでご飯食べたり寝泊りしたり、時にはお小遣いだって貰っている。えとの方がよっぽど大泥棒だろう。
きっと前世の死因は釜茹での刑だ。
「お姉ちゃんお小遣い困ってたの? それともスリルが欲しかったとか」
「それが、何も言わないのよ」
困ったように顔を伏せる。
「ふーん」
返事をしながらえとは変だなあ、と思った。
お姉ちゃんとお母さんの様子がどうもかみ合わない。確かに万引きなんて妹には知られたくないだろう。万引きしたというのも、事実だと思う。
でもお姉ちゃんの様子から推測するに、不都合な事実を抱えているのはお母さんの方だ。
お母さんはお姉ちゃんの口から何かが伝わるのを怖がっている。言いよどんでいたのは、きっとそのせいだ。ケンカの原因も万引きではなく、そっちの方だろう。場合によってはリコンもあり得るような事実、多分それは……。
「ねえ、えと。お母さん今からお姉ちゃんともう一度お話ししてみるから」
「お外で遊んでいればいいんだね、わかった」
「ごめんなさいね」お母さんが申し訳なさそうに頭をなでる。
「いいよ、それじゃいってきまーす」
ランを抱えながら外に出る。
公園のベンチで日向ぼっこしながら時間をつぶす。もう日も暮れてきた。もう五時を過ぎている。肌寒い風が吹いてきた。お腹に抱えたランだけが日差しやえとの体温を吸ってまだ温かい。
「ねえ、ママさんとあの不良の話し合い、うまくいくかしら」
「無理かなあ」
えとの予想が正しければ話し合いは平行線だろう。二人とも感情的になっているみたいだし、
「そうよね、あんな不良娘とじゃうまくいきっこないわね」
ランはまだ蹴られたのを根に持っているようだ。
「ねえねえ、この後、どうなると思う?」
「悪趣味だよ、ラン」
明らかに面白がっているランをたしなめる。人様のケンカを楽しむなんて悪いことだと思う。
「いいじゃない、予想だけでも」
普段お姉さんぶって説教するくせに、たまに子供っぽくなる。手間のかかる妹を持った気分だ。とはいえ、ただ待っているのも退屈なので、えとは思っていることを口に出してみる。
「またケンカになるんじゃないなあ」
「うんうん」
「お姉ちゃんがもううんざり、って家を飛び出す」
「あるある」
「お母さんがあちこち電話する。お姉ちゃんのクラスメートとか」
「きっと不良友達のところよ」
「行先はともかく、本気じゃないかな。プチ家出ってやつ」
「根性なしねえ。少しは妹を見習えばいいのに」
「一言余計」こつんとランをげんこつで叩く。
「それに、お友達って線もないかも」
「どうして?」
「本当にお友達だったらさ」えとは昨日、覗き見たメールの中身を思い出しながら言った。
「一〇万円払えなかったら万引きしろなんてメールしないと思うよ」
四
西日もビルの陰に隠れ、空も茜色から群青色に塗り替えられてきた。公園で遊んでいた子供たちも一人また一人と自宅へ戻っていく。
「えと、もうそろそろ帰りましょうよ」
「だね」仲直りにしろ、ケンカして家出したにしろ、もう一段落ついている頃だろう。
「どうやってママさんを慰めるか考えておいた方がいいわよ」
ランはまだこの状況を面白がっているようだ。
「ただいまー」
また誰も出てこなかった。話し合いが続いているのかと思ったけど、玄関先を見るとお母さんの靴がない。
「ママさん、家出した不良娘を探しに行っちゃったとか」
「でもお姉ちゃんの靴はあるよ」
玄関の隅には茶色のミュールと学校指定のスニーカーもある。
「仲直りして、夕飯の買い物に行ったのかも」
「つまらないわね。刃物沙汰にでもなってればまだ盛り上がったのに」
「悪乗りしすぎ」ランの肩ひもを指ではじく。
「暴力で物事を解決しようとするのって間違っているわよ。そんなんだから背も伸びないのよ」
「口は災いの元だよ」ランをお腹に抱えると狸のように腹鼓ならぬランドセル鼓を打つ。
「イタッ、やめてよ、暴力反対。いい子だから」
「たった今反抗期に入ったから知りません」
気のすむまでランをいたぶると、二階に上がり、お姉ちゃんの部屋をノックする。
今度はすんなり開いた。お姉ちゃんは何よ、と気まずそうに言った。悪いことをして叱られることを覚悟している顔だった。
「お母さんは?」
「知らない」とまた閉めようとしたので、えとはドアの隙間にランの体を挟み込む。カエルみたいな悲鳴と、恨みがましい文句が足元からしたけど断固として無視をする。
「何かあったの?」
「だから、知らないっつってるでしょ」
「どこに行ったの」
「知るかよ。どうせオトコのところだろ」
「え?」
そこで香織お姉ちゃんは、しまったという顔をする。えとはぴんときた。お母さんの何かを隠そうとする態度もこれで納得がいく。
「お母さん、フリンしてるの?」
お父さん以外の男の人と夫婦みたいになっていることだ。お母さんは美人だからほかの男の人が寄ってきてもおかしくない。
「そうよ」
不承不承という感じでお姉ちゃんは認めた。
「あのババア、陶芸教室の教師と不倫してたんだよ」
きっと若くて格好いい人なんだろうな、とえとは思った。お父さんと違って。
「それ指摘したら涙流して出て行った」
「お母さんが家出かー。さすがに予想外だわ」
ランが感心したように言う。
「どこに行ったの? 心当りはあるの」
「ない」お姉ちゃんが吐き捨てるように言う。
本当に知らないようだ。えとはこれ以上の追及を諦める。
「で、お姉ちゃんはどうして万引きしたの」
お姉ちゃんの顔色がさっと変わった。お母さんを小馬鹿にしたような態度がさっと消え去り、怒りと悔しさと恥ずかしさが、絵具みたいにまぜこぜになって顔を赤く染めているようだった。
「アンタには関係ない!」
「あるよ」えとは反論する。
「お姉ちゃんが泥棒だって知られたら私、学校でいじめられちゃうよ」
行っていれば、の話だけど。
お姉ちゃんは一瞬申し訳なさそうな顔をしたけれど、俯いたまま黙ってしまった。都合が悪くなると黙っちゃうあたり、お母さんに似ている。親子だなあ、とえとは感心する。
「お姉ちゃん、誰かに命令されたんだよね」
はっとお姉ちゃんが顔を上げる。
青ざめた唇が動き出す前にえとが説明する。
「ゴメン、メール見たんだ。一〇万円持ってこいとかそんなの」
「サイアク、死ね」
悪態にも勢いがない。
「お母さんたちは知ってるの? 先生に相談した?」
お姉ちゃんはどっちにも首を振った。
「誰かにチクったら殴るって」
お姉ちゃんはぽつりぽつりと話し始めた。
お姉ちゃんがいじめの対象になったのは一か月前、二年生に進級した頃だという。
いじめられるきっかけになるような出来事や理由は思い当たらない、と香織お姉ちゃんは言った。何となくナマイキということになり、あいつうっとうしいと言われ、みんなでいじめてやろうということになったようだ。
「多分、誰でもよかったんだよ。いじめる相手がいれば。それがたまたまアタシだったってだけで」
いじめはエスカレートして直接的な暴力までふるわれるようになった。
ひとしきり引っぱたいた後、いじめの首謀者(遠藤とか言うらしい)が凄んだ声で言った。
「殴られたくなかったら一〇万円持って来い」
お姉ちゃんはそこで泣き出した。えとはティッシュケースを差し出した。
「それで、払ったの?」
涙が収まったのを確かめてからえとは聞いた。
「払えるわけないでしょ」
「それで万引きしてお金を?」
お姉ちゃんはこくんとうなずいた。『妹』のえとよりも子供っぽかった。
「でももう無理。お金は払えないし。アタシどうすればいいと思う?」
えとは困った。いじめなんてそうそう解決できる問題ではない。いじめっこがいじめるのはいじめが面白いからだ。
面白いおもちゃを見つけたら遊び倒すのと同じだ。子供だから壊してしまうこともあるけど、その時はまた別のおもちゃで遊ぶだけだ。
大人がおもちゃを取り上げようとしたって、手放したくないからこっそりと遊ぶ。ダメだって言われるほど遊びは面白いから。
偉い人たちが集まっていっぱい話し合ってもなくならないのに、学校にも行ってないえとが考えたって上手い考えなんて出て来るはずがない。
でもお姉ちゃんは思いつめた顔でえとの答えを待っている。
「うーん」えとは頭をかきながら言った。
「逃げるしかないんじゃないかなあ」
旅をする間、えとにはたくさんの敵がいた。お巡りさんに野良犬からはいつも逃げ回っていたし、夏の暑さや冬の寒さも強かった。やぶ蚊やハエはどこへ行っても付きまとい、お腹は減ったり痛くなったり、えとをしょっちゅう苦しめた。
家族として潜り込んだ家の中にも敵はいた。暴力をふるうお父さん、ご飯を作らないお母さん、ケンカしてばかりのお兄さんに、泣いてばかりの弟や妹、難しくて面倒で辛いことばかりだ。
えとは逃げることで生き延びてきた。だからお姉ちゃんに強くなれとかいじめっこなんてやっつけちゃえなんて言う資格はないと思う。
「もういい」
お姉ちゃんは何かを諦めたように目をそらす。
えとなりに真剣に答えたつもりだっだけど、お気に召さなかったらしい。あるいは、お姉ちゃんの望む答えではなかったのかもしれない。
「お姉ちゃん?」
返事はなかった。
「えと、今は引き下がった方がいいんじゃない」
重たい空気を察知してランが割り込んできた。
「そうだね」万引きに関して責めるつもりはないし、いじめについては、何とか出来る問題ではない。
元気出してね、と言い残してえとは部屋を出た。
「ところで、えと」
部屋を出るとランが怖い声で話しかけてきた。噴火寸前の火山みたいな力をため込んだ声だ。
「大事な大事なランドセルをドアで挟むようないじめっこはどうすればいいと思う?」
「とりあえず、謝るかな」
ちょっとへこんだランドセルを撫でてあげた。
「ゴメンね、ラン」
五
お母さんは夜になっても帰ってこなかった。携帯電話の番号にかけても、電源を切られている。お母さんのお友達のところに掛けてもみんな心当たりがないという。
「仕方ないなあ」
「もしかして、アンタ探しに行くつもり?」
えとが玄関に出て靴を履いているとお姉ちゃんが後ろから声をかけてきた。
「放っておきなさいよ。どうせ陶芸の先生んところにでも転がり込んでいるんだよ」
「そうかもね」
えとの知る限り、心当たりといえばそこしか残っていない。ただ陶芸教室が入っているカルチャーセンターに電話したところ今日、陶芸教室はお休みらしい。
カルチャーセンターの事務員なら先生の番号も知っているだろうけど、『お母さんとフリンしているので教えてください』とはさすがに聞けない。
靴紐を結び終えるとランを背負い、家を出る。
「すぐに戻るから」
そう言ってえとは公園にやってきた。公園の隅、トイレの側にある電話ボックスに入ると、ポケットからメモを取り出す。さっき記憶を頼りに書いたものだ。メモに書いた番号を見ながら公衆電話にテレホンカードを入れる。前に道で拾ったものだが、度数はまだ二六回も残っていたのでありがたく使わせてもらっている。
「どこに電話する気?」ランが聞いて来る。
「お母さんのフリン相手」
「番号知っているの?」
「探検した時にお母さんのメールのぞいたんだ」
「あの不良娘といい、ママさんといい……えと、ヒトのメールは勝手に見るもんじゃないの」
「お母さんのだもん」
「お母さんのでも犯罪なの。プライバシーの侵害なんだから」
「プライバシーより今は家庭が大事だよ」
六回コール音が鳴った後、若い男の声がした。
「はい、川嶋です」
「もしもし、お母さん? 私、加奈子。今日ね、塾の先生に褒められたの」
偽名を使いながら一方的にまくし立てる。
「あの、お嬢ちゃん。間違い電話じゃないかな」
電話口から苦笑する気配がする。
「え? お母さんじゃないの。本当に?」
「髭の生えたお母さんはいないと思うよ」
「ごめんなさい、間違えました」
適当に謝ってからえとは受話器を置き、戻ってきたテレホンカードを財布に戻す。
「お母さん、陶芸の先生のところにいるみたい」
「どうしてわかったの」
ランがびっくりする。目玉があったら飛び出しているかもしれない。
「私、耳がいいの知ってるでしょ」
えとは電話ボックスを出ると公園を抜け、駅の方に向かう。
「電話の向こうからお母さんの泣き声がした」
「でも居場所は?」
「電話の後ろから『フォックス』のテーマソングが流れてた」
『フォックス』は名前通り、フォックス(キツネ)のキャラクターが目印のファミリーレストランだ。日本中にお店を出していて、えとも前にそこでオムライスを食べたことがある。
そこでしょっちゅう流している曲はとてもノリが良い。側を通るとよく店の中から漏れ聞こえてくる。何度も口ずさんだことがある。
「それに、メールだとちょくちょく陶芸教室の近くで一緒に食べてたみたいなんだ」
「じゃあ今日もそこに」
「多分ね」
国道沿いの『フォックス』は夜になっても白い光が窓から漏れてきて目立っていた。道沿いに店の周りを植え込みが囲んでいる。えとは植え込みに隠れるようにして店の中を覗き、お母さんの姿を捜す。
いた。
店の奥、喫煙説のコーナーの二人掛けの席に、見知らぬ男性と向かい合って座っている。
きっとあの人が不倫相手だ。年齢は二〇代の後半くらい。ジャケットにスラックス。きりっとした引き締まった顔立ちに肌も浅黒くつやつやしている。痩せているのにおなかだけ出ているお父さんとは大違いだ。朝なんてシャツとパンツだけで家中歩き回っていたし。
外からしかもガラス越しなので話し声は聞こえない。ただお母さんがしきりに向かいの男の人に訴えかけては時折顔を手で覆って泣いている。
「何話しているんだろうね」
「アタシの経験から言わせてもらえば、あれはママさんが不倫相手に結婚を迫っているのよ」
ランが解説者のように語り始める。
「不良娘とケンカしたママさんは家庭を捨てて、あの人と一緒になる決意をしたのね。そして二人は手に手を取って愛の逃避行。パパさん捨てられちゃう。カワイソー。ついでにえともカワイソー」
「私のことはどうでもいいけど」
背中を揺すってランを黙らせる。
「家族がバラバラになるのはいやだなあ」
「よく言うわよ。偽者のくせに」
「家族だよ」えとはランを背負い直すと入り口に向かった。「三日間だけだけどね」
えとはリコンが悪いとは思わない。今までたくさんの家族を見てきた。中にはお父さんが暴力をふるってお母さんを泣かせている家もあった。でもお母さんは決して別れようとはしなかった。
結局あの夫婦がどうなったかは、知らない。もしかしたら、リコンしたかもしれないし今も同じことを繰り返しているかもしれない。リコンする方がお母さんにとって幸せならそれで構わないと思う。ただ、みんなが納得した方がいい。ケッコンもリコンも誰がが幸せになるためにするものだ。
「お母さん」
『フォックス』の中に入ったえとが声をかけると、お母さんはこの世の終わりのような顔をした。
「えと、どうしてここに……」
「えーと、この子は?」
事態を把握しきれていないのか、先生はきょとんとした顔をして、えととお母さんを交互に見る。
「どうも初めまして。高倉えとです」
えとはぺこりと頭を下げる。初対面の人にはきちんとあいさつしないと失礼だ。
「娘さんって確か中学生じゃあ……あ、いや、もう一人いるって聞いてた、かな?」
首をかしげながら先生は自分で自分を納得させる。お母さんはまだ目をぱちくりさせている。どうして娘がいるのか、のみ込めない様子だった。
「友達の家で遊んでたら遅くなちゃってさ。帰る途中で覗いたらお母さんがいるんだもん。驚いたよ」
驚いたのはこっちの方よ、と言いたげにお母さんが唇をかむ。
「えと。お母さん大事な話があるから」
「私おなかすいたあ。何か頼んでいい?」
わざと返事を待たず、お母さんの隣に座ると、メニューを広げる。ハンバーグとステーキのページを開けながら前を覗き見ると、先生は困り顔でお母さんとえとをかわりばんこに見ている。
「高倉さん、今日のところは帰った方がいい。また、連絡しますから」
先生は伝票をつかむといそいそと立ち上がる。お母さんはあっ、と一瞬すがるような声を上げるけど、先生は構わず席を立つ。
「ちょっと待って。はいこれ落し物」
えとは立ち上がると。皮製の布きれを手渡す。昨日、家で拾ったものだ。
「それ、鹿の皮だよね。陶芸でお椀とか作る時の仕上げに使うって前にテレビで言ってた」
「物知りだね」先生はちょっと震えながら受け取る。
「それ、ウチの家で拾ったの。この前、お家に来てたでしょ?」
先生の顔がわざとらしい笑顔のままこわばる。
えとが初めて高倉家に来た時、お母さんがなかなか出てこなかった。昼寝していたんじゃなければ、先生と内緒でフリンしていたんだ。えとが逃げ回っている間に裏口から抜け出したのだろう。お母さんが来るのが遅れたのもそのせいだ。
半分はあてずっぽうだったけど、えとの指摘は当たったらしく、先生もお母さんも顔から血の気が引いている。
「嘘だよ。本当は今、テーブルの下で拾ったの」
本当はそっちが嘘だけど。
先生は気まずそうに笑うと。布きれを乱暴にポケットにしまうと、ファミレスを出て行った。
「せっかくのデートだったのに、空気読まない娘のせいでとんでもないことになったわね」
えとは座り直すと、背もたれに体重を預けた。えとと座席に挟まれたランがむぎゅっと悲鳴を上げる。余計なことを言うからだ。
「私、デミグラスソースのオムライスね」
「えと、帰るわよ」
お母さんはえとの手を取ると、席を立った。動揺している風ではあったけど、小学生の娘を夜中のファミレスに置き去りにしないだけの分別は残っているようだった。
家に帰る間、お母さんは一言も喋らなかった。最初は恥ずかしさやら気まずさから怒っていたけど、怒りが冷めるとデート現場を娘に見られて困り果てているようだった。
えともそういう雰囲気を察知して話しかけないようにしている。そんなに困るのならやらなければいいのに、と思うのだけど、こればかりは仕方がない。犬飼家の子供だったときはお父さんが会社の部下と浮気していたし、山根家の娘だった時はお姉ちゃんが結婚してからも三人の男の人と仲良くしていた。そのうち二人は別の女の人と結婚していた。そういう家庭をたくさん見てきたせいか、別に汚いとも悪いこととも思わない。
残されたお母さんやお嫁さんが可哀そうだな、とは思うけど。オトナはウワキとかフリンとか大好きなんだろうな。多分、えとがデミグラスソースのかかったオムライスに目がないくらいに。
「ただいまー」
玄関のドアを開けた途端、えとは思わずのけぞった。玄関の上り框にお父さんが仁王立ちで立って待っていた。
「どこに行ってたんだ?」
顔も鬼瓦みたいに歪んでいる。隣でお母さんが身を固くする気配がした。
「あーあ、バレちゃったのね。ママさん、早く逃げた方がいいわよ。目指せ、愛の逃避行」
ランがはやし立てる。聞こえないのをわかっているから無責任なことが言えるのだ。
階段の上を見ると、お姉ちゃんがえとたちを見下ろしている。遠目ではっきりしないが、頬が腫れているように見える。
なるほど、とえとは事情を察知する。
お姉ちゃんの万引きが学校を通じてお父さんにも知らされたのだろう。帰ってきたお父さんはお姉ちゃんを叱りつけ、理由を問い詰める。お姉ちゃんは黙ったまま。お父さんがさらに問い詰める。そんなやりとりを繰り返して、我慢の限界に来たお姉ちゃんが反論する。そこから口論になってお姉ちゃんがお母さんの不倫までバラしてしまう。そんなところだろう。
叩いたのが万引きを叱りつけたときか、お母さんのフリンを知らされたときかは判らないけど。
「陶芸のところか」
お母さんは返事をしなかった。顔を真っ青にして俯いている。お父さんはそれを肯定と受け取ったらしく、語気を強めて詰め寄る。
「あいつともう寝たのか、え、どうなんだ」
「あなた、子供の前で」
「お前が言うな」
お父さんの平手打ちが飛んだ。お母さんは枯木のように力なく倒れるとそのまま号泣した。
とっさにえとは手を差し伸べる。
「えと、部屋に戻ってなさい」
お父さんの冷たい声がそれを制する。
「でも」
「戻りなさい」
お父さんの声が冷たさと荒々しさを増した。これ以上粘ればえとも叩きかねない目をしている。
えとは迷ったが、今動いても事態を悪化させそうだった。黙って靴を脱いで階段を上る。
二階に上がると、また叩く音がして、お母さんの泣き声がひときわ大きくなった。
六
翌朝、えとは目覚ましを使わずに目覚めた。寝覚めは良くなかった。親のケンカを見て気分のいい子供なんていない。お姉ちゃんのベッドから抜け出ると、ランを抱えてリビングに向かう。テーブルには誰もいなかった。お父さんもお姉ちゃんもまだいる時間のはずだが、二人とも既に出かけたようだ。
朝ご飯は何も用意されていなかった。えとはお皿を用意すると冷蔵庫からコーンフレークを取り出し、牛乳をかけて食べた。
サクサクと乾いた音が朝食のテーブルに響く。
「静かねー」
ソファに置いたランがため息交じりにこぼす。その周りには倒れた植木鉢やひっくり返った写真立て、窓ガラスの破片が散乱している。
「また派手にケンカしたものね」
ランは呆れたように言う。
「これで何軒目かしら?」
「言わないでよ、気にしているんだから」
どんな家族も悩みや問題を抱えている。借金とか暴力とか判りやすいものばかりではない。相性の悪さや性格の不一致や積もりに積もった不平不満。簡単に解決出来ない問題ばかりだ。だからみんな棚上げしたり見て見ぬふりをしたり、そもそも問題に気づかなかったりして毎日を過ごしている。
問題を解決しようするのは麻酔なしで手術するようなものだ。痛いし恥ずかしいし、もし失敗したらさらに悪化してしまう。だから問題を放置したまま毎日を過ごしている。それが家庭を続けていく上での知恵だ。悪いことじゃない。
あちこちの家族を渡り歩いてきたえとにはそれがよくわかる。でも本来いるはずのないえとが入ると、バランスが崩れてしまう。えとという『異邦人』が入り込むことで問題が表面化しやすくなるのだ。
こればかりはえとにも予測できない。
家族が元々抱えていた問題なのだから消し去ることも出来ない。えとがいなくてもいつかは暴発しただろう。一年後だったかも知れないし一〇年後だったかも知れない。きっかけだったかも知れないけれど、問題そのものにえとの責任はない。
「家庭崩壊も時間の問題かな」ランが言う。
「もうとっくに壊れているかもね」
えとは口についた牛乳をティッシュでふき取る。
「でもさ、また直すことも出来るんじゃないかな」
「無理かもしれないわよ」
「ごちそうさま」
コーンフレークを食べ終えると、お皿とコップを洗い、食器棚に戻す。二階に上がり部屋を覗くとお母さんはまだベッドの中にいた。布団の中で肩を震わせて泣いているようだった。
洗面所で歯を磨き終えるとランを背負い、玄関を出る。
「またあの公園?」
「残念だけど、日向ぼっこはまた今度ね」
えとがポケットからメモを取り出す。今日の行先をまとめておいたものだ。残された時間は少ないのだから計画的に動きたい。
「放っておけばいいのに」
ランは面倒くさそうに言った。
「どうせすぐにお別れなんだからさ」
「それまでは家族だからね」
まずはお父さんの建設現場だ。お父さんがお母さんとケンカしている間に手帳をのぞかせてもらった。今日も駅前の建設現場で働いているらしい。
一番手っ取り早いのはこの人だ。
「お父さん」
えとが呼びかけると額の汗を拭っていたタオルを止め、娘をにらみつける。
「何しに来た」お父さんはえとに駆け寄ると、現場の人たちの顔色をうかがうようにして言った。
「学校はどうした」
「行けるわけないでしょ。こんな時に」
こんな時でなくても行かないけど。
「子供は学校へ行くのが仕事だ」
「うん」えとは素直にうなずいた。「で、お父さんはここが仕事場なんだよね。IT企業じゃなくて」
お父さんの顔色が赤黒く変わる。まるで別の生き物のように真っ黒に汚れた右手が上がる。
「私もお母さんみたいにぶたれるの?」
お父さんの手がえとの頭上で止まる。お父さんは泣きそうな顔で手を静かに下ろし、肩を落としながらゴメンと言った。
えとはほっとした。挑発したとはいえ、実際に殴られてはたまらない。
「お父さん、リストラされたんだよね」
お父さんはうなずいた。
お昼休みになった。お父さんはえとを近くのコンビニまで連れて行く。
えとにオレンジジュースを手渡すとお父さんはぽつりと話し始めた。
お父さんは上司である課長さんとはいつも意見が合わず、しょっちゅう対立していた。課長さんは自分と仲良しの部下をえこひいきする反面、気に入らない部下に雑用を押しつけた上、仕事の手柄も横取りしていたので何人も辞めていった。お父さんは部長さんにみんな平等扱うよう懇願したけど、聞き入れなかった。
もっと偉い人にも訴えたけど、ダメだった。課長さんのお父さんがその会社の会長さんだから、とお父さんは言う。
そんな折、不景気で会社の業績が悪化した。会社は働く人を減らすことにした。会社の各部署から減らす人数を極められ、お父さんの部署は課長さんがその担当になった。そして真っ先にお父さんが首になった。静かだけど熱っぽく語るお父さんに、あのね、とえとは口をはさむ。
「私が聞きたいのはリストラされた理由じゃないよ」
お父さんにとっては重大事だけど、家族にとってはもっと大事なことがある。
「お母さんは知ってたの?」
「ああ」とお父さんはうなずいた。
それで昨日あんなに怒ったのか、とえとは合点がいった。リストラされて慣れない仕事で苦労しているのに、お母さんは若い男とイケナイことをしている。怒りたくもなるだろう。
リストラされて、おもらししたくらいに恥ずかしくてみっともないからお母さんが愛想を尽かして、フリンしたと思ったのだろう。男のプライドというやつだ。
「お母さんのこと嫌い? 許せない?」
「いや」しばらく悩んでから言った。「お父さんが悪いんだ。あいつが愛想尽かすのも無理はない」
「そんなことないよ」
お父さんはまた思い込んでる。
「お母さん、別にお父さんと別れるつもりないみたいだよ」
「どうしてそんなことがわかる」
「昨日、陶芸の先生とお母さんの話聞いたから。お母さん悩んでたんだよ。お父さんが全然心を開いてくれないって」
「……」
「愛想尽かしていたらフリン相手にそんな話しないんじゃないかなあ」
お父さんは申し訳なさそうに俯いてしまった。
「あれ、そんなこと言ってたっけ?」
「私にはそう聞こえたんだよ」
ランの疑問に小声で返す。
「赦すとか許さないとか決める前に、一度ちゃんとお母さんと話してみたら?」
そこでちょうどオレンジジュースを飲み干したので空き缶入れに缶を捨てる。
「でもどうして建設現場で働いているの?」
「お父さんももう歳だからな。前と同じ仕事なんてそうそう見つかるもんじゃない。家のローンだってまだ残っている。だから……」
「だからそれ、お父さんの思い込みだよ」
お父さんがきょとんとした顔をする。
「私もお母さんもお姉ちゃんもね。別にお父さんのお仕事が格好いいものじゃなくっていいんだ。もっと言うと、仕事なんてどうでもいいんだよ」
お父さんが不意を突かれたように顔を上げる。
「だってお父さんのお仕事はお金稼いでお家を守ることでしょ。私、ITとかカッコイイ仕事じゃなきゃイヤだって、一回も言ってないよ」
お父さんは顎に手を当て、また考え込む。
「無理に背伸びしなくていいよ。ローンが払えないならアパートとかでも借りてまたやり直せばいいじゃない」
今度こそお父さんが目を丸くする。
「お前は未練とかないのか? 思い出は」
「そりゃあないとは言わないよ」
ご飯食べたりお姉ちゃんと一緒のベッドで寝たり、ほんの二日だけど思い出はある。
「でもお父さんとお母さんが仲良くしている方がもっと大事だよ。ご飯だって美味しくないしさ」
「ちょっと、えと。そんな勝手なこと言って」
ランが驚いた声音でとがめだてる。
「お家がなくなったらこの人たちの人生にも関わるのよ。いくらなんでもやりすぎよ」
ランとの会話を聞かれないよう、後ずさるようにしてお父さんから離れる。ランの言うことは正論だと思う。他人の家庭に土足で上がり込んで引っ掻き回していいなんて法律はない。
「でも、今は私も家族だよ」
遠慮なんかしていたらますますこの家族は離れ離れになるだろう。
繋ぎ止められるのは今が最後のチャンスかも知れない。
お互いに罵りあって傷つけあって、壊れていく家族をえとはたくさん見てきた。中には壊れるべくして壊れた家庭もあった。でももう少しだけお互いに歩み寄れば、解決できた事態もあったと思う。
えとは異邦人だ。勝手によそからやってきて、三日間が過ぎれば、また別の場所に旅立つ。だからこそ、家族でいる間は家族として精いっぱいのことをすると決めている。
だって家族なんだから。
自分には無関係と見ぬふりをすることも、積極的に動くことも全て選んだ結果なら、えとは自分で納得のいく選択がしたい。
「自己満足に終わらないようにしなさいよね」
ランの声には諦めがこもっていた。人間だったら大きなため息をついていただろう。
「私がワガママなのは知ってるでしょ」
お父さんはまだ悩んでいるようだった。
「満足いく結果が出るようにするだけだよ」
えとはにっと笑った。
「あれ、その子は?」
「ひょっとして、高倉さんのお嬢さん」
金髪の作業着姿の人たちが近づいてきた。お父さんの同僚の人だ。
「初めまして、高倉えとです」
えとは礼儀正しくあいさつする。
「礼儀正しい子だなあ」
「アメちゃん食べるか」
物珍しげに話しかけてくる。お父さんに決して悪い気持ちは抱いていないようだ。だったらこんなに親しげに話しかけたりはしないだろう。いい人たちそうで良かった。えとは喜んでいた。
どうやって話をつけようか悩んでいたところだったので、向こうから近づいてくれた。好都合だ。
「あの、お兄さんたち」上目使いに小首を傾げながら、あとげない仕草を作る。
「少しお時間いただけますか?」
七
翌日、えとはコンビニの前にいた。中学校の前にあってよく中学生たちが学校帰りに立ち寄るらしい。五台留められる駐車場の前には学生服のまま、女子中学生たちがたむろしている。コンビニのガラス越しににやにや笑いながら店の中にいるお姉ちゃんを指さし笑っている。
この人たちにとってお姉ちゃんの万引きは格好の『見世物』のはずだ。見世物は特等席で見たいのが人情だろう。えとはその横をすり抜けてコンビニに入ると、化粧品コーナーの前をうろうろしている香織お姉ちゃんに声をかける。
お姉ちゃんは子ウサギのように飛び上がった。
「アンタ、どうしてここに?」
「お姉ちゃんが入っていくの見えたから。ねえ、何か買ってよ。板チョコでいいから」
「何もおごらないから。早く帰って」
切羽詰まった顔でえとの手をつかむと自動ドアの方へ引っ張っていく。
「えーいいじゃない。別にお姉ちゃんのお店じゃないでしょ」
「いいから帰れっつってんのよ」
お姉ちゃんは顔を近づけると、声を潜めながらすごむ。脅かしているつもりだろうけど、えとには迷子が助けを求めているようにも見える。
「もしかして、これからここで万引きするから?」
お姉ちゃんが慌てた様子でえとの口をふさぐ。
「メール見たんだ」えとは姉の手を払いのけながらここに来た理由を説明する。
「香織お姉ちゃん脅迫されているんでしょ」
「アンタに何が」
「やっても同じことさせられるだけだよ」
本人もわかっているのだろう。お姉ちゃんは悔しそうに口を閉ざしてしまった。
「いじめっ子って、あの人たちだよね」
えとはちらりとガラス窓の外を見た。駐車場の向こう側で黒い車に隠れるようにして、学生服の女の子がひそひそ笑っている。憎たらしさがえとの胸にこみ上げてくる。
「警察に相談でもするつもり?」
「やってもいいけど、無駄だと思うよ」
以前の『お兄ちゃん』がそうだった。万引きした翌日に同じコンビニに行って万引きしていた。
手癖の悪さはなかなか直らないし、悪いという感覚すらないのだから効果は低い。
「だったら早く家に」
「帰る前にやることがあるから」
えとはコンビニを出ると、駐車場に向かい、女子中学生たちの前に立つ。三人とも髪を金髪に染めており、塗りたくった化粧のせいか、近くで見るとお面みたいだ。安物のせいか臭いで鼻が曲がりそうになる。三人とも近寄ってきたえとに眉をひそめる。
「誰だよ、お前」
三人の中でリーダー格らしき女子がえとをにらみつける。耳にピアスを開けた痕がある。これが遠藤とかいういじめっこだろうとえとは見当をつける。残りの二人はその取り巻きか。
「あなたたちだよね、お姉ちゃんをキョーハクしているの」
「はあ?」
「もうやめて」
三人がげらげらと笑いだした。
「え、マジお前高倉の妹なの」
「あいつ妹いたんだー。初耳ー」
一昨日からだけど。
「ねえ、えと。どうするつもりなの」
ランが不安そうな声を出す。今度はえとがいじめられるのではないかと心配しているようだ。でもそれは取り越し苦労になるはずだ。多分。
「私、警察に言うから」
「おい待てよ」
遠藤がえとを抱え込むと口をふさぐ。派手な爪をした手に締め付けられて息苦しい。挑発のつもりだったから絡んでくれないと困るけど、小学生相手に力入り過ぎだと思う。大人げない。
「このクソガキ、さっさとえとを離しなさいよ、ランドセルと一緒に羞恥心まで小学校に忘れてきたんじゃないの、バカアホマヌケ!」
背中ではランがまくしたてる。
怒ってくれるのは有難いしうれしいけど、近くで大声出されるとうるさい。コンビニの方に目を向けるとお姉ちゃんが困り果てた顔でえとたちを見ている。えとたちのいる位置は車の陰になっていて店員さんが気づいた様子はない。
「こいつどうする?」
「どっか連れてってシメよっか」
言っている意味はよくわからないけど、ヒドイことされるんだろうな、というのは想像がつく。
お姉ちゃんはまだ震えている。
一昨日、お姉ちゃんは「どうすればいい」と聞いてきた。あの時、お姉ちゃんはえとに何と言ってほしかったのだろう。お姉ちゃんの望む答えは何だったのだろう。えとが一晩悩んで考え出した結論がこれだった。えとは口をふさいでいた手を引きはがすと、力いっぱい叫んだ。
「助けて」コンビニの中まで聞こえるくらいに大声を上げる。「助けてお姉ちゃん」
「馬鹿コイツ」
取り巻きの一人がえとを引っぱたく。えとの体が駐車場の固いアスファルトに転がる。
「えと!」お姉ちゃんがコンビニから飛び出してきた。物凄い勢いで遠藤の脇にすがりつく。
「えとに手を出さないで」
「離せよ、テメエ」
遠藤がお姉ちゃんを引きはがそうとする。
「マジうざい」
遠藤がお姉ちゃんの髪を引っ張る。プチプチ切れる音がする。お姉ちゃんは歯を食いしばり、顔を真っ赤にしながらしがみついて離れない。
「えと逃げて」
「ああ、もう離せよ」
遠藤が何度か体を振るとお姉ちゃんの手が腰から離れる。ふりほどかれたお姉ちゃんは後ろに尻もちをついた。
「マジうざい。マジ死ねよお前」
「殺すとは物騒だなお嬢ちゃん」
いつのまにかツナギを来た男の人が中学生たちを取り囲んでいる。金髪の人もいる。
「関係ねえだろうが」
「万引きするんに関係ないもクソもあるか」
一喝されて身をすくめる。
「こっちは一部始終見てたんだよ、お前らがそこの子に万引きさせようとしていたのはな。そういうのはな、実行犯より罪が重くなるんだぞ」
中学生たちはしゅんとなってしまった。
「自分らみたいな歳の頃は世の中全部見知った気になって、オトナなんかアホみたいに見えるんだろうけどな。一度そのオトナってのが本気だしたらどんなものか試してみるといい」
抵抗もせず中学生たちは店の中に連れて行かれた。
お姉ちゃんがえとに駆け寄る。
「えとの馬鹿。無茶なことして」
「ごめんなさい」
「でも信じてた。お姉ちゃんが助けに来てくれるって」
「えと……」
「まーた、えとは調子いいんだから」
余計な茶々を入れるランを後ろ手ではたく。
「あの人たち誰よ」
「お父さんのお友達」
「あいつの?」
「お父さん、頑張っているんだよ」
えとが説明するとお姉ちゃんはふーん、と興味もなさそうにあいづちを打っただけだった。でもほんの一瞬、嬉しそうな顔になったのをえとは見逃さなかった。
「これでお姉ちゃんも安心ね」
「さあ」
能天気なランの言葉にえとは首を振る。あの程度で諦めるようならいじめなんかしないだろう。
もしかしたらもっとひどい目に合そうとするかもしれない。でもお姉ちゃんは気づいたはずだ。戦う力と勇気はちゃんと持っているって。
「あとはお母さんね。どうするの? 今みたいにフリン相手に『お母さんと別れて』って言うの?」
「それでもいいけど、お母さんの方にも問題があると思うんだ」
陶芸教室の先生が別れようと思っても、お母さんに未練が残っていればまた元の木阿弥だ。
「準備が必要だね」
翌朝は土曜日だった。お母さんはまだ沈み込んだままだ。さすがに今朝は部屋から出てきて、洗濯やお掃除をやっていた。けど、洗濯機の前や掃除機を動かしている時に泣いていることがある。お父さんもお姉ちゃんも朝早くから出かけていて、今はえととお母さんとランだけだ。
陶芸教室の先生とは今のところ連絡を取っていないようだ。陶芸教室も辞めるのだろう。
このまま縁が切れればいいけど、難しいとえとは思う。それが証拠に昨日、お母さんのメールを見たけど先生からのメールが残っている。
「お母さん」
えとがお母さんの部屋に入るとはっと顔を上げる。お母さんはベッドの上にアルバムを広げていた。泣いてはいないけど、呆然と何事か考えているようだった。
「どうしたの、えと」
「お母さん、あの先生とケッコンするの?」
お母さんの顔がこわばる。恐れと怒りと恥ずかしさと、それらを守るための仁王像のような威圧感のある顔。
「私ね、本当に好きならお母さんが出ていくのを止めたりしないよ」
後ろのランが叱りつけるような声を上げるけど、えとは構わず続ける。
「でもあの先生は、止めておいた方がいいかな」
「奥さんがいるから?」
えとは首を振った。
「あの先生、奥さんと別れるつもりないから」
「え?」
「あの先生の奥さん病気で長いこと入院しているんだって。先生、奥さんとも別れられないんだ。あの教室のお金出しているの奥さんのお父さんだから」
「えと、一体どこでそんなこと……」
「もしかして初耳だった? でも証拠ならあるよ」
お姉ちゃんの携帯に録音しておいた音声を再生する。えととお姉ちゃんで陶芸教室のほかの生徒さんから聞き取り調査した結果だ。
「確かに格好いい人だけどね、一時のアヤマチにはいいけど、お父さんって呼ぶにはどうかなあ。お母さんより年下だし。お母さん、病気の奥さん放り出してサイコンする気ある?」
お母さんから返事はなかった。
「お母さん、これ見て」
えとはアルバムのページをめくる。結婚式の写真に始まり、お姉ちゃんが生まれてから七五三、幼稚園、入学式、家族旅行。その途中からえとも映っていた。えとはアルバムから写真を一枚はがすとお母さんに近づける。
「ここ覚えてる? 月北海岸」
「ええ、懐かしいわね。あの時えとは……」
「転んじゃって私、だったよね」
「え、ええ。そう、だったわね」
えとが強調すると首をかしげながらうなずく。
本当はえとは行ったこともない。えとの能力ででっちあげた偽の記憶だ。思い出が偽りであっても思い出を語る気持ちは本物だ。
「楽しかったよね」
「ええ」
「だったらさ、もう一度やり直せないかな。だって、今まで家族だったんだからこれからも家族でやれるはずだよ」
でも、とお母さんはまだ迷っているようだ。
「仕方ないなあ」
迷っていると、玄関でお父さんとお姉ちゃんの声がした。ナイスタイミング。えとはお母さんの手を取るとリビングまで引っ張る。旅行姿のお父さんとお姉ちゃんが旅行鞄を下ろしているところだった。
お父さんはお母さんの顔を見て気まずそうにしながら叩いて悪かったと鉢植えを差し出す。
「これは……」
お母さんは目をみはった。
茶色い陶器の鉢につぼみのまま白い花が植えてある。家族旅行の写真に写っていたあの花だ。
「これ、もしかして……」
「花って毎年同じ場所に咲くわけじゃないんだ」
探すのに苦労した、とどこか誇らしげにお姉ちゃんが胸を張る。
「季節が違うんだよ。夏の花だから。無理言って花屋さんで見つけてもらったんだ」
「なあんだ、買ったのね。ガッカリ」
えとは無言でランをリビングの外に出した。
お母さんは受け取った鉢の花を見ながら目をぱちぱちさせている。
「これわざわざ宮崎まで?」
「えとのアイデアだよ」お父さんが汗を拭きながら補足する。「もう少しで帰りの飛行機に乗り遅れるところだったけどな」
「お父さんがトイレ長いからでしょ」
お姉ちゃんがお父さんの肩を押す。
本気で怒っているのではなく、じゃれあっているようだった。
えとはお母さんの手を取り、顔を見上げる。
「お父さんもお姉ちゃんもお母さんのために朝早く出かけて取って来たんだよ。こんなことする意味なんて一つしかないよね」
うんうん、とお父さんたちがうなずく。
お母さんはまた目を真っ赤にして泣き出した。
「私、やり直せるの?」
「出来るよ」えとは胸を張って言った。「家族なんだからさ」
お母さんの顔がほころぶ。お父さんとお姉ちゃんもにっこりする。
ピピピッピピピッ!
えとの腕時計のアラームが鳴った。見ると五時四十七分をさしている。この家に入った時に仕掛けておいた、五分前を告げるアラームだ。
えとの力はは三日間。きっちり七十二時間だ。この家に入ったのは三日前の午後五時五十二分。つまり、タイムリミットまで残り五分。
「どうにか間に合ったみたいね」
えとはリビングの戸を開けてランを背負う。
「こっちはハラハラしてたわよ。忘れ物はない?」
「ないよ」
洗濯物はちゃんとランの中だ。お母さんに買ってもらった下着や靴下も入っている。
お母さんが不安そうな顔をする。
「えと、誰と話しているの」
えとはそれには答えず、ランドセルの肩ひもを整える。来た時よりちょっとだけ増えた重さを感じながら、ただ笑顔でお父さんお母さんお姉ちゃんの顔を順番に見た。いい人たちだったと思う。お父さん、お仕事がんばってね。お母さん、美味しいご飯ありがとう。お姉ちゃん、いじめっこからかばってくれてうれしかった。
毎度のことだけど、この瞬間だけはなかなか慣れない。
「どうもお世話になりました」
えとは三人に向かって丁寧にお辞儀をした。
「えと、何を言っているの?」
お母さんがきょとんとした顔をする。お父さんもお姉ちゃんも呆然としている。
「それじゃあ、お達者で」
えとは部屋を出ると玄関に向かい、靴を履く。
「えと、どこへ行くの」
「えと、待ちなさい」
「戻って来なさいよ」
高倉家の人たちがびっくりした様子で呼びかける。えとは無視して玄関を出ると門を抜ける。角を曲がり、白いブロック塀に身をひそめる。
「えと、戻ってらっしゃい」
「えと、帰ってきなさい」
「どこ行ったのよ、バカ―」
続いて三人が飛び出してきた。お母さんもお父さんもお姉ちゃんも必死な面持ちでえとの名前を呼びかける。
悲しい気持ちにさせて申し訳ないと思うと同時にどこかうれしかった。
ごめんね。
えとが胸の中でつぶやいた時、もう一度腕時計のアラームが鳴った。三日が過ぎた音を告げる音だ。
「あれ?」
アラームとほぼ同時に高倉家の人たちが棒立ちになる。みんな途方に暮れた顔をしている。
「香織、どうしたのよ裸足で」
「お母さんだって裸足じゃない」
「今、誰か呼んでたよね。誰だっけ?」
「さあ」
お姉ちゃんは訳がわからない、という風に首をかしげる。
「とにかく、家に戻ろうか」
事態を呑み込めないまま、みんな家の中に戻っていく。
三日を過ぎると家族は、えとの記憶をなくしてしまう。記憶だけでなく、写真や記録もなくなる。えとという女の子は存在自体、いなかったことになるのだ。そしてもう一度同じ人たちと家族にはなれない。それがえとの力に与えられた『条件』だった。
「あ、えと、その写真」
ランに指摘されてポケットを見る。写真を持ってきてしまった。月北海岸で撮った高倉家の家族写真に異邦人の姿はどこにもなかった。
「それどうするの。持っていく?」
「まさか」
えとは郵便受けに写真を入れると高倉家の前を足早に立ち去る。
「次はどこに行こうか? ラン」
「足癖の悪い小娘のいないところがいいわね」
ランが皮肉交じりに言う。
「それからお父さんがリストラされてなくて、お母さんがウワキしていない家がいいわね」
「それはちょっと保証できないなあ」
えとは苦笑しながら言った。
「そこのお家の子になってみないとね」
八
海岸は海から吹きあがる風が涼しくて気持ちよかった。海岸の先には細い岬があって、そこから見える景色は風光明媚として知られている。夏になると白い花が岬全体花を付ける。透き通るような青い空と海に突き出した真っ白な岬とのコントラストは、県外からも大勢集まる観光地になっている。
岬へ抜けるには長い海岸を通らねばならず、道路の脇には土産物屋や食べ物屋さんが立ち並んでいる。店先に簡単な屋台を出して、醤油の焦げた匂いをさせながら観光客を呼び込む。
「えと、店の方頼むな」
「はーい」お父さんに言われてえとは店の名前が入ったエプロンを被り、外に出る。一階がお店になっていて、奥と二階が家族の住まいだ。えとは今、お土産屋さんの子供になっていた。
お父さんのお手伝いで変な牛の人形よくわからない文字の書いお札を売っている。季節は夏。お盆休みシーズンの三連休だけあってお客さんもひっきりなしに訪れる。商売繁盛は結構だが、少し疲れる。
「えとー、サボったらダメよ」
お店の奥からランの声がする。お茶の間の隅で分厚い座布団の上に置いてある。まるでお殿様だ。
「すみませーん。これ下さい」
「はーい」と振り返ったえとは少しだけ驚いた。
目の前にいたのは数か月前に別れた高倉家の三人だった。歩美が微笑みながら千円札とお土産のおせんべいをえとに差し出している。
「八百円です」
えとは気を取り直しておせんべいを袋に入れ、おつりを渡す。ここに来た時、高倉家のことは思い出したけど、まさか再会するとは思わなかった。前に家族だった人たちに出会うのは、さすがのえとも数えるくらいしかない。
「あら、お手伝い? 偉いのね」
「お父さんがうるさいから」
今のお父さんのモットーは「立っているものは親でも使え」なので、家にいる間は店の手伝いをさせられる。
「ここ昔家族で来たことあるのよね。あの時はお姉ちゃんが転んで泣いちゃったのよね。もしかしたらどこかで会っているかも知れないわね」
「はあ? アタシ泣いてないって」
脇から香織が頬を膨らませる。
「別の場所と勘違いしているんじゃないのか」
守がフォローする。
「いや、確かにここの岬だったような気がしたんだけど、変ね」
歩美が小首をかしげる。
「あらごめんなさい、店先で」
「いえ、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
丁寧にお礼を言って、岬へ向かう高倉家の後姿を見送った。
「あら、あの人たちいつかの家族よね」
ランも気づいたらしい。
「何か言った?」
えとは首を振った。
「もう赤の他人だからね」
異邦人の入る余地はどこにもない。
「えと、奥からせんべい持ってきてくれ」
店の奥からお父さんの野太い声がする。
「はーい」
「それが終わったら接客頼むぞ」
お父さんに言われてえとはお店に戻った。忙しいけどお手伝いだから仕方ない。
たとえ明日には別れてしまうとしても、ここがえとの家であり家族だから。