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静かな丘の上で

作者: 柏原みほ

 小高い丘に建つペンションで目覚めて伸びをしつつ外に出ると、何処かから響いた鳥の声が澄んだ空気に溶けた。少しヒンヤリとしたそれは鼻腔を撫でて体内を満たしてゆく。

 瞼を閉じると感じるのは、耳をくすぐる何かの鳥の声と、朝露に湿った木々の匂い。自ら踏みしめた落ち葉が奏でるクシャリという微かな音。


「本当に静か」


 何気なく呟いたその声が、小さく木霊として帰って来る程に静まり返っている。

 胸に手を当てると、まだ少し早い鼓動を感じるけれど、澄んだ空気に洗われて幾分マシになった気がする。


「居た」


 ふと背後から掛けられた声に、せっかく治まりかけていた鼓動が再び踊り始める。


「急に居なくなったらびっくりするだろ」

「大げさだよ、ちょっと散歩してただけじゃん」

「一言言ってけ」

「寝てたし」

「それはそれ」

「意味分かんない」


 彼の言葉よりも更に意味が分からないのはこの状況だ。

 何故、昨日偶然再開した男友達、それも大学を卒業して3年もの間、まるで音沙汰の無かった彼と一泊する事になってるんだろうか。


 いや、誤解しないで欲しい。神に誓って何も無かった。


 当時所属していた天文サークルの話題で盛り上がり、合宿で行った星の綺麗な峠に行かないかとドライブに誘われて道に迷うというベタな展開になった挙げ句、通りかかったペンションに泊まる事になったものの、満室でツイン一部屋しか空いていないというベタの上塗りをしたにもかかわらず、何も無かったのだ。


 ちょっと、どうなのこれ。女としてどうなの?


 いや確かに、当時サークルに所属していたメンバーは男も女も無くて、星を観に行っては近くの宿で雑魚寝などもザラだったけれど。

 でもそれは皆が居たからであって、今日は二人っきりだよ?

 ドライブしようなんて誘われたからには、少なからず好意を抱いてくれていると思ったのに、全くの勘違い?

 有り得ない。私のドキドキ返せ。

 ついでに、学生時代の淡い片想いも返して欲しい。


「やっぱ空気旨いな。俺も散歩しようかな」

「どうぞ」


 小さな溜息と共に告げてペンションのほうへと脚を向けると、背後から少し慌てた声が追ってきた。


「え、ちょっ一緒に散歩しないの?」

「私はもうしたもん」

「そんな冷たい事言わずに。付き合えよ」

「……嫌」

「酷っ」


 何の意味も無い『付き合え』に反応してしまう私は重症だ。あれから3年、綺麗さっぱり思い出になったと思っていたのに。


「早く朝ごはん食べて帰ろうよ」

「………どんだけ腹へってんだ」

「朝はお腹空くの」

「健康だな」

「おかげ様で」


 彼に皮肉が通じたのかどうか知らないが、小さく溜息を吐いて仕方無くといったていで着いてきた。

 本音を言うと、私が彼にとって何でもない事をこれ以上思い知らされるのが嫌なのだ。

 とりあえず友人であるとは思われているだろうが、一晩そこに居ても全く気にせず爆睡されるというのは結構へこむ。

 こっちはドキドキして全然眠れなかったというのに。

 密かに溜息を吐き出してペンションの玄関ドアをカランと開けた。


「おかえりなさい」


 オーナーさんの奥さんがニコニコと出迎えてくれて、食堂へと案内してくれた。

 直ぐに朝食を運んでくれるという彼女に軽く会釈をして、無言のまま彼の向かいに腰を下ろす。

 何だか若干不機嫌そうな彼の視線が痛い。

 そんなに散歩に行きたかったのだろうか。それなら一人ででも行けば良かったのに。

 彼から視線を逸らして窓の外を眺めていると、彼がハアッと溜息を吐いた。私と居てもそう楽しくないかも知れないけど、そんなあからさまに溜息吐かなくても。

 そもそも、誘ったのはそっちなのに。すごく納得がいかない。


「……そんなにつまんない?」


 あれ。私いま声に出てた? 違う。それは彼から発せられたものだった。

 何を言っているのだろう。つまらないのはそっちではないのか。

 開いた口をどうにかしようと頭の中を整理していたら、彼が再び言葉を発した。


「……俺と居るのって、そんなにつまんない?」

「へ??」


 彼の言葉を処理しきれずに思わず口から飛び出した声は、相当間抜けだったと思う。目を見開いて見つめていると、今度は彼が視線を逸らして俯いた。


「おまたせしました〜」


 漂った重い空気は、美味しそうな匂いと奥さんの明るい声に流されて、代わりに疑問符が辺りをグルグルと飛んでいる。

 とりあえず「いただきます」と目の前の朝ごはんに手を伸ばしつつ、彼にチラリと視線を遣るが、目が合う気配は無い。

 つまらない? 誰が? 私が?

 別に、彼と居る事がつまらない事は無い。自分が恋愛対象ではない事を思い知って凹むだけ。

 しかし、そんなことを言える訳もなく、黙ってパンを呑み込んだ。


 他のお客さんも次々と訪れて楽しそうに席に着く中、黙々と朝食を食べ終えて水をゴクリと喉へ流し込む。


「………帰るか」


 空になったグラスを静かに置いて立ち上がった彼に何も言わず後に続いた。

 スリッパが立てるパタパタという足音と、時々ギシリと鳴る廊下の音に混じって彼が吐き出した微かな溜息を耳にして改めて沈む。

 思わず廊下の真ん中で立ち止まった私から、数歩進んだところで彼が不思議そうに振り返った。


「……こっちの科白せりふだよ」

「うん?」

「つまらないのはそっちでしょ?」

「……は?」

「何の気まぐれで誘ったのか知らないけど、迷惑なの」


 そう、迷惑だ。折角忘れかけていた想いを掘り返された挙げ句、彼は微塵も私の事など気に掛けていないと思い知ったばかりか、この時間を共有する事すらも嫌なのか何度も溜息を零されて。

 自らのスリッパの先を見つめながら、胸に溜まったモヤモヤを吐き出して唇を噛んだ。

 何も言わない彼に怖ず怖ずと顔を上げると、そこには今にも泣きそうな彼の顔があった。

 ……え?

 迷惑は言い過ぎだったかな。きっと、昔を懐かしんで誘ってくれたのだろうに。


「…………ごめん」


 謝りかけたら彼が先に口を開いた。沈んだ声で呟いた彼は、そのまま私に背を向けて項垂うなだれつつ部屋へと脚を引きっていく。

 そんなに落ち込まれたら私が悪いみたいじゃないか。いや、実際そうかも知れないけど、こっちだってすごく傷ついたのに何だか腑に落ちない。

 しかし、胸をズキズキと刺す痛みに堪えかねて思わず呼び止めた。


「……あ、あの」


 声を掛けると、部屋のドアノブを握った彼がピクリと身体を震わせて、やがてゆっくりと振り返った。


「ごめん……言い過ぎた」

「いいよ」

「え?」

「そりゃ迷惑だよな。いきなりこんなとこ連れてきて」


 いや、迷惑だと口走ったのはそう言う事ではないのだけれど。


「……でも気紛れとかじゃないから」


 意味が分からず聞き返そうと思った時には、彼はもうドアの内側に消えていて、閉まったドアを見つめて暫し動けずに居た。

 気紛れじゃないって……街で偶然逢って誘われたのは気紛れ以外の何物でも無いと思うけど。他に何か話しただろうかと記憶の糸を手繰る。

 ……久し振り、元気? で、最近どう? とか。仕事は何をしてるとか。サークル時代の思い出話とか。

 そう言えば「カレシ出来た?」なんて話題も出た。軽い調子で訊かれたその質問に、内心ドキッとしながら「居ない」と返事をしたら、「じゃあさ、相手の居ない者同士、今から星でも観に行かない?」って言われたんだっけ……?

 思い返してみたが、やはり気紛れとしか思えず深々と溜息が溢れる。

 もういいや。別に何も無かったんだし、このままもう一度思い出として封印しておけば。


 いつまでも此処に立っている訳にもいかないので軽くノックをして室内へと入る。

 帰り支度と言っても特に何も無い。パジャマは備え付けだったし、下着はこちらで購入して……といっても流石にサイズの融通の利くスポーツブラだったけれど、その間に自分の下着を洗濯出来たので特に問題なく一晩過ごせた。

 彼も同様に荷造りする物など無いのでのんびりと窓の外を眺めている様だ。


 その横顔に踊り始めた鼓動に気付かない様に蓋をして、ドア近くのポットを手に取った。


「何か飲む?」


 頑張って明るく出した声に、ややあって「……じゃあコーヒー」と返答があった。

 うん、まあ友人と来たんだと思えば中々に楽しい旅行だったのではないか。目的の星は抜群に綺麗だったし、空気もごはんも美味しかったし、親切で良いペンションだったし。


 ブラックで入れたコーヒーをハイと渡すと、彼が一瞬躊躇してそっと受け取った。

 渡す時に指など触れてしまったけれど、そこは見ない振り。


「……覚えてくれてたんだ?」

「え?」

「コーヒー。ブラックだって」


 無意識に容れていたけれど、言われてみれば、それが彼から仕入れた最初の情報だったからなのか、しっかりと脳内に刻まれていたらしい。


「あー……うん、まあね」


 他にも色々覚えてる。コーヒーなのにお茶請けには和菓子が好きだとか、大きい犬はちょっと苦手だったりとか。

 星座にまつわる神話にやたら詳しくて、楽しそうにひたすら語る姿とか。星を観ていて、寒くないかと気遣ってくれたり、ご丁寧に膝掛けまで用意してくれていた事とか。

 思い返すと本当に次々と彼の事が思い出されて、熱いものが身体の中から込み上げてくる。


 すきだったんだ。そんな彼の事が。

 いや、過去形なんかじゃなく、今でも彼の事が……


 無理やり蓋をした自分の気持ちを認めると、益々切なくなって鼻腔にジンと熱が篭る。

 どうして逢ってしまったんだろう。今更そんな想いを伝える事など出来ないのに。

 じわりと滲んだ涙を誤摩化す様に手にしたカフェオレをグイと飲んだら、思った以上に熱かった。慌ててせたと同時にカップが揺れて、飛び出した中身が手の甲を滑った。


「熱っ……!」

「だっ大丈夫か?!」

「あ、うん……」


 びっくりしたけれど、幸い溢れたのは少量で、そんな大した事は無さそうだ。

 安堵して、濡れた手を拭こうとカップを置いた途端、すごい勢いで手を引っ張られて目が丸くなる。


「見せてみろ」

「え、大丈……」

「赤くなってる! 冷やすぞ!」


 有無を言わせず洗面所へと誘導した彼の横顔はあまりにも真剣で、「大げさだよ」と口に出し掛けた言葉をゴクンと呑み込んだ。

 ほんの少し火傷した手は、彼に握られたまま勢い良く流れる水に突っ込まれた。それは冷たい水に打たれて、時間が経つにつれて刺す様な痛みを訴えている。しかし、彼に触れられているところだけは、カーッと熱を発している様に思える。

 それに、真横にぴったりと密着している彼が気になって仕方が無く、溢れそうな鼓動を呑み込むのに一杯一杯だ。


「……あっあのゴメン、もう大丈夫」


 心臓の限界に達しそうで、ぎゅっと握られている状態から必死で手を引っ込めて数歩後ろに下がったら、私の手を放した彼がのろのろと水を止めて、自らの手を暫く眺めてからゆっくりと拳を握りしめた。


「………ごめん」

「え?」

「勝手に触ったりしてごめん」


 暫くの無言の後、私にタオルを手渡しつつ苦い顔で呟いた彼に胸がズキリと痛む。強く手を握っていた彼を、私が嫌がっていたと思われたんだろうか。誤解だ。

 そのまま背を向けて洗面所を出て行こうとする彼を慌てて追い掛けて服の裾を掴んだ。


「違うの!」

「……え?」


 瞳を丸くして振り向いた彼に動悸が激しくなっていく。数秒後、ハッと気付いて掴んでいた彼の服を放した。


「ごっごめんっ」

「あ、いや……」


 少し視線を泳がせた彼が喉に詰まらせた様な声を発した後、洗面所は何とも言えない沈黙に包まれた。

 どうしよう。何か言わなければ。

 しかし、頭の中は真っ白でまともな言葉が浮かばない。


「……あの、さ」

「ハイ?!」


 懸命に考えているところに不意に声を掛けられて、思いっきり声が裏返ってしまった。


「……何が、違う?」

「えっ……」


 誤解だと声高に言いたい。手を握られた事も、こうして二人で居る事も、思いがけず一泊旅行になってしまった事も総て、嫌じゃないと。


「……や、ホラその……ちょっと水冷たくて……」


 しかし結局、言葉を濁してモゴモゴと返答した。自分でも臆病だとは思う。だけど玉砕が目に見えているのに、そんな想いをストレートにぶつける事は出来なくて俯いて黙り込む。


「冷やさなきゃ意味ないじゃん」

「あのでも、ホント大した事無いから」


 彼を真っ直ぐ見る事は出来なくて、視線を僅かに逸らしつつ作り笑顔を浮かべて早口で告げると、彼がふーっと溜息を吐いた。


「気を遣わなくていいよ」

「え?」

「迷惑だってはっきり言って貰って構わないから」


 二度目の「え?」を口にする前に、「ちゃんと冷やしなよ」と言い残した彼は視界から消えた。

 遠ざかっていくスリッパの音を暫し呆然と聞いていて、慌てて彼の後を追った。


「迷惑なんかじゃないよ!」

「いいって」

「本当だって!」


 私に背を向けたままの彼に胸が絞られる様に痛くて、とりあえずこの誤解だけでも解かなくてはと思わず腕を掴んだ。

 吃驚びっくりした表情で振り向いた彼を見上げて掴んでいた手の力を弛める。


 どうしたら誤解だって伝えられるんだろう。気持ち全部吐き出すのが一番なんだろうけど、そうすると学生時代からの恋心まで総て吐露する事になる。

 それはつまり、この7年間の想いを彼の目の前で白状するという事で……


 この歳になって告白? こんな状況で?

 背中に嫌な汗が流れる。同時に物凄い勢いで熱が駆け上がった。

 きっと顔は真っ赤だろう。恥ずかしいと思うと益々頬が火照った。

 とても彼の顔は見ていられなくて視線を足元に落とすと、彼の膝が僅かに震えた様に見えてふと顔を上げた。

 そこには、穴が開く程に私を見つめている彼の瞳があった。視線が絡んだ瞬間、自分の意思ではどうしようもなく頭から湯気を噴いた。

 こんなの、もう「すき」だと言ってしまった様なものだ。

 今更だけど何処かに隠れる場所は無いだろうかと視線を彷徨わせたら、突然その視界が暗くなった。

 何事かと首を傾げる間もなく、背中にやんわりと回った腕を感じて鼓動が爆発した。

 な、な、何で? どうしていきなり抱擁されてるの?

 完全にパニックになっていたら、頭の上から躊躇いがちの声が落ちた。


「……嫌……?」


 嫌だなんて。寧ろ嬉しすぎて夢の様だ。

 慌てて首を左右にフルフルと振ったら、耳にホッと安堵の息が掛かって徐々に強く抱き締められた。

 全身を物凄い勢いで駆け巡る鼓動に只々呑み込まれていたけれど、ふと疑問が頭を掠めた。私には微塵も興味ない筈なのに、どういう意味での行動なのだろう。

 もしかして、同情? 完全にバレたであろう私の気持ちには応える事は出来ないけれど、せめてもの慰めで突然こんな事を?

 そうだとしたら、虚しいなんてものではない。

 彼にすっぽりと包まれて痺れる身体を、何とか動かして両手を突っ張った。


「……あの、いいから」

「え?」

「抱擁とか、してくれなくていいから」

「は?」

「分かってるから。バッサリ振ってくれていいから」


 彼の身体に両手を力一杯突っ張ったまま俯いて早口で告げると、やや有って「……お前なあ」と呆れた様な声が頭上に落ちた。

 ふーっと吐かれた溜息と同時に、手をそっと握られて新たな熱が生じる。


「俺が何で此処に誘ったと思ってんの?」

「え?」


 何でって……だから、偶然逢って盛り上がったからだよね?

 キョトンと聞き返した私に苦笑を零して溜息再び。


「本当に偶然だと思ってる?」

「へ?」

「ペンションに突然来て晩飯出てくると思う?」

「……は?」


 言われてみれば、昨夜の晩ご飯は普通に食べた……

 えっ。何? どこから計画が練られていたの?

 まじまじと彼の顔を眺めると、やれやれといった様子で言葉を繋いだ。


「俺としてはさ、かなりの覚悟で誘ったんだけど」

「え……?」

「こう、満天の星の下なら、長年の想いを告げられるかと思ってさ」


 瞬きも忘れて呆けた様子で彼を見つめる私に、自嘲気味の笑いを零した。


「でも、いざとなると中々言えなくて」

「……」

「そうしてる内に、告げる前に振られたと思ってた」

「え?!」


 頓狂な声を上げた私に何度目かの溜息が落ちる。


「だって、俺が居ようとも構わず寝てるし、一緒に散歩も断るし、挙げ句『迷惑』だもんな」

「そっそれは……!」


 寝てたのはそっちの方で、と抗議の声を上げようとしてふと気付いた。

 告げる前に振られた? って言った?

 口を開けたまま彼をポカンと眺めたら、少し緊張した面持ちで私を見つめた彼が、暫しの沈黙の後に口を開いた。


「……すきなんだ、あの頃からずっと」


 吃驚びっくりし過ぎて声も出なかった。只々口をパクパクと開閉する私に彼は、口の端を少し弛めて小首を傾げた。


「伝わった?」

「えっ。えと、その」


 余りに突然降った話に思考も言葉も追いつかずにオロオロしていたら、彼がコクリと小さくつばきを呑んで、私の手に触れていたそれに僅かに力を込めた。


「俺と、付き合ってくれる?」

「……ッ」

「OKなら、閉じて?」


 えっ。瞳?! これは、この流れってやっぱり……? どうしよう、心の準備が。でも此処で断る理由なんて皆無だし!

 頭の中を勢いよく廻る纏まらない思考と激しく主張する動悸の中、緊張の余りフルフルと震えながら固く瞼を閉じると、包まれた手に更に力が加わったのを感じた。

 バクバクと壊れそうな鼓動をひたすら数えていたけれど、唇には何も触れる事は無く、不安になって瞳を開けようかと思ったら、ふと指に冷たい何かが滑った。

 怖ず怖ずと瞼を開けて自らの左手に視線を落とすと、そこにはキラリと光るリングが有った。


「……へ?」


 唐突に現れたそれをまじまじと見つめて視線を上げると、ばつが悪そうに頭を軽く掻く彼が居た。


「これ……何?」


 誰がどう見てもそれは指輪なのだけれど、呆けた頭ではそれ以上の質問は出て来なくて思ったままに訊ねると、暫しの沈黙の後に彼が口を開いた。


「………昨日の星?」


 苦笑を漏らしながら訊かれても困る。というか、星? 星を捕まえて私の手に?

 まさかそんな科白せりふを聞く事が自分の人生の中に有るとは。

 ポカンと彼を眺めていたら彼が見るからに落ち込んだ。


「ゴメン、今の無し」


 そう言うと指からするりとリングを抜かれて、慌ててパクパクと口を開閉しつつ手を彷徨さまよわせた。


「まっ、ちょっと待って!」

「……欲しい?」

「欲しい!」


 思わず必死で言った私に彼はクスリと笑った。決して物に釣られた訳じゃない。指輪まで用意してくれた彼の真剣さに心が揺り動かされたのだ。


 「じゃあ……瞳、閉じて?」


 再び告げられた科白にゆっくりと瞼を閉じてそっと手を差し出すと、その手は優しく包まれて……唇に温かいものが触れた。

 驚いて瞼を開くと、間近で揺れる彼の瞳。

 ドキンと鼓動が跳ねた瞬間、吐息も身体も再び彼に包みこまれていた。


***


「……そういえば、どうして指輪のサイズ知ってたの?」


 少し落ち着いてから改めてお茶を飲みながら尋ねると、彼がポリポリと頭を掻いた。


「学生ん時聞いた」

「え?」

「2年の合宿の時」


 そんな事有っただろうか? 暫く首を捻ってふと思い出した。

 洗顔する為に外しておいた指輪を手に取って「細いな。これって、どれぐらいのサイズ?」なんて訊かれた事が有ったっけ……? 余りにもさり気ない会話で、今の今まで忘れていた。そんな些細な事を覚えてくれていたなんて。


 感動して瞳を潤ませていると、彼が小首を傾げて「ねえ」と言った。


「もう一泊してく?」


 危うく噴き出しそうになったカフェオレをゴクンと呑み込んでブルブルと首を左右に振った。


「駄目?」

「あっ当たり前だよ、明日仕事だしっ。着替えも無いし!」


 大慌てで早口で告げると、彼がふーっと息を吐いた。


「わかった」


 ちょっとホッとした様な、残念な様な複雑な想いを抱えていたら、彼が続いて言葉を発した。


「じゃあ、来週な」

「へ?!」

「金曜の夜から2泊の用意をしろよ?」


 えええ?! 顔から勢いよく湯気を噴きつつ絶句していたら、彼がふっと微笑んだ。

 その笑顔に速まる鼓動を感じつつ、平静を装ってカフェオレを啜る事が今の私の精一杯だった。

お約束通り丹羽庭子さんに捧げます。

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[一言] サイレントヒル! あのつぶやきからここまでよくぞよくぞ書き上げてくださいました! 用意周到に連れ出されたのに、本人気づかずしかもお互い気持ちのすれ違いなんてもうジレジレというかモジモジとい…
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