十二 トスタル島
シェランは少し頭を動かした。
先程見た赤いものは何だったのか確認するためである。もしこの先にも同じものがあって、見る度にいちいち倒れていてはどうにもならない。
それは、深紅の花弁を持つ花だった。薔薇に少し似ているように見受けられる。
「花? こんな季節に……?」
シェランの呟きを拾ったらしい。ソルディースが同じ方向に視線を向け、ああ、と声を上げた。
「四季薔薇草の花か。……一年中いつでも咲くとはいえ、こんな真冬の最中に咲いても仕方がないだろうにな。あの花がどうかしたのか、シェラン?」
「血が……」
真っ白な雪の中で深紅の花弁を開かせているその花は、やはりシェランにはどうしても雪の上に血が散っているようにしか見えないのだった。
目を逸らした。
「…………ごめんなさい、何でもない! それより先に進もう。急げば今日中に島に着けるんでしょ?」
「突然お倒れになって死ぬほど心配させた挙句、ご記憶を取り戻しておいて何でもないで納得するほど我々は馬鹿ではありませんよ」
にっこりと笑っているが目が全く笑っていないイルヴァースが、涼やかな口調で辛辣に指摘した。
シェランはあらぬ方向へ視線を彷徨わせた。どう言えばこの幼馴染は納得するのだろう。
「花が……花の色が、血みたいに見えて、それが雪の上にあるから、その……あの時、ばあやが怪我したなーって、そこから連鎖反応っぽく色々思い出したの!」
何かが少し違う気がしたが、勢いで押し切る。少年たちはその勢いに押されて、「ああ……なるほど」と納得したようなしていないような反応だった。
「記憶が戻ったのはいいが、倒れたのは心配だな。一度皇都に戻ったほうがいいのかもしれないが……」
アルトレイスが言いよどむのは、既に、皇都へ引き返すよりもこのままトスタル島へ進んだほうが早く屋内に入ることができる所まで来ているためだ。
「それは駄目!」
慌ててシェランは口を挟んだ。やっぱり戻ろうとか言い出されては、ここまで来た目的が果たせなくなる。それに、記憶が戻ったことで、九年前の事件で不可解なことが増えた。
「ファヴァイナ侯爵に聞きたいことがあるの。……私、あのとき――異世界に渡る直前ぐらいだと思う、そのときに、倒れたお母様の体を結界で包んだの。誰にも傷つけられないように、って思って。私が異世界に渡る反動で、現場周辺が滅茶苦茶になったってお祖父様は言ってたけど、でもお母様はきれいな状態で見つかるはず。なのに、すぐに駆けつけたはずのお父様がそれを見つけられなかったってことは……」
「誰かが先に妃殿下のお体を回収した……ということですか」
シェランは頷いた。後を引き取ったイルヴァースが渋い顔になる。鋭くアルトレイスに視線を投げた。
「どう思う?」
「気に入らないな。――シェラン、ファヴァイナ侯に聞きたいこと、とは……伯父上より先に現場にいたファヴァイナ侯が、妃殿下のお体を見なかったか……ということか?」
「うん。警備責任者だったんだもの、お父様より先に捜索を開始できたはず。見なかったとしても、人一人を運ぶなり隠すなりの動きに、気づかないことはないんじゃないかと思う」
護衛とはいっても年若く、九年前にはまだ子供だった彼らである。当時、事件の調査には彼らの父親達が立ち会ったが、詳細は彼らにまで伝わってはこなかった。
それが、思わぬときに当事者である皇女の口から、新たな事実が明らかとなったのだ。普通ならどう扱ってよいかわからず、それこそ親の判断を仰ぐものだが、彼らはその出自からして未来の皇王の側近として育てられた者達である。
決断は速かった。
「殿下のご随意に」
頭を垂れたのはセイルードである。
皇女とはいえまだ十三歳の幼い少女に判断を丸投げしたわけではない。取り戻したばかりの記憶から手がかりを摑む、その冷静さを信頼したのである。
「……ファヴァイナ侯は度々の国境警備状況の報告を怠っているとか。そのことを問いただす良い機会ともなりましょう」
「殿下、警戒を怠ってくださいませんよう。デルフィニアの動きも気になります」
「しかし真正面から問いただしたところで、何か吐くとは思えませんね。腐っても、長年デルフィニアを阻んできた外交官でもあるのですから」
好き勝手に言い始めた少年たちに、シェランはさらに爆弾を投下した。
「どう考えてもうまくいかない気がするのは、私だけだろうか……」
イルヴァースは、目前に臨んだトスタル島を見ながら、ぼそりと呟いた。
「安心しろ、俺も成功しないと思ってる」
いささか疲れた様子で、アルトレイスがそれに応えた。
「というか、デルフィニアが事実上の宣戦布告をしたという情報が入ってくるのが何でこんなに遅かったんだ? もっと早くわかっていたら引き返させたのに」
不満たらたらなアルトレイスを、まあまあと宥めたジスカールとセイルードは、ソルディースとライゼルトと共に地図を覗き込んでいる主を振り返った。
少し離れた場所でトスタル島の見取り図を確認していたシェランは、その視線に顔を上げた。
「文句があるならはっきり言いなさいよ」
「よろしいのですか?」
「なんか変なもの見る目でチラチラ見られるよりまし」
「では申し上げます」
ジスカールが最年長者らしく、代表して言った。
「畏れながら、身分を明かさずにトスタル島に忍び込んでファヴァイナ侯と対面するというのは、いささか現実味に欠けているように思われます。なにとぞご再考のほどをご検討ください」
「じゃあ代案出して」
シェランはにべもなく切り捨てた。
彼女が数日前に投下した爆弾は、次のようなものだった。曰く。
『誰が真正面からトスタルに乗り込むって言ったの?』
どうやって件のファヴァイナ侯爵に事件へ関与した証言を引き出すのか、という議題を躍起になって論じていた彼らに、彼らの幼い主は、にこやかに言ってくれたのだ。
『だって事件に関する証言取りに来ましたーなんて言ってもそう簡単に喋ってくれるわけないでしょう? そもそも会うかどうかも怪しいと私は踏んでる。仕事が忙しいとか何とか言ってね。そうやって何だかんだで返事引き延ばされて、気づいたらはぐらかされてサヨウナラが落ちよ。だったら確実に会える方法を取るのが当然じゃない』
彼らが絶句して言い返せないでいるうちに、皇女殿下は着々と計画実行のために情報を集め――――至る、現在。
「ですが姫。島へ渡る船に乗るにしても、デルフィニアとの戦が明確化した今では……きちんとした身元の証明が不可欠ですよ。国境を守る砦に、不審者の侵入を許すわけには参りませんから」
「そもそも砦に入った後にファヴァイナ侯の部屋を探して忍び込むって……侯の部屋が二階以上にあったらいかがなさるおつもりですか?」
「行き当たりばったりすぎるぞ、シェラン」
「お考え直しになられた方がよろしいかと……」
あの手この手で遠まわしに「やめろ」と言う年上の幼馴染達に、シェランが切れるまでそう時間はかからなかった。
「――誰も一緒に来てなんて言ってないじゃない! そんなに嫌なら今からでも帰れば!? 私は一人ででも行くわよ!」
この言葉に、全員が折れた。昔からこうと決めたら譲らない性格は変わっていなかったらしいと、各々胸の内で嘆いて。
トスタル島は、島全体が砦になっているといっても過言ではない。
島の北側は故あって神殿により聖域指定されているが、基本的に島はルトニ沿岸部における最前線の軍事要塞である。
これは非常に暗示的で、歴史上ヴィーフィルド皇国にとっての敵が東から襲来することが多かったことを示していた。とはいえ西と南はほぼ海、北には『竜の背骨山脈』があるので、当たり前のことではある。
これらを聞いて、
「海からだって攻撃できるんじゃない? 海軍作れば簡単に」
と、シェランは尋ねたが、幸か不幸か大軍団を輸送できるだけの大型船を建造する技術が、まだこの世界には無いのだった。それを聞いて皇女殿下がとある世界との技術の差を感じ、神術にばかり頼っているからこうなるんだと後々になって言い出すのはまた別の話である。
いずれにせよ、素人玄人問わず侵入者を許したことの無い鉄壁の要塞――特に戦時下で、関係者以外が立ち入るには、少々、いやかなりの努力が必要であることは、明々白々な事実であった。
しかし、いくら要塞とはいえ諸々の供給は必要である――主に、食料など。
物資の供給は、全て島の港で行われる。島とはいってもトスタル島はかなり大きいので、港も寂れた漁村などよりよほど大規模である。人の出入りもそれに比例して多い。だが、夜には出港・入港制限が発生するので、人通りは激減する。
その、夜。
港の荷物が置かれた一画で、積み上げられた箱の一つがことりと音を立てた。そのままひっそりと箱の蓋が持ち上げられ、次いで人の腕が現れる。次いで、人の頭が。
箱の中から周囲を窺い、見ている人がいないことを確認したその人物は、元通りに箱に蓋をすると、とんと軽い音を立てて地上に降りた。
申し訳程度に焚かれている篝火を頼りに、その人物はそっと進み始めた。足取りに迷いはなく、ある目的をもって進んでいるのだとわかる。
しばらくして、その人物はたたっと軽く駆けた。長く駆けることはなく、通りの外れ、林の手前あたりで足を止める。
「うまく抜けられたようですね。……しかしこんな突拍子もない計画を思いつかれるのは、一体どなたに似たのでしょうね」
「突拍子がなくて悪かったわね」
箱から抜け出してきた人物は、軽く笑いを含んだ声に低い声で反論した。
「悪いなどと私は一言も申し上げてはいませんよ。……まあ、騎士としてはいささか情けない思いをさせられましたが」
「嫌なら帰ればって、私、何回も言ったじゃない。別に怒らないし」
「イルヴァース、その辺にしておけ。姫様のご不興を買ってどうするんだ」
林の影から出てきたのは、イルヴァースとセイルードである。通りを駆けて抜けてきたのはシェランだった。
彼らの服装は、島に渡ってくる前のものとは全くその質を異にしていた。
特にシェランの変化が著しい。旅用だったとはいえ、十分に美しいドレスを着ていたのに、今は小者のような服装である。とても一国の姫が着る服ではない。イルヴァース、セイルードの二人の同様で、こちらは下町の少年のようである――大貴族の嫡子として育ったゆえか、品の良さが隠しきれていないが。
光を屈折させる神術を使って髪と瞳の色を茶に変えているシェランは、辺りに目を向けた。
「他のみんなは?」
「まだです」
各々、このトスタル島に本来の身分を隠して個別に入り込む計画だった。一にも二にも目立たないことが目的である。
この作戦を考えたのはシェランだ。相手は宰相からの再三に渡る皇都への召喚を、自己謹慎の名の下に拒否し続けた人物である。シェランは彼に本気で会うつもりなら不意打ちしかないと強硬に主張し、結果としてこのような上陸方法になった。……ほぼ密航に近いものがほとんどだったが。
一時間ほどして、全員が揃った。
「この島、デルフィニア側には要塞になってるけど、基本的には侯爵個人の領地だから侯爵家の別荘とかもあるのよね。そっちを先に当たってみようか」
シェランが言った時点で、決定したも同然である。
侯爵家の別邸は、砦に比べると比較的港に近い場所にあった。曲がりなりにも貴族の屋敷であるため、人気のない――単に敷地が広いだけかもしれないが――森の中に建っていた。
これを見て護衛役達は一斉に不審な表情になった。
「お待ちを、殿下」
厳しい顔と口調で呼び止めたジスカールに、早速塀をよじ登ろうとしていたシェランは足場を探す作業を中断せざるを得なくなった。
「どうしたの?」
「結界が張られておりません」
シェランは意味がわからずきょとんとした。
「……だから、何? 入りやすくていいじゃない」
「シェラン、考えてみろ。ここは国境、しかも敵国から宣戦布告があったんだぞ。そんなときに屋敷に結界が張られていないなんて、おかしいだろうが」
「砦のほうに人員回してるんじゃないの? 大体ここ、本邸じゃないでしょう」
言外に失っても大した痛手ではないのではと指摘したシェランに、イルヴァースが首を左右に振った。
「本邸ではなくとも国境警備の要にある屋敷です。使い道は多々あるでしょうに、おそらく使用人を少し入れただけで特に防御策を施しているようには見えません」
「つまり……ファヴァイナ侯爵は、まともに警備してないってこと?」
「そこまで言い切るのは早計でしょうが、褒められた態度ではありませんね」
イルヴァースは言葉を濁したが、実際はファヴァイナ侯爵の態度は褒められたものではないどころではない。基本的に貴族階級は軍属が義務付けられているこの国で、仮にも国境を任された者が戦時中に取る態度ではなく、職責怠慢で爵位降格、領地剥奪及び移転となっても文句は言えない。
要するに怪しいから様子を見よう、と彼らは言いたかったのだが、異世界育ちの皇女殿下は彼らが思いもよらない方向に行動した。
すなわち。
「そういうことなら尚更、早く侯爵に会わないといけないわ。質問事項が多くなって困るなぁ。お母様のことだけでも結構あるのに。なんか怪しすぎるわよ。よくまぁお祖父様もお父様もこんな怪しい人に国境任せてたわね」
言いながら煉瓦で築かれた塀に、先端に輪を作った縄を投げ、うまいこと塀の上の尖った部分に引っ掛けると、強度を確認してからよじ登り始めたのである。
軍の登攀訓練顔負けの手際の良さに、現役軍人の少年(及び青年)達は呆気にとられて反応が遅れた。
「ちょ、姫様!」
「危ない――……!」
我に返って叫んだときには、既にシェランは塀の上にその細い体を運んでいた。
おまけにさっさと登って来いと手招きされる始末である。
今まで「皇女」に対して僅かなりとも抱いていた印象が音を立てて崩れ去るのを感じながら、彼らは垂らされたままだった縄を伝って塀を登った。
最初にその人影を見つけたのはセイルードである。
仮にも貴族の別邸の敷地内を、深夜にうろつくとは尋常ではない。
「誰だと思う?」
声を潜めてジスカールに問うたのを、運悪くシェランに聞かれてしまった。
「遠目だし暗いからよくわからないよね。も少し近くまで行ってみよう?」
疑問形だが実質は決定である。全員、内心で盛大にため息をつきながら植え込みに隠れつつその人影の後をつけた。
その人影の姿がはっきりと月明かりに浮かび上がったのを見たとき、ジスカール、セイルード、イルヴァースの三人が訝しげに呟いた。
「…………ファヴァイナ侯?」
この三人は九年前、年齢が十前後であった。無論のこと近衛騎士団第二軍長という職にあったファヴァイナ侯爵のことは、顔程度は見知っている。だが彼らがその人を見てそう呼んだのは、その人の服装によるところが大きかった。
シェランは息を呑んだ。
「あの人が……?」
見覚え云々という話ではない。
あまりにその人が想像とかけ離れていたためである。
年齢は祖父達とそう変わらないと聞いていたから、五十半ば程度のはずだった。しかし碌に櫛を通しているようには見えぬ白髪と、こけた頬がその人を実年齢よりずっと老けて見せていた。目だけが爛々と異様な光を放ち、もはやその心が現実の世界にないことは明らかなように見受けられる。
「一体何があったというんだ……?」
アルトレイスが呆然と呟いた。
「とにかく、後を追おう」
彼らが驚いている間にも、ファヴァイナ侯爵らしき人物はどこかへ向かっている。
そっと後に続くこと四半刻というところで、その人は意外な場所にたどり着いた。
小さな神殿である。祠といってもいい。
神経質に周囲を窺い誰も目に付かないことを確認すると、息を潜めている彼らの前で、その人はぱかりと祠の横の壁を外した。隠し通路がある。
「何をしに行ったのかな……」
ファヴァイナ侯爵が通路に入り、元通り壁をはめた後、シェラン達はその祠の傍へ寄った。
「行ってみるしかない……よね」
シェランの言に否やの声は無い。皆、無言で頷き、通路の中へ入った。
最初は階段だった。かなり深い。しかし一旦階段が途切れると、緩やかな登り坂が延々と続く。アルトレイスやイルヴァース達が神術で明かりを作り出し足元を照らしていたため暗くはなかったが、どことなく陰気な印象を受ける通路だった。陽気な隠し通路というのも、それはそれで奇妙だが。
道の先には、簡素な石造りの扉があった。それほど重厚なものではなく、シェランでも簡単に開くことができる。
セイルードが細く扉を開いて傍に人がいないことを確認してから、全員が扉の内側に入る。
出た場所は大広間の二階のようだった。一階と吹き抜けの構造になっている。
いやに明るい一階部分を覗き込んで、シェランはとっさに自分の口を手で塞いだ。そうしなければ、溢れる悲鳴を抑えることなど到底不可能だっただろう。
シェランの様子がおかしいことに気づいた少年達も一階部分を覗き込む。程なくして彼らの顔は驚愕に彩られた。
九年もの間行方知れずだったヴィーフィルド皇国皇太子妃が、薄い金色の膜に包まれて、石の台の上に眠っていた。




