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首なし女王の庭で、わたしは幸福を選んだ

掲載日:2026/11/07


王国の貴族たちは、幸福を買うことができる。


美しい容姿も、優れた才能も、望ましい結婚相手も、十分な財産と相応の身分さえあれば手に入る。少なくとも、ヴェルディシア王国の貴族たちは、そう信じて疑わなかった。


ただし、この国には古くから一つだけ、決して破ってはならない決まりがあった。


『王家の庭に迷い込んだ者は、何を差し出しても、最後の扉だけは開けてはならない』


なぜなら、その向こうには、この世で最も幸福な女王が住んでいるからだ。


そして幸福な女王は、誰よりも不幸な者を必要としている。


◇ ◇ ◇


「あなたは本当に、何一つ満足にできない娘ね」


銀の匙が皿に触れ、乾いた音を立てた。


長い食卓の向こうで、義母が白い手袋をした指先を揃え、まるで傷んだ果実でも眺めるような目を向けてくる。


ヴェルディシア王国の西部に領地を持つグラナヴェル伯爵家。その次女として育った十七歳の令嬢、シェルヴィナ・グラナヴェルは、膝の上でそっと両手を握り締めた。


淡い灰金色の髪に、雨上がりの湖を思わせる青緑の瞳。華奢な体つきと整った顔立ちを持つ彼女は、貴族令嬢として申し分のない容姿に恵まれていたが、家族の前ではいつも肩を縮め、相手の顔色を窺う癖がついていた。


「申し訳ございません、お義母様。刺繍は、今日中に仕上げるつもりで……」


「今日中? わたくしが頼んだのは三日前よ。王都の令嬢たちは皆、もっと立派な刺繍を仕上げているというのに」


「ですが、昨日はお義姉様のお茶会の準備がありましたので……」


「口答えをするの?」


その一言で、シェルヴィナは口を閉じた。


義母の隣では、義姉が退屈そうに葡萄を口へ運んでいる。彼女はシェルヴィナより二つ年上で、すでに王都の有力貴族との婚約が決まっていた。


シェルヴィナにも、かつて婚約者がいた。


けれど、その婚約は昨年、一通の手紙によって解消されている。


理由は単純だった。


『君は、いつも何を考えているのかわからない』


それ以来、彼女は以前にも増して自分の意見を口にしなくなった。


何を言っても間違いになるのなら、何も言わないほうがよい。


何も望まなければ、失望することもない。


そうやって生きてきた。


「……お義母様。少し、庭を歩いてきてもよろしいでしょうか」


「夕食までには戻りなさい。それから、その陰気な顔をどうにかすることね。使用人たちにまで気を遣わせるなんて、貴族の娘として恥ずかしいわ」


「はい。ありがとうございます」


深々と頭を下げ、シェルヴィナは食堂を後にした。


廊下へ出た途端、張り詰めていた胸の奥から、細い息が漏れる。


屋敷の窓には春の夕日が差し込み、磨き上げられた床に長い影を落としていた。


庭へ続く扉を開けると、薔薇の香りを含んだ風が頬を撫でた。


「……わたし、何か悪いことをしたのかしら」


誰に聞かせるでもなく呟いた、そのときだった。


「いいえ。あなたはまだ、何もしておりません」


背後から、知らない男の声がした。


振り返ったシェルヴィナは、思わず目を見開いた。


そこに立っていたのは、白い礼服に身を包んだ一人の青年だった。


年齢は二十代半ばほど。雪のように白い髪を後ろで束ね、細身の体に金鎖の懐中時計をいくつも下げている。端正な顔立ちには柔和な微笑みが浮かんでいたが、その瞳だけは奇妙なほど赤かった。


そして何より不自然だったのは、彼の頭から、白い兎を思わせる二本の長い耳が伸びていたことだ。


「ごきげんよう、シェルヴィナお嬢様。わたくしはフィルゼク・ラトゥーネ。女王陛下の宮廷に仕える、時間管理官でございます」


青年は優雅に一礼した。


「……女王陛下?」


「ええ。あなたをお迎えに参りました。もっとも、正式な招待状をお届けするには、少々時間が足りませんでしたが」


フィルゼクは懐中時計を取り出し、蓋を開いた。


時計の針は逆方向に回っていた。


「おや、これは困りました。もうすぐ昨日になってしまう」


「昨日……ですか?」


「ええ。昨日になる前に明日へ行かなければ、今日という日が存在しなくなりますからね。さあ、お急ぎください」


意味がわからなかった。


しかしフィルゼクは、それが当然であるかのように微笑み、庭の奥へ歩き始める。


「お待ちください! わたし、どこへ行くとも……」


「幸福になれる場所です」


その言葉に、シェルヴィナの足が止まった。


フィルゼクは振り返り、赤い瞳を細める。


「誰からも責められず、誰にも嫌われず、あなたがあなたのままで愛される場所。そんなところがあるとしたら、行ってみたいとは思いませんか?」


シェルヴィナは答えられなかった。


青年はそれ以上何も言わず、薔薇の生け垣の向こうへ姿を消した。


そこには昨日まで存在しなかった、小さな鉄の門があった。


門の向こうには、地下へ続く螺旋階段が伸びている。


「……少しだけなら」


夕食までには戻ればいい。


そう自分に言い聞かせ、シェルヴィナは門をくぐった。


背後で鉄の門が閉じる音がした。


けれど、振り返ったときには、もう門そのものが消えていた。


◇ ◇ ◇


階段は、どこまでも続いていた。


壁には数え切れないほどの肖像画が掛けられており、そのどれもが目を閉じた貴族たちの姿を描いていた。


不思議なことに、肖像画の人物たちは皆、幸福そうに微笑んでいる。


ただし、その首から上には必ず一本の赤い線が引かれていた。


「フィルゼク様! お待ちください!」


「急いでください、お嬢様。時間は待ってくれません。もっとも、わたくしが頼めば少しは待ってくれますが」


青年の声が階段の下から響く。


シェルヴィナは裾を持ち上げ、必死に追いかけた。


やがて階段が終わると、そこには大理石の広間が広がっていた。


壁一面に扉が並び、それぞれに異なる紋章が刻まれている。


獅子、鷲、蛇、百合、そして首のない女性。


「ここは……?」


「選択の間でございます」


フィルゼクは胸元から銀の鍵を取り出した。


「扉は全部で四十九。ですが、あなたに開けられるのは一つだけです」


「どの扉でしょうか」


「それは、あなたが決めることです」


シェルヴィナは困り果てた。


自分で何かを選ぶことなど、ほとんど経験がなかったからだ。


義母が選んだ服を着て、教師が選んだ本を読み、父が選んだ相手と婚約する。


自分の意思で選んだものといえば、寝室の窓辺に置いた小さな花瓶くらいだった。


「……間違えたら、どうなるのですか?」


「間違いなどございませんよ。どの扉を選んでも、あなたが選んだという事実だけが残ります」


その答えは、なぜか恐ろしく感じられた。


シェルヴィナは迷った末、最も小さな扉に手を伸ばした。


そこには、金色の蝶が描かれていた。


鍵を差し込むと、扉は音もなく開いた。


向こう側から、甘い焼き菓子の香りが漂ってくる。


「ようこそ、シェルヴィナお嬢様」


フィルゼクが深く頭を下げた。


「忘れられた王国、ネムレシアへ」


次の瞬間、床が消えた。


「きゃあああっ!」


シェルヴィナの体は宙へ投げ出され、長い長い暗闇の中を落下していった。


しかし、どれほど落ちても地面にぶつからない。


代わりに周囲を漂うのは、壊れた椅子、銀食器、古い日記帳、誰かの靴、そして無数の花びらだった。


花びらは途中で蝶になり、蝶は鳥になり、鳥は小さな人間の顔へと変わっていく。


『おかえりなさい』


『おかえりなさい』


『おかえりなさい』


無数の声が耳元で囁いた。


「わたし、ここへ来たことなんて……!」


『おかえりなさい』


声は答えなかった。


やがて、柔らかな草の上に体が落ちた。


痛みはなかった。


顔を上げると、そこには青紫色の空と、真っ白な花々に覆われた庭園が広がっていた。


空には三つの月が浮かび、遠くには逆さまに建てられた城が見える。


噴水からは水ではなく銀色の砂が流れ、庭園を歩く貴族たちは、誰もが仮面をつけていた。


「……夢?」


「夢であれば、もっと親切なものですよ」


頭上から声がした。


見上げると、木の枝に一人の少年が座っていた。


年齢は十五歳ほど。黒紫色の髪に、金色の猫のような瞳。細い体に黒い貴族服をまとい、片方の口角だけを持ち上げて笑っている。


少年の名はネヴィルク・シェード。


本人によれば、かつて王宮に仕えた侯爵家の末子であり、現在は庭園の案内人を自称しているという。


ただし、彼の背中には人間のものではない、長い黒猫の尾が生えていた。


「君、ずいぶん綺麗な首をしているね」


「……首、ですか?」


「うん。細くて、白くて、まだ誰にも触られていない。女王様が気に入りそうだ」


少年は楽しそうに笑った。


シェルヴィナは無意識に自分の首元へ手を当てる。


「ここは一体、どこなのですか?」


「さっき聞いただろう? ネムレシアだよ。望んだ者だけが迷い込める、幸福な貴族たちの国さ」


「帰るには、どうすれば……」


「帰りたいの?」


ネヴィルクの声から笑みが消えた。


「君を責める家族のところへ? 君のことを何も知らない婚約者のところへ? 君が泣いていても、誰も気づかないあの屋敷へ?」


シェルヴィナは息を呑んだ。


「どうして、それを……」


「ここでは、言わなかった言葉が聞こえるんだ。君が飲み込んできた言葉も、誰にも見せなかった涙も、全部ね」


少年は枝から飛び降りた。


足音はしなかった。


「君は悪い子じゃないよ、シェルヴィナ。少なくとも、ここではね」


そう言って、彼は初めて優しく微笑んだ。


「さあ、お茶会へ行こう。きっと君も気に入るよ」


◇ ◇ ◇


お茶会の会場は、巨大な薔薇園の中央にあった。


白いテーブルクロスを掛けた長卓には、焼き菓子、果実、砂糖漬けの花、色とりどりの紅茶が並べられている。


椅子は全部で十三脚。


そのうち十二脚には誰も座っておらず、残る一脚にだけ、奇妙な紳士が腰掛けていた。


「遅い! 遅いぞ! 招待客が来るまでに三杯も紅茶を飲んでしまったではないか!」


紳士は大声で叫び、手にしたティーカップを卓上へ叩きつけた。


年齢は四十代ほど。深緑色の長髪を三つ編みにし、巨大な黒い帽子を被っている。痩せた頬には笑い皺が刻まれ、左右で色の異なる瞳が絶えず落ち着きなく動いていた。


名はバルドレイ・モルガン。


元は王宮の儀礼官だったという男で、現在はこの庭園で終わることのない茶会を主催している。


「申し訳ございません。わたし、招待されているとは知らなくて……」


「知らない? 知らないだと? 招待されたことを知らない招待客ほど、招待客らしい招待客はいない!」


バルドレイは突然立ち上がり、両手を広げた。


「素晴らしい! 実に素晴らしい! さあ座りたまえ! 今日は君のための茶会だ!」


ネヴィルクがシェルヴィナの背中を軽く押した。


「大丈夫。彼は少し騒がしいだけだから」


シェルヴィナが席に着くと、バルドレイは嬉々として紅茶を注いだ。


「砂糖はいくつ?」


「一つでお願いします」


「一つ? 二つではなく?」


「はい」


「三つでもなく?」


「……はい」


「四つは?」


「一つで結構です」


その瞬間、バルドレイは動きを止めた。


ネヴィルクも、どこか驚いたように目を見開いている。


シェルヴィナは不安になった。


「あの……何か、失礼なことを?」


「いいや!」


バルドレイは突然、満面の笑みを浮かべた。


「素晴らしい! 君は自分の好みを知っている! それを口にする勇気まで持っている! なんと立派な令嬢だ!」


「……え?」


「ここでは遠慮など不要だ! 欲しいものは欲しいと言いたまえ! 嫌いなものは嫌いと言いたまえ! 誰も君を叱ったりしない!」


彼は紅茶に角砂糖を一つだけ落とした。


琥珀色の液面に小さな波紋が広がる。


「さあ、召し上がれ」


シェルヴィナは恐る恐る口をつけた。


甘く、温かい紅茶だった。


それだけのことなのに、なぜか涙が出そうになった。


「……美味しいです」


「そうだろうとも!」


バルドレイは満足げに頷いた。


「この茶葉は、まだ存在していない春から摘んできたものだからね!」


ネヴィルクが笑う。


「彼の言うことは半分くらい聞き流したほうがいいよ」


「半分だと? 失礼な! 少なくとも七割は真実だ!」


二人のやり取りに、シェルヴィナは小さく笑った。


するとバルドレイは、驚いたように彼女を見つめた。


「おお……笑った」


「……はい?」


「君は、笑うと実に美しいね」


その言葉は、シェルヴィナの胸の奥に静かに染み込んだ。


容姿を褒められたことなら、何度もある。


しかし、自分が笑ったことを喜んでもらえたのは、いつ以来だろう。


気づけば彼女は、久しぶりに心から微笑んでいた。


◇ ◇ ◇


ネムレシアでの暮らしは、夢のようだった。


朝になると三つの月が花びらへ変わり、空から降ってくる。


昼には銀色の雨が降り、その雨粒を飲むと忘れていた楽しい記憶が蘇った。


夜になると庭園の花々が歌い始め、貴族たちは仮面舞踏会を開いた。


シェルヴィナは、そこで一人の女性と出会った。


「あなたが新しいお客様ね。まあ、なんて可愛らしい方でしょう」


柔らかな声とともに現れたのは、淡い金色の髪を腰まで伸ばした、美しい貴婦人だった。


年齢は二十代後半ほど。真珠を縫い込んだ薄桃色のドレスをまとい、穏やかな紫色の瞳を持つ。


彼女の名はルシェリア・ヴァンディス。


かつて公爵家の令嬢だったという女性で、現在はネムレシアの庭園を管理する花守を務めている。


彼女の特徴は、いつでも優しく微笑んでいることだった。


たとえ誰かが転んでも、花が枯れても、空から血のように赤い雨が降っても、その笑みが崩れることはない。


「シェルヴィナ様。こちらへいらして。あなたに似合う花を見つけたの」


ルシェリアは彼女の髪に、小さな白い薔薇を飾った。


「まあ……本当に素敵。あなたはきっと、誰からも愛される方になるわ」


「そんな……わたしなんて」


「その言葉は、ここでは禁止よ」


ルシェリアは人差し指を唇へ当てた。


「自分を嫌う言葉を使ってはいけないの。あなたはあなた自身を大切にしていいのよ」


シェルヴィナは俯いた。


「……でも、わたしは何もできません」


「何もできなくてもいいの。あなたがここにいるだけで、わたくしたちは嬉しいのだから」


ルシェリアは彼女を抱き締めた。


温かな腕だった。


花の香りがした。


シェルヴィナは、母親に抱き締められた記憶をほとんど持っていなかった。


実母は彼女が幼い頃に亡くなり、義母は一度もそのようなことをしてくれなかったからだ。


「……ありがとうございます」


声が震えた。


ルシェリアは何も言わず、ただ優しく背中を撫で続けた。


その日、シェルヴィナは初めて、誰かの腕の中で泣いた。


◇ ◇ ◇


それから七日が過ぎた。


少なくとも、シェルヴィナはそう思っていた。


ネムレシアでは時計が役に立たず、日付を数えようとすると、決まって一日分の記憶が曖昧になった。


それでも彼女は気にしなかった。


毎日が楽しかったからだ。


バルドレイの茶会では、好きなだけ菓子を食べた。


ネヴィルクとは庭園の迷路を歩き、誰も知らない秘密の泉を見つけた。


ルシェリアからは花の育て方を教わり、初めて自分の手で一輪の薔薇を咲かせた。


そして、八日目の朝。


フィルゼクが再び姿を現した。


「シェルヴィナお嬢様。女王陛下がお会いになりたいそうです」


「女王陛下が……わたしに?」


「ええ。あなたの評判をお聞きになり、大変お喜びでございます」


フィルゼクは微笑んだ。


「今夜、王宮で舞踏会が開かれます。そこで陛下は、あなたに一つの贈り物をなさるそうです」


「贈り物?」


「あなたが、この国で永遠に幸福に暮らすための贈り物です」


シェルヴィナの胸が高鳴った。


永遠に、ここで暮らせる。


もう義母の顔色を窺わなくていい。


もう誰かの機嫌を損ねないよう、言葉を選ばなくていい。


自分の好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言える。


そんな日々が、ずっと続くのだ。


「……わたし、行きたいです」


その言葉を聞いた瞬間、フィルゼクの赤い瞳が細くなった。


「承知いたしました」


彼は深々と一礼した。


「それでは今夜、あなたを女王陛下のもとへお連れいたしましょう」


◇ ◇ ◇


舞踏会の夜。


シェルヴィナは、ルシェリアが用意してくれた純白のドレスに袖を通していた。


胸元には銀糸で蝶の刺繍が施され、裾には小さな真珠が無数に縫い込まれている。


鏡の前に立つと、そこには見知らぬほど美しい少女が映っていた。


「……これが、わたし?」


「もちろんよ」


ルシェリアが背後から微笑む。


「あなたは最初から美しかったの。ただ、誰もそれを教えてくれなかっただけ」


シェルヴィナは頬を赤らめた。


「ありがとうございます、ルシェリア様」


「礼なんていらないわ。それより、一つだけ約束してちょうだい」


「約束、ですか?」


「女王陛下に何を尋ねられても、必ず自分の心に従って答えること。誰かに言われたからではなく、あなた自身が望む答えを選ぶのよ」


ルシェリアは彼女の肩に手を置いた。


「それが、ここで幸福になるための唯一の決まりなの」


「……はい」


シェルヴィナは頷いた。


ルシェリアは満足そうに微笑み、彼女の髪へ最後の白薔薇を飾った。


そのとき、鏡の端に奇妙なものが映った。


ルシェリアの背後に立つ、もう一人の女性。


首から上がなく、血に濡れたドレスをまとった女だった。


「……っ!」


シェルヴィナが振り返る。


しかし、そこには誰もいなかった。


「どうしたの?」


「い、いえ……今、鏡に……」


もう一度鏡を見る。


そこにはルシェリアと自分だけが映っていた。


「緊張しているのね」


ルシェリアは優しく微笑んだ。


「大丈夫。今夜はきっと、あなたにとって人生で一番幸せな夜になるわ」


その言葉を信じ、シェルヴィナは部屋を出た。


鏡の中では、首のない女がまだ立っていた。


その手には、白い薔薇が握られていた。


◇ ◇ ◇


王宮は、逆さまに建っていた。


天井に庭園が広がり、床には星空が映っている。


階段は上へ進むほど地下へ降り、扉は開くたびに別の場所へ繋がった。


大広間には数百人の貴族たちが集まり、華やかな音楽に合わせて踊っていた。


誰もが美しかった。


誰もが幸福そうだった。


そして、誰もが首元に赤い宝石をつけていた。


「綺麗……」


シェルヴィナが呟くと、隣のネヴィルクが笑った。


「気に入った?」


「ええ。こんなに素敵な舞踏会、初めてです」


「それはよかった」


少年は彼女の手を取った。


「最後に一曲、踊ろうか」


「最後?」


「……ああ、今夜の最後って意味さ」


ネヴィルクは笑った。


しかし、その笑顔はどこか寂しげだった。


二人は大広間の中央へ進み、音楽に合わせて踊り始めた。


シェルヴィナは、こんなにも自然に体が動くことに驚いた。


足を踏み間違えても、ネヴィルクは笑って許してくれる。


手順を忘れても、優しく導いてくれる。


「ねえ、シェルヴィナ」


「はい?」


「君は、ここが好き?」


「……大好きです」


「本当に?」


「ええ。皆さんが優しくしてくださるから」


ネヴィルクは少しだけ目を伏せた。


「そう」


彼の黒い尾が、ゆっくりと揺れた。


「それなら、よかった」


音楽が止まった。


同時に、広間の奥にある巨大な扉が開いた。


そこから現れたのは、一人の女性だった。


黒紅色の長い髪を王冠の下に結い上げ、深紅のドレスに身を包んでいる。


年齢は三十代半ばほど。雪のように白い肌、鋭く整った目元、血のように赤い唇。


美しさと威厳を兼ね備えたその女性こそ、ネムレシアを統べる女王、アズヴェリナ・ネムレシアだった。


彼女の首には、ほかの貴族たちとは異なる、黒い宝石が埋め込まれていた。


「皆の者。今宵は新たな家族を迎える、喜ばしい夜である」


女王の声が響いた。


貴族たちは一斉に跪いた。


シェルヴィナも慌てて膝を折る。


「顔を上げなさい、シェルヴィナ・グラナヴェル」


女王は優しく微笑んだ。


「そなたのことは聞いている。随分と辛い日々を過ごしてきたそうだな」


「……はい」


「しかし、もう心配はいらぬ。ここには、そなたを傷つける者など一人もおらぬ」


女王は玉座から立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。


「そなたは、この国で幸福になりたいか?」


シェルヴィナは迷わなかった。


「はい。わたしは、ここで暮らしたいです」


女王の笑みが深まった。


「よろしい」


彼女は右手を差し出した。


掌には、小さな赤い宝石が載っていた。


「では、これを受け取りなさい」


シェルヴィナは宝石を見つめた。


美しい石だった。


しかし、中心には何かが閉じ込められている。


小さな、小さな人間の顔。


それが苦しそうに口を開いているように見えた。


「……これは?」


「幸福の証だ」


女王は微笑んだ。


「そなたが二度と不幸にならぬための、永遠の祝福である」


広間に拍手が起こった。


バルドレイが帽子を振り回している。


ルシェリアが涙を浮かべている。


フィルゼクが満足そうに時計を閉じた。


ネヴィルクだけが、何も言わずに立っていた。


シェルヴィナは宝石へ手を伸ばした。


その瞬間だった。


『受け取っては駄目』


耳元で、かすれた声がした。


シェルヴィナは動きを止めた。


『お願い。まだ、間に合う』


声は、宝石の中から聞こえていた。


◇ ◇ ◇


「……今、誰かが」


シェルヴィナが呟いた瞬間、広間の空気が変わった。


音楽が止まり、貴族たちの拍手が途切れる。


女王の笑みだけが、そのまま残っていた。


「どうした、シェルヴィナ」


「この宝石から……声が聞こえました」


沈黙。


長い沈黙だった。


やがて女王が、ゆっくりと首を傾げた。


「声?」


「はい。受け取ってはいけない、と……」


その瞬間、女王の笑顔が消えた。


「誰が、そのようなことを言った?」


声は穏やかだった。


しかし、広間の温度が急激に下がった。


シェルヴィナは震えながら答えた。


「……宝石の中の、誰かが」


女王はしばらく彼女を見つめていた。


やがて、静かに笑った。


「なるほど」


そして、指を鳴らした。


ぱちん。


乾いた音が響いた。


次の瞬間、広間の端に立っていた一人の貴族が、突然悲鳴を上げた。


「ぎゃあああああっ!」


男の首元に埋め込まれた赤い宝石が、内側から膨らみ始めたのだ。


皮膚が裂け、鮮血が白い襟を染める。


男は必死に宝石を引き剥がそうとしたが、指先が触れた瞬間、肉が焼けるような音がした。


「た、助けて……陛下……!」


女王は微笑んだ。


「静かに」


男の首が、音もなく落ちた。


血が床へ広がる。


しかし、周囲の貴族たちは誰一人として悲鳴を上げなかった。


むしろ、安堵したように微笑んでいる。


「……え?」


シェルヴィナは理解できなかった。


目の前で人が死んだ。


それなのに、誰も驚かない。


誰も悲しまない。


女王は落ちた首を一瞥し、つまらなそうに言った。


「幸福を疑う者は、幸福である資格を失う」


そして、シェルヴィナへ視線を戻した。


「さて、続きを始めようか」


彼女は再び宝石を差し出した。


「受け取りなさい」


シェルヴィナは後ずさった。


「い、嫌です……」


女王の眉が動いた。


「何?」


「嫌です! こんなもの、受け取りたくありません!」


広間がざわめいた。


女王はしばらく無言だった。


やがて、深く息を吐いた。


「……困った娘だ」


その声には、先ほどまでの優しさが一片も残っていなかった。


「せっかく、幸福にしてやろうというのに」


女王が手を上げる。


すると、広間の扉がすべて閉じた。


壁に掛けられた肖像画の人物たちが、一斉に目を開く。


天井から赤い薔薇が降り始めた。


花びらが床に触れるたび、そこから細い血管のようなものが伸びていく。


「フィルゼク」


「はい、陛下」


「この娘に、幸福の意味を教えてやれ」


フィルゼクは深々と頭を下げた。


「かしこまりました」


そして、懐中時計を開いた。


針が止まった。


◇ ◇ ◇


世界が静止した。


舞踏会の貴族たちは、踊る姿勢のまま動かない。


落ちかけた花びらも、空中で止まっている。


シェルヴィナだけが、呼吸を続けていた。


「……どういう、ことですか?」


彼女は震える声で尋ねた。


フィルゼクは微笑んだ。


「申し訳ございません、お嬢様。少々、説明が不足しておりました」


「説明……?」


「この国では、誰もが幸福でなければなりません。悲しみも、怒りも、恐怖も、絶望も、すべて女王陛下が取り除いてくださるのです」


フィルゼクは床に倒れた男の首を拾い上げた。


その顔は、まだ苦痛に歪んでいた。


「しかし、感情というものは消えてなくなるわけではございません。どこかへ移さなければならない」


彼は男の首をシェルヴィナへ向けた。


「この方は、百二十七年間、幸福に暮らしておられました」


「……百二十七年?」


「ええ。奥様を亡くした悲しみも、息子を失った絶望も、すべて女王陛下がお引き受けになりました。おかげで、この方は一度も涙を流すことなく、幸福な人生を送られたのです」


フィルゼクは首を床へ置いた。


「ですが、幸福を疑ってしまわれた。ですから、祝福を返していただいたのでございます」


「……そんな」


「ご安心ください。あなたも祝福を受ければ、二度と苦しむことはございません」


シェルヴィナは首を振った。


「嫌……そんなの、幸福なんかじゃ……」


「では、お嬢様」


フィルゼクは首を傾げた。


「あなたがこの国へ来てから、どれほど幸福だったか、お忘れになりましたか?」


その言葉に、シェルヴィナは息を詰まらせた。


楽しかった。


本当に、楽しかったのだ。


初めて自分の好みを認めてもらえた。


初めて誰かに抱き締めてもらえた。


初めて、自分の存在を喜んでもらえた。


「……あれも、全部嘘だったのですか?」


フィルゼクは静かに微笑んだ。


「いいえ」


その答えは意外だった。


「皆、心からあなたを愛しておりますよ」


「だったら、どうして……!」


「愛しているからこそ、幸福にして差し上げたいのでございます」


フィルゼクは一歩近づいた。


「あなたがどれほど傷ついても、どれほど泣いても、誰も救ってくれなかった。そんな世界へ戻りたいのですか?」


シェルヴィナは答えられなかった。


「ここでは、あなたは愛される。ここでは、あなたは必要とされる。ここでは、あなたは永遠に幸福でいられる」


青年は優しく囁いた。


「そのために、ほんの少しだけ、自由を手放していただくだけなのです」


シェルヴィナは唇を噛んだ。


「……嫌です」


フィルゼクの笑みが止まった。


「わたしは……自分で、悲しみたい」


声が震える。


それでも、彼女は続けた。


「辛いことも、苦しいことも、全部わたしのものです。誰かに勝手に取り上げられたくありません!」


フィルゼクは長い間、彼女を見つめていた。


やがて、静かに時計を閉じた。


「……残念です」


針が動き始める。


世界が再び動き出した。


「女王陛下。こちらのお嬢様は、幸福を拒絶なさいました」


女王は目を細めた。


「そうか」


そして、冷たく告げた。


「ならば、裁判を始めよう」


◇ ◇ ◇


王宮の床が割れた。


そこから現れたのは、巨大な円形の法廷だった。


壁には無数の鏡が並び、天井には逆さまの絞首台が吊るされている。


中央には被告席があり、その周囲を十三の裁判官席が囲んでいた。


シェルヴィナは見えない力に引きずられ、被告席へ立たされた。


両手首には、薔薇の蔓が絡みついている。


「これより、シェルヴィナ・グラナヴェルの裁判を始める」


女王が玉座へ腰掛けた。


「罪状は、幸福の拒絶。ならびに女王の慈悲に対する侮辱」


裁判官席に、十三人の貴族たちが現れた。


全員が白い仮面をつけていた。


「被告人に弁明の機会を与える」


女王が言った。


「何か申し開きはあるか?」


シェルヴィナは震えながら答えた。


「……わたしは、何も悪いことをしていません」


法廷に笑い声が響いた。


裁判官たちが、腹を抱えて笑っている。


「悪いことをしていない!」


「なんと傲慢な!」


「自分が無罪だと主張するとは!」


女王は微笑んだ。


「ここでは、罪があるから裁かれるのではない」


彼女は頬杖をついた。


「裁かれるから、罪が生まれるのだ」


シェルヴィナは愕然とした。


「そんな……そんなのおかしいです!」


「おかしい?」


女王の声が低くなった。


「では尋ねよう。そなたは、わらわの国を愛しているか?」


「……それは」


「この国の者たちを、愛しているか?」


シェルヴィナは、裁判官席の向こうに立つ三人を見つめた。


バルドレイ。


ルシェリア。


ネヴィルク。


皆、悲しそうな顔をしていた。


「……愛しています」


彼女は答えた。


「皆さんのことは、本当に大好きです」


女王は微笑んだ。


「ならば、証明してみせよ」


彼女が指を鳴らす。


すると、三人の首元に赤い宝石が浮かび上がった。


「……え?」


女王は楽しそうに告げた。


「この三人は、そなたを幸福にできなかった。その罪を負わねばならぬ」


バルドレイが膝をついた。


ルシェリアが胸元を押さえた。


ネヴィルクの顔から血の気が引いた。


「待ってください!」


シェルヴィナは叫んだ。


「この方たちは何も悪くありません! わたしが勝手に……!」


「ならば、そなたが罪を引き受けるか?」


女王は優しく尋ねた。


「そなたが祝福を受け入れるなら、三人を許してやろう」


シェルヴィナは息を呑んだ。


目の前で、バルドレイの首元が赤く光り始める。


「ぐっ……は、はは……これは……困った……」


彼は笑おうとしていた。


いつものように、陽気に。


しかし、その口元から血が流れた。


「お嬢……様……どうか……」


ルシェリアも苦しそうに膝をついた。


それでも、彼女は微笑んでいた。


「大丈夫……よ……あなたは……悪く……」


その言葉が終わる前に、彼女の首元で何かが裂けた。


シェルヴィナは悲鳴を上げた。


「やめて! お願いです! もうやめてください!」


女王は頬杖をついたまま、穏やかに言った。


「選びなさい」


彼女の掌に、赤い宝石が現れた。


「幸福を受け入れるか。それとも、愛する者たちを失うか」


シェルヴィナは震えた。


何も選べなかった少女に、初めて本当の選択が突きつけられていた。


しかし、それはあまりにも残酷だった。


「……わたしが、受け取れば……皆さんは、助かるのですか?」


「もちろんだ」


女王は微笑んだ。


「わらわは約束を破らぬ」


シェルヴィナは涙を流した。


そして、ゆっくりと手を伸ばした。


「……わかりました」


ネヴィルクが顔を上げた。


「駄目だ!」


少年の声が響いた。


「シェルヴィナ! 受け取るな!」


女王の眉が動いた。


「黙れ」


ネヴィルクの体が床へ叩きつけられた。


しかし、彼は必死に顔を上げた。


「君は……君は、まだ知らないんだ!」


「ネヴィルク様……?」


「その宝石を受け取ったら……君は……!」


彼の首元が赤く光った。


次の瞬間、黒い尾が根元から千切れ、床へ落ちた。


ネヴィルクは苦痛に顔を歪めながら、それでも叫んだ。


「君が……次の……!」


声が途切れた。


女王が指を鳴らしたからだ。


少年の首が、不自然な角度に折れた。


その体が床へ崩れ落ちる。


シェルヴィナは、声も出せなかった。


女王は微笑んだ。


「さあ、選びなさい」


シェルヴィナは、涙で滲む視界の中、赤い宝石を見つめた。


そして。


「……受け取ります」


彼女は、自分の意思で幸福を選んだ。


◇ ◇ ◇


宝石が胸元へ触れた瞬間、激痛が走った。


「あ……あああああっ!」


皮膚の下を何かが這い回る。


骨の隙間へ細い根が入り込み、心臓を締めつける。


血管が赤く浮かび上がり、喉の奥から熱いものが込み上げた。


シェルヴィナは床へ倒れた。


視界が赤く染まる。


女王の声が聞こえた。


「よくぞ選んだ」


優しい声だった。


「これで、そなたは永遠に幸福になれる」


シェルヴィナは、薄れゆく意識の中で三人を探した。


バルドレイは倒れていた。


ルシェリアも動かなかった。


ネヴィルクは、血に濡れた床へ横たわっていた。


「……約束……」


かすれた声が漏れる。


「助けて……くださるって……」


女王は微笑んだ。


「もちろんだ」


そして、三人へ手を向けた。


次の瞬間、三人の体がゆっくりと起き上がった。


バルドレイの首元の傷が塞がる。


ルシェリアの顔に血色が戻る。


ネヴィルクの折れた首が、音を立てて元へ戻った。


「……よかった」


シェルヴィナは安堵した。


涙が頬を伝う。


「皆さん……生きて……」


しかし、三人は彼女を見なかった。


ただ、女王へ向かって深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、陛下」


バルドレイが言った。


「幸福でございます」


ルシェリアが微笑んだ。


「心から、幸福でございます」


ネヴィルクも笑った。


「もう、何も怖くありません」


その声には、何の感情もなかった。


シェルヴィナは、ようやく気づいた。


三人は助かった。


けれど、彼らの中にあった何かが、完全に失われていた。


「……そんな」


女王は彼女の前へ跪いた。


「約束は守ったぞ、シェルヴィナ」


そして、優しく頬を撫でた。


「さて、最後の扉を開けようか」


◇ ◇ ◇


法廷の奥に、巨大な黒い扉が現れた。


扉には首のない女性の姿が刻まれている。


女王は立ち上がり、シェルヴィナの手を取った。


「そなたは、わらわの国を愛してくれた」


女王は微笑んだ。


「そなたは、愛する者たちのために自分の幸福を差し出した」


黒い扉が開く。


その向こうには、巨大な地下室が広がっていた。


壁一面に、赤い宝石が埋め込まれている。


数千。


いや、数万。


それぞれの宝石の中には、小さな人間の顔が閉じ込められていた。


泣いている顔。


怒っている顔。


絶望している顔。


そして、助けを求める顔。


「……これは……」


シェルヴィナは震えた。


女王は穏やかに答えた。


「幸福の裏側だ」


地下室の中央には、巨大な玉座があった。


その玉座には、一人の女性が座っていた。


首がなかった。


首から下だけの体が、深紅のドレスをまとっている。


その胸元には、黒い宝石が埋め込まれていた。


女王は、その体へ歩み寄った。


「長い間、ご苦労だった」


首のない体が、ゆっくりと動いた。


そして、女王へ向かって手を伸ばした。


女王は微笑み、そっとその手を握った。


「もう、休んでよい」


次の瞬間、首のない体が崩れ落ちた。


衣服の中から、黒く乾いた骨が零れ落ちる。


シェルヴィナは悲鳴を上げた。


「な、何を……!」


女王は振り返った。


その顔には、深い安堵が浮かんでいた。


「ようやく、終わる」


彼女は静かに言った。


「わらわも、長かった」


その瞬間、女王の首元に埋め込まれた黒い宝石が砕けた。


細かな破片が床へ散る。


女王は苦しそうに胸を押さえた。


しかし、その顔には笑みが浮かんでいた。


「……やっと、死ねる」


シェルヴィナは目を見開いた。


「……え?」


女王は、ゆっくりと彼女へ歩み寄った。


「この国は、幸福を求める者たちによって生まれた」


声が震えていた。


「誰もが悲しみを嫌い、苦しみを拒み、絶望から逃れようとした。だから、わらわはすべてを引き受けた」


女王の頬に、一筋の涙が流れた。


「数万の悲しみを。数万の怒りを。数万の絶望を」


彼女は笑った。


「しかし、それを抱え続けるには、一人の人間では足りなかった」


シェルヴィナは後ずさった。


女王の視線が、彼女の胸元へ向けられる。


「だから、次の器が必要だった」


赤い宝石が脈打った。


シェルヴィナの心臓が、強く跳ねた。


「……まさか」


女王は微笑んだ。


「そなたは、実に優しい娘だった」


その声は、心からの感謝に満ちていた。


「自分の幸福よりも、他人の幸福を選んだ。これほど相応しい器は、ほかにない」


シェルヴィナは首を振った。


「嫌……嫌です……!」


女王は優しく手を伸ばした。


「安心せよ。最初は少し、痛むだけだ」


その手が、シェルヴィナの額へ触れた。


瞬間。


世界が、壊れた。


◇ ◇ ◇


悲鳴が流れ込んできた。


数え切れないほどの悲鳴だった。


母を失った子供の悲しみ。


愛する者に裏切られた男の怒り。


戦場で死にゆく兵士の恐怖。


飢えたまま息絶えた少女の絶望。


それらすべてが、一度にシェルヴィナの心へ流れ込んできた。


「ああああああああああっ!」


彼女は床を転げ回った。


頭の中で無数の声が叫んでいる。


『助けて』


『どうして』


『嫌だ』


『死にたくない』


『許さない』


『苦しい』


『苦しい』


『苦しい』


シェルヴィナは耳を塞いだ。


しかし、声は頭の内側から響いていた。


目を閉じても、知らない人々の死に顔が見えた。


口を閉じても、他人の悲鳴が喉から溢れた。


女王は静かに見下ろしていた。


「……これが、幸福の代償だ」


シェルヴィナは必死に手を伸ばした。


「たす……けて……」


女王は、その手を握った。


「すまぬな」


そして、優しく微笑んだ。


「だが、そなたが選んだのだ」


その瞬間、女王の体が光に包まれた。


黒紅色の髪が白く染まり、深紅のドレスが灰となって崩れていく。


女王は最後に一度だけ、心から幸福そうに笑った。


「ありがとう」


そして、消えた。


あとには、一輪の白い薔薇だけが残された。


◇ ◇ ◇


どれほどの時間が過ぎたのか、わからなかった。


シェルヴィナは玉座に座っていた。


いや、座らされていた。


両手足は黒い薔薇の蔓に絡め取られ、胸元には巨大な赤い宝石が埋め込まれている。


体を動かそうとしても、指先一つ動かない。


声を出そうとしても、喉からは他人の悲鳴しか漏れなかった。


そして、何より恐ろしかったのは。


自分の感情が、まだ残っていることだった。


悲しい。


怖い。


苦しい。


帰りたい。


誰かに助けてほしい。


そう思うたび、胸元の宝石が強く脈打った。


そのたびに、遠く離れた庭園では、誰かが幸福そうに笑うのだ。


シェルヴィナは理解した。


この国の人々は、幸福を与えられているのではない。


不幸を、誰かに押しつけているのだ。


そして自分は、そのすべてを引き受けるための器になった。


永遠に。


終わりなく。


死ぬことさえ許されず。


ただ、他人の幸福のために苦しみ続ける。


そのとき、地下室の扉が開いた。


フィルゼクが現れた。


「ごきげんよう、女王陛下」


彼は深々と一礼した。


シェルヴィナは必死に目を動かした。


助けて。


お願い。


ここから出して。


しかし、フィルゼクは穏やかに微笑むだけだった。


「おかげさまで、ネムレシアは今日も平和でございます」


彼は懐中時計を開いた。


「さて、そろそろ新しい招待客をお迎えする時間です」


シェルヴィナの心臓が凍りついた。


新しい招待客。


また、誰かがここへ来る。


また、誰かが幸福を求めて迷い込む。


そして、いつか。


自分の代わりに、この玉座へ座らされる。


そのとき、自分は解放されるのだろうか。


そう考えた瞬間、胸の奥に小さな希望が生まれた。


そして、その希望を抱いた自分自身に、シェルヴィナは絶望した。


誰かが同じ苦しみを味わえば、自分は助かる。


誰かが犠牲になれば、自分は自由になれる。


そんなことを、ほんの一瞬でも願ってしまったのだ。


フィルゼクは、彼女の表情を見て微笑んだ。


「ご安心ください、陛下」


彼は優しく言った。


「次の方も、きっと素晴らしいお嬢様でございますよ」


そして、扉を閉じた。


地下室に、再び静寂が訪れた。


◇ ◇ ◇


それから、どれほどの月日が流れただろう。


ネムレシアでは、今日も幸福な茶会が開かれていた。


バルドレイは陽気に笑い、ルシェリアは優しく花を育て、ネヴィルクは庭園の木の上で新しい客を待っている。


誰も、シェルヴィナのことを覚えていなかった。


彼女と過ごした日々も。


彼女に向けた言葉も。


彼女のために流した涙も。


すべて、幸福のために取り除かれていた。


ただ一人、フィルゼクだけが覚えていた。


ある日、彼は新しい少女を連れて庭園へ現れた。


少女は十五歳ほどの、可愛らしい伯爵令嬢だった。


家族から冷遇され、婚約者にも見捨てられ、居場所を失っていた。


フィルゼクは彼女へ微笑んだ。


「ようこそ、ネムレシアへ」


少女は不安そうに尋ねた。


「ここでは……わたしも、幸せになれるのですか?」


「もちろんでございます」


フィルゼクは胸に手を当てた。


「この国では、誰もが幸福でいられます」


少女の顔に、希望の光が宿った。


「……本当に?」


「ええ」


フィルゼクは優しく微笑んだ。


「ただし、一つだけ決まりがございます」


彼は少女の手を取り、庭園の奥へ導いた。


「最後の扉だけは、決して開けてはなりません」


少女は不思議そうに首を傾げた。


「どうしてですか?」


フィルゼクは、少しだけ考える素振りを見せた。


そして、微笑んだ。


「その向こうには、この世で最も幸福な女王陛下がいらっしゃるからです」


少女は目を輝かせた。


「まあ! いつか、お会いしてみたいです!」


「ええ。きっと、その日が参りますよ」


フィルゼクは優雅に一礼した。


「あなたが、心から幸福を望むのであれば」


◇ ◇ ◇


地下室の玉座で、シェルヴィナはその会話を聞いていた。


声は、宝石を通して伝わってくる。


少女の希望に満ちた声。


フィルゼクの優しい声。


そして、遠くから聞こえる、幸福な人々の笑い声。


シェルヴィナは泣いていた。


涙はもう、流れなかった。


それでも、心の中では泣き続けていた。


誰かを助けたい。


あの少女を逃がしたい。


自分と同じ目に遭わせたくない。


そう願うたび、胸元の宝石が痛んだ。


そして、次の瞬間。


彼女の中に、別の感情が生まれた。


もし、あの少女が自分の代わりになってくれたら。


もし、あの少女が最後の扉を開けてくれたら。


もし、あの少女が幸福を選んでくれたら。


自分は、ようやく死ねるかもしれない。


シェルヴィナは、その考えを必死に振り払おうとした。


しかし、できなかった。


何千、何万もの悲しみを抱え続けるうちに、彼女の心は少しずつ壊れ始めていた。


やがて、玉座の上で。


シェルヴィナは、初めて微笑んだ。


それは、ネムレシアへ来てから最も醜い笑顔だった。


そして、最も幸福そうな笑顔でもあった。


『……早く、来て』


声にならない声が、地下室に響いた。


『お願い……早く……』


その願いに応えるように、胸元の宝石が赤く輝いた。


庭園では、新しい少女が笑っていた。


美しい花々に囲まれ、優しい人々に迎えられ、これから始まる幸福な日々を夢見ていた。


誰もが幸福だった。


誰もが笑っていた。


そして、地下室の女王だけが、次の犠牲者を待ち望んでいた。


かつて、自分を救ってほしいと願ったのと同じ強さで。


今度は、誰かを犠牲にしたいと願いながら。


◇ ◇ ◇


ネムレシアには、古くから一つの言い伝えがある。


『この国では、誰もが幸福になれる』


それは、決して嘘ではない。


ただし。


幸福になった者が、幸福であり続けられるとは限らない。


そして、誰かの幸福を願うことが、必ずしも善良な行いであるとは限らない。


今日も庭園には、美しい薔薇が咲いている。


白い薔薇。


赤い薔薇。


そして、誰かの血で染められた、黒い薔薇。


その花々の奥で、首のない女王が笑っている。


次に幸福を選ぶのは、誰だろう。


【完】


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