あわてんぼう悪役令嬢、婚約破棄される前に王宮へ来る
「殿下!」
朝一番。
王太子ヒュー・ウェストレイの執務室の扉が、勢いよく開いた。
正確には、開けたのは侍従である。
その直前まで扉の向こうから、
「ヒュー殿下に至急お目通りを!」
「ですがフェアファクス公爵令嬢、殿下はまだ――」
「国家の一大事ですわ!」
という押し問答が聞こえていたので、ヒューも何事かと身構えていた。
入ってきたのは、彼の婚約者。
フェアファクス公爵令嬢ロザムンドである。
薄桃色のドレス。
艶やかに整えられた栗色の髪。
身なりだけ見れば、朝から一分の隙もない。
ただし、その後ろに立つ侍女ドリーは、死んだ魚のような目をしていた。
「ロザムンド?」
ヒューは書類から顔を上げた。
「どうしたんだ、こんな朝早くに」
「すべて承知しておりますわ!」
「何を?」
「婚約破棄です!」
ヒューは瞬きをした。
「……誰の?」
「わたくしと殿下のですわ!」
「しないよ?」
即答だった。
今度はロザムンドが瞬きをした。
「……はい?」
「婚約破棄。しない」
「ですが!」
「しない」
「まだ何も申し上げておりませんわ!」
「婚約破棄の話だろう?」
「そうですけれど!」
ヒューは机の上の書類を置いた。
ロザムンドは朝から妙に勢いがある。
いつもなら姿勢よく歩く彼女が、今日はほとんど駆け込んできた。頬も少し赤い。
「とりあえず座ったら?」
「いいえ!」
「どうして」
「婚約破棄を言い渡される者が、のんびり座って紅茶などいただいていてはいけませんわ!」
「誰が決めたの、それ」
「常識です!」
「初めて聞いた」
ロザムンドは、ぐっと胸を張った。
「殿下。お気遣いは不要ですわ。わたくしはフェアファクス公爵家の娘です。どのような処分であろうと、取り乱すことなく受け入れる覚悟はできております」
「処分?」
「国外追放!」
「しない」
「修道院!」
「行かせない」
「辺境への蟄居!」
「君、何種類想定してきたの?」
ロザムンドは真剣そのものだった。
冗談を言っている顔ではない。
「ロザムンド」
「はい」
「僕が君との婚約を破棄するって、誰から聞いた?」
「聞いてはおりませんわ」
「……じゃあ、なんで来たの?」
「察しましたの!」
胸を張る。
ヒューは嫌な予感がした。
「何を?」
「すべてです!」
「だから何を」
「最近、殿下はポリー・ケイン男爵令嬢と親しくなさいましたでしょう!」
「ああ」
ヒューは頷いた。
やはりそこか。
ポリー・ケイン。
王立工房に出入りするケイン男爵家の娘で、最近、何度かヒューのもとを訪れている。
ロザムンドの目が鋭くなった。
「ほら!」
「何が?」
「お認めになりましたわ!」
「会っていたのは事実だから」
「二人きりで!」
「侍従が三人いたよ」
「頻繁に!」
「三回」
「三回も!」
「三回しか、だと思うけど」
ロザムンドは一歩踏み出した。
「しかも先日は、殿下自らポリー嬢へお声を掛けておられました!」
「ああ」
「彼女は笑っておりました!」
「そうだね」
「殿下も!」
「僕も笑うことくらいあるよ」
「わたくし以外の女性に!」
ヒューは少しだけ目を細めた。
「ロザムンド。それ、嫉妬してる?」
ロザムンドが止まった。
「…………しておりませんわ」
「今の間は何?」
「しておりません! わたくしはただ、状況を客観的に分析しているだけです!」
「うん」
「婚約者である公爵令嬢。そこへ現れた、明るく愛らしい男爵令嬢。そして彼女へ心惹かれてゆく王太子!」
「僕、心惹かれてたの?」
「そういうものですわ!」
「どういうものなの」
ヒューは横目でドリーを見た。
ドリーは目を伏せた。
助けてくれる気はないらしい。
あるいは、もう十分助けようとした後なのかもしれない。
「それだけではございません」
ロザムンドは続ける。
「三日前、わたくしが王宮へ参りました際、ポリー嬢は殿下のお部屋から出ていらっしゃいました」
「ああ」
「手には小箱を持って!」
「ああ」
「その翌日、殿下はわたくしに『近いうちに大事な話がある』とおっしゃった!」
「言った」
「さらに昨日、アガサ王妃陛下から『今後について相談したいことがあります』とのお手紙まで!」
「母上も送ったね」
ロザムンドは両手を広げた。
「揃っておりますわ!」
「何が?」
「婚約破棄の前兆が!」
ヒューはしばらく黙った。
それから、もう一度ドリーを見る。
「……いつからこうなの?」
「昨夜でございます」
ドリーが初めて口を開いた。
声に疲労が滲んでいる。
「お嬢様は王妃陛下のお手紙を受け取られてから、急にすべてを理解したとおっしゃいまして」
「理解してないよね?」
「申し上げました」
「何回くらい?」
「十二回ほど」
「ご苦労さま」
「恐縮です」
「ドリー!」
ロザムンドが振り返る。
「あなたはどちらの味方なの!」
「お嬢様の味方ですので、昨夜から止めております」
もっともだった。
ヒューは椅子から立ち上がった。
「ロザムンド」
「はい」
「こっちへ」
「何をなさるおつもりです?」
「座らせる」
「結構ですわ!」
「いいから」
「わたくしは今から断罪されるのです!」
「されない」
「では婚約破棄を!」
「しない」
「ですがポリー嬢が!」
「その話もするから」
ヒューはロザムンドの肩を押し、応接用の長椅子へ座らせた。
抵抗はされた。
だが彼女は昨夜ほとんど寝ていないらしく、いつもの勢いがない。
「ドリー。ロザムンド、朝食は?」
「お召し上がりになっておりません」
ヒューは婚約者を見る。
「どうして」
「婚約破棄される朝に、悠長に朝食など食べていられませんわ」
「食べられるよ」
「喉を通りませんもの!」
「昨日の夕食は?」
「ほとんどお召し上がりになっておりません」
「寝たのは?」
「午前二時過ぎでございます」
「起きたのは?」
「四時です」
「二時間?」
「二時間弱でございます」
ヒューはため息をついた。
「ロザムンド」
「何ですの」
「君、今ものすごく判断力が落ちてると思う」
「失礼ですわ!」
「まず食べよう」
「婚約破棄の話が先です!」
「しないって何回言えばいいの」
そこへ侍従が紅茶と軽食を運んできた。
ヒューは小さなパンを一つ取り、ロザムンドへ差し出す。
「ほら」
「……結構です」
「食べて」
「いりませんわ」
「ロザムンド」
「…………」
「僕からのお願い」
ロザムンドは渋々受け取った。
一口。
二口。
明らかに空腹だったらしく、三口目から早くなった。
ヒューは何も言わず、二つ目も渡した。
ロザムンドは少し迷ってから受け取る。
紅茶も飲ませる。
ようやく頬の赤みが落ち着いてきたところで、ヒューは口を開いた。
「じゃあ、ポリー嬢のことから」
「……はい」
「彼女と会っていたのは、君の誕生日の贈り物を相談するためだよ」
ロザムンドが止まった。
「……はい?」
ヒューは続ける。
「ケイン男爵家が出資している宝飾工房に、腕のいい意匠師がいるんだ。ポリー嬢がその人と親しくてね」
「…………」
「君に似合う髪飾りを作ってもらってた」
ロザムンドは手元のパンを一口かじった。
「……では、三日前にポリー嬢がお持ちだった小箱は」
「それ」
また一口。
「ですが!」
顔を上げる。
「殿下は、その翌日に『近いうちに大事な話がある』と!」
「言ったね」
「それは!」
ヒューは首を傾けた。
「結婚後、どこに住みたい?」
ロザムンドの口が止まった。
「……はい?」
「東宮の改装案が二つ上がってきてる。君にも見てもらいたかったんだ」
パンを噛む動きまで止まった。
「……結婚後」
「うん」
「わたくしと?」
「他に誰がいるの」
沈黙。
ロザムンドは紅茶を一口飲んだ。
それでも、まだ終わらなかった。
「王妃陛下のお手紙は!」
最後の砦らしい。
「『今後について相談したいことがある』と、確かに!」
ヒューは少し考える。
「それは僕も詳しく聞いてない」
「ほら!」
ロザムンドの目に、一瞬だけ光が戻った。
「やはり何か――」
「でも母上が君との今後について話すなら、たぶん結婚式か王太子妃教育のことだと思うよ」
「…………」
光が消えた。
「ロザムンド?」
「少々、お待ちくださいませ」
「うん」
「整理いたします」
「どうぞ」
ロザムンドは両手で額を押さえた。
そのまま、しばらく動かない。
やがて、小さな声がした。
「……婚約破棄では」
「ない」
「断罪も」
「ない」
「国外追放」
「ない」
「修道院」
「行かせない」
「辺境」
「まだあるの?」
ロザムンドは顔を上げた。
「では、わたくし……」
「うん」
「朝四時から支度をして」
「うん」
「ドリーを叩き起こして」
「うん」
「公爵家の馬車を飛ばして」
「うん」
「王宮の門で婚約破棄を受けに来たと名乗り」
「そこは初耳なんだけど」
ドリーが静かに目を逸らした。
「そして、殿下の執務室へ押しかけた」
「そうだね」
沈黙。
ロザムンドの耳が、みるみる赤くなった。
「帰りますわ」
立ち上がる。
ヒューは袖を掴んだ。
「待って」
「帰らせてくださいませ!」
「まだ話が終わってない」
「わたくしの人生は終わりましたわ!」
「終わってないよ。むしろ結婚するところだよ」
「今それを言わないでくださいませ!」
ちょうどその時だった。
廊下から足音がする。
扉が開いた。
「まあ、ロザムンド。もう来ていたの?」
入ってきたのは王妃アガサだった。
ロザムンドが固まる。
アガサはそんな彼女に気づかず、にこやかに近づいてきた。
「ちょうどよかったわ。昨日送った手紙の件なのだけれど」
「…………」
「来月から結婚式の準備を本格的に始めたいと思っているの」
ロザムンドは動かない。
「それと、ドレスの仮縫いの日程も決めなくてはいけないでしょう?」
ヒューはそっと顔を背けた。
最後の砦まで、完全に崩れた。
「ヒューったら、あなたの誕生日の贈り物ばかり気にして、肝心なことを後回しにするんですもの」
「母上」
「何?」
「それ以上は」
「なぜ?」
ヒューはロザムンドを見る。
ロザムンドは両手で顔を覆っていた。
「……ロザムンド?」
アガサが首を傾げる。
「どうしたの?」
ヒューが答えた。
「母上。彼女は今朝、婚約破棄されると思って王宮へ来たそうです」
「まあ」
王妃は目を丸くした。
「誰と誰が?」
ヒューは吹き出しそうになった。
同じことを聞く人がいた。
ロザムンドが顔を覆ったまま言う。
「……わたくしと、ヒュー殿下です」
「どうして?」
「…………」
「ヒュー。あなた何かしたの?」
「してません」
「そう」
王妃は少し考えた。
それからロザムンドの隣へ座り、その肩を優しく撫でる。
「心配してしまったのね」
「…………はい」
「でも大丈夫よ」
ロザムンドが、そっと顔を上げる。
アガサは微笑んだ。
「この子、あなたのことが大好きだから」
「母上!」
「何を今さら照れているの」
ヒューの耳まで赤くなった。
今度はロザムンドが彼を見る。
ヒューは諦めて、ため息をついた。
「……好きだよ」
「…………」
「だから婚約破棄なんてしない」
「…………」
「僕は君と結婚するつもりでいる」
ロザムンドの目が少し潤んだ。
「……わたくしも」
「うん」
「婚約破棄は、嫌ですわ」
「知ってる」
「なぜですの!」
「嫌じゃなかったら、朝四時からこんなに慌てないだろう?」
ロザムンドは再び顔を覆った。
ヒューは笑った。
王妃も笑った。
ドリーだけは笑わなかった。
たぶん疲れ切っていたのだろう。
しばらくして。
ロザムンドはようやく落ち着き、三つ目のパンを食べ終えた。
紅茶を一口飲んでから、ヒューへ向き直る。
「殿下」
「うん?」
「婚約破棄の件なのですが」
「まだ続くの?」
ロザムンドは姿勢を正した。
そして、公爵令嬢らしく優雅に告げる。
「取り下げますわ」
「君から申し出たことになってたの?」
「細かいことはよろしいのです!」
「細かくないと思うけどなあ」
「では、結婚式の話をいたしましょう!」
立ち直りも早かった。
ヒューはそんな婚約者を見ながら、笑う。
「その前に」
「何ですの?」
「今夜はちゃんと寝て」
「…………」
「朝食も食べて」
「…………はい」
「それから、次に何か不安になったら」
ヒューはロザムンドの手を取った。
「婚約破棄される前に王宮へ来るんじゃなくて、普通に僕に聞いて」
ロザムンドはしばらく黙った。
やがて、小さく頷く。
「……約束いたします」
三か月後。
結婚式を翌日に控えた朝。
王太子ヒュー・ウェストレイの執務室の扉が、勢いよく開いた。
「殿下!」
ヒューは書類から顔を上げた。
見覚えがありすぎる光景だった。
「今度は何?」
ロザムンドは胸を張った。
「結婚式が中止になるという噂を耳にいたしました!」
ヒューは額を押さえた。
「ロザムンド」
「はい」
「約束」
「覚えておりますわ!」
即答だった。
「ですから今回は、結婚式が中止になると決めつけず、確認に参りましたの!」
ヒューは黙った。
ロザムンドは得意げだった。
「……進歩したね」
「でしょう!」
ものすごく嬉しそうである。
「中止にはならないよ」
「よかったですわ!」
それだけ聞くと、ロザムンドは満足げに踵を返した。
「では、失礼いたします!」
扉が閉まる。
ヒューは、しばらくその扉を見つめていた。
「…………」
確認するようにはなった。
決めつけなくもなった。
それは確かに進歩である。
ただし。
朝一番に王宮へ飛び込んでくるところは、何ひとつ変わっていなかった。
婚約破棄される前に、婚約破棄されに行く。
そんな、ちょっと気の早すぎる悪役令嬢です。
本人はものすごく真剣なのですが、周りからすると「まず落ち着け」としか言いようがありません。
でもまあ、最後にはちゃんと、
「決めつける前に確認する」
ことを覚えました。
えらい。
王宮へ朝一番で飛び込んでくるところは、何も直ってませんが。
ヒュー殿下、たぶん結婚後もずっとこんな感じです。
頑張ってください。




