ここから始まる禁欲生活
放課後の保健室には、生徒も保険医の姿すら無かった。
しーんと静まりかえった白い空間。
ただ一人黙って眠る和磨を見守り続けて、はや10分。
……どうしよう兄ちゃん、大変なことになった!
いや、うん、あのね。
こんなときに言うのもなんだが、病に冒されて苦しむ和磨の色男っぷりがどうしようとかね、そういう話はもうとうの昔に終わっている。それからそんなこと考えた自分に嫌悪して、和磨をここまで追いつめたのが自分じゃないかという自意識過剰と詭弁の嵐も、今し方通り過ぎた。目が覚めたらちゃんと和磨と向き合って、謝って、それからこれからは仲良くしてと言う決意もついた。
けれど、まだ終わっちゃいなかったのだ。
あたしが、目下問題にすべき事実はもう一つ……。
「なんで、また、このタイミングで……」
女に戻っちゃいますかね!?
声に出せそうもなかったので、心の中で絶叫しました。
ウワアア、と悲鳴に近い女声を出している時点でもはや意味がないのだけど。伸びすぎた髪もこぢんまりと主張する乳も、今は空気を読んでくれと言いたい。
……まさか、今戻るとは。
寝起きで女に戻ることは最近よくあったけど、こうして日中戻るのなんて、初めてのとき以来だ。
一体何が何のきっかけでこうなるのか、サッパリ分からん……!
前科もあることだし、今また見つかったら下手すると警察沙汰だぞ。二度も男子校に忍び込んだ変態女子の汚名をかぶることになるぞ。ガチだぞリアルあたしだぞ!
それだけは……!
逃げだそうかと思ったけど、今この状態の和磨を置いていくのはヤバイ。いろんな意味で。そうなると保険医を呼びにいってくれている九条くんが帰ってくるのを待つしかないが、鉢合わせだけは避けたい。いろんな意味で。
どうしたらいいんだ、宗二ー!
「……たなか?」
「っひぎい」
雨乞いの儀式のように天にかざしていた両手を咄嗟に頭にやる。逃げるか逃げ出すか飛び出すか、いろいろと混乱したあげく握った後ろ髪を上着にしまいこんだ。
そのまま驚愕にひきつらせた顔を動かす。
「うっ」
熱で朦朧とした和磨と目が合った。
お、おき、おき、起きとるがな!
「ここ、どこだ……?」
涙目で探るように視線をさまよわせる和磨。なんですかその獰猛な肉食獣のようなナリしといて、森に迷い込んだウサギみたいな仕草は。
わしーんと心臓を掴まれないように、ぐうっと喉を締める。
とにかく!
あたしは視界に入らないように、まるでそこらへんに落ちている石のごとく小さく体を縮めた。コホンと咳払いをして、怖々と口を開く。
「ほ、ほけんしつ」
ちょっと今喉が乾燥しててー、みたいな雰囲気をかもしつつ意識して低めの声を出してみた。
「保健室? どうして、んなとこに……」
ば、バレてない?
和磨の声も小さくとぎれとぎれで、起きてるとはいえ半ば夢うつつの状態のようだった。何が起きたのかもはっきり覚えていない様子。
これは、助かったのか?
とにかく、何でもないかのようにこの場を立ち去るべきだな……うん、無事を確認できたし、下手なことになる前に早いトコ退散……。
「って、待って、起きちゃダメだってば」
「……っつう」
「ほら、和磨、熱あるんだから! 安静にしてなきゃ、治らないよ」
「ねつ……? どうして、俺が」
「そんなの」
あたしが聞きたいというか、むしろあたしのせいじゃないかという自己嫌悪はすでに終わってるんですがね。外からのウイルスには強いに違いない和磨、絶対メンタル面でのダメージが原因なんだよ。
だって、倒れる前の和磨、あんなこと言ってたし。
「なんで、俺……」
「和磨、いいから今は、寝て」
て……?
無理矢理起きようとするもんだから、その肩を押さえ込んでまたベッドに戻そうとしていたんだけど、案外近い距離で和磨と目が合ってしまった。
その、和磨の顔と言ったら。
「う、あ? お、俺、なんか」
「な、なに」
なにその顔。
「なんか……変なこと、言ったか?」
「変なこと……」
「バカ、思い出すな!」
って、そっちが聞いてきたクセに!
反論したかったけど、和磨はこれでもかってくらい目を見開いて、その顔面をカワイソウなくらい真っ赤に染めあげていた。熱のせいかと疑うのも不自然だと分かるくらいのその顔を指摘しようとさらに近づくと、病人とは思えない程の力で突っぱねられた。
「いたーっ!」
「あれは、げんじつか? 体の感触がリアルに思い出せ……って、何を思い出すって……!? お、俺は何をしでかして……!」
「か、和磨落ち着いてよ」
「これはゆめか? 心なしか田中が女だ!」
確実に女だよ。
って、和磨がえらい混乱していらっしゃる。さっきまでの朦朧としていた姿がウソのようで、今なら校庭を何周でも走り込みできそうなほどの元気だ。
しかしこれを夢と思っているようならなにより……そのまま混乱トリップしていてくれ。
地面に尻餅をついたまま和磨を見上げると、見んな!と言われ、狭いベッドの上にも関わらず激しく後ずさりをされた。
何やってんだろ。
「でも、なんか、焦ってる和磨って、かわいい」
「か! ……バカ! 頭がぐちゃぐちゃでまとまらねえんだっての……!」
「熱のせいだよ、四十度いきそうなくらいあるんだからね、あんまり動くと大変だよ」
「夢ならさめる!」
現実だからあの世逝きだ。
まさか和磨がこんな取り乱すなんて思わなかったから、すごく、なんというか、新鮮というか、おもしろいというか。
それに。
「怒ってないのが、すごく嬉しい」
おそらく緩みまくっているであろう顔でホッとため息をつくように言うと、ゴンッと音がした。どうやら和磨が後頭部を壁に打ち付けたようである。声にならない悲鳴を上げながら、うずくまっている。
「ぷっ、ははは、和磨らしくないー」
「……怒るぞっ」
「怖くないよ、真っ赤だから」
「うるせえっ」
なんだ、本当に怖くない。和磨が怒ったって、怖くない。
何度怒鳴られたって、あたしはちゃんと笑える。和磨が怖くない顔をしているからってのもあると思うけど、それ以上に今のあたしの気持ちもきっとあるからだと思う。
和磨と真っ正面から、向き合える。
嬉しさだったり、おかしさだったり、そうやって笑っていると、イライラとかモヤモヤとかなんかいろんなもんがスポーンって体中から抜けていった。
「はは、良かった、和磨と話せて。……和磨の言ってくれたことは、あたしと同じ。あたしだって、嫌われたくないんだよ」
「……なんだよもう」
「和磨と、仲直りしたい。もっともっと、仲良くしたいよ」
今の素直な気持ちを正直に言うと、和磨は頭を打ったときより深くふかーく沈んでしまった。
なんで?
「それ言うか……俺が、どんな気持ちで」
「あ……」
どんな気持ちで?
和磨が前にも同じようなことを言ったのを一緒に思い出した。まさにケンカしたときだ。その先は語られなくて、あたしはそんなの分からないって、イライラしたんだ。
和磨は、どんな気持ちで。
両手で頭を抱え込む和磨の顔は見えないけど、その隙間からこぼれる一言を取り落とさないように、あたしはベッドに手を付いて体を前に乗り出した。
震えながら唇が開かれた。
「どんな気持ちで、おまえのこと見てると思ってんだよ……」
泣きそうな声。必死に我慢してたのを、勝負に負けて口に出してしまったみたいだ。
「認めたくなかったんだって……もう、ここまできたら、腹くくるしかねーよ……」
「なに、が?」
「なんでこんなことになるんだよ、最悪だ」
……さいあく。
それも確かに聞いたはず。でも、どこで?
どこで?
夢、で?
どうして、最悪なんだっけ。