禁欲生活の被害者と被害者の末路
「……っうう、んあ」
自分の口から漏れる甲高いうめき声が、嫌でも教室内に響く。
「あともうちょっと」
その柳井くんの言葉は文字通り、もうちょっと、で間違いなかったらしく、その日の放課後、まさかの事態が起きたのだ。
本当は、柳井くんに手を引かれ学校を出た時点で今日一日は終わっているはずだった。寮で柳井くんと別れ、それから一人で家まで帰り、あとは夜ご飯を食べて風呂に入って寝るだけ。
なにはともかく、それで一日は終わっているはずだったのだ。
……財布さえ、なくしていなければ。
「いっそ、諦めてしまえたら楽なのに」
自分の教室のドアに背中を張り付かせて、ぼそりと一人ごちる。走って戻ってきたためか荒れた息を落ち着けてから、深く息をつき、もう一度決意したあとで中をのぞき込むも、もちろん状況が変わっていようはずもない。
放課後になってから随分と時間がたち、外からの光は頼りない。かといって教室内は電気がついているわけでもなく薄暗いまま。
そこに浮かび上がるのは、一人きりでゆったりと椅子に座っている男子生徒の後ろ姿だ。
眉根をひそめ果てしなく情けないツラをさらしながら顔を戻す。人通りのない廊下ではあたしがどんな表情をしようが構わない。それこそ、声まで出せるならうええだとかげええだとか醜い奇声を発していたことだろう。
つーかそれより、そんなことより。
なんだってこんなときに、遭遇しなくちゃいけないんだろう。あの後ろ姿は見まごうことなく今一番会いたくない……というか、会えない人物に違いなく。
どうしようもなく立ちつくす。
問題は、昼休みデスティニーさんに気を取られて昼飯を買わず食わずで外を逃げ回ったことにあるのだ。そのときまでは財布を握りしめていたことを覚えている。けれど、帰り際コンビニに寄ったときにその財布が存在を無くしていたことで、いつ行方を見失ったのかということに初めて気付いた。
いっそ見捨てることができない小心者で貧乏性な自分が憎い。
一応あたしが通っただろう外のルートは探せるだけ探してみたものの、痕跡は少しも残されちゃいなかった。あとは教室のあたしの机の周辺だけなのだ。なくてもいいからせめて、あるかどうかだけでの確認だけでもしたかった。
今、教室内に飛び込めば二人きり。
……和磨と二人きりだ。
約束があるから。本当は話しちゃいけない。だからといってこれみよがしに無視するなんてそんなこと、罪悪感で心がむちゃくちゃ痛い。よく考えたら、この非情な約束ができてから和磨と二人きりになったことなかった。柳井くんや、違う誰かしら人がいたから話さないでいられる空気にできたのだ。
財布の存在確認がしたい。でも和磨と二人きりになりたくない。
ううう、なんというジレンマ。
逃げて財布の有無が分からないまま心を不安にさせるか、いっそ和磨を無視して心に傷を負うか……どっちにしろ心がやられるなおい。
「……はあ、無難に約束を破るしかないか」
となると、結局これである。もちろん後から柳井くんにも正直に白状しよう。自分は自分でした約束も守れないガラスハートのチキンですってね。
実際はどれ程か、体感時間は長く、そうやっとのことで決めてあたしは顔を上げた。
「入りたいんだったら、入れば?」
一歩足を踏み出そうとしたとき、教室内から低く感情の無い声が響いてきた。つい扉に足をぶつけて騒がしいガラス戸の揺れる音がする。
「いった……!」
「用があるんだろ? 俺に構わなくても気にしないから。そうされてるほうが余計気になる」
あたしの痛みもものともせず、和磨の後ろ姿が冷酷に言い放つ。そうされてる、ってのは教室に入れずうじうじしていたあたしのことを言っているのだろう。
気付いてたのか……。
「つーかさ」
足を押さえたまま気まずく見つめていると、やっと和磨が振り返った。目があって何故かそらしてしまう。
「早いところ無視でもなんでもすれば良かっただろ。遠慮してんの? いつもみたいに知らないフリでもなんでもしろよ」
しかも、怒ってる。ほんっとーに久しぶりに和磨から面と向かって言葉を掛けられるから、変な感じもする。ケンカした後初めての会話だし……。
痛みの薄れてきた足を撫でながら、どう言えばいいのかと唇がふわふわと動く。約束があって、ということもあるけれど、一番はまた嫌われたと思いたくない気持ちが大きい。
「約束が……いや、あの、別に無視してたわけじゃないよ? ちょっと並々ならぬ事情があってね、通常通り振る舞えないけど。あ、今は財布探しに戻ってきたわけ。和磨が寝てるんじゃないかってすぐ入れなかったけどさ」
なんか上手いこと言えずにへたくそな言い訳みたいなのを並び立てながら、平静を装って自分の机まで向かう。机の引き出しに手を入れて、財布……あ、見つけた。良かった、あとはこれを持って帰るだけでいいんだ。
「フーン」
……帰れねえ!
なんか知らないけどすげえ睨み付けられていて、足が縫いつけられたように動きませんが!
「かずま、ねえ」
えええ、なにそれどういう反応ほわい?
目を細めてフンと白々しく鼻を鳴らす仕草なんか、和磨らしくなく、でも妙に堂に入っていて香り立つ色香やらなにやら、凄まじく似合う。こういうときでも鼻を押さえる自分尊敬するわまじで。
見られないように、というか見ないように横顔で、ああうん、と適当に相づちを打っておく。
「最近やたらと一馬と仲いいよな。俺が邪険にしたからそっちに行ったのか。邪魔かよ」
「……は? か、和磨なに言ってるんだよ。邪魔と思ってるのはそっちでしょう」
「俺が? へえ?」
だからなにその反応。なんか今日の和磨って様子が変。絡みづらいっていうか、妙な色気を振りまきながら、自信たっぷりな雰囲気で責めてくる。
顔を見たら負ける気がする……。いつもいつも、あたしって不当に怒られるよなあ。つーか、怒らせてる?
「和磨だって、避けるじゃん。声掛けてこないもの」
「掛ける必要ないだろ。お前にはいつも一馬がいるし、俺を嫌ってるんだから掛けて欲しくもないくせに」
逃げ腰で弱々しく反論するも、和磨の有無を言わせない言葉が返ってくる。
またこれだ。和磨と言い合うと和磨はこれっぽっちもこっちの言葉の意図をくみ取ってくれない。責めるだけ責めて、あたしの言い分なんて聞いてくれない。
せっかく、仲直りしたくて言葉も交わさないでいたのに……逆効果だ。
「勝手」
「……ああ?」
「和磨は勝手! いつ、嫌ってるなんて言ったの!」
「無視してきたじゃねえか!」
「それはっ……悪かったけど! でも、和磨だって構うなって言った! 怒らせたとき、心底嫌ってるみたいに、言った!」
「本気で言うわけないだろ!」
「じゃあ、冗談だったの!? なんだそれふざけてんの!」
意味が分からない。むかつく。
あたしは顔も見ないでいようとしたことも忘れて、座っている和磨を睨み付けた。意外とすぐ近くに顔があったけど、ときめく隙もなくただ腹の立つ顔としか認識しない。
目鼻立ちがハッキリしててきめ細かな肌で、羨ましくも綺麗で。
むかつく。
これは夢か? あの夢の、前触れか?
「俺だって、分からねえんだよ! この、バカ!」
手首が引っ張られて、体が前のめりになる。気が付けば顔はさらに近いところまであって、和磨の荒い吐息が直接唇に触れる。
「また、バカって言う」
嫌われてると思うの嫌なんだって。
そう思うだけで、何故か、涙が出そうだ。堪えるのに必死で、ただひたすらすぐそこの和磨の顔を睨み付ける。
きっと、夢だ。絶対ゆめ。
「和磨は、どう思ってんだよ……自分のこと、嫌いなの」
「……嫌いじゃ、ねえ」
手首を掴んでいたはずの和磨の手が、離れてあたしの腕を掴み直し、それからまたゆっくりと引き寄せる。近づくあたしの体は、座っている和磨の両腕に囲われるように前のめりを続け、そうして肩と肩が触れあった。
「嫌われたくねえ」
あたしが言うべきハズの言葉を吐いたのは、和磨だった。そのときはすでにもう腰に手を回され、体が密着していた。
分からないまま、抱きしめられていると気付く。弱々しく、でもしっかりとした力だった。
「かず……ま」
名前を呼んだら、さらに力が加わった。口から苦しげなうめき声が漏れる。首の裏を和磨の熱い吐息が撫でてくらくらする。
……やっぱり、夢だ。また破廉恥な夢を見ているんだあたし。そうでなければこんなことあるわけがない。
呆然と考えていると、急に体がバランスを崩した。椅子に座っている和磨の体ごと傾いている。
「えっ……うわ、うわああ!?」
瞬間、凄まじい椅子の倒れる音と共に、体が宙に投げ出された。しかし勢い付いて手足を付いたのが幸いだったようで、体はどこも痛くない。
あーびっくりした、まさか前のめりに倒れるとは……。はふう、と安堵のため息をつき……かけて、それも飲み込んだ。
あた、あたたた、あた、あたし。
和磨を押し倒しとるがなー!
ぎいやあ、ひいいい! なんてオイシイシチュ……じゃなくて! 大変な事態に!
「あ、ご、ごめん、和磨! い、今どきますどきます!」
でもちょっと待って、痺れて体が動かない! いやあの、違うの、この状況を堪能したいがためのウソじゃなくて本当にね!?
とにかく焦りながら誰かへと言い訳したくなるのには理由がある。
仰向けに倒れた和磨の、その乱れた格好のなんと淫靡なこと! ぎやあ、ムラムラするー!
体を打ち付けたからか、痛みに顔を歪め、何故か顔をほんのり上気させ、気色ばんだ和磨は最強に妖艶だった。なにそのサービス。あたしの下半身に対する挑戦かほんとスミマセン。
あたしの影を被り、今後絶対に無いだろうこの上からのアングルだが、長らく眺めていると絶対に取り返しの付かないことになる。いろいろな意味で。ホント乙女心を失いかねない。
「和磨、あの、大丈夫!?」
「……たなか」
うおおお、そしてかすれた声であたしの名前を呼ぶな!
「あああのあの、和磨、あのね、今すぐ逃げた方がいいと思う! ほら、突き飛ばして逃げるんだはやく!」
すみません、ふがいなくも自分は動けそうにないので。もちろん、痺れで!
つーか、ほんとこれ、他人に見られてたらヤバイよな。放課後だからって誰もいないことはないだろうし……大きな音がしたから、誰か見に来るかも。どう見たって男が男を押し倒してるようにしか。
「何、やってんの」
あれ?
和磨じゃない冷たい声が背後からして、あたしは首だけでそちらを向いた。パチリと音がして部屋の明かりが付く。
照らされたのは、その、まさか危惧していた第三者。まばゆく輝く、極上の金髪。
「うわあ……超デスティニー……」
運命感じた。睨まれてるってのに、ドキドキするよ、ハハハ。
なんでいつもタイミング悪く登場すんの。
「……和磨、ごめん。ほんと、あらぬ誤解を……って、あれ、和磨?」
いまだ見下ろしながら和磨の顔を伺うと、明らかに様子がおかしかった。そう、顔が赤い……変な意味じゃなく、本当に。
息も荒い。それからさっき首裏に感じた熱い吐息を思い出す。
もしかして、和磨……!
「九条くん、手を貸して! 和磨を保健室に連れて行く!」
地面に転がるように体を投げ出したあたしは、手首の痛みに顔を歪めながら和磨の頭を抱きかかえた。やっぱり頭も熱い。いつからこうだったんだろうか、全く気付かないあたしは最低だった。
とにかく早く、安静にさせなきゃ。
動かない金髪の九条くんをもう一度見上げる。呆然とあたしたちを見つめていた九条くんはやっと合点がいったのか、足の方に手を伸ばした。
「どういうことか、後でじっくりきかせてもらうから」
うわ、やっぱり言葉にトゲがある……大変なことになりそうだけど、今はしょうがない。うん、と力強く頷いて、あたしたちは二人掛かりで辛そうな和磨を運んだ。
とうとうやらかした。