蝶ではなく蛾、花ではなく草あたり
暗くて生ゴミの匂いがする細い路地。
正面にはこちらを睨み付けてくる多数の目。
真ん中のモヒカン男を筆頭にして、周囲を取り巻いているのは舌なめずりしそうなほど気味の悪いは虫類系の男たちだ。
これは絶対ヤバイ状況だろ、と本能が告げる。
しかし、逃げ出したいはずの足は思い通りに動くことはなく、男たちが一斉に襲いかかってくるのを見つめ続けるばかりだった。
他にも、ほの暗い橋の下だったり、薄汚い下水道だったり、寂れた学校の校舎内だったり。
コロコロと切り替わる景色と状況は、何をどう考えてもこの花の乙女には似つかわしくないものばかり。
しかし、決して、夢ではない。
そう感じるのは、やたらリアルな我が身の存在感と、それについていけない困惑しきりの意識があるから。
最後の瞬間には決まって、倒れ伏す男たちが残る。その中でただ一人立ちつくすのは、この体だけだった。
何の痛みも無かった。
……これは、誰かの、記憶だ。
頬に固い感触がして、起きようとした体は、しかし思わぬセリフによって止まった。
「宗二さん、寝ちゃってんのか、これ?」
「まさか、あの人がこんな簡単に隙を見せるハズがねえだろ」
「じゃあ、フリなだけで、本当は起きてる?」
「……どっちにしても」
目を瞑っていても、ここが十夜さんに拉致られた廃墟であるということは、男たちの声の反響具合から良く分かった。それに、聞くにあたしは寝た格好をとっているらしい……というか、寝てたっつーのは今目が覚めたことにより理解しているわけなんだけれども。それは、体が冷たいコンクリに横たえられているということからもよく分かる。
でも、なんだ、いつ寝たのかサッパリ覚えていない。
宗二になりきって本音隠した命令下してから、確か……。
「どっちにしても、なんて気品のある寝姿だ。そりゃ、こんなの誰も手が出せないに決まってる」
「あの俺たちを冷たく突き放す態度も、思い出しても鳥肌もんだぜ」
「前は一つもブレないような堅い男らしさがあったけど、今日の宗二さんはどこか色気があるよな」
「言えてる。俺たち、宗二さんの男気に惚れてるけど、さらに今はなんだかムラムラするぜ」
……そうだった、あのとき何故か余計に場が盛り上がったんだった。
おおお、なんてこったい。
宗二として宗二らしく振る舞いかつ宗二からのお願いとあれば、強面のみなさん、大人しく引き下がってくれると思っていたのに。
宗二の築き上げたイメージと若干異なっていた上に、さらなる好感度アップを果たしてしまった模様である。
いやもう、兄ちゃん、なんなのこの人たち。
起きあがる勇気も無い、としばらく狸寝入りを決め込むつもりでいると、頬にさわりと何かが触れた。
「フン、弱えんだよ。見ねえ間にすっかり腰が抜けてやがる」
頭上から降り注ぐ乱雑な言葉。でも静かに紡がれているおかげか、乱暴には聞こえない。言葉ほどの意図は読みとれない、けど。
いや待て、十夜さん?
ぶつくさと文句のような言葉がポツポツと降り注ぐ中、同じように頬がさらさらとくすぐられている。
どうなってんの?
そう言えば体は冷たいコンクリだけど、顔といい両手といい、ほんわか暖かなこの体勢は……。
「……ひい」
考えて喉の奥で悲鳴が漏れた。
あたしのヨダレの犠牲になったのか、あたしのではない誰かのスラックスがじんわりと濡れている。大慌てで両手をついたのは、そのスラックスの持ち主、あぐらをかいている足の上だった。
「起きたのか。人の体を枕代わりに使うとは良い度胸してんじゃねーかよ」
「ひいいいっ」
今度は確かな悲鳴になって、あたしは硬直した。見上げたすぐそこに十夜さんの不機嫌な顔があって、今の瞬間確かに密着していたという事実が、あたしの嫌な予感を裏付けた。
あ、あたし十夜さんの膝枕をー!
「ご、ごめんなさい」
素敵シチュエーションとはいえ、今この状況では!
とりあえず謝ってみるものの、すうっと目を細められ、どうしていいやら何やら。そんな風に怒るくらいなら最初から起こしてくださいませんかね!と正論を言いたくなる。
一応、今対峙しているのは前に優しくしてもらった宗二の妹じゃなくて、宗二自身なわけだし、男ってことで叩かれてもおかしくない。
誰か助けて、と寝る前の状況とは逆に強面の男たちに目をやると、ザッと音を立てて後退ってしまった。
「すみません、宗二さん、近寄りませんから!」
「遠くから拝見してます!」
いや、中途半端にお願い守られてるし!
そうじゃなくて、根本的に存在的に近寄るなって意味で、どうせすぐそこにいるなら今は近くにいてくれた方が助かるっていうか!
……あれ?
そういえば、この人たち、見たことがあるような。
「十夜だけ、ずりいなあ」
「いくらいきなり事切れた宗二さんを介抱するためだってなあ」
「おい、宗二さんに懐くな」
中でも髪を派手な赤に染めた男と、浅黒いスキンヘッドの男。
先ほど目にしたばかりの、ぎらぎらに睨み付けるあの目たちと重なる。
……もし今見た記憶が兄ちゃんのものだったなら、この人たちは兄ちゃんとケンカして負けた人たちなんじゃ。
「って、宗二さん? じっと見つめてどうしたんですか、何か気に入らないことでも……!」
どうしてもあのときの印象とは違うけどなあ。
「ケンカ、もうしない?」
つい聞いてしまった。
だって今襲われたら確実に負けると思う。兄ちゃんだってどんな奥の手を使ってこの人たちに勝ったのかも普通に謎なんだし。
「は? え?」
言われた意味が分からないらしく、赤髪の人は目をぱちくりと瞬かせている。今はそう見えないといえ、実は凶暴な獣だ。反旗を翻さないとも限らない。
……釘を刺しておくにこしたことはないよね。
十夜さんの膝の上に置いていた手をグッと握りしめる。
「だめ、禁止、もう危ないことはするな」
あたしにとって!
心の中で付け加えてそう言うと、二人はビクッとしたように体を直立させ、熱に浮かされたように真っ赤な顔で何度も頷いた。
……あ、冷笑忘れてた、つい思い詰めたように言ってしまった。
まあ、これで当分の身の安全は確保できたに違いない。
そう思っていると、無意識のうちにだろう、十夜さんの服を握りしめていた手が離された。そのまま十夜さんの手が腰にかかり、立ち上がらされる。
「十夜さ……?」
「行くぞ」
え、ちょっと待って、どこに。
「あ、宗二さんを連れていくなよ! 俺たちだって積もる話があるんだよ!」
「うるせえ、今のうちに生きた姿を見せてやっただけ感謝しろ。それが終わればこんなとこに用はねーんだよ」
すっと目線を合わせられ、あたしはギャアと叫びだしたい気持ちになった。今のうちに生きた姿を見せてやっただけ、って今から生きてない姿になっちゃうってことだろうか。
最初に学校に乱入してきたときといい、さっき拉致したときといい、十夜さんは兄ちゃんである宗二には強引かつ容赦ない。
これから連れて行かれるのは、半ば地獄なの? ねえそうなの?
「宗二さん、俺、もうケンカで負けませんから! だから、たまには顔出してくださいね!」
すでに引きずられているあたしに赤髪さんが無邪気に手を振る。いやあの危ないことするなってそういう意味で言ったんじゃないんだけど。
「コラバカッ、気安くお願いすんな!」
その赤髪さんをスキンヘッドがたしなめ、かつあたしにペコペコと頭を下げている。
なんだかんだ二人ともいい人そうだよおい。
心配はいらないらしい、それくらい兄ちゃんって慕われてるんだな。
でも、どうしてだろう。ケンカして、負けて、そんなの復讐したいって思う方が当然な気がするのに。
十夜さんは?
どうして、兄ちゃんに執着してるんだっけ……。
「おい、妹には顔見せたのか」
地獄への道程なのか何なのか、もう暗くなってしまった道を十夜さんと二人で歩いていると、唐突にそんなことを聞かれた。
妹、という単語に驚いて、一瞬答えに詰まる。そういえば、自分の姿に戻ったときに取り乱して十夜さんにすがりついたんだっけ。
「なんで、ですか?」
「ああ? てめえがいなくなったって煩かったんだよ。だいたいてめえ、妹のこと、大事にしてんだろ」
「そうなのかな」
「てめえがおれに言ったんだろうがよ」
何を?
聞く前に、おら、と何かを胸の前に押しつけられる。歩きながらだったから、後ろに転びかけながら、手のひらに落ちてきたものを握りしめる。
手の中には、赤いヘアピンが三つ乗っかっていた。
「これ、十夜さんの……」
「それ、渡せ」
言い放つ十夜さんの背中は、何も語らなかった。一体どういう意味なのか図りかねるけど、渡せってのは、宗二の妹にってことだろう。
いきなり? いいの?
返事はない。まあ、ここで突っ返すのも何だし、せっかくのプレゼントなら素直にもらっておくことにする。ありがとうございます。
「元気にしてんのか?」
立ち止まったままポケットにしまっている手を止めて、あたしは声にするでもなく頷いた。前を歩く十夜さんには見えなかったはずなのに、十夜さんは分かったように振り返った。
髪を留めていたピンが外されて、前髪が遠慮なくおりている。その隙間からのぞく瞳はどことなく優しく。
「良かったな」
フンッと鼻をならして、微笑んだ。
微笑んだ、という割にはまだ獰猛な色が覗いていたけれど、それは確かに気を許している笑顔には違いなく、つい呆然と見つめてしまった。
「今日はさっさと休め。明日からに備えろ」
また元に戻ってあたしに背を向けた十夜さんは、ぶっきらぼうに言い放つ。その歩く先にあたしの家があるのだとそこでようやく気付いて、送ってもらっていたんだと理解した。
地獄への道って。
宗二の妹にしろ、宗二にしろ……結局、やっぱり、ちゃんと、十夜さんは優しい。
きっと、寝ているときに膝枕をしてくれたのも、起きてからこうして送ってくれたのも、ぜんぶ……。
「明日から、てめえが逃げねえように見張ってやるからな」
……うん、はい?
「てめえの体調が万全なときにぶちのめさねえとな。そうでなきゃ、つまらない」
ククッと喉の奥で楽しそうに笑う十夜さんの声が、盛り上がったあたしの期待を一瞬にして崩した。
優しいって、アンタ。
乙女的にぐらっといきかけたよほんとどうしてくれる。
やっぱり今のあたしは、地獄の未来へと続く険しい道のりを辿っているのかもしれなかった。